第7話 寺の奥の帳面

翌朝、父は朝食の席で一度だけ俺を見た。
味噌汁の椀から立つ湯気が、父の顔の前で細くほどけている。蝉の声はまだ遠く、代わりに台所の水道から落ちる雫の音が、妙に規則正しく響いていた。
「寺へ行け」
父はそう言って、箸を置いた。
「長谷川さんに、これを見せろ」
差し出されたのは、昨夜まで父が胸元へ抱えていた古い帳面だった。表紙は手垢で黒ずみ、角が丸く潰れている。父はそれを俺の方へ滑らせたが、指先は最後まで離れなかった。
「父さんが持っていけばいい」
「俺が行くと、話が余計な方へ行く」
「余計な方って何だ」
父は答えなかった。代わりに、味噌汁の椀を流しへ運び、残った汁を捨てた。椀の底を指で確かめ、洗う前に一度だけ水を止める。祖母がしていたのと同じ手つきだった。
「結人」
父は流しに立ったまま言った。
「寺で何を聞いても、すぐに家へ持ち帰るな。まず、自分で考えろ」
「それは、俺に判断させるということか」
「判断できるかどうかを見てもらうんだ」
「誰に」
父は水を出した。水音が言葉の代わりに間を埋める。
「長谷川さんにだ」
それ以上は話さなかった。
俺は帳面を鞄へ入れ、位牌の裏紙と、祖母の布巾から見つかった白い糸も持った。玄関を出る前、仏間へ寄った。白菊は夜のあいだにさらに首を落としていた。花瓶の水は減っていない。位牌は縁側の方角を向き、正面から外れた角度で止まっている。
その向きは、昨夜から変わっていなかった。
まるで、誰かがそこから動かさないように押さえているみたいだった。
山裾の道は、朝から湿っていた。アスファルトの上に薄い水膜が残り、歩くたび靴底がぺたりと鳴る。寺までは歩いて十分ほどだが、盆の時期を過ぎた道には人影が少なかった。軒先から下がる風鈴が、風もないのに一度だけ鳴った。
ちり。
俺は立ち止まった。
音はすぐに消えた。蝉の声が戻り、道路脇の側溝を流れる水の音が耳へ押し寄せてくる。けれど、風鈴の音の細さは、昨夜仏間で聞いた金属音と同じだった。
俺は鞄の中の帳面を押さえた。
紙の束が、体温を持っているように感じられた。
寺の山門は開いていた。境内へ入ると、熱を含んだ石畳が靴底からじわじわと上がってくる。長谷川は本堂の脇で、伸びた草を短く刈っていた。剪定鋏を動かすたび、青い匂いが立ちのぼる。
俺に気づくと、長谷川はすぐには声をかけなかった。刈り取った草を一束にまとめ、根元を揃え、石の縁へ置いてから顔を上げた。
「お父上から、何か預かりましたか」
「この帳面を」
俺が差し出すと、長谷川は手を伸ばしかけ、途中で止めた。先に俺の手元を見ている。
「紙もありますね」
「位牌の裏へ貼るものです。祖母の箪笥から出ました」
「そうですか」
長谷川は目を伏せた。数珠を親指で押し戻す癖が、袈裟の下で小さく動いた。
「奥へどうぞ。こちらでは、話しにくいでしょう」
寺の奥へ続く廊下は、外より涼しかった。涼しいというより、空気が動かず、熱が古い柱の内側へ閉じ込められている。磨かれた床板に、俺の姿がぼんやり映った。歩くたび、靴底の音が一つ遅れて返ってくるように聞こえた。
長谷川は一番奥の小部屋の襖を開けた。
畳はよく掃かれていたが、紙の束にまで夏の湿気が染みているようだった。古い帳面の匂いに、墨と線香の残り香が混じっている。窓は開いているのに風は入らず、庭の竹だけが外で静かに揺れていた。
俺が座る前に、長谷川は机の上を整えはじめた。
祈祷札の控えを右へ寄せ、経帳を重ね、年季の入った布で机の埃を一度だけ拭う。動作に無駄がない。祖母が仏壇の花を整えるときと、ほとんど同じだった。
俺はその手つきを見ているうちに、胸の奥がざらつくのを感じた。
「長谷川さんも、物の向きを気にするんですね」
「気にしているのではありません。戻しているだけです」
「どこへ」
長谷川は答えず、俺の前に湯呑みを置いた。
「暑かったでしょう」
「飲む気分ではありません」
「そういうときほど、口を湿らせた方がよいことがあります」
俺は湯呑みを手に取った。茶はぬるかった。けれど舌に触れた瞬間、墨のような苦味が残った。
長谷川は、父から預かった帳面を開いた。紙が湿気を吸って膨らみ、頁をめくるたび、乾いた音ではなく、薄い皮膚を剥がすような音がした。
最初の数頁には、寺の修繕費や供物の記録が並んでいた。米、蝋燭、線香、菊。見慣れた文字の列が続く。だが途中から、家の名前が現れた。
久世。
小野寺。
二つの名が、何年も離れずに記されている。
「これは、いつの帳面ですか」
「今から八十年ほど前のものです」
「祖母が書いたんですか」
「美代さんの字ではありません。けれど、美代さんが引き継いだ記録です」
長谷川の指先が、ある頁の中央で止まった。
そこには、仏壇を正面から描いた簡単な図があった。位牌の輪郭、その脇に置かれた花瓶、仏壇の縁から伸びる二本の線。位牌だけが、正面からわずかに外れている。
俺は鞄から裏紙を出し、机の上に置いた。
紙片の線と、帳面の図が重なった。
黒い点の位置まで同じだった。
「この角度です」
俺は指で示した。
「祖母は、毎朝この位置へ位牌を置いていました。死んでからは、そこからさらに外れる。縁側の方を向くように」
長谷川は図から目を離さなかった。
「白菊は」
「しおれます。水は減りません」
「音は」
「夜になると、縁側の下から草を踏む音がします。小野寺家の裏庭でも、ミツエさんが土を掘り返しているのを見ました。祖母の名前が書かれた紙や、割れた茶碗を埋め戻していた」
長谷川はすぐには返事をしなかった。袖口を整え、帳面の端を押さえる。
「ミツエさんは、何か言いましたか」
「位牌を正面へ戻すな、と」
「それだけですか」
「家に入れたくないものを受ける、と言っていました」
長谷川の親指が、数珠を一度押し戻した。
「なるほど」
「なるほどで済ませないでください」
声が強くなった。自分でも分かったが、抑えられなかった。
「祖母が死んでから、家の中で毎朝ものが動いている。父は何も言わない。ミツエさんは夜に土を掘る。長谷川さんは全部知っているような顔をして、言葉を一つずつ選んでいる。俺は、祖母が何をしていたのか知りたいだけです。死ぬ前の夜に何があったのか、なぜ位牌の向きが変わるのか、どうして俺だけが何も教えられていないのか」
長谷川は俺の顔を見なかった。
「知りたいだけ、という言葉は便利です」
「何が便利なんです」
「知れば済むように聞こえるからです。実際には、知った者は手を動かさなければならない。手を動かせば、次の日も同じことをしなければならない。役目とは、理解した瞬間に始まるものではなく、理解したあとも続けてしまったときに始まるものです」
「俺は、もう続けています。花を替え、位牌を記録し、土を確かめている」
「それは、続けているのではなく、追いかけているだけかもしれません」
「違いは何です」
「追いかける者は、自分の見たいものへ向かいます。続ける者は、自分が見たくないものの前でも、同じ手順を守ります」
その言葉が、胸の奥へ重く沈んだ。
長谷川は帳面の別の頁を開いた。そこには、二本の線が家と家のあいだを結んでいた。片方の端は久世家の仏壇、もう片方は小野寺家の裏庭にある小さな丸印へ続いている。
「この線は」
「境です」
「何の」
「家と家の境。内と外の境。生きている者と、そうでないものを分ける境でもあります」
「そんなものが、位牌の角度で守れるんですか」
「位牌だけではありません。花、紙、土、器。置かれるものの向きと、戻される場所。それらが一つの手順として続いている間は、境は境として保たれます」
「何を外へ逃がすんですか」
長谷川はそこで口を閉じた。
窓の外で、竹の葉が擦れた。さら、さら、と乾いた音がする。だが風は、部屋の中へ入ってこない。
「言ってください」
「言葉にしてしまうと、あなたはそれを一つの形として想像します」
「想像しなければ怖くないと?」
「逆です。人は、形を与えられた恐怖より、形のないものを長く恐れます。ただ、形がないからといって、筋道がないわけではありません」
「それで、俺に何をしろと言うんです」
「まだ何も」
「また、まだですか」
長谷川はようやく俺を見た。その目は穏やかだったが、疲れていた。誰かに同じ問いを何度も投げられ、そのたびに答えを飲み込んできた人間の目だった。
「あなたのお祖母さんは、最後まで手順を崩しませんでした」
「最後の夜も?」
「崩すつもりはなかったでしょう」
「つもりは、ということは」
長谷川は帳面の頁を閉じた。
「四十九日の三日前、美代さんから寺へ連絡がありました。新しい札が必要だと。私は用意して、夜に久世家へ届けるつもりでした」
「届けたんですか」
「届けました」
「なら、なぜ祖母は」
「受け取ることができなかった」
「死んでいたから?」
長谷川の瞼がわずかに下がった。
「亡くなったのは、その夜のあとです」
喉の奥が乾いた。
「祖母は、死ぬ前の夜に何を見たんですか」
「見た、と決めるのは早い」
「でも、儀式は中断された」
「誰から聞きました」
「ミツエさんが、来るはずだったと言いました。父さんは、聞いたら戻れなくなると言った」
長谷川は、指先で帳面の端をなぞった。紙の縁がわずかに震えている。
「美代さんは、位牌を正面から外し、花を外へ向け、札を台座の下へ置く。そのあと、小野寺家の裏庭へ行き、境の印を確かめる。これが一続きの手順でした」
「その夜、何かがあって、祖母は裏庭へ行けなかった」
「ええ」
「何があったんです」
長谷川はすぐに答えなかった。代わりに、机の上の祈祷札を一枚取り上げた。墨の匂いが強く立ちのぼる。札の一画だけが異様に濃く、紙の繊維を押し潰していた。
「位牌は、鎮めるためだけのものではありません」
その言葉を、長谷川は先ほどよりゆっくり繰り返した。
「亡くなった方を家に留めるためのものでもない。正面へ向ければ、家へ来るものを正面から受ける。だから、わずかに外す。受け流し、境の外へ逃がすためです」
「位牌が祖母の霊を追い払っているんじゃない」
「美代さんを追い払う必要はありません」
「では、今、位牌が縁側の方を向いているのは」
「外から来るものを見ているのでしょう」
背中に冷たいものが走った。
「見ている?」
「あるいは、見ないようにしている。向きには、二つの意味があることがあります。家の者へ知らせる向きと、家の者に見せない向きです」
「俺には、どちらに見えるんです」
「それを判断するために、あなたは毎朝記録してきたのでしょう」
長谷川の声は静かだった。
俺は鞄からノートを取り出し、机の上へ開いた。日付と角度の記録。白菊の状態。花瓶の水位。土と草の付着。草の音が聞こえた時間。俺は一つずつ指で追った。
長谷川はノートを覗き込んだが、すぐに触れようとはしなかった。
「これだけ書いて、何が分かったと思いますか」
「向きが毎日違う。だけど、縁側の方へ外れる夜には、必ず土か草が台座に残っている」
「ほかには」
「白菊がひどくしおれる」
「それは何を意味すると」
俺は答えに詰まった。
花は死者のために供えるものだと思っていた。祖母が生きていたころ、白菊は仏壇に静かに立っていた。美代がいなくなってから、花だけが水を吸わずに傷んでいく。
「受けている、とミツエさんが言いました」
「何を」
「分かりません」
「分からないまま、あなたは花を替えている」
「替えなければ、祖母の前に何も置けない」
その言葉が出たとき、俺は初めて、自分が花を替えていた理由に気づいた。異変を調べるためだけではなかった。祖母がいなくなった仏壇の前に、空白を作りたくなかったのだ。
長谷川は、少しだけ目を伏せた。
「その気持ちは、大切にしてください」
「気持ちだけで、境は守れますか」
「気持ちだけでは足りません。けれど、手順だけでも足りない」
「祖母は、俺にそれを教えたんですか」
「教えたというより、あなたの身体に残したのでしょう」
「俺を見張り役にするつもりだった」
「美代さんは、誰かを役目へ押し込む人ではありません」
「でも、俺は幼いころから仏間の掃除をさせられた」
「掃除を嫌がったことは?」
「ありません。祖母が隣にいたから」
「花を替えるのを嫌がったことは?」
「ありません」
「では、あなたが受け取ったのは役目だけではない。美代さんが暮らしの中へ混ぜた愛情も、同時に受け取っている」
俺は返す言葉が見つからなかった。
祖母は、俺に何も説明しなかった。怖いものを怖いものとして渡さず、箒の持ち方や花の向き、布の折り目の中へ溶かしていた。俺が甘い煮物を食べている横で、祖母はいつも仏壇の前の器を直していた。俺のために味を薄くした料理と、家の外へ何かを逃がすための手順が、同じ台所の中にあった。
それを愛情と呼んでいいのか、俺にはまだ分からない。
愛情で包まれていたからこそ、知らないままではいられなかった。
「長谷川さん」
俺は帳面へ目を戻した。
「俺が位牌を正面へ戻したら、どうなります」
長谷川は、祈祷札を机へ置いた。
「戻してはいけません」
「なぜ」
「受けるからです」
「何を」
「あなたが、いままで受け流してきたものを」
「それは、祖母が死んだあとに来たものですか」
「死ぬ前から、そこにあったものです」
「では、祖母はずっとそれを見張っていた」
「見張るという言い方が近いかもしれません。ただ、見張る者は、見ているだけでは済みません。毎日、同じ場所へ手を入れ、同じ向きへ戻し、異変があれば誰にも知られないように直す。美代さんは、そうして家を保ってきた」
「父さんも知っていた」
「知っていたでしょう」
「なのに、俺には黙っていた」
「あなたを外側に置いておきたかったのでしょう」
「外側に?」
「役目を継ぐ者を、役目の内側で育てながら、本人には外側だと思わせる。美代さんらしいやり方です」
それは、やさしい嘘だったのかもしれない。
俺は長いあいだ、祖母のそばにいることで家を守っているつもりだった。実際には、祖母に守られていた。箒の先で埃を集め、花の茎を切り、器の向きを直す。その一つ一つが、俺をどこかへ近づけていた。
「祖母は、最後の夜に何を中断したんですか」
長谷川は目を伏せた。
「それは、まだ私の口から言うべきではありません」
「また、言うべきではない」
「あなたは、言葉を軽く見ています」
「見ていません。だから聞いている」
「なら、なおさら急いではいけない。言葉は、置く場所を間違えると、札より強く境を動かします」
俺は机の上の祈祷札を見た。紙の上の墨は乾いているのに、そこだけ今も濡れているように見えた。
長谷川は新しい紙を一枚取り出し、筆を手にした。墨を磨る音が、部屋の中へゆっくり広がる。円を描くように硯を擦り、墨の匂いを確かめるように一度だけ息を吸う。
「あなたが持ってきた裏紙を、ここへ置いてください」
俺は紙を差し出した。
長谷川はその表面を指先でなぞった。線の上に触れた瞬間、筆を持つ手が止まった。
「これは、美代さんが書いたものではありません」
「でも、祖母の筆跡です」
「書いたのは美代さんです。ただし、線を引いたのは別の人間でしょう」
「別の人間?」
長谷川は答えず、紙の端に残る黒い点を見た。
「この印は、位牌を外す角度ではありません。位牌が戻る限界です」
「戻る?」
「境の外へ逃がしていたものが、家の内側へ戻り始めたとき、位牌は少しずつ正面を外れます。正面へ向けてはいけない。けれど、外れすぎてもいけない。向きは合図であり、綱引きの跡でもあるのです」
「毎朝変わるのは、何かが近づいているからですか」
「近づいているというより、探しているのでしょう」
「何を」
「入る場所を」
室内の空気が急に重くなった。
窓の外で、草を踏む音がした。
ざり。
寺の庭に、人の姿は見えない。けれど音だけが、部屋の外を通り過ぎた。長谷川は筆を置き、呼吸を深くした。顔色は変わらなかったが、右手が数珠を強く押し戻した。
俺は立ち上がりかけた。
「見に行くな」
長谷川の声が、初めて鋭くなった。
「今の音は」
「音がしただけです」
「でも」
「音がしたからといって、見に行く必要はありません。見に行かなければ、まだ境の外にある。あなたが確認しようとした瞬間、見るための場所が開くことがあります」
「俺は、見たものをなかったことにしたくない」
「それは大切なことです。しかし、見ないことと、なかったことにすることは同じではない」
長谷川は俺を見た。
「あなたは記録することで、ものの形を保とうとしている。けれど、境にいるものは、形を与えられると近づきやすくなる。記録は続けなさい。ただし、名前をつけないこと。姿を決めないこと。位牌の向きだけを見なさい」
「祖母のことも?」
「美代さんの名前は、忘れなくていい」
その言い方に、わずかな温度があった。
「死者の名前を忘れないことと、死者でないものへ名前を与えることは違います。弔いとは、何もかもを一つの場所へ押し込むことではない。戻るべきものを、戻るべき場所へ戻すことです」
長谷川は新しい紙に筆を入れた。
筆圧が異様に強かった。墨が紙へ沈み、文字の一画ごとに繊維が潰れていく。俺には読めない字だったが、その最後の線だけは、祖母の箪笥から出てきた札と同じ形をしていた。
「これを持って帰りなさい」
「祈祷札ですか」
「札というより、目印です。敷居の下へ置いてください。位牌の裏へは貼らない。今のあなたには、まだ早い」
「早いなら、なぜ渡すんです」
「何も持たずに帰す方が危険だからです」
長谷川は札を布で包んだ。指先に墨が残っている。彼はその手で湯呑みを取り、何事もなかったように茶を飲んだ。
「今夜、位牌が正面を向いていたら」
「触らないでください」
「外れすぎていたら」
「触らないでください」
「では、どうすればいい」
「お父上を呼びなさい。お父上が来られないなら、花だけを見なさい」
「花を?」
「立っているか、しおれているか。水が減っているか、減っていないか。あなたはもう、それを見分けられる」
俺は包みを受け取った。紙一枚なのに、掌へ沈む重さがあった。
「長谷川さん」
襖の前で、俺は振り返った。
「祖母は、俺に役目を渡したかったんでしょうか。それとも、俺を遠ざけたかったんでしょうか」
長谷川はすぐに答えなかった。
机の上の帳面を閉じ、祈祷札の控えを揃え、布の端を折り直す。その仕草は、答えを探しているようにも、答えを置く場所を選んでいるようにも見えた。
「どちらも、同じ手つきでできます」
「そんなのは答えじゃない」
「ええ。だから、あなた自身で確かめるしかありません」
長谷川はそこで一度、目を伏せた。
「ただ、美代さんがあなたを外へ出したかっただけなら、あれほど長く仏間の掃除をさせたりはしなかったでしょう」
寺を出ると、日差しが強かった。境内の石は熱を持ち、刈られた草の青い匂いが足元から立ち上ってくる。俺は裏手の道へ回らず、表の坂を下った。
それでも、背後から音がした。
ざり。
振り返らない。
長谷川の声が、背中の内側で残っていた。
見ないことと、なかったことにすることは同じではない。
俺は歩きながら、鞄の中の札を何度も確かめた。包みは動いていない。なのに、紙の角度が少しずつ変わっているような気がした。
久世家が見えてくる。
縁側の障子は閉じていた。仏間の窓だけが、細く開いている。白い菊の頭が一輪、外からでも分かるほど垂れていた。
俺は足を止めた。
仏壇の前で、位牌がどちらを向いているのかは、まだ見えない。
けれど、家の奥から、乾いた草の擦れる音が聞こえてきた。
ざり、ざり。
俺は鞄の中の札へ手を置いた。
それから、祖母が生前いつもそうしていたように、敷居の前で一度立ち止まり、家の中の音がどこから来ているのかを確かめた。
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