4話 布巾の縁に残るもの

祖母の遺品を台所へ運び出したのは、朝のうちだった。

盆を過ぎたというのに、山裾の空気は少しも涼しくならない。夜の熱が床下や柱の中に溜まり、朝になっても家全体がゆっくり息をしているようだった。俺は縁側の障子を半分だけ開け、そこから入る白っぽい光の下に、遺品を一つずつ並べた。

古い写真帳。帳面。供花の器。茶碗。糸巻き。何枚かの手ぬぐい。そして、薄い灰色に変色した布巾。

どれも美代の部屋から持ち出したものだった。勝手に触れることへのためらいはまだあったが、仏間の位牌が毎朝向きを変え、白菊が水を吸わずにしおれている以上、何もせずにいる方が不自然に思えた。

俺は濡らして固く絞った布で、遺品の表面を拭いた。

茶碗の底には、細かな土がこびりついていた。水で流してもすぐには落ちず、指の腹で円を描くように擦ってようやく薄くなった。祖母は庭仕事をしたあと、必ず手を洗ってから食器に触れた。爪の間に土が残っていると、台所の流しを二度使った。子どものころ、俺が泥だらけの手で茶碗を取ろうとしたときも、叱る代わりに手首をつかみ、黙って水道の前へ連れていった。

「手がきれいになるまで、器は待ってくれるからね」

そう言って、祖母は俺の指を一本ずつ洗った。

物が待つ、という言い方が好きだった。箪笥も、茶碗も、仏壇の花も、俺が手順を間違えれば黙って待っていてくれる。子どもの俺は、家にあるものがみな生き物のように感じられて、祖母の言葉を疑わなかった。

今は、その感覚が別の形で戻ってきている。

物が待っているのではなく、物の方がこちらを見ている。

俺はその考えを振り払うように、布巾を広げた。縁には細かな刺し子が施されていた。祖母は破れたものを捨てず、何度も縫い直して使った。白い糸の列は均一で、端から端まで同じ間隔で並んでいる。その縫い目を指でなぞっていると、一か所だけ硬いものに触れた。

布巾の角を裏返す。

糸の間に、黒いものが挟まっていた。

最初は煤だと思った。だが爪先で掻き出すと、細かな土の粒がぱらぱらと落ちた。乾いているのに、鼻を近づけると湿った草の匂いがする。裏手の小道で、昨夜聞いた音の下にある土。位牌の台座に残っていたものと、同じ匂いだった。

俺は指先を止めた。

布巾は台所で使うものだ。仏間に持ち込むことはあっても、庭の土を拭くためのものではない。祖母は台所の布巾を用途ごとに分けていた。食器用、調理台用、床用。床用のものは決して食器の近くへ置かなかった。

それなのに、なぜこの布巾の縁に土が残っているのか。

俺はノートを取りに立ち上がった。畳から台所へ移るわずかな段差で、足の裏に熱が伝わる。家の中にいるのに、土間へ降りたような冷たさが一瞬だけ足首を包んだ。

ノートを開き、時刻を書いた。

午前八時二十三分。晴れ。湿度は分からない。布巾の縁に黒土。匂いは裏手の小道に似る。

書き終えてから、俺は「似る」という言葉を二重線で消した。似ているのではなく、同じかもしれない。けれど、確かめるための土を俺は持っていなかった。

仏壇の台座に残っていた泥は、前の晩に拭き取ってしまった。指先に付着していた分も、朝の水仕事で流れている。

俺は布巾の端を小皿の上へ置き、縫い糸をさらに調べた。糸は土を包むように一度だけ絡まり、その先で切れている。何かを拭いたというより、布巾を土の上へ置き、そのまま引きずったような残り方だった。

そこへ、父が入ってきた。

「何をしている」

健介は玄関から作業着のまま上がり、台所の入口で立ち止まった。手には工具箱を提げている。朝からどこかの建具を直していたらしく、右手の親指に薄い油がついていた。

「遺品を見ている」

「見れば分かる」

父は並べられた物を一つずつ見た。写真帳、帳面、茶碗、器。視線が布巾のところで止まった。ほんの短い時間だったが、俺には分かった。

「それは戻せ」

「布巾の縁に土がついている」

「古いものなら、土くらいつく」

「台所の布巾に?」

父は工具箱を足元へ置いた。金具が小さく鳴った。

「婆さんは庭にも出ていた」

「庭へ出るときは、庭用の手ぬぐいを使っていた」

「全部を覚えているつもりか」

「覚えている。祖母が物を分けていたから」

「分けていた?」

「食器を拭く布巾と、床を拭く布巾。仏間の掃除に使う布も別だった。これは台所の棚に掛かっていた。土を拭くためのものじゃない」

父は返事をしなかった。工具箱の蓋を開け、中から金槌を出した。壊れてもいない柱を直すときのように、持ち手を布で拭きはじめる。

「父さんは、祖母が何をしていたか知っているんだろう」

「知らない」

「昨日もそう言った」

「知らないことは、何度聞かれても知らない」

「じゃあ、知っていることだけでいい。なぜ俺に遺品を見せたくない」

父は金槌の頭を拭きながら、目を上げなかった。

「遺品は見せたくないんじゃない。今、触る必要がないと言っている」

「必要があるかどうかを決めるのは父さんか」

「家のことだからな」

「俺もこの家に住んでいる」

「住んでいるだけなら、知らなくていいこともある」

「祖母の位牌が動いている。白菊が枯れている。台座に泥がつく。夜には裏庭から音がする。それでも、住んでいるだけだから知らなくていいのか」

父は金槌を置いた。油の匂いが、湿った朝の空気に混じる。

「お前が怖がると思った」

「もう怖がっている」

「そうは見えない」

「怖いから記録している」

自分で言ってから、声が思ったより大きかったことに気づいた。台所の窓の外で蝉が鳴き、父の沈黙を埋めるように音を重ねていく。

「怖いものを怖いと言って、誰かが説明してくれるなら、俺だってそうする。けれど父さんは、気のせいだと言って終わらせる。終わらせたあとで、障子を直して、庭を見回って、仏間へ入るときだけ足音を消す。それを見ているのに、俺が何も感じないふりをしろと言うのか」

「感じるなとは言っていない」

「言っているのと同じだ」

「違う」

「何が違う」

父は一度、口を閉じた。祖母の名を出されたときと同じ間があった。言葉を選ぶというより、口から出してはいけないものを押し戻しているようだった。

「婆さんは、長いこと家を整えていた。お前が小さいころから、朝は仏間へ行かせただろう」

「掃除の手伝いだと思っていた」

「そう思わせていた」

「なぜ」

「その方が、お前は覚えるからだ」

俺は布巾へ視線を落とした。

「何を」

父は答えなかった。

「何を覚えさせたんだ」

「物を乱さないことだ」

「それだけじゃない」

「それ以上は、婆さんに聞け」

「もう聞けない」

その言葉を口にすると、胸の奥に蓋が落ちたような感覚があった。祖母の死を、俺はまだ正しく口にできていなかった。美代さん、祖母、あの人。名前を避けることで、死んだという事実から少し離れていられる気がしていた。

父は視線を伏せた。

「だから、今は見なくていい」

「死んだ人に聞けと言うのか」

「聞く相手がいないなら、なおさら、残されたものを乱すな」

「残されたものを乱しているのは、俺じゃない。位牌の方だ」

父の手がわずかに動いた。

金槌の柄を握り直す。そこに力が入っているのが、指の節の白さで分かった。

「位牌は、触るな」

「動かしているのは俺じゃない」

「だからだ」

父はそれだけ言った。

意味を尋ねる前に、父は工具箱を閉じた。閉じる音が、台所の床下まで沈んでいく。

「布巾は捨てる」

「捨てない」

「結人」

「土が残っているなら、捨てる前に調べる。いつ、どこで、何を拭いたのか分かるかもしれない」

「分かっても、お前にはどうにもできない」

「どうにもできないから、知らなくていいと言うのか」

父は俺を見た。怒っているようには見えなかった。疲れている、と言う方が近い。ずっと何か重いものを持ち上げたまま、置く場所を失っている人間の顔だった。

「家は、知った人間から重くなる」

「知らない人間は軽いのか」

「軽いままでいられる」

「俺はもう軽くない」

父の目が、ほんの少し揺れた。

だが、何も言わなかった。

父が出ていったあと、俺は布巾を小皿から持ち上げた。縁に残った土は、指で触れると簡単に崩れた。粉になって落ちるはずなのに、いくつかの粒だけが黒く湿っている。鼻先へ近づけると、草の匂いの奥に、古い鉄のような臭いがあった。

布巾を裏返す。

刺し子の縫い目の一つに、細い白い糸が混じっていた。祖母の使う糸はいつも生成り色だったから、その糸だけが不自然に白く見える。引き抜こうとしたが、結び目が固く、布地の内側へ深く入り込んでいる。

俺は裁縫箱から小さな鋏を取り出した。刃を糸へ当てる。

その瞬間、仏間の方で器が触れ合う音がした。

かすかに、ひとつ。

俺は鋏を止めた。

台所から仏間までは、三歩ほどしかない。父が戻ってきた気配はない。障子は閉じたままで、縁側からの風も止まっている。

もう一度、音がした。

今度は、器ではなく、紙の擦れる音だった。

俺は布巾を置き、仏間へ向かった。

仏壇の前の白菊は、朝見たときより首を落としていた。花弁の重みで茎が折れ、白い花が一輪、位牌の台座へ寄りかかっている。花瓶の水は減っていない。水面には細かな埃も浮いていなかった。

だが、位牌の向きが変わっていた。

縁側の方角から、わずかに俺の方へ戻っている。

俺はノートを開いた。昨日までの記録を並べてみる。右へ六度。正面近くへ二度。左へ三度。今朝は、昨日より一度ほど内側。

その角度は、祖母が生前に置いていた位置と同じだった。

俺は写真帳を持ってきて、仏壇の脇に置かれた白い器と見比べた。器の縁、花瓶の口、位牌の背面。どれも正面に揃っていない。わずかに外れた場所へ向いている。

祖母は、すべてを少しずつずらしていた。

それは乱れではなかった。乱れないために、ずらしていた。

俺は白菊の茎を抜き、新しい花を器へ差した。手元が震えないよう、呼吸を数えた。一本。二本。三本。祖母がしていたように、茎の切り口を外へ向ける。花の首を正面から少しだけ外す。

何のためなのかは、まだ分からない。

ただ、そうするべきだという感覚だけが、指先に残っていた。

夕方まで、俺は遺品を調べ続けた。布巾の縁に残った土を紙へ移し、写真帳の頁を撮影し、帳面の端に書かれた日付を写した。向きを揃えるたび、祖母の手が自分の上に重なってくる。俺が布を折れば折るほど、あの人が隣で同じ動きを見ているようだった。

気のせいだ、と何度も思った。

それでも、布の端を折る位置は、昔から俺の手が知っていた。

夜になる前、俺は確認のために仏間へ戻った。白菊はもうしおれていた。水は減っていない。位牌は朝よりさらに少しだけ外側へ向いている。

その角度を記録しようとして、俺は筆記具を止めた。

位牌の台座の下に、白い糸が挟まっている。

台所で見つけた布巾の縁にあったものと、同じ糸だった。

俺は手を伸ばさず、まずノートに書いた。

午後八時十一分。位牌、正面より四度外側。台座の下に白糸。白菊、著しく萎凋。水位変化なし。

書き終えると、仏間の外で草が擦れた。

ざり、と一度。

俺は顔を上げた。

今度の音は、遠くなかった。縁側の下ではなく、仏間の敷居のすぐ向こう側から聞こえた。

障子の向こうに、何かがいる。

俺は布巾を握りしめた。乾いた布地の縁に、土のざらつきが残っている。祖母が何度も洗い、何度も縫い直した布の端。その内側に、まだ見つけていないものがある気がした。

糸の結び目を切れば、何かが出てくる。

けれど、出てきたものを元へ戻せるとは限らない。

俺は鋏を持ったまま、仏間の前で立ち尽くした。障子の下には、細い影があった。人の足元のようにも、伸びた草の影のようにも見えた。

影は動かなかった。

それでも、位牌だけがゆっくりと、縁側の方へ顔を向けていった。

俺は布巾を胸元へ引き寄せ、ノートの余白に新しい行を書いた。

――祖母は、布の中にも何かを残している。

← 横にスクロールして読み進められます

布巾の縁に残るもの - 夜の位牌 - 誰でも作家life