2話 縁側の下の音

その夜、扇風機の羽音が部屋の熱をかき回しても、暑さは引かなかった。

風は起きている。けれど、どこへも行かない。羽根の前で生まれた空気が、畳の上を這い、俺の首筋を撫でて、それきり同じ部屋へ戻ってくる。汗ばんだシャツが背中に貼りつき、布団へ入る気にもなれず、俺は仏間と縁側の境に近い畳の上へ寝転がっていた。

天井の木目を見ながら、柱の傷を数えた。

一本。二本。三本。

祖母が生きていたころからある傷だった。俺が小学生のとき、台風で倒れた物干し竿が当たった跡。祖母はその傷を見つけたとき、怒るより先に濡れ布巾を持ってきて、木屑を丁寧に拭き取った。それから指で何度も撫でて、これなら大丈夫、と言った。

何が大丈夫なのか、当時の俺には分からなかった。

今も分からない。ただ、柱の傷を数えていると、まだ家の中に祖母の手順が残っているような気がした。数を間違えなければ、何かもとの場所へ戻るような気がしていた。

四本目を数えたところで、音がした。

草を引きずるような音だった。

乾いていて、細かい。爪先で土の表面を裂くような、ざり、ざり、という音。最初は、風で庭の草が縁側の板に擦れているのだと思った。だが、風は吹いていなかった。扇風機の風は室内で渦を巻いているだけで、障子の紙は少しも動いていない。

音は、縁側の下から聞こえた。

俺は息を止めた。

ざり、ざり。

音が二度続き、そこでふっと途切れた。

家の板が軋んだのではない。鼠や猫が潜り込んだ音とも違う。もっと低いところ、地面のすぐ上で、何かが草を押し分けている。這っているのか、立っているのか、それさえ分からない。音だけが、板の隙間からこちらへ染み込んでくる。

俺は起き上がった。汗が冷えるより早く、背中の皮膚が粟立っていく。

もう一度、音がした。

今度は少し近かった。

縁側の下に何かいる。

そう考えた瞬間、仏間の方から、白菊の青臭い匂いが流れてきた。花瓶の水を替えたばかりなのに、腐りかけた茎を手の中で折ったときのような匂いがする。俺は仏間を見た。暗い部屋の奥で、位牌の輪郭だけが障子越しの月明かりに浮いていた。

あの向きが、また変わっているように見えた。

確かめる気にはなれなかった。だが、確かめないままにしておくこともできなかった。

俺は壁際に置いていた懐中電灯を取った。祖母が夜中にトイレへ行くとき使っていた、小さくて重いものだった。スイッチを入れると、白い光が畳を四角く切り取った。光の中に、俺の指の震えまで映った。

縁側へ続く障子を開ける。

湿った空気が顔にまとわりついた。外は暗く、庭の草だけが月明かりを含んで薄く揺れている。裸足で板張りの縁側へ出ると、昼間に焼けた木の熱がまだ足裏に残っていた。けれど縁側の端へ近づくにつれ、その熱は急に失われていった。

板の隙間から懐中電灯を差し入れる。

蜘蛛の巣。乾いた葉。泥のついた古いサンダル。

それだけだった。

俺は光をゆっくり動かした。縁側の下は思っていたより深く、奥が暗がりに沈んでいる。光の届かないところで何かが身じろぎしたように見えたが、目を凝らしても形はなかった。

ざり、と音がした。

今度は背後だった。

俺は振り返った。

庭の向こう、裏手の小道へ続く草むらが、わずかに開いている。風ではない。細長い葉が何本か、内側から押し倒されたように傾いていた。

その先に、小野寺家の裏庭がある。

隣家との境には古い板塀が立っているが、ところどころ腐って隙間ができている。昼間なら向こうの物干し台や、使われていない犬小屋まで見える。夜になると、板塀の向こうは庭なのか山の斜面なのか分からなくなる。

その暗がりの中に、薄い灯りがにじんでいた。

明かりというより、濡れた紙の裏から漏れる色だった。黄色く、弱く、輪郭がない。蚊帳の向こうに置いた蝋燭を遠くから見ているようで、光源がどこにあるのかも分からなかった。

小野寺家には、夜更けまで起きている人間はいないはずだった。ミツエは八十を越えている。夕方には必ず戸締まりをし、朝はまだ暗いうちから表の掃き掃除をする。近所の者なら誰でも知っている生活の型だった。

なのに、今夜は裏庭に灯りがある。

俺は縁側から降りなかった。降りれば、湿った土が足裏にまとわりつく。草の葉が脛に触れる。何かが潜んでいる場所へ、自分から足を入れることになる。

「誰か、いるのか」

声に出してから、ひどく間抜けな問いだと思った。

返事はなかった。

灯りが、わずかに揺れた。

それから、草を踏む音がした。

ざり、ざり、ざり。

小道の奥から、こちらへ向かってくる音だった。

俺は懐中電灯を消した。暗闇に目が慣れるまで、何も見えない。扇風機の羽音が背後で回り続け、蝉の声は遠くで途切れ途切れになっていた。音が近づくたび、俺は自分の呼吸まで大きくなっていくのを感じた。

草むらの縁が、ひとつ揺れた。

その向こうに、人の頭ほどの黒い塊が見えた気がした。

俺は反射的に一歩下がった。縁側の板が、き、と鳴った。

音が止まった。

灯りも消えた。

闇だけが残った。

しばらく、俺は動けなかった。耳を澄ますと、遠くで犬が一度吠えた。隣家の屋根から、何か小さなものが落ちた。乾いた音がして、すぐに静かになった。

その静けさの中で、俺は祖母の声を思い出した。

――音が止まったら、見に行かなくていいからね。

いつ聞いた言葉なのか分からない。子どものころ、縁側で昼寝をしていたときかもしれない。山の方で雷が鳴った夜かもしれない。祖母はそう言って、俺の肩に薄い布団をかけた。理由を訊くと、聞こえないふりをするのも大事なんだよ、と笑った。

その笑い方まで思い出したところで、俺は急に腹が立った。

今さら、そんなことを思い出して何になる。

俺は祖母の死について、何も知らない。死の前夜、仏間で何をしていたのかも、なぜ最後まで誰にも知らせずに花を替えていたのかも。四十九日が済めば、祖母の役目も終わったのだと思っていた。弔いが終わり、家の空気も少しずつもとに戻る。そう信じたかった。

けれど、この家はもとに戻っていない。

祖母がいなくなったあとも、仏壇の花だけが毎朝死んでいく。位牌だけが、誰かの目を避けるように向きを変える。そこへ今度は、隣家の裏庭から音がやってくる。

俺は懐中電灯を点け直し、草むらへ光を向けた。

何もない。

ただ、道の中央に細い溝が続いていた。草が左右へ倒れ、湿った土が露出している。誰かが歩いた跡のようにも見えたが、足跡はなかった。溝は小道の奥から久世家の縁側まで伸び、途中で急に途切れている。

俺はそこで初めて、足元に視線を落とした。

縁側の板の下、暗がりの中に、白いものがひとつ見えた。紙の切れ端かと思ったが、光を当てると、細い草の茎に泥が絡みついているだけだった。

それでも、その草は庭に生えているものとは違っていた。葉の縁が鋭く、茎に青黒い筋がある。俺は手を伸ばしかけ、やめた。

祖母なら、すぐには触らなかったはずだ。

まず見る。次に匂いを確かめる。それから、置かれていた向きを記録する。

そう考えた自分に、胸の奥が重くなった。祖母の真似をしているのか、それとも、俺がずっとそうするように育てられていたのか。どちらなのか分からなかった。

結局、その夜は草を拾わず、縁側の戸を閉めた。

部屋へ戻る前、仏間の前を通った。暗がりの中で、位牌は正面を向いていた。少なくとも、俺にはそう見えた。

正面を向いている。

そのことが、なぜか不吉だった。

俺は灯りを点けず、仏壇から少し離れたところに立った。白菊の花弁が、暗闇の中で濡れた歯のように白く浮いている。花瓶の水面は見えなかったが、そこから冷たい湿気が上がってくるのが分かった。

位牌の正面に立っていると、こちらが見られているような気がした。

俺は目を逸らし、布団へ戻った。眠れないまま、扇風機の羽音を聞き続けた。しばらくして、縁側の下からまた音がした。

ざり、ざり。

今度は、家の内側から聞こえた。

翌朝、俺は目を覚ますと、すぐに仏間へ向かった。

障子越しの光は白く、湿っていた。夜の熱が抜けないまま、部屋の隅に溜まっている。線香の灰は昨夜の位置に残っていた。誰かが入った形跡はない。

それでも、位牌は動いていた。

昨日よりも正面から外れている。右へ向いた角度は、目測で六度ほど。俺はノートを開き、時刻を書いた。手が震えて、数字の七が少し歪んだ。

白菊はさらにしおれていた。花瓶の水は、やはり減っていない。

俺は花瓶へ手を伸ばした。指先が水面に触れる。冷たいと思った。だが次の瞬間、ぬるいことに気づいた。水の底に、何か硬いものが触れた。

俺は花を抜き、花瓶を傾けた。

透明な水の中から、細い草の切れ端が一つ、滑り落ちた。

その草には、黒い土がまとわりついていた。

俺はしゃがみこみ、位牌の台座を見た。裏側の乾いた木肌に、泥がこびりついている。台座の下には、昨夜縁側で見たものと同じ青黒い草が挟まっていた。

誰が、いつ、どうやってここへ入れたのか分からない。

俺は草をつまみ上げた。湿った土の匂いに、強い青臭さが混じっている。雨上がりの裏手の小道で、踏み分けたばかりの草が放つ匂いだった。

そのとき、仏間の閉まった戸の向こうで、かすかな金属音がした。

ちり、と一度だけ鳴った。

風鈴ではない。仏具の鈴とも違う。もっと小さく、薄い金属片を爪で弾いたような音だった。

俺は顔を上げた。

仏間には俺しかいない。

それなのに、音はもう一度、今度は背後から聞こえた。

ちり。

振り返っても、何もなかった。

ただ、縁側へ続く障子の下に、細い泥の線が伸びていた。仏間の敷居を越え、俺の足元まで来て、そこで途切れている。

俺はその線を見つめたまま、指先に残った草の冷たさを感じていた。

家の内と外が、見えない糸でつながっている。

その考えが浮かんだとき、背筋がこわばった。糸の片方は裏手の小道へ、もう片方は仏壇の位牌へ結ばれている。誰かが外から引けば、位牌が向きを変える。位牌が向きを変えれば、家のどこかで草が擦れる。

そんな想像を、俺は馬鹿げていると思いながら、ノートの余白に書き留めた。

「仏間と裏手の小道、連動?」

書いた文字を見ているうちに、祖母の筆跡が頭に浮かんだ。帳面の端を揃えるときの癖。花の茎を少し外へ向ける手つき。何かを聞いたあと、すぐには返事をせず、家の中の音を確かめるように黙る時間。

祖母は、あの音を知っていたのではないか。

俺は位牌へ視線を戻した。

今朝の位牌は、俺の方を向いていなかった。俺から少し外れ、縁側の方角へ顔を向けている。そこにあるものを見ないようにしているのか、あるいは、俺に見せないようにしているのかは分からない。

ただ、その向きには初めて、理由があるように思えた。

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縁側の下の音 - 夜の位牌 - 誰でも作家life