第8話 祖母の筆跡

寺からの帰り道、日差しは変わらず強かったが、俺の内側だけが妙に冷えていた。鞄の底で、長谷川から渡された裏紙が、まるで体温を持つもののように鞄の布越しに存在を主張していた。家までの道のりを、俺は何度も紙の角を指で確かめながら歩いた。触れるたびに、紙の縁が指の腹に薄く食い込む感触があり、それだけが今の自分が現実の中にいることを教えてくれるようだった。
久世家の門をくぐると、庭先の蝉の声が急に大きくなった気がした。父の姿はない。玄関の三和土には、朝と同じ位置に父の作業靴が揃えて置かれていたが、脱ぎ方の角度がわずかに違っていた。俺はそんなことにまで気づいてしまう自分の目を、もう疑う気にはなれなかった。
仏間へ入ると、白菊はやはり湿気を吸って首を垂れていた。花弁の縁が茶色く縮れ、水気を含んでいるはずなのに、生きている花には見えない。花瓶の水面は、俺が家を出る前と変わらぬ高さだった。指を差し入れると、水そのものは夏の生ぬるさを保っていたが、白菊の茎の先だけが、そこだけ切り離されたように冷たい。冷たいのに、どこか湿ってぬるい感触も同時にある。冷たさとぬるさが同じ場所に同居しているという矛盾を、俺の指先は否定できなかった。
花を替えるたび、祖母が茎の切り口を必ず外へ向けていたことを、俺はもう何度も思い出している。あの手つきは癖ではなかった。花の首を少しだけ正面から逃がす。位牌の角度を、ほんのわずかにずらす。器の縁を、揃えすぎない場所で止める。すべてが同じひとつの手から出た、同じひとつの意味を持つ動作だったのだと、今ならば分かる。
俺は鞄から裏紙を取り出し、畳の上に広げた。長谷川の寺で見たときよりも、家の湿った空気の中で見るその文字は、いっそう生々しく感じられた。祖母の筆跡は、細く、けれど迷いがなかった。
――夜のうちに白菊を替えること。 ――位牌の向きを半身ずらすこと。 ――裏庭の古い印を確かめること。
たったそれだけの、短い文だった。まるで買い物のメモか、台所の献立を書き留めたもののように、あっさりとした字面だった。だからこそ、俺は何度も読み返さずにいられなかった。この短さの向こうに、いったいどれほどの重みが畳み込まれているのか、行間から染み出してくるものを、俺は掌でそっと押さえるようにして受け止めようとした。
夜のうちに、という書き出しが気にかかった。祖母は毎朝、俺が目を覚ます前に花を替えていた。俺はそれを、朝の仕事だと思い込んでいた。だが実際には、夜のうちに替え、朝にはもう終えているように見せていただけなのかもしれない。祖母は俺に、儀式の途中を見せなかった。見せていたのは、いつも終わったあとの、静かで整った景色だけだった。
半身ずらす、という言葉も、思っていたよりずっと具体的だった。俺がこれまでノートに書きつけてきた角度――右へ六度、左へ三度、正面近くへ二度――それらはすべて、この「半身」という言葉が指し示す範囲の中に収まっていた。祖母は感覚だけで動いていたのではない。決まった動作を、決まった言葉で、決まった意味とともに繰り返していたのだ。
俺は裏紙を膝の上に置いたまま、しばらく仏壇を見つめていた。位牌はまだ縁側の方角を向いている。正面から大きく外れたその角度は、もう俺にとって「異常」という言葉では片づけられないものになっていた。
祖母の部屋――正確には、まだ祖母の部屋のままの六畳間――に戻り、俺は箪笥の引き出しをもう一度開けた。以前見つけた帳面を取り出し、布を解く。湿った木の匂いに、古い墨の匂いが混じって鼻先へ立ちのぼった。
帳面には、日付とともに、供花の角度、位牌の置き方、障子の閉め方までが、几帳面な筆致でびっしりと書き込まれていた。最初に見たときは、単なる生活の記録だと思っていた。だが今、裏紙の三行と突き合わせてみると、その帳面のすべての記述が、あの短い手順書の細目であることが分かった。
「花の茎、外へ三分」 「位牌、右へ半身弱」 「障子、右手前より二寸」
数字は日によって微妙に違う。だがその違いには、揺れではなく調整のようなものが感じられた。まるで、日々のわずかな変化に合わせて、綱を張り直しているかのように。祖母は毎日、この家のどこかで、目に見えない何かとの間合いを測り続けていたのだ。
帳面の頁をめくっていくうちに、俺はまた、あの写真に行き当たった。仏間の前で小さな箒を持つ、幼い自分。その背後にしゃがみ、右手を仏壇の方へ伸ばす祖母。以前見たときは、掃除を教えている場面だとしか思わなかった。だが今は違う。祖母の指先は、俺の持つ箒ではなく、白い器の向きを直している。その顔は俺の方を見ていない。視線は最後まで、仏壇の一点に注がれていた。
俺はその写真を、もう一度裏返した。鉛筆の文字は薄く、消しゴムでこすった跡が残っている。
――結人、手順を覚える。
祖母は、この一文を書いたあとで、消そうとした。だが完全には消えなかった。俺には、それがなぜだか分かるような気がした。消そうとしたのは、俺に負担を悟らせたくなかったからだ。それでも消しきれなかったのは、書いたことそのものが、祖母にとって譲れない事実だったからだ。
俺は写真を胸の前まで持ち上げ、しばらくそのままでいた。幼い自分の丸い頬、ずり落ちた片方の靴下。あの朝、俺は掃除を手伝っているつもりで、実際には手順そのものを、身体に染み込ませられていた。祖母は俺を利用したのだろうか。そう考えかけて、俺はすぐにその言葉を打ち消した。利用という言葉には、そこにあるはずの温度が抜け落ちてしまう。
祖母は、俺が箒を逆さに持てば、何も言わずに持ち直させた。花の茎を切るときは、切り口を必ず外側へ向けた。冬でも温かかった手で、俺の頭を撫でた。あの手のひらの記憶と、この帳面に書かれた几帳面な数字とは、俺の中で今、同じひとつの流れとして繋がっている。役目と愛情は、祖母にとって別々の抽斗にしまわれたものではなかった。同じ手の中で、同じ動作として溶け合っていたのだ。
夕方になっても、暑さは少しも和らがなかった。父が畑の見回りから戻ってきたのは、日が傾き始めた頃だった。作業着の襟元に汗の染みが浮き、顔は日に焼けて赤い。父は玄関で靴を脱ぎながら、俺が手にしている帳面と写真に、一瞬だけ視線を止めた。だがそれ以上は何も言わず、いつものように台所へ向かい、水を一杯飲んでから、縁側に腰を下ろした。
俺は裏紙を持って、父の隣に座った。夕暮れの庭には、蝉の声がまだ途切れず続いていたが、その音の底に、もう一つ別の気配が沈んでいるような気がした。父はポケットから煙草を取り出し、火をつけた。マッチの擦れる音が、湿った空気の中で小さく弾ける。
「長谷川さんに会ってきた」
俺が言うと、父は煙を吐き出しながら、ゆっくりと頷いた。
「そうか」
「位牌は、鎮めるためのものじゃないと言っていた。正面へ向けると、受けてしまうものがあるから、少し外すんだと」
父の指先が、煙草の先端をわずかに震わせた。だが顔は動かない。火種だけを見つめ続けている。
「祖母ちゃんの箪笥から出てきた紙にも、同じことが書いてあった」
俺は裏紙を父の膝の前へ差し出した。父はそれを見たが、手を伸ばさなかった。目だけがゆっくりと文字を追い、最後の一行まで来たところで、視線を庭の暗がりへ逃がした。
「父さん」
「なんだ」
「これ、読んでくれないか」
「読まなくても分かる」
「じゃあ、教えてくれ」
父は煙草を吸い、長く煙を吐いた。その間だけ、彼の顔から表情というものが抜け落ちたように見えた。
「読める字なら、お前が読めばいい」
「読める。でも、読めることと、意味が分かることは違う」
父は答えなかった。庭の暗がりに向けたままの目が、ほんのわずかに細くなる。俺はその横顔を見ながら、これまでに何度も繰り返してきた問いを、また口にせずにはいられなかった。
「祖母ちゃんは、死ぬ前の夜、何をしようとしていたんだ」
父の喉が、小さく動いた。答える前の、いつもの間だった。だが今夜のその間は、これまでよりわずかに長かった。まるで、答えるための言葉を探しているのではなく、答えないための理由を、もう一度確かめているような間だった。
「見なくていいものもある」
その一言だけが、静かな声で落ちてきた。父はそれ以上、何も続けなかった。ただ、何かを喉の奥へ押し戻すように、一度だけ強く息を吸い、それを長く吐き出した。俺はその横顔に、これまで見たことのない色を見た気がした。怒りでも、拒絶でもない。もっと深いところにある、何かを守り抜いた末の、疲れ切った静けさだった。
「父さんは、それを見たのか」
父は答えなかった。
「祖母ちゃんが最後に何を中断したのか、父さんは知っているのか」
長い沈黙のあと、父は煙草を灰皿代わりの空き缶へ押しつけた。火が消える小さな音がした。それから、彼は縁側の板に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。
「金槌、どこに置いた」
「答えてくれ」
「今夜は、それでいい」
父はそう言うと、道具箱を探すために土間へ下りていった。俺はその背中を、しばらく黙って見ていた。父は俺に何も渡さなかった。だが、その沈黙の重さそのものが、何かを語っていることだけは分かった。言葉にできないものを、父は長い年月、あの背中の中にしまい込んできたのだ。
しばらくして、父は金槌を手に庭へ出ていった。夕闇の中、垣根の修繕でもするつもりなのか、木材の当たる乾いた音が、規則正しく響き始めた。かん、かん、と。それは仏間の障子を直していたときと同じ音だったが、今夜のそれは、俺には少し違って聞こえた。あれは、俺を遠ざけるための音ではなく、父自身が何かに耐えるための音だった。
俺は縁側に一人残り、裏紙と帳面と写真を、もう一度膝の上へ並べた。三つを並べると、ばらばらだったものが、また同じ方向を向いているように見える。祖母の筆跡、祖母の几帳面な記録、祖母のまなざし。どれもが同じひとつの手から生まれ、同じひとつの家を、同じひとつの向きで守ろうとしていた。
庭の暗がりの向こうから、金槌の音に混じって、かすかに草の擦れる音が届いた気がした。ざり、と一度。俺は顔を上げ、暗い庭へ目を凝らしたが、父の背中と、垣根の輪郭が見えるだけだった。
その音が、本当に聞こえたのか、それとも俺の耳が勝手に拾い上げた記憶の残響だったのか、俺にはもう判断がつかなかった。ただ、仏間の位牌が、今も縁側の方を向いたままであることだけは、確かめずとも分かっていた。
夜が深くなるにつれ、蒸し暑さは少しも和らがなかった。肌にまとわりつく湿った空気の中で、俺は裏紙をそっと折りたたみ、胸元へしまった。祖母が最後まで見せなかったものの輪郭が、ようやく形を持ち始めていた。それでもまだ、その形の内側に何があるのかまでは、俺には見えていなかった。
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