1話 白磁の縁

四十九日の法要が終わった翌朝、仏間の空気が、昨日までとはほんの少し違っていた。

違う、と言い切れるほどの変化ではない。障子の隙間から差し込む光も、黒檀の仏壇の艶も、畳に残った線香の匂いも、見慣れた朝のままだった。ただ、部屋に入った瞬間、私は一度だけ息を止めた。

何かが、私の来るのを待っていたように感じた。

仏壇は、障子からこぼれる薄い光を吸い込んで、輪郭だけを濃くしていた。その前に置かれた小さな白磁の茶碗だけが、そこから取り残されたように明るい。祖母が毎朝使っていた茶碗で、縁の一箇所に小さな欠けがある。欠けた部分は、昨日までは仏壇の左側を向いていた。

今朝は、私のほうを向いていた。

私は引き戸に手をかけたまま、しばらく動かなかった。網戸は閉じている。仏間に通じる障子も、昨夜、私が閉めたときの角度から動いていない。風が入り込んだ形跡はなかった。床に置いた薄い紙片も、線香の灰も、何ひとつ乱れていない。

それなのに、位牌だけが向きを変えていた。

正面を向いていたはずの祖母の位牌は、仏壇の奥から斜めに身を乗り出すように、庭のある側へ向いている。ほんのわずかな角度だった。見落としてもおかしくない。けれど私は、見落とさなかった。

線香立ても、昨夜より少しだけ右へ寄っている。灰の表面には、細い筋が一本ついていた。誰かが指先でなぞったようにも見えたが、その筋は途中で消え、香炉の縁までは届いていない。

私は畳の目を数えた。

仏壇の前から、白磁の茶碗まで八目。茶碗から線香立てまで、指二本分。昨夜、眠る前に見たときと同じだ。少なくとも、私の記憶の中では。

記憶の中では、という言葉が浮かんだとき、胸の奥に薄い冷たさが広がった。

私は台所へ戻った。母はまだ起きていなかった。冷蔵庫のモーターが低く唸り、流しの蛇口から落ちきらなかった水滴が、金属の底で小さく鳴っている。朝の家は、祖母がいた頃から音の種類だけは変わらない。けれど、音と音の間にあったものが、今はなくなっていた。

祖母は早起きだった。私が子どもの頃、熱を出して眠れない夜にも、祖母だけは隣の部屋にいた。朝になると、白磁の茶碗を両手で包み、湯気の向こうから私の額に手を当てた。その手はいつも少し冷たかった。台所仕事をしていたからだと思っていたが、今になってみると、あの冷たさは手の温度ではなく、夜を越した人の温度だったのかもしれない。

棚の隅から、小さな黒いノートを取り出した。表紙の角は丸く擦れている。祖母が使っていた家計簿の余白を、私が子どもの頃から勝手に使っていたものだ。鉛筆の跡や買い物の金額の間に、私の書いた虫の名前や、庭で見つけた石の形が残っている。

私は仏間へ戻り、座布団の端に腰を下ろした。

日付を書き、時刻を書いた。

六月二十七日。午前五時四十八分。

次に、位牌の向きを記した。正面から見て、およそ二十度、裏庭側。線香立ては昨夜より右へ約二センチ。白磁の茶碗、欠けた縁は手前。

書き終えてから、私は鉛筆を置かなかった。

「細かすぎる」

声に出すと、仏間の静けさが少しだけ揺れた。

もちろん、返事はない。

ただ、庭のどこかで草が擦れた。

風はなかった。障子も網戸も動いていない。なのに、ざ、と乾いた音がした。夏草の葉と葉が触れ合う音だった。近くに誰かが立っていて、衣服の裾で草を撫でたようにも聞こえた。

私は縁側のほうを見た。

そこには、古い柱と、閉めたままの網戸があるだけだった。網戸の向こうでは、朝の庭が白く滲んでいる。伸びた草の先に露が残り、細い用水路の水面が、見えないところでかすかに光っていた。

もう一度、草が鳴った。

今度はさっきより近かった。

私は立ち上がりかけたが、仏壇の前で動きを止めた。位牌を元の向きに戻すべきか迷った。祖母が生きていた頃なら、見つけたずれはすぐに直していただろう。茶碗の欠けた縁を壁側へ向け、線香立てを決めた位置に戻し、灰の乱れを指先で均す。それが祖母のやり方だった。

けれど私は、手を伸ばせなかった。

位牌の木肌は薄暗く、名前の金文字だけが光を返していた。すみ。佐伯すみ。

葬儀の日、火葬場から戻ったあと、私はその名を何度も見た。そこに祖母がいるとは思えなかった。位牌は祖母ではない。そう言い聞かせた。祖母は、白磁の茶碗を両手で包み、私が食べ残した煮物を黙って冷蔵庫へしまう人だった。木の板に刻まれた名前が、その人の代わりになるはずはない。

それでも、この家で祖母がいなくなったあと、何かが仏壇の近くに残っている気がした。

気配、と呼ぶには薄い。匂い、と呼ぶには確かだった。線香の煙に混じって、乾いた着物の布地や、茶を注いだばかりの湯気のようなものが、部屋の隅に沈んでいる。

私はまたノートを開いた。

「音。庭の草。午前五時五十二分」

そう書いてから、少し迷い、さらに続けた。

「誰かがいるように聞こえた」

書いた文字を見つめていると、背後で襖が開いた。

「朝から何してるの」

母の久代だった。髪をひとつに束ね、まだ前掛けもつけていない。眠そうな顔はしていたが、私の手元を見るなり、目だけが覚めた。

「位牌が動いてた」

私はノートを閉じずに言った。

母は仏壇を見た。見るというより、視線を触れさせてすぐに引いた。仏間に長くいないのは、祖母がいた頃からの癖だった。線香をあげるときも、供え物を置くときも、必要な動作だけを済ませて台所へ戻る。

「また?」

その言葉で、私は顔を上げた。

母はすぐに口を結んだ。だが、もう遅かった。

「またって、前にも見たの」

「見たっていうか、そう見えただけ。昨日は法要の片づけで人が出入りしたし、誰かが触ったんでしょ」

「昨日の夜、最後に仏間を見たのは俺だよ」

「だから、守が忘れてるだけかもしれないでしょう」

「忘れてない」

言いながら、声が少し硬くなった。私は人の言葉より物の位置を信じる。昨日の夜、戸を閉める前に、位牌の正面を確かめた。白磁の茶碗の欠けた縁は左。線香立ては仏壇の中央の金具と一直線。何度も見たから覚えている。

母は座布団の前にしゃがみ、仏花の水を替えた。花瓶を持つ手が、いつもより早く動いている。

「風でしょう。古い家なんだから、どこか隙間があるのよ」

「網戸は閉まってた」

「網戸が閉まっていても、家は動くの。木が伸びたり縮んだり、床が少し傾いたり。位牌が動いたように見えることくらいあるわ」

「位牌だけが?」

母の手が止まった。

仏花の茎から、一滴の水が畳へ落ちた。

「茶碗も線香立ても、少しずれてる」

「だから、誰かが触ったんでしょう」

「誰が?」

母は答えなかった。

その沈黙は、祖母が何かを聞かれたときのものに似ていた。答えを知らない沈黙ではない。答えを口にする前に、それが誰を傷つけるか考えている沈黙だった。

けれど私は、そのことに気づかないふりをした。ずっとそうしてきた。母と祖母の会話が途中で切れても、台所の空気が急に重くなっても、私は柱の木目や畳の擦れだけを見ていた。目に見えるものなら、いつでも正確に記録できる。人の沈黙には、定規を当てられない。

母は立ち上がり、位牌へ手を伸ばした。

「戻すから」

「待って」

私は反射的に母の手首をつかんだ。

母の肌は温かかった。家事を始める前の、まだ何も触れていない手だった。その温度に触れた瞬間、仏間に残る冷たさがはっきりした。生きている人間の体温と、黒檀の仏壇の奥から滲むものは、同じ家の中にあるのに、まったく違う。

母が私を見た。

「何よ」

「動かさないで。もう一度、記録するから」

「記録して、どうするの」

「分からない。でも、分からないまま戻すのは違う気がする」

母はしばらく私の顔を見ていた。私は目を合わせ続けられず、茶碗の縁へ視線を落とした。祖母なら、こういうとき何も言わずに茶を淹れただろう。問い詰めず、笑って誤魔化しもしない。ただ、散らかったものを一つずつ元の場所へ戻したはずだ。

「すみさんなら、戻すでしょうね」

母が言った。

祖母の名前を聞いたとき、仏壇の奥で何かが小さく鳴った。

木が軋んだのかもしれない。線香立ての灰が崩れたのかもしれない。だが、音は仏間の奥からこちらへ向かってきた。畳の上を、重さのあるものがゆっくり移動するような音だった。

母は聞こえなかったふりをした。

「朝ご飯、もうすぐだから。そんなところで寝ないでよ」

「母さん」

「何」

「祖母は、位牌の向きを毎朝直してた?」

母は答えず、仏花の水を流しに台所へ戻った。蛇口がひねられ、水の勢いが急に家の中へ広がった。濁りのない音が、仏間の沈黙を押し流そうとする。

私は一人で仏壇の前に残った。

白磁の茶碗の欠けた縁が、こちらを向いている。

祖母がいつもそうしていたのか、私は思い出せなかった。ただ、子どもの頃に一度、茶碗の位置を変えようとして叱られたことだけは覚えている。

「それは、そこに置くものなの」

祖母はそう言って、私の手から茶碗を受け取った。声は穏やかだったが、茶碗を置く動作だけは慎重だった。縁の欠けた部分を確かめ、仏壇に向け、親指で白磁の表面を撫でた。

「欠けてるなら、見えないところに置けばいいのに」

私が言うと、祖母は少し笑った。

「見えないところに置いたら、忘れるでしょう」

あのときの意味を、私は今まで考えなかった。

私はノートの余白に、もう一行を書き足した。

「白磁の欠け、手前。祖母の置き方と同じか不明」

鉛筆を置いたとき、縁側の外で、草が擦れた。

ざわ、と音がして、すぐに止まる。

誰かが立ち止まったようだった。

私は振り向かなかった。振り向けば、網戸の向こうに何かがいる気がした。見てしまえば、今までと同じように「気のせい」と言えなくなる。

だから、仏壇の前に座ったまま、ノートを膝に置き、白磁の茶碗だけを見ていた。

朝の光が少しずつ強くなっていく。黒檀の艶が薄れ、茶碗の白さも、やがて他のものと同じ色になっていく。

それでも位牌は、裏庭のほうを向いたままだった。

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