第10話 境界の杭

庭へ下りると、昼の熱が足の裏から上がってきた。
縁側の板は乾いているのに、草の間だけが湿っていた。母は先に立ち、私はその半歩後ろを歩いた。いつもなら、母の背中は家事の途中で見るものだった。前掛けの紐、少し曲がった肩、急ぐときにだけ早くなる足音。けれど今は、裏庭の奥へ進む背中が、祖母のものに重なって見えた。
夏草の間に、細い道が残っていた。
誰かが何度も通った跡だった。草を踏み倒した幅は、人ひとり分しかない。道の先には、古い石が三つ並んでいる。私が子どもの頃の落書きに描いた、庭の丸い石と同じ数だった。
母が立ち止まった。
「この石、前からあった?」
「覚えてない」
「そうでしょうね」
母は石の一つへ手を伸ばしかけ、途中でやめた。
「すみさんは、ここを掃くとき、石の周りだけは箒を浮かせていた」
「知ってたの?」
「見ていた。でも、理由は聞かなかった」
母は笑わなかった。
石の間には、黒ずんだ紐が張られていた。紐の先は隣家の板塀へ続き、途中で地面へ沈んでいる。境界を示すためのものにしては細く、古すぎた。雨に濡れ、乾き、また濡れた繊維が、土の中から這い出しているように見えた。
用水路の水音が近い。
私はしゃがみ、地面を見た。石の周りだけ、土の色が違っている。乾いた庭土の中に、そこだけ黒い円が残っていた。誰かが掘り返した跡ではない。長い時間、何度も上から押さえられた場所のようだった。
「ここが境目?」
「昔の境目でしょうね」
母が答えた。
「今の杭は、もっと向こうにある」
板塀から二歩ほど離れた場所に、沢井の庭で見た杭がある。だが、祖母の地図では境界線が石の列を通っていた。古い線と今の線が、ここでわずかにずれている。そのずれの中に、井戸の跡と土蔵の角が重なっていた。
私は手帳を開いた。
七月二日。午前九時二十六分。
裏庭の石三つ。古い紐。境界地図の線と一致。
書き終えたとき、板塀の向こうで音がした。
木が軋み、錆びた蝶番が鳴る。
沢井がこちら側へ入ってきた。
昼間に見る彼は、夜よりも疲れていた。灰色のシャツの襟元は汗で濡れ、右手には錆びた小型の鍬を持っている。敷居もない板塀の切れ目で、彼は一度足を止めた。こちらの土地へ入ることを、身体が拒んでいるようだった。
母が振り返った。
「沢井さん」
沢井は母へ目を向け、それから私の手帳へ視線を落とした。
「見つけたか」
「何をですか」
「石だ」
「ここにあるものを、祖母は知っていたんですね」
「知っていた」
「あなたも」
「知っている」
「では、何が埋まっているのか話してください」
沢井はすぐには答えなかった。鍬の柄を握る指に力が入り、手の甲の筋が浮いた。
母が言った。
「私にも話して。今度は、聞かなかったことにしないから」
沢井は母を見た。初めて、視線を逸らさなかった。
「すみさんは、あんたに話すなと言った」
「もう死んだわ」
「死んだから、話すのか」
「死んだから、聞くのよ」
母の声は震えていなかった。けれど、最後の音だけが少し掠れた。
沢井は石の前へ歩いた。私たちを押し退けることはせず、三つの石を見下ろした。
「これは、境界の石じゃない」
「じゃあ何ですか」
「目印だ」
「何の」
「井戸を埋めた場所の」
水音が一瞬、遠のいた。
私は地図を開いた。古い線の内側、井戸と書かれた小さな丸印。その位置は、三つの石の中央と重なっている。現在の庭には井戸などない。舗装もされ、土蔵も取り壊されている。けれど、土地の下では、古い形がまだ消えずに残っている。
「井戸を埋めたとき、何かを一緒に入れたんですか」
沢井は鍬を石の脇へ置いた。
「入れたんじゃない。戻した」
「何を」
「帳面と石だ」
母が息を呑んだ。
「それだけ?」
「それだけだ」
「祖母の紙には、古い札もあると書いてあった」
「札は、帳面に挟まっていた」
「じゃあ、ここにあるのは証拠だけ?」
「証拠という言い方をすれば、そうなる」
沢井は石の中央を見た。
「だが、証拠は人間が見つけて初めて証拠になる。見なければ、ただの紙と石だ」
「あなたたちは、それを見ないことにした」
「見ないことにしたんじゃない」
沢井の声が低くなった。
「見たうえで、見なかったことにした」
その言葉が、庭の湿気より重く落ちた。
母は石の前へ座った。膝についた草を払わず、地面を見ている。
「沢井さんの息子さんは、今どこにいるの」
「知らん」
「知らないはずがないでしょう」
「遠くへ行った。名前も変えた。俺が知らせたのは、すみさんだけだ」
「祖母は知っていたのね」
「年に一度、手紙が来た。すみさんは返事を書かなかった。だが、届いた手紙を捨てもしなかった」
「どこにあるんですか」
「もうない」
沢井はそう言ったが、目が石の横へ落ちた。
私はその視線を追った。
三つの石のうち、一番小さい石の脇に、白いものが挟まっている。紙ではない。布のようだった。土に汚れているが、端に青い縫い糸が残っている。
祖母の裁縫箱にあった布切れと同じ色だった。
私は手を伸ばした。
「触るな」
沢井が言った。
声が鋭く、鍬の刃より冷たかった。
「なぜですか」
「まだ、誰のものか分からん」
「見れば分かる」
「見てはいけないものもある」
母が立ち上がった。
「それを決めるのは、もうあなた一人じゃない」
沢井は母を見た。長い沈黙のあと、鍬を持ち上げた。
「田辺さんを呼べ」
「もう連絡した」
私は答えた。
「来るの?」
「昼前には」
沢井は目を閉じた。安堵したのか、諦めたのか、私には分からなかった。
そのとき、石の下から小さな音がした。
こつ。
地面の内側で、何か硬いものが触れ合ったような音だった。
母の手が私の腕を掴む。指が食い込むほど強い。私は石から目を離せなかった。
こつ、こつ。
今度は二度。
沢井は鍬を落とした。
用水路の水音が急に大きくなり、庭の草が一斉に揺れた。風はなかった。石の周りから、細い土の筋が幾本も伸びてくる。こちらへ向かうのではない。三つの石を囲むように、円を描いていた。
その円の内側で、青い布がゆっくり盛り上がった。
私は祖母の白磁の茶碗を思い出した。
欠けた縁が、いつも指していた場所。
仏間の奥で、誰かが一度だけ息を吸った気がした。
田辺慧巌が来るまで、あと少しだった。
← 横にスクロールして読み進められます
