1話 朝のずれ

祖母・久世美代の四十九日が過ぎたばかりの朝だった。八月に入っても山裾の風はろくに動かず、久世家の平屋には昨日までの熱がそのまま居座っている。俺は仏間の敷居の前で足を止めた。理由はすぐには分からなかった。ただ、いつも通りすぎるはずの一歩が、今朝に限って止まってしまったのだ。

視線の先には仏壇があった。祖母の位牌、白い菊、線香立て。何も変わっていないように見える。だが目が慣れてくるにつれ、俺は自分の呼吸が浅くなっていくのに気づいた。

白菊が、また前夜よりひどくしおれている。花弁の縁が茶色く縮れ、茎の先端はくたりと折れかけていた。昨日の夕方、俺はたしかに水を替えたはずだった。花瓶に指を入れて水位を確かめる。減っていない。むしろ満ち足りているくらいだった。

水があるのに、花だけが死んでいく。

その事実を頭の中で繰り返しても、意味が像を結ばない。俺はしゃがみこみ、位牌の前に膝をついた。木の座布団はまだ祖母が座っていたときの跡がうっすら残っているような気がして、いつもそこだけは避けて座る癖がついていた。

位牌をまっすぐ見る。昨日、たしかにここに正対させた。俺の記憶が確かならば、位牌の正面は仏壇の奥の壁と平行になっていたはずだ。だが今、位牌はほんの数ミリ、右にずれている。角度にすれば、五度にも満たないだろう。素人目には気づかないほどの、些細なずれだ。

けれど俺は、毎朝同じ向きに手を合わせてきた。祖母が生きていたころから、位牌の前で膝をつく角度も、視線の高さも、ほとんど変えたことがない。だからこそ、そのわずかなずれは、喉の奥に小石でも詰まったような違和感になって残った。

見なかったことにできればよかった。だができなかった。

俺は自分の部屋からノートを持ってきて、仏間の畳の上で開いた。使い込んだ表紙の隅がめくれている、大学のノートを転用したものだ。ページの上に、時刻、天気、位牌の角度、白菊の状態を書きつけていく。几帳面すぎると父には笑われたことがあるが、こうして残しておかないと、目の前の家がいつの間にか別の形に変わってしまうような気がしてならなかった。何かが起きているとき、それを最初に疑うべきなのは、自分の記憶のほうだと知っていたからだ。

台所からは味噌汁の匂いが漂ってきた。母屋に染みついた出汁の匂いは、祖母が生きていたころと変わらないはずなのに、どこかよそよそしく感じる。湯気の立ち方がやけに静かで、木の器が触れ合う音だけが、朝の静寂の中で不自然に大きく響いていた。

朝食の席で、俺は父に位牌の話をした。父――久世健介は箸を止めることもなく、味噌汁の椀を口元に運びながら、ちらりとだけこちらへ目をやった。

「向きが変わってるんだ。毎朝、少しずつ」

「気のせいだろう」

短く、それだけだった。父は箸を置き、湯呑みに残った茶を飲み干すと、立ち上がって縁側のほうへ歩いていった。何かの用事を思い出したかのような自然さで、その足取りには迷いがなかった。俺は椀を持ったまま、父の背中を見送るしかなかった。

その後を追うように仏間まで行くと、父はすでに木槌を手にして、障子の立てつけを直し始めていた。かん、かん、と乾いた音が薄い空気に落ちる。夏の朝の湿った光の中で、その音だけが妙に硬質に響いた。

「聞いてるのか」

「聞いてる」

父は障子の桟に木槌を当てながら、そっけなく答えた。その手つきはあまりに慣れていて、迷いがなく、俺はそれが余計に腹立たしかった。気のせいだと言い切るなら、なぜ仏間にわざわざ入ってきたのか。なぜ位牌に一瞬でも目をやったあと、それ以上は見ようとしないのか。木槌の音は、まるで「もうそれ以上見るな」と戸口に打ちつけられているようだった。

「父さん」

俺は仏間の入り口に立ったまま、もう一度呼びかけた。父の背中がわずかに強張るのが分かった。だがそれ以上、言葉は出てこなかった。何を言えばいいのか、俺自身にも分からなかったからだ。「位牌の向きがおかしい」という一言は、あまりにも些細で、あまりにも重かった。口にすればするほど、自分が神経質な人間に見えてくる気がして、俺は結局それ以上何も言わずに、仏間を出た。

けれど、その日から俺は毎朝、位牌と白菊の様子を記録するようになった。

朝はわずかに右へ。翌朝は正面に近く戻っている。三日目にはまた少し左へ。まるで振り子のように、位牌はそのつど角度を変えていた。揺れ方には何か規則があるようにも見えたが、誰が、いつ、どうやって動かしているのかは分からない。夜のあいだに家の中を歩く者などいないはずだった。父は早く寝るし、俺自身も眠りは浅いほうだが、物音で目を覚ますことはあっても、誰かが仏間に入る気配を感じたことは一度もなかった。

夜、布団に入ってからも、俺は何度も仏間の戸を振り返った。実際に体を起こして見に行くこともあれば、ただ耳を澄ませるだけのこともあった。そのたびに、祖母の笑い方を思い出そうとした。台所で味噌を溶きながら見せていた横顔。庭先で白菊の茎を鋏で整えるときの、指先の静かな動き。手のひらの温かさは、まだ覚えているはずだった。祖母に頭を撫でられた感触、布団をかけ直してくれる手つき――それらは記憶というより、皮膚に刻まれた感覚に近かった。

だが、思い出そうとすればするほど、仏間の静けさが違うものに見えてくる。

かつては、祖母がそこにいるという事実だけで、あの部屋の空気は温かかった。線香の匂いも、畳の目に沈んだ埃も、すべてが生活の延長にあるものだった。それが今は、何かの装置のように思えてならない。何かが、あの部屋の中でまだ動いている。動いているのに、家族の誰もそれを認めようとしない。

俺はノートのページをめくった。数字の羅列は、日を追うごとに増えていく。位牌の角度、白菊のしおれ具合、花瓶の水位――どれも、誰かに見せるためのものではなかった。ただ、自分の目が信じられなくなる前に、確かにそこにあったものを記録しておきたかっただけだ。

窓の外では、蝉の声が絶え間なく続いていた。うるさいほどの音の連なりの中で、俺はふと、その音の切れ目に何かが紛れ込んでいるような気がした。空耳だと思おうとしたが、耳の奥では、蝉の声とは違う、もっと乾いた擦過音の記憶が、すでに小さく芽吹きはじめていた。

その夜、俺はまだ知らなかった。この小さなずれが、家全体の秩序をゆっくりと引きずり出していくことになるとは。ただ、位牌の前で膝をつくたびに、俺は自分の姿勢が、いつもより少しだけ、深く前のめりになっていくのを感じていた。

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