第3話 祖母の箪笥

祖母の部屋は、四十九日を過ぎても片づけられないままだった。
片づけられないというより、父が片づけようとしなかった。仏間の隣にある六畳間には、美代が最後に使っていた座布団が敷かれ、読みかけの新聞が文机の上に置かれている。湯呑みはさすがに下げられていたが、畳の上には細い白い糸が一本落ちていた。俺はそれを拾い上げ、指先で伸ばしてから、文机の端に置いた。
何も捨てられていない。
父は「そのうちやる」と言っていたが、そのうちは来なかった。近所から香典返しの礼を言われれば頭を下げ、寺から書類が届けば目を通し、壊れた雨樋があれば脚立を出す。家の外側にあるものは手早く直すくせに、祖母の部屋の襖だけは、いつも半寸ほど開いたままにしていた。
閉めると、何かが終わってしまうとでも思っているようだった。
俺自身も、そこへ入る理由を探していた。位牌が夜ごと向きを変え、白菊だけが水を吸わずにしおれていく。縁側の下から草を裂く音が聞こえ、朝になると仏壇の台座に泥がついている。そのどれも、祖母が生きていたころにはなかったことだ。
けれど、変わったのが死後の家だけなのか、それとも祖母がいなくなったことで、今まで見えなかったものが見えるようになったのか、俺にはまだ判断できなかった。
判断できないとき、俺は物を並べる。
位置を揃え、数を数え、順番を確かめる。そうすれば少なくとも、自分の記憶がどこまで正しいのかを測れる。仏間の異変についてノートをつけ始めたのも、そのためだった。
午後になっても気温は下がらず、祖母の部屋には古い木と防虫剤の匂いがこもっていた。窓を開けると、山の斜面から湿った風が入り、障子の紙が膨らんだ。遠くで草刈り機の音がしていたが、音は途中で途切れ、代わりに蝉の声が部屋いっぱいに広がった。
俺は箪笥の前に座った。
六段ある桐の箪笥は、祖母が嫁に来たときから使っていたものだと聞いている。表面は日に焼けて薄茶色になり、引き手の金具だけが何度も磨かれて黒く光っていた。俺は一番上の引き出しに手をかけた。
すぐには開けなかった。
生前、祖母はこの箪笥を開けるとき、必ず手を乾いた布で拭いていた。料理の途中でも、庭仕事のあとでも、指先に水気や土が残っていると、引き出しに触れなかった。子どもの俺が勝手に開けようとすると、叱ることはせず、横から手を添えて引き手の角度を直した。
「急いで開けると、中のものがびっくりするからね」
そう言って、祖母は笑った。
当時は、物がびっくりするという言い方がおかしくて笑い返した。今思えば、祖母は物の中に残るものを、俺よりずっと真面目に扱っていたのだと思う。
引き出しを開けると、乾いた木の擦れる音がした。
中には手ぬぐいが四枚、白い糸巻きが二つ、古い裁縫箱、供花を包む薄紙が入っていた。手ぬぐいは柄ごとに畳み方が違い、糸巻きは太さの順に並んでいる。俺は一度、全部を取り出してから、同じ場所へ戻した。
手ぬぐいの角を揃える。糸巻きの向きを揃える。裁縫箱の蓋を閉め、引き出しの奥にできた隙間を目で測る。
いつもの俺なら、それで落ち着いたはずだった。
だが、引き出しの奥の板に、細い擦り傷がいくつもついているのに気づいた。傷は左右に走っていた。何度も同じ場所へ何かを押し込んだときにできる傷だ。しかも、薄紙の束を置いていた場所だけ、埃が少ない。
祖母はここを何度も開けていた。
亡くなる前に、ではない。少なくとも、箪笥の中を整理した四十九日の片づけの際、父が触れた様子はなかった。父は遺品に手をつけるとき、まず俺に声をかける。自分一人で開けるのを避けているようだった。
俺は二段目、三段目と引き出しを開けた。
衣類の間に、古い写真帳があった。角が擦れ、表紙の布がところどころ毛羽立っている。開くと、若いころの祖母、まだ髪の黒い父、庭先で撮った親戚の集合写真が順に出てきた。
最後の頁に、俺の写真が挟まっていた。
小学校へ上がる前の俺が、仏間の前で小さな箒を持っている。頬は今より丸く、片方の靴下がずり落ちていた。祖母は俺の後ろにしゃがみ、右手を仏壇の方へ伸ばしている。何かを指しているように見えた。
写真を傾けて見る。
祖母の指先は、俺の持つ箒ではなく、仏壇の脇に置かれた白い器を示していた。器の中には何もない。ただ、その向きだけが妙に外れている。
「掃除を手伝っていたんじゃない」
声に出すと、自分の声が他人のもののように聞こえた。
俺は写真の裏を見た。日付と、祖母の字で短い言葉が書かれている。
――結人、手順を覚える。
鉛筆で書かれた文字は薄く、途中で消しゴムをかけた跡があった。俺は指先でその跡をなぞった。祖母は一度書いたものを消すことが少なかった。帳面の数字を間違えても、線を引いて横に書き直す人だった。
なぜ、この言葉だけ消そうとしたのか。
写真帳を膝に置いたまま、俺は三段目の奥へ手を伸ばした。指先に紙が触れた。衣類の下ではなく、箪笥の底板と引き出しの隙間に挟まっている。
引き抜くと、細長い和紙が出てきた。
位牌の裏へ貼るためのものだと、見れば分かった。俺が毎朝確認している位牌の背面と、ほとんど同じ幅だった。紙には細い線が何本も引かれ、端には墨の滲みがある。線は単なる罫線ではなく、角度を示すための印のように見えた。中央から少し外れたところに、黒い点が一つ置かれている。
正面ではない。
正面から、わずかに外した場所。
その考えが浮かぶと、仏間の位牌が頭の中に現れた。夜のあいだに動く位牌。縁側の方角へ向きを変える位牌。誰かが触れたのではなく、何かを避けているような向き。
和紙の裏には、祖母の筆跡で日付が書かれていた。
四十九日の三日前。
俺は息を止めた。
さらに奥から、硬いものが当たる音がした。手を入れると、薄い木箱が出てきた。蓋には鍵がない。だが、開ける前から墨と古い油の匂いがした。
中には黒ずんだ祈祷札が一枚、布に包まれていた。
札の表には、見慣れない墨書きがある。寺で見かける札に似ていたが、法要のためのものではなかった。文字は縦に並び、最後の一画だけが異様に強く押しつけられている。紙の繊維がそこだけ潰れていた。
札を持ち上げると、裏に小さな丸印があった。
その丸印は、仏壇の台座の裏に刻まれていたものと同じだった。
俺は立ち上がり、祈祷札を持ったまま仏間へ向かった。廊下には昼の熱がこもり、足の裏からじわじわと熱が上がってくる。仏間の敷居をまたぐと、空気が変わった。窓は開いているのに、そこだけ湿気が滞留している。
位牌は、朝に見たときより少しだけ縁側の方角を向いていた。
俺は台座の下へ指を入れた。乾いた木の感触がある。次に、泥のざらつきが指の腹へ移った。
祈祷札を台座の横に置き、俺は祖母の部屋へ戻った。
そのとき、背後で仏具が小さく鳴った。
ちり、と一度。
振り向くと、位牌は動いていなかった。白菊の花弁が一枚、音もなく落ちている。花瓶の水は減っていない。落ちた花弁だけが、畳の上で湿った白さを保っていた。
俺はそれを拾い上げ、掌に乗せた。
祖母の手のひらを思い出した。冬でも温かかった手。俺が箒を逆さに持てば、何も言わずに持ち直させた手。菊の茎を切るとき、切り口を必ず外側へ向けた手。
あの細かさは、性格ではなかったのかもしれない。
すべてに理由があったのだ。
夕方、父が帰ってきた。作業着の肩に草の種がいくつかついている。玄関で靴を脱ぐ前に、父は裏庭の方を見た。それから俺の顔ではなく、俺の手にある祈祷札を見た。
父の動きが止まった。
「それ、どこにあった」
「祖母の箪笥」
「戻せ」
「何の札だ」
父はすぐに答えなかった。玄関の土間へ落ちた草の種を、靴先で隅へ寄せる。いつもの癖だった。目についたものを片づけてからでないと、話を始められない。
「聞こえなかったのか。戻せ」
「位牌の裏に貼る紙も出てきた。線が引いてあった。四十九日の三日前の日付まで書いてある」
父の手が止まった。
「祖母は、何をしていたんだ」
「美代さんは、何もしていない」
父はそう言ってから、口を閉じた。祖母を名前で呼ぶときだけ、父の声には家の中で使う声とは違う温度が混じる。低く、押し込めるような響きだった。
「していないなら、どうしてこんなものを隠していた」
「隠していたんじゃない。しまっていただけだ」
「同じだろ」
「同じじゃない」
父は祈祷札を俺の手から取ろうとした。俺は反射的に一歩下がった。父の指が空をつかむ。
「結人。お前は、物を見つけると、それが自分に何かを言っていると思い込む癖がある」
「位牌が動いている。花は水があるのに枯れる。台座には泥がついている。これも全部、俺の思い込みなのか」
「家は古い。隙間もある。風が入れば物は動く」
「風が入るなら、どうして花瓶の水は減らない」
父は黙った。
俺はその沈黙を見逃さなかった。父が答えを探しているのではない。答えを言わないための場所を探している。
「父さんは知っているんだろう」
「知らない」
「じゃあ、なぜ祖母の箪笥を見た瞬間に、札を戻せと言った」
「知らないものを触るなと言っているだけだ」
「知らないなら、触っても困らないはずだ」
父は目を伏せた。手に持った鍵束が、指の間で小さく鳴った。玄関の外から、夕方の蝉が途切れ途切れに聞こえてくる。庭の草が風に擦れたような音もしたが、風は家の中まで入ってこなかった。
「婆さんはな、家の中のものを動かす順番を決めていた」
父が言った。
「箪笥を開ける順番、花を替える時間、障子を閉める向き。そういうものを全部、決めていた。お前はそれを見て育った。だから、変なものが動くとすぐ気づく」
「それだけか」
「それ以上はない」
「なら、どうして今まで一度も説明しなかった」
父は少し笑った。笑ったというより、顔の片側だけがかすかに歪んだ。
「説明したら、お前は聞く。聞いたら、見に行く。見に行ったら、戻れなくなる」
「何に」
父は祈祷札へ視線を落とした。
長い沈黙のあと、父は札を受け取った。ただし、文字の面には触れず、端だけをつまんだ。
「祖母さんは、お前を怖がらせたくなかった」
「俺を守るために隠したのか」
「そうだ」
「それで、今こうなっている」
父の喉が動いた。
「守るというのは、何も知らせないことじゃない」
「お前に何が分かる」
初めて、父の声が荒れた。怒鳴ったわけではない。だが、長年閉められていた戸が内側から少しだけ外れたような音だった。
「家はな、壊れてから直すんじゃ遅い。音が変わった時に、床板を外しておく。雨漏りが染みになる前に屋根へ上がる。人も同じだ。壊れる前に、見ない場所を作ってやることがある」
「見ない場所を作るのと、見せないのは違う」
「お前にはまだ分からない」
「分からないから聞いている」
父は札を握りしめた。紙がわずかに鳴った。
「祖母さんは、お前に余計なものを渡さなかった。それだけだ」
父はそれ以上、何も言わなかった。札を持ったまま仏間へ入り、位牌の脇に置こうとしたが、途中で手を止めた。
置く場所が分からないのだ。
俺はその事実を見てしまった。父はしきたりを知っているのではなく、知っているふりを続けていた。祖母が生きているあいだは、祖母の手つきを真似ればよかった。けれど、祖母がいなくなった今、父の手はどこへ伸ばせばいいのか迷っている。
父は札を俺へ返した。
「今夜は、仏間へ入るな」
「理由を言ってくれ」
「言わなくてもいいことがある」
「またそれか」
「そうだ」
父は玄関へ戻った。草の種を寄せた場所へ、もう一度目をやる。何かがそこに残っていないか確かめるような視線だった。
夜になっても、暑さは抜けなかった。
俺は祖母の部屋で、祈祷札と和紙を机の上に並べた。紙片の黒い点、札の裏の丸印、写真の裏に残る「結人、手順を覚える」という文字。三つを横に置くと、ばらばらだったものが、同じ方向を向いているように見えた。
仏間から、扇風機の羽音が聞こえてくる。
父はもう眠ったはずだった。けれど、縁側の方で一度だけ床板が鳴った。誰かが歩いた音ではない。重みをかける前に、板の方が先に軋んだような音だった。
俺は机の上の和紙へ手を伸ばした。
細い線の一つが、今朝見た位牌の角度と一致している。
正面から外れた角度は、ずれではなかった。
祖母が、そこへ置いていた。
何かを避けるために。あるいは、何かを家の中へ入れないために。
そのとき、縁側の下から音がした。
ざり、ざり、と草を引きずる音。
今夜の音は、昨日より近かった。
俺は祈祷札を握ったまま、仏間の方を見た。障子の向こうで、位牌がゆっくりと角度を変えたように見えた。白菊の影が揺れ、花瓶の水面がかすかに震える。
父の言葉が、遅れて胸の中へ戻ってきた。
――見に行ったら、戻れなくなる。
それでも俺は立ち上がった。
祖母が隠したものを、また同じ場所へ戻すためではない。何を見ないように育てられてきたのかを、確かめるためだった。
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