10話 最後の頁

蝉の声が途切れる時刻というものが、この家にはある。日が落ちてからおよそ二時間、扇風機の羽音だけが部屋に居座り、庭のどこからも虫の音一つ聞こえなくなる。俺はその静けさを見計らって、祖母の帳面をもう一度、膝の上に開いた。

表紙はとうに湿気で反り返り、指で押さえていないと勝手に閉じようとする。頁を繰るたびに、古い墨と紙魚の粉のような匂いが立ちのぼった。花の角度、位牌の傾き、障子の閉め方――几帳面な数字の羅列を、俺はもう何度も目でなぞってきた。だが今夜、俺が探しているのは数字ではなかった。

最後の頁。ミツエはそう言った。急いで開けると中のものが驚く、という祖母の口癖まで添えて。

俺は帳面の終わりへ向かって、一頁ずつ丁寧に指先で捲った。日付は夏の初めで途切れている。四十九日よりずっと前、祖母がまだ確かに動けていた頃の記述だ。

「花の茎、外へ三分」 「位牌、右へ半身弱」

いつもと同じ、あっさりとした文字が並ぶ。だが最後から二枚目、その筆致が急に変わっていた。線が細くなり、払いが震え、まるで筆先が紙の上で迷いながら進んだような跡が残っている。

――裏庭に、知らぬ影があった。ミツエさんの他に、もう一人。

たったそれだけの一文だった。俺は何度も同じ行を読み返した。文字の輪郭を目でなぞるほどに、そこに書かれなかった余白の方が大きく膨らんでいくのを感じた。誰なのか。いつのことなのか。祖母はそれ以上を書かなかった。書けなかったのか、書かなかったのか、その区別すら、この帳面はつけてくれない。

最後の頁には、日付だけがあって、記述はほとんど何もなかった。ただ、いつもなら几帳面に並ぶはずの数字の代わりに、一本の線が斜めに引かれていた。位牌の向きを示す図の途中で、線は不自然に途切れている。まるで、書きかけの手が、そこで止められてしまったかのように。

俺は帳面を膝の上に置いたまま、しばらく動けなかった。祖母は、この夜に何を見たのか。何を見て、手を止めたのか。裏庭にいた「もう一人」とは誰なのか。ミツエなのか、それとも別の誰かなのか。

障子の向こうで、廊下の板が軋んだ。父だった。

「まだ起きてたのか」

健介は寝間着のまま、敷居のところで立ち止まった。俺は帳面を閉じる間もなく、ただ膝の上に置いたまま、父の顔を見上げた。

「父さん。これ、最後の頁だけ、様子が違う」

父は動かなかった。障子の桟に片手をかけたまま、帳面を見ることも、俺を見ることもせず、廊下の暗がりの方へ視線を逃がしている。

「裏庭に、知らない影があったって書いてある。祖母ちゃんは、その夜、何かを見たんだ。それで、手順が途中で止まった」

「結人」

父の声は低く、いつもより幾分か掠れていた。

「見なくていいと言ったはずだ」

「でも、もう見た」

長い沈黙が落ちた。扇風機の首が緩慢に回り、生ぬるい風が二人のあいだを一度だけ通り過ぎていく。父はようやく敷居をまたぎ、俺の向かいに腰を下ろした。畳に手をついたその指先が、わずかに震えているのを、俺は見逃さなかった。

「あの夜、俺も裏の道にいた」

父はそう切り出した。声の調子が、いつもと違う。低さの中に、これまで聞いたことのない柔らかさが混じっていた。

「祖母ちゃんに呼ばれてな。小道の入口を塞げと言われて、そこに立っていた。何のためかは、そのときは知らなかった。ただ、母がそう言うから、そうした」

「それで――」

「途中で、母の悲鳴を聞いた。俺が仏間に駆け戻ったときには、位牌は倒れかけていて、母は畳に手をついたまま動けずにいた。それだけだ。それ以上のことは、俺も見ていない」

「見ていない、で終わりか」

「終わりだ」

父はそう言い切ったが、その目は俺を見ていなかった。庭の暗がりへ向けられたまま、何かを堪えるように、まばたきを一度も許さなかった。俺はその横顔に、この家の沈黙がどうやって作られてきたのかを、初めてはっきりと見た気がした。誰も嘘をついていない。ただ、誰も最後まで見ていない。見ていないものは、語りようがない。

「父さん、俺は今夜、裏庭へ行く」

父の肩が、わずかに強張った。

「ミツエさんの他に、もう一人いたのなら、その正体を確かめないと、俺は先へ進めない」

父は何も言わなかった。ただ長く息を吐き、膝の上で拳を握った。止めるでもなく、許すでもない、その中間の沈黙だった。俺はその沈黙を、これまでとは違う意味で受け取った。父は、俺を止める言葉を、もう持っていないのだ。

障子の外で、風もないのに庭木の葉が一度だけ揺れた。俺は帳面を閉じ、胸元に抱え直した。位牌の向きを示す線が途切れたその場所から、俺はもう一歩、踏み出さなければならなかった。

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