第5話 障子の向こうの沈黙

朝の光は、まだ本気を出す前の熱を孕んでいた。
俺は仏間の敷居をまたいで台所へ向かう途中、廊下の途中で足を止めた。窓の外では、蝉の声がすでに一日分の体力を使い切ろうとするように鳴き立てている。台所からは、いつもと同じ味噌の匂いが漂ってきていたが、その匂いの底に、昨夜の湿った土と草の匂いがまだこびりついているような気がして、俺は鼻の奥を軽く押さえた。
裏口の戸が開く音がした。父はすでに家の外回りを見て歩いていた。作業着の背中に朝露が薄く光っている。縁側の板を一枚ずつ踏みしめ、軋みのある箇所を探すたびに、屈み込んで手を這わせる。指の背で木肌をなぞり、時折うなずく。誰に見せるためでもない、長年繰り返してきた儀式のような点検だった。
俺が仏間から出てきたのに気づくと、父は何も聞かなかったふうに土間へ入り、湯を沸かし始めた。茶を淹れる手つきは、いつもと変わらず無骨で、だが今朝は妙に静かだった。湯呑みを差し出す指先に、微かな緊張がある。俺はそれを見逃さなかった。何かを確かめるための沈黙ではなく、何かに耐えるための沈黙だった。
「気にしすぎだ」
それだけ言って、父は道具箱から木槌を取り出し、仏間の障子の立てつけを直しはじめた。かん、かん、と乾いた音が、午前の熱を含んだ空気に鈍く落ちる。俺はその音を聞きながら、湯呑みの中の茶が冷めていくのを、ただ見ていた。
「向きが変わってるのは、俺の気のせいじゃない」
「気のせいだと言った」
「昨日より右に六度、今朝はまた戻ってる。白菊は水があるのに枯れる。台座には泥がつく。縁側の下からは、草を引きずるような音がする。これが全部、気のせいなのか」
父の手が、木槌の頭を打つ位置から一瞬だけ逸れた。だがすぐに元の場所へ戻り、かん、と音を立てた。
「古い家だ。隙間もある。虫も入る。音がすることぐらい、珍しくもない」
「虫が土を運んで、位牌の台座に挟み込むのか」
「知らん」
「知らないのに、なぜ答えを持っているみたいな顔をする」
父の手が止まった。障子の桟に木槌を当てたまま、しばらく動かなかった。俺は、その背中の広さと、そこに滲む疲労のようなものを、初めて意識して見た気がした。父はいつも家の外側を直す。屋根、樋、縁側、井戸のポンプ。壊れる前に手を入れることを、誇りのように語る人だった。だが仏間にだけは、必要以上に長居しない。位牌に目をやるときも、それは一瞬で、すぐに視線を逸らす。
「父さん」
俺はもう一度呼びかけた。父の背中が、ほんの少し強張るのが分かった。
「祖母ちゃんが亡くなる前、最後の夜に何があったんだ」
その問いを口にした瞬間、台所の湯気の匂いが急に遠のいたように感じた。父は木槌を桟から離し、代わりにその手で自分の首の後ろを一度だけ撫でた。感情を整理するときの癖だと、俺は昔から知っていた。
「何もない」
「何もないなら、なぜ今、その手が止まった」
父はゆっくりと振り返った。目の下に、俺がこれまで見たことのない色の隈があった。眠れていないのだと、そのときようやく気づいた。父も、あの縁側の下の音を聞いているのかもしれなかった。
「結人。お前は、俺が何かを隠していると思っている」
「隠していないと言い切れるのか」
「言い切れる」
「じゃあ、なぜ位牌に触れない。なぜ仏間で一分と座っていない。祖母ちゃんの葬式のときだって、父さんは誰よりも早く仏間を出ていた。俺は覚えている」
父は口を閉じ、しばらく黙っていた。俺は待った。答えを急かすことが、この沈黙をさらに固くしてしまうことを、経験のどこかで知っていた。祖母がよく言っていた。急いで開けると、中のものが驚くからね、と。あの言葉は箪笥のことだけを言っていたのではない気がした。
「怖いからだ」
ようやく父が言った。木槌を持つ手の力が抜け、道具が畳に軽く転がった。
「あの部屋に長くいると、婆さんが何をしていたか、思い出しそうになる。思い出したら、俺は多分、今までみたいに家を回っていられない」
「何を思い出すんだ」
「それを言えば、お前も同じものを見るようになる」
「もう見えている」
俺はその言葉を、なるべく静かに言った。怒鳴ることも、責めることもしたくなかった。ただ、これ以上、何も知らないふりを続けたくなかっただけだ。
「白菊が枯れるのも、位牌が動くのも、俺が見てしまった以上、なかったことにはできない。父さんが黙っていても、家の中で起きていることは止まらない。むしろ、父さんが黙っているせいで、俺は一人でそれと向き合っている」
父は障子の桟に手をかけたまま、風の抜ける先を見ていた。外では、庭の草がわずかに揺れている。風はほとんどないのに、その揺れだけが不自然に見えた。
「婆さんは、家の中の順番を守る人だった。花を替える時間、位牌の角度、障子を閉める向き。全部、意味があった。俺はその意味を、理由も分からんまま覚えさせられた。お前と同じだ」
「それを知っているなら、教えてくれ」
「教えたところで、お前が背負うものが減るわけじゃない」
「減らなくてもいい。何を背負っているのか分からないまま怖がるより、分かった上で怖がる方がまだましだ」
父はそこで初めて、俺の顔をまっすぐ見た。長い沈黙のあと、彼は静かに息を吐いた。
「今は言えない。言葉にした瞬間、崩れるものがある。それだけは、信じてくれ」
「信じろと言われても」
「お前を守るためだ」
その一言だけを残し、父は木槌を拾い上げ、また障子の桟へ向き直った。かん、と乾いた音が響く。それはもう「見るな」という合図ではなく、何かに耐えるための、父自身のための音のように、俺には聞こえた。
俺は湯呑みに残った茶を飲み干した。すでにぬるくなっていたが、口の中に苦味だけが長く残った。障子の向こうから、庭の草が擦れる、あの乾いた音がかすかに届いた気がした。
風は入っていない。それでも、何かが揺れている。
その日から、俺は父の沈黙を、以前より少しだけ違う目で見るようになった。それは諦めでも、拒絶でもなく、崩れることを恐れながらも、まだ何かを守ろうとしている人間の背中だった。
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