第6話 裏庭の土の戻し方

その晩、熱は引かなかった。
日が落ちても、屋根と壁に染みついた暑さは抜けず、扇風機の羽音だけが部屋の空気を薄く削っていた。風は起きているのに、どこにも流れていかない。首筋に貼りついた汗を乾かすこともなく、肌の上で湿気をかき混ぜているだけだった。
父は早くに寝た。
少なくとも、そういうことになっていた。夕食のあと、父はいつものように湯呑みを洗い、工具箱を縁側の隅へ戻し、何も言わず自分の部屋へ入った。戸が閉まる音を聞いてから、俺はしばらく動かなかった。
祖母の布巾から出てきた白い糸は、机の上に置いたままだった。布巾の縁をほどくことはできなかった。鋏を当てるたび、仏間の方から器の触れ合う音や、敷居の外で草を擦る音が聞こえたからだ。
偶然だと思えば、何度でも偶然にできる。
けれど、偶然が何度も同じ場所へ現れると、それを偶然と呼び続けるには、こちらの方に意志が要る。
俺は灯りを落とし、縁側に近い畳へ身を伏せた。障子は一枚だけ開けてある。外の暗さが細い帯になって、床へ落ちていた。庭の草は風もないのに揺れている。葉と葉が触れ合う音が、乾いた紙を指で裂くように続いていた。
ざり。
一度、音が止まった。
俺は呼吸を浅くした。
ざり、ざり。
縁側の下から、地面を這うような音が立ちのぼる。音は遠くから近づいてくるのではない。最初から家のすぐ下にあり、板の裏側をなぞりながら、こちらへ場所を変えているようだった。
懐中電灯を手に取ったが、点けなかった。光を出せば、何かにこちらの位置を教える気がした。
そのとき、裏手の小道の向こうで灯りが点いた。
小野寺家の裏庭だった。
いつもの薄い灯りより、今夜は低い位置にある。草むらの間から漏れる黄色い光が、地面すれすれを這っていた。蝋燭か、古い裸電球か、それとも別のものか、光源は見えない。ただ、湿った葉の裏だけがぬらりと浮かび、草の根元に溜まった水気が細く光っている。
俺は立ち上がった。
畳から縁側へ移ると、木の板が足裏の熱を返してきた。昼間に焼けた板はまだ温かい。だが庭へ近づくほど、その熱は薄れ、代わりに土の冷たさが足の裏から這い上がってきた。
裸足のまま降りるのはためらわれた。けれど、躊躇している間にも、灯りは小野寺家の裏庭の奥へ、少しずつ移動していた。
俺は縁側から降りず、家の影に沿って進んだ。
裏手の小道は、昼間より狭く見えた。背の高い雑草が左右から覆いかぶさり、人が一人通る幅だけを辛うじて残している。葉の先が腕に触れ、汗ばんだ皮膚へ細かな切り傷をつけた。濡れているのに、触れた感触は乾いていた。ざらついた葉が服の袖を撫でるたび、誰かの爪がゆっくり這っているように感じられた。
小道の途中で、洗濯物が揺れた。
夜に干す必要などないはずの白い布が、物干し竿に何枚も並んでいる。風はない。なのに布だけが、少し遅れて動いていた。
一枚が揺れる。
間を置いて、隣の一枚が揺れる。
さらに遅れて、奥の布が揺れる。
揺れが波のように伝わっているのではなく、目に見えないものが順番に触れているようだった。
俺は足を止めた。
布が擦れる音が、耳へ届いた。
その音は、目の前からではなかった。小野寺家の裏庭の奥から聞こえ、板塀を抜け、俺のすぐ横を通り過ぎてから、背後の久世家へ戻っていった。
音だけが、道を往復している。
灯りの下に、ミツエがいた。
背中を丸め、小さな鍬を両手で持っている。昼間に見るより背が低く、ひどく細く見えた。それでも動きに迷いはない。鍬の刃を土へ入れ、浅く起こし、掘り返した土を横へ寄せる。深く掘っているわけではなかった。表面を剥がし、下にあるものを探している。
ざく。
土が割れる音がした。
ミツエは掘り出したものを、灯りの脇へ並べた。
割れた茶碗の欠片。墨の滲んだ紙片。細い紐。乾いた花の茎。それから、小さな木片のようなもの。
俺は板塀の隙間から身を乗り出した。
ミツエは木片を掌に乗せ、指先で表面を撫でた。何かを確かめている。傷の数か、刻まれた印か、それとも触れたときの温度か。
「……美代さん」
声が出た。
ミツエの手が止まった。
振り返るまでに、ほんのわずかな間があった。その間に、彼女は木片を土の上へ戻し、掘り返したものをすべて布で覆った。動きが速かった。昼間、漬け物の壺を渡すときの緩慢な手つきとは別人だった。
「結人かい」
振り返った顔には、いつもの笑い皺があった。けれど目は笑っていない。俺の顔ではなく、肩口と手元を見ている。
「何をしているんです」
「見て分からないかね。庭の手入れだよ」
「こんな時間に?」
「昼間は暑いからねえ。年寄りには夜の方が動きやすいこともあるんだよ」
「洗濯物も?」
「湿気を飛ばしているのさ」
「風がないのに」
ミツエは鍬の柄を立て、その上へ両手を重ねた。泥のついた指先が、灯りの中で黒く見える。
「風がなくても、乾くものは乾く。乾かないものは、いつまでも乾かない」
「土を掘り返していたでしょう」
「掘ったら戻す。戻したらならす。それだけのことだよ」
「何を戻すんです」
「若い人は、すぐに中身を知りたがるねえ。茶碗の欠片なら茶碗の欠片、紙なら紙だ。それ以上でも、それ以下でもないよ」
「祖母の名前が書かれた紙がありました」
ミツエの唇がきつく結ばれた。
「見えたのかい」
「見えました」
「読めたのかい」
「久世美代、と書いてあった」
「そうかい」
それだけ言って、ミツエはまた土へ目を落とした。
俺は板塀の隙間から庭へ入った。足が湿った土へ沈む。靴を履いてくればよかったと思ったが、戻る気にはなれなかった。足の裏へ伝わる土の柔らかさが、場所ごとに違っている。踏み固められたところ、掘り返されたところ、何かを避けるように残されたところ。俺にはそれが、地面の上に書かれた記録のように思えた。
ミツエは動かなかった。
「祖母が何をしていたのか、知っているんでしょう」
「美代さんのことなら、長く知っているよ。あんたが生まれる前からね」
「位牌のことも?」
「仏壇の位牌なら、久世さんの家のものだろう」
「毎朝、向きが変わる」
ミツエの視線が初めて俺の目へ向いた。
その瞬間、背後の草むらで音がした。
ざり、ざり。
小道の奥から、何かがこちらへ近づいている。
ミツエは俺ではなく、音の方を見た。鍬を握る手に力が入る。昼間の世話焼きな老女の顔から、余計なものがすべて消えていた。
「今夜は、もう帰りな」
「答えてください」
「帰りな。あんたの家の位牌がどっちを向いているか、わたしには関係ない」
「関係がないなら、なぜ祖母の名前を埋めるんです」
「埋めているんじゃない。戻しているんだよ」
「何を元へ戻すんですか」
「場所をだよ」
ミツエは低く言った。
「人間は、死んだらどこへ行くと思う? 寺へ行く、墓へ行く、仏壇へ行く。そう言って安心する。けれど、死んだ人の名前や使っていたものが、きれいに一つの場所へ収まることなんてない。茶碗に残ることもある。布に残ることもある。土に沈むこともある。そういうものを、決まった場所へ戻してやらないと、生きている者の家へ戻ってくる」
「祖母が戻ってきたんですか」
ミツエはすぐには答えなかった。
灯りの芯が、ぱち、と鳴った。黄色い光が一度細くなり、ミツエの頬の皺を深く刻んだ。
「美代さんは、戻ってくるような人じゃないよ」
「じゃあ、何が戻ってきているんです」
「それを口にすると、あんたは聞いたことにする。聞いたことにしたら、見たことにする。見たことにしたら、今度は自分で呼ぶことになる」
「俺はもう見ています。仏壇の泥も、草の音も、位牌の向きも」
「見たものを、見たままにしておけないのが若い人の悪いところだねえ」
「見なかったことにしているのは、あなたたちでしょう」
声が強くなった。
ミツエは怒らなかった。むしろ、少しだけ悲しそうに目を細めた。その表情が、俺には腹立たしかった。親切な人間の顔をして、こちらを子ども扱いしている。
「見なかったことにしているんじゃない。見たものを、見える形のまま置かないようにしているんだよ」
「同じです」
「違うね。大雨が降ったら、雨が降ったと皆に知らせるのかい。屋根の下へ入れ、火を起こせ、濡れた服を脱げと、いちいち説明するのかい。年寄りはね、雨の匂いがしたら先に戸を閉める。若い者が空を見上げているあいだに、畳を上げて、火を守って、家が濡れないようにする。守るっていうのは、そういうことだよ」
「それで、何も知らないままの人間は、どうなるんです」
「知らないままなら、恐れずに済む」
「俺は恐れています」
「だから、帰れと言っている」
「あなたは祖母と一緒に、何年もこういうことをしていたんでしょう」
ミツエは鍬の柄を見つめた。
「美代さんは、手を抜かない人だった。花の茎を一本替えるにも、仏壇の前の布を一枚洗うにも、家の中で音が変わっていないか確かめた。あんたが小さいころ、毎朝ここへ来ていたのを覚えているかい」
「仏間の掃除をしていました」
「掃除だけじゃないよ。箒を持って、花を替えて、器の向きを直した。あんたが少しでも違う向きに置くと、美代さんは手を添えて、静かに戻した。叱らなかっただろう」
「……はい」
「叱らない方が、身体に残るからね。人は怒鳴られたことより、何度も繰り返した手つきを忘れない。あんたは、もう覚えている。だから位牌の角度が分かる。だから、音の遅れが聞こえる」
「俺を見張り役にするつもりだったんですか」
ミツエは答えなかった。
その沈黙は、父のものより冷たかった。父は言葉を飲み込み、背中に抱えていた。ミツエは言葉をこちらへ差し出さず、土の中へ押し戻している。
「答えてください」
「役目というのは、誰かに選ばれるものじゃないよ。毎日同じことをして、ある朝、前と違うものに気づいてしまった人間が、あとからそう呼ばれるだけさ」
「それは答えになっていない」
「答えを欲しがるねえ」
「祖母が死んでから、家の中がおかしくなった。父さんは何も言わない。あなたは夜に土を掘る。寺の札まで出てきた。俺だけが何も知らされていない。それでも、何も訊くなと言うんですか」
「訊くなとは言っていないよ。ただし、訊いたことには代金が要る」
「何を払えというんです」
ミツエは俺の足元へ目を落とした。
「一度知ったものを、知らなかった頃へ戻せなくなる代金さ」
草むらの奥で、また音がした。
ざり、ざり、ざり。
今度は複数の場所から聞こえた。小野寺家の裏庭の端、板塀の外、久世家の縁側の下。音が同時に鳴り、すぐに一つへ重なった。
俺は振り返った。
小道の草が、道の両側からゆっくり倒れている。風はない。誰かが通っているように、けれど足跡は残らない。草だけが押し分けられ、土の細い線がこちらへ伸びてくる。
ミツエが鍬を横へ置いた。
「帰りな、結人」
「何が来ているんです」
「まだ来ていない」
「でも、音が」
「音がするうちは、まだ境の外だよ」
「境って何です」
「それを知りたいなら、まず自分の家の仏壇を見な。位牌を正面へ戻すんじゃない。戻したら、受けるからね」
「何を受けるんです」
ミツエは俺を見た。今度は目を逸らさなかった。
「家に入れたくないものを」
その言葉のあと、灯りが消えた。
暗闇の中で、ミツエの姿だけがかろうじて分かった。彼女はしゃがみ込み、掘り出した茶碗の欠片を一つずつ土へ戻している。紙片を折り、木片を包み、乾いた花の茎をその上へ置く。手順を間違えないように、指先で場所を確かめながら。
俺はそれを見ていた。
ミツエの手つきは、祖母の手つきに似ていた。物を乱暴に扱わない。置く前に、その場所が受け入れるかどうかを確かめる。戻したあと、周囲の土まで少しだけならす。
「祖母も、ここへ来ていたんですか」
ミツエの手が止まった。
「美代さんは、最後まで来ていたよ」
「死ぬ前の夜も?」
「来るはずだった」
「来なかったんですか」
「来られなかった」
「なぜ」
ミツエは紙片の上へ土をかぶせた。指で三度、軽く押さえる。
「それは、あんたの父親に聞きな」
「父さんは何も言わない」
「言わないんじゃない。言えば、あの人も戻れなくなると思っているんだろうよ」
「父さんも、ここへ来たことがあるんですか」
ミツエはようやく顔を上げた。
「若いころに一度だけ。あの子は、土の匂いが嫌いだった。手を汚すのも、暗い場所へ入るのも嫌がった。でも家を継いだ。嫌いなものを嫌いなまま抱えて、毎日戸を直し、草を刈り、何もない顔をして暮らしている」
「父さんが守っているのは、家ですか。それとも、祖母ですか」
「どちらも同じだよ。家を守るということは、そこにいた人間の手つきを残すことだからね」
ミツエは最後の土をならした。
「ただし、残すだけじゃ足りない。誰かが続けなきゃ、手つきはすぐにただの癖になる。癖になったものは、理由を失う。理由を失った手順は、境を閉じられない」
俺は返す言葉を失った。
土の匂いが濃くなっていた。掘り返された土は湿っているのに、鼻の奥には乾いた草の臭いが残る。足元の地面から、かすかな冷気が上がってくる。夏の夜なのに、身体の内側だけが冬へ引かれていくようだった。
ミツエは立ち上がり、泥のついた手を古い手ぬぐいで拭いた。手ぬぐいの端には、祖母の布巾と同じ白い糸が縫い込まれている。
「明日の朝、漬け物を持っていくよ」
「いりません」
「そう言うと思ったから、多めに持っていく」
「俺は、あなたを信用していない」
「信用しなくていい。味噌や塩は、信用なんかなくても腹に入るからねえ」
「あなたは、俺を守っているつもりですか」
ミツエは少し考えた。
「守っているのか、見張っているのか、わたしにももう分からないよ。ただ、美代さんに頼まれたことがある。あんたが一人で土を掘り始めたら、鍬を取り上げろ、と」
「祖母がそんなことを」
「直接は言わなかった。あの人は頼みごとまで、別の形にして渡すからね。最後にここへ来たとき、あんたの名前を書いた紙を置いていった。それだけだった」
「その紙はどこに」
ミツエは答えず、裏庭の奥へ目を向けた。
「今夜はもう帰りな。明日の朝、仏壇の花を見れば分かることがある」
「何が」
「花がしおれているなら、まだ受けている。花が立っているなら、誰かが戻したんだよ」
「誰かって、祖母ですか」
「死んだ人間の名前を、簡単に呼ばないことだね」
ミツエは板塀の方へ歩き出した。
その背中は曲がっているのに、歩みは速かった。俺が追おうとしたとき、背後の久世家から、仏具の鳴る音が聞こえた。
ちり。
ミツエの足が止まった。
続いて、縁側の下から草を裂く音がした。
ざり、ざり、ざり。
今度は家の内側からも聞こえた。仏間、台所、廊下。音が壁の中を移動しているようだった。ミツエは振り返らず、低い声で言った。
「位牌を正面へ向けるんじゃないよ」
「俺は触っていません」
「触っていなくても、向こうから戻ることがある」
「何が」
「見れば分かる」
それだけ言うと、ミツエは板塀の向こうへ消えた。
俺は久世家へ戻った。小道を歩く足元で、草が左右へ倒れている。さっきミツエがならしたばかりの土には、まだ新しい指の跡が残っていた。三つ、等間隔に並んでいる。
その横に、俺のものではない足跡が一つあった。
人の足跡に見えた。
けれど、踵がなかった。
縁側へ上がると、板の下から冷たい風が吹き上げてきた。扇風機は室内で回っている。外から風が入る隙間はない。それでも、足首の周りを湿った空気が撫で、草の切れ端が一枚、畳の上へ滑り込んだ。
俺は仏間へ向かった。
障子は閉じている。中は暗い。灯りを点けると、白菊の花がすべて縁側の方へ傾いていた。花瓶の水は減っていない。白い花弁は濡れて重く、茎の根元には黒いものが絡んでいる。
位牌は、正面から大きく外れていた。
俺が測ってきたどの角度よりも、縁側の方角を向いている。仏壇の奥ではなく、障子の向こう、裏手の小道へ顔を向けていた。
その台座の下に、土が盛り上がっている。
誰かが外から押し込んだように、湿った土と青黒い草が詰まっていた。
俺は手を伸ばしかけた。
だが、触れる前に、仏間の外から声がした。
「結人」
父だった。
振り返ると、健介が廊下の端に立っていた。寝間着のまま、片手に古い帳面を持っている。顔色が悪い。けれど俺ではなく、位牌と、その向いている先を見ていた。
「父さんも聞いたのか」
父は答えなかった。帳面を胸元へ引き寄せ、しばらく黙っていた。
「ミツエさんに会った」
「……そうか」
「祖母は、最後の夜に裏庭へ来るはずだったと言っていた」
父の指が帳面の背を強く押した。
「今夜は、もう寝ろ」
「祖母は何をしに来たんだ」
「寝ろ」
「父さん」
「結人」
その声には、これまで聞いたことのない切迫があった。怒鳴ってはいない。だが、家の中で何かが崩れ始めたとき、最初に板を押さえる人間の声だった。
「お前は、まだ知らなくていい」
「いつまでだ」
「いつまでもだ」
「俺が見ているのに?」
父は目を伏せた。
「見ているからこそだ」
「俺はもう、見なかったことにはできない」
「それでも、今夜だけはやめろ」
「何をやめるんだ」
「位牌に触るな。土を取るな。外へ出るな。花も替えるな」
「祖母がしていたことを、全部やめろと言うのか」
父の顔が歪んだ。
「祖母がしていたことを、お前が真似できると思うな」
「真似じゃない。知りたいだけだ」
「知るだけで済むものじゃない」
「だったら、父さんが教えてくれ」
長い沈黙が落ちた。
父は帳面を見下ろし、表紙の角を親指でなぞった。何度も開かれ、閉じられた跡がそこだけ白くなっている。
「明日、寺へ行け」
「住職に?」
「長谷川さんなら、話すべき順番を知っている」
「父さんは話さないのか」
「俺が話すと、余計なものまで一緒に出る」
「それでも聞きたい」
「聞いたら、戻れなくなる」
俺は位牌を見た。
正面を外れた黒い面が、暗い縁側の方を向いている。まるでそこにいる何かを拒むように、あるいは家の中へ入れないように、わずかな角度で踏みとどまっている。
祖母が毎朝していた手つきが、初めてはっきりと浮かんだ。
ずらす。
花の茎を外へ向ける。
器の縁を正面から外す。
それは乱れではなかった。逃がすための向きだった。
俺はノートを取り出し、今夜の角度を書いた。数字を記す手が、以前ほど震えなかった。
「父さん」
「なんだ」
「明日の朝、花を見ます」
父は止めなかった。
ただ、仏間の敷居の前へ歩み寄り、俺の隣に立った。位牌には触れず、白菊にも触れない。二人で、縁側の向こうの暗がりを見た。
草を裂く音が、家の外周をゆっくり回っていた。
ざり、ざり。
足音ではない。けれど、何かが歩いているようだった。
父が小さく息を吐いた。
「結人」
「はい」
「明日の朝、もし花が立っていたら、触る前に俺を呼べ」
「なぜ」
父は答えなかった。
ただ、俺の手元にあるノートを見た。その視線には、初めて拒むだけではないものが混じっていた。諦めとも、頼みともつかない、重い承認のようなものだった。
「順番を間違えるな」
父はそれだけ言った。
夜が深くなるにつれ、草の音は次第に遠ざかっていった。最後に、裏庭の奥で一度だけ、土を踏み固めるような音がした。
それから静かになった。
静かになったのに、俺は眠れなかった。
机の上には、祖母の布巾から切り離せなかった白い糸がある。仏壇には、縁側へ向いた位牌と、しおれた白菊がある。小野寺家の裏庭には、ミツエが戻したばかりの土がある。
家と家のあいだで、何かがまだ場所を探している。
俺はノートの最後の行へ、ゆっくり書きつけた。
――ミツエは、土を埋めたのではない。戻した。 ――戻すべき場所を、祖母は知っていた。 ――父は、俺が知る順番を決めようとしている。
書き終えたとき、仏壇の奥で白菊の花弁が一枚、音もなく落ちた。
花瓶の水は、減っていなかった。
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