9話 夜の裏庭

その夜、俺は父の寝息を確かめてから、灯りをつけずに縁側へ出た。

長谷川から預かった目印の札は、敷居の下にもう置いてある。布に包んだまま差し込むとき、指先が墨の匂いを吸い込んで、しばらく離れなかった。あの人は「敷居の下へ」と言った。「位牌の裏へは、まだ早い」とも言った。まだ、という言葉が、俺の中でずっと重石のように沈んでいた。まだ早いということは、いつか早くなくなる日が来るということだ。それがいつなのか、俺は誰にも聞かなかった。聞けば、聞いた瞬間から、その日を数え始めてしまう気がしたからだ。

扇風機は今夜も部屋の熱をかき回すだけで、どこへも風を届けない。首筋に貼りついた汗が、乾く前にまた滲んでくる。俺は畳の縁に指を這わせながら、息を浅くして、縁側の下から届くはずの音を待った。

ざり。

思っていたより早く、音は来た。

草を踏み分ける、乾いた擦過音。爪先で土の表面を裂くような、あの音だ。もう何十回と聞いた音のはずなのに、今夜はどこか違って聞こえた。恐ろしさよりも先に、俺の胸の中で別の感情が動いた。それは、もう長いあいだ会っていない誰かの足音を、暗闇の中で聞き分けたときのような、奇妙な懐かしさだった。

裏手の小道に目をやると、いつものように小野寺家の裏庭に薄い灯りがともっていた。今夜はその灯りが、心なしか低く、静かに見えた。俺は縁側から降り、家の影に沿って進んだ。素足に触れる土は生ぬるく、昼間の熱をまだ底の方に残していた。

板塀の隙間から覗くと、ミツエが一人、灯りの下でしゃがみこんでいた。鍬を握る手つきは、いつもと変わらない。土を浅く起こし、掘り返し、脇へ寄せる。掘り出したのは、割れた茶碗の欠片と、折りたたまれた紙片だった。彼女はそれを一度だけ掌にのせ、指先を止めて、何かを確かめるようにじっと見つめた。それから、また土へ戻す。

俺はもう、その手つきの意味を知っていた。

戻しているのだ。埋めているのではなく、あるべき場所へ、あるべき向きで戻している。長谷川の言葉を借りるなら、これは境を保つための、一続きの手順の一部だった。

「今夜も、来たね」

振り返らないまま、ミツエが言った。

「気づいていたんですか」

「あんたの足音は、美代さんに似ているんだよ。急いでいるくせに、音を殺そうとする足音」

俺は板塀の隙間から庭へ入った。もう迷いはなかった。湿った土が足の裏に沈み込む感触にも、今夜はそれほど驚かなかった。

「長谷川さんに会いました」

「そうかい」

「位牌は鎮めるためじゃない。逃がすためだと言われました。正面へ向けると受けてしまうものがある。だから少し外す。祖母は、それを毎晩やっていた」

ミツエは鍬の柄に両手を重ねたまま、灯りの向こうから俺を見た。皺の多い顔に、いつもの人懐こさは薄く、その奥に別のものが透けて見えた。長く同じ場所に立ち続けてきた者だけが持つ、静かな疲労だった。

「それで、あんたはどうするつもりだい」

「まだ、分かりません」

「分からないまま、夜な夜なここへ来るのかい」

「見ない方がいいと、あなたは言いました。でも、見なければ、俺は何も選べない」

ミツエは灯りの芯を指先で押さえた。ぱち、と小さく鳴って、光がわずかに膨らんだ。

「選ぶ、とあんたは言う。だがね、結人。これは選ぶものじゃないんだよ。継ぐか、断つか。断つというのも、実は選択のうちに入らない。断てば、ただ境が緩むだけだ。あんたが選ばなくても、家は答えを出す。それが怖いから、美代さんは黙って手順を教え込んだのさ」

「それでも俺は、知らないまま何かを背負わされるのは嫌です」

「知ったところで、背負う重さは同じだよ」

「同じでも、知っていれば、自分の意志で背負える」

その言葉を口にした瞬間、俺は自分でも驚いた。ここまではっきりと、自分の中にあるものを言葉にしたのは初めてだった。ミツエはしばらく黙って俺を見ていたが、やがて口元の皺を少しだけ深くした。それは笑いというより、何かを認めるときの顔つきだった。

「美代さんも、同じことを言ったよ。若い頃にね。境を守るのは、押しつけられた義務じゃない、自分で選び取った約束にしなければ長く続かない、と」

「祖母もそう言ったんですか」

「ああ。だから、あの人はあんたに手順だけを教えて、意味は教えなかった。意味を教えれば、あんたは義務として背負う。手順だけを覚えさせておけば、いつかあんたが自分で意味を見つけたとき、それは選び取ったものになる」

風のない夜だというのに、洗濯物が一枚、遅れて揺れた。布が竿に擦れる音が、庭の奥から俺のすぐ横を通り過ぎ、久世家の方角へ抜けていった。俺はその音の行方を目で追いながら、喉の奥に溜まっていた問いを、ようやく押し出した。

「祖母は、死ぬ前の夜、なぜ最後まで来られなかったんですか」

ミツエの手が、初めて止まった。

「それは、長谷川さんも言わなかったのかい」

「言うべきではない、とだけ」

「なら、わたしも同じことしか言えないよ。ただし——」

ミツエは灯りの向こうから、俺の顔をまっすぐ見た。今までのどの夜より、はっきりとした目だった。

「ただし、あんたがもう一度、祖母さんの帳面の最後の頁を見れば、答えの端くらいは掴めるはずだよ。あの人は、書けないことを書かなかった人だ。だが、書けることは、ちゃんと書き残した」

「最後の頁」

「急いで開けると、中のものが驚くからね。美代さんがよく言っていた言葉だろう」

俺は喉の奥が詰まるのを感じた。あの言葉を、ミツエも知っていた。祖母は、この庭にいる女にまで、同じ言葉を分け与えていたのだ。

「ミツエさん」

「なんだい」

「あなたは、俺を導いているんですか。それとも、試しているんですか」

ミツエは鍬を土に立て、ゆっくりと息を吐いた。

「両方さ。導くというのは、試すことでしかできないんだよ。あんたが自分で気づかないうちに手を貸されたものは、あんたのものにはならない。わたしはただ、あんたが躓きそうな場所の近くに、いつも立っているだけだ」

「その言い方は、ずるいです」

「ずるくて構わない。わたしは美代さんとの約束を守っているだけで、あんたに好かれるためにここにいるんじゃないからね」

それでも、と俺は思った。それでも、この人は俺を突き放しながら、決して見捨てなかった。夜ごと同じ場所に立ち、同じ手つきで土を戻し、俺が足を踏み外さないぎりぎりの位置で、いつも待っていた。それを愛情と呼んでいいのか、俺にはまだ分からない。だが、少なくとも、それは無関心の対極にあるものだった。

翌朝、仏間へ入ると、位牌の台座の隅に、また新しい泥がついていた。草の切れ端が一本、湿ったまま挟まっている。俺はそれを拭き取りながら、もう驚かなかった。むしろ、その泥の温度を確かめるように、しばらく指先を当てたままでいた。

白菊は今朝もしおれていた。花瓶の水は、変わらず満ちている。

その日の昼、ミツエが漬け物の壺を提げて久世家へ来た。いつものように世間話をし、俺に甘い煮物を勧める。だが俺が手を伸ばす直前、彼女は声を落としもせずに言った。

「夜の裏庭は、見ない方がいいよ」

笑っているのに、視線だけが仏間の方へ寄っていた。言葉の軽さと目の重さが噛み合わないまま、俺は煮物の湯気の向こうで、昨夜嗅いだ土の匂いをもう一度思い出していた。

見ない方がいい、と彼女は言う。だが俺はもう、見てしまった後の人間だった。見た者にできることは、見なかったふりをすることではなく、見たものをどう抱えて生きるかを決めることだけだ。俺は煮物を受け取りながら、心の奥で、祖母の帳面の最後の頁を、今夜こそ開こうと決めていた。

← 横にスクロールして読み進められます