9話 言わなかったこと、言えなかったこと

喫茶店の窓に灯りがともった。

薄いカーテンの向こうで、誰かが椅子を引く。木の脚が床を擦る音がして、閉じたままの店内に朝の気配が少しずつ満ちていく。湊はその音を聞きながら、飲み終えた缶を両手で包んでいた。

「昨日さ」

湊が言った。

「何度もメッセージを書いたって言っただろ」

「ああ」

「本当は、最初に『おめでとう』って打ったんだよ。そこまではすぐだった。おまえが推薦で行くって聞いたとき、すごいと思ったし、ちゃんと嬉しかった。俺が知ってる春翔なら、そこへ行ってもやれるって思った」

湊は缶の表面に残った水滴を、親指で一つずつ押しつぶしていた。

「でも、そのあとに何を書けばいいのか分からなくなった。『頑張れ』だけなら、他人みたいだろ。『寂しい』って書いたら、引き止めてるみたいだ。『戻ってこい』なんて、俺が言えることじゃない。だから、何も送れなかった」

「俺も、何も送れなかった」

「おまえの場合は、送る前に全部考えすぎるからだろ」

「考えないで送って、あとで後悔するよりいい」

「それで、今まで何を送れたんだよ」

返事が詰まった。

湊は笑いかけたが、すぐに笑うのをやめた。朝の光が、彼の横顔を薄く照らしている。目の下には眠れていない影が残っていた。

「言わないままなら、後悔しないと思ってたんだよ」

「俺も」

「でも、言わないままでも後悔するんだな。しかも、何を言わなかったのかまで、ずっと覚えてる」

その言葉が、胸の底へ沈んだ。

去年の大会で負けた帰り道、湊が何度も話しかけてきたことを思い出す。俺は何も返さなかった。湊は最後まで隣を歩いていたが、駅前の交差点で別れるとき、何かを言いかけて口を閉じた。

あのときも、俺たちは言わなかった。

言わなかったことは、消えるのではなく、言葉になる前の形で残る。床に落ちた汗の跡のように、乾いてもそこだけ色が違う。

「春翔」

「何だ」

「おまえは、俺が地元に残ることを、本当に何とも思わないのか」

湊は俺を見なかった。

「何とも思わないわけじゃない」

「じゃあ、何を思う?」

俺はすぐには答えられなかった。

こういうとき、俺はいつも相手の期待する答えを探してしまう。湊が安心する言葉。湊を傷つけない言葉。主将として、親友として、間違っていない言葉。

だが、どれも出てこなかった。

「最初は、置いていかれると思った」

湊の指が止まる。

「俺が?」

「違う。俺が、おまえを置いていくと思った」

「おまえが自分で行くのに?」

「そうだ。行きたい場所へ行くのに、そこからこぼれるものまで自分で選んでいる気がした。おまえとの時間とか、この町で過ごしたこととか。全部、持っていけないなら、置いていくしかないと思っていた」

「持っていけるだろ」

「簡単には持っていけない」

「じゃあ、簡単じゃないまま持っていけばいい」

湊はそこで、ようやく俺を見た。

「俺は、地元に残る。おまえは県外へ行く。毎日会えなくなる。試合のあとに商店街でアイスを食うことも、体育館の戸締まりを一緒にすることもなくなる。そういうのは、なくなるかもしれない。でも、なくなるものがあるからって、残ったものまで捨てる必要はないだろ」

「残ったものって、何だ」

「おまえが俺のことを知ってること。俺がおまえの三回のバウンドを知ってること。おまえが考えすぎて黙ることも、俺が怖いときにしゃべりすぎることも、もう知ってる。そういうのまで、大学へ行ったから消えるのかよ」

答えられなかった。

消えない。

消えないと言い切るには、未来は遠すぎる。けれど、消えると決める理由もなかった。変わることと失うことを、俺は同じものとして扱っていた。変わってしまうなら、失う前に諦めたほうが傷つかない。そう思っていた。

けれど、それは覚悟ではなく、先回りした諦めだった。

「俺は、行く」

俺は言った。

「県外へ行く。バスケットを続けたい。推薦で呼ばれたことを、怖いからなかったことにはしない。湊が残るからって、俺まで残ることもしない」

「うん」

「でも、湊が残ることを、俺の出発の邪魔だとも思わない。おまえがここで進むなら、俺も向こうで進む。どっちが先とか、どっちが正しいとかじゃない」

「うん」

「それで、離れても……」

喉が詰まった。

俺は一度、息を吸った。朝の空気には、出汁の匂いと湿った土の匂いが混じっている。冷えた缶を握ったまま、俺は続けた。

「離れても、俺たちが何をしているか、言い続ける。忙しくても、知らないままにしない。俺が向こうで失敗したら、失敗したと言う。おまえがこの町で何か始めたら、それを聞かせてくれ」

湊はしばらく黙っていた。

「毎日?」

「毎日は無理だ」

「週一?」

「約束はできない」

「おまえ、約束に厳しすぎるんだよ」

「守れない約束はしたくない」

「そうやって、守れるかどうか分からないことを全部言わずにいるから、俺は置いていかれたんだろ」

言葉が胸に刺さった。

「……そうだな」

「でも、今度は言った」

「うん」

「じゃあ、約束じゃなくていい。忘れたら、忘れたって言え。忙しくて連絡できなかったら、忙しかったって言え。格好つけて、何もなかったみたいにするな」

「分かった」

「俺も、寂しいときは寂しいって言う」

「言えるのか」

「努力する」

「努力するって、試合みたいだな」

「俺にとっては試合より難しいんだよ」

湊が笑った。

今度は、その笑いをすぐに引っ込めなかった。目元に疲れが残り、声にも少し掠れがある。それでも、笑い声は以前のように通りへ広がった。

安堵は長く続かなかった。

校舎の方角から、始業前のチャイムが短く鳴った。まだ集合時間には早いはずなのに、学校の時計は俺たちが思っていたより進んでいた。湊が腕時計を見て、顔をしかめる。

「やばい。もう行かないと」

「集合は七時だ」

「その前に準備があるだろ。おまえ、主将なのに時間の使い方が雑だな」

「おまえが話を長くした」

「おまえもだろ」

「俺は短い」

「どこが?」

湊が缶をゴミ箱へ入れる。軽い金属音が底で跳ねた。俺も隣へ缶を落とす。二つの音が少しずれて、狭い商店街の朝に消えていった。

喫茶店の扉が開いた。

白いシャツを着た店主が、店先へ水をまいている。細い水が路面へ広がり、昨夜の熱を薄く冷ましていく。湊はその様子を少しだけ見ていた。

「入らないのか」

「今日はいい」

「クリームソーダ、飲みたがってたろ」

「試合前に飲んだら、先生に怒られる」

「終わったら来るか」

「勝ったらな」

「負けても来いよ」

湊の声が止まった。

俺は自分でも、その言葉が出たことに驚いた。勝つことを条件にしない。負けたら会えない、負けたら戻れない、負けたら終わる。そんなふうに考えていた自分が、初めて勝敗の外側へ言葉を置いた。

「負けても?」

「負けたら、なおさら来い。ひとりで帰るな」

湊は俺を見た。

目の奥に、昨夜から残っていた緊張が少しほどける。けれど、完全には消えない。消えなくていい。怖さが残ったままでも、歩けることを俺はようやく知り始めていた。

「分かった」

湊は言った。

「じゃあ、負けてもクリームソーダな。店のおばちゃんに、今日は氷を増やしてもらう」

「また意味のないことを」

「意味はあるって。溶ける速度を遅くするんだよ」

「何の速度だ」

「いろいろ」

湊は笑い、先に歩き始めた。

俺はその背中を追った。

商店街のシャッターが次々に上がっていく。金属の擦れる音が、朝の通りに重なっていた。文房具店の店先では、昨日までなかった模造紙が立てかけられている。夏休みの催しの案内らしい。湊はそれを見つけると、歩きながら足を止めた。

「これ、去年より早いな」

「何が」

「祭りの準備。去年は八月に入ってからだった」

「よく覚えてるな」

「この辺のことは覚えてる」

「これからも?」

俺が訊くと、湊は看板から目を離した。

「これからも、覚えていく。変わるものもあるだろうけど、変わったことも含めて覚える」

その言葉を聞いて、俺は部室の寄せ書き入りボールを思い出した。残るとは、同じ景色を守ることではない。変わっていく景色を見届けることかもしれない。

湊はこの町に残る。

俺はこの町を離れる。

それでも、湊が見るものを聞き、俺が見るものを話すなら、俺たちの時間はどこかで続いていく。

「春翔」

「何だ」

「今日の試合、俺が先に走るから」

「いつもそうだろ」

「今日は、俺の意思で走る」

湊は前を向いたまま言った。

「おまえを引き止めるためじゃない。おまえに置いていかれたくないって、拗ねるためでもない。俺が勝ちたいから走る。俺が出したパスで、俺たちのチームを勝たせたいから走る。その先におまえがいるなら、そこへ出す」

俺は返事の前に、一拍置いた。

「俺も走る」

「どこへ?」

「おまえが出す場所へ」

「見えない場所でも?」

「見えなくても」

湊は足を止めた。

振り返った顔には、驚きと、少しの笑いが混じっていた。触れそうで触れない距離に立つ。朝の通りには人の気配が増え始め、店主の声や自転車のベルが遠く近くで重なっている。俺たちだけが取り残されているわけではない。町はいつも通り動き、俺たちもその中へ戻っていく。

「それ、ちゃんと覚えとけよ」

「覚えてる」

「おまえは忘れるからな」

「忘れない」

「じゃあ、三回」

「何が」

「言って」

湊はいたずらっぽく笑った。

「忘れないって」

俺は湊の顔を見た。

言葉にするのは苦手だった。けれど、今度は逃げなかった。

「忘れない」

一度。

「忘れない」

二度。

「忘れない」

三度。

湊は満足したようにうなずいた。

「よし。じゃあ行くぞ、主将」

俺たちは学校へ向かって歩き出した。

本町通りの先に、桐丘高校の校門が見えてくる。朝の光を受けた第二体育館の窓が、白く反射していた。あの南側扉は、今は閉じている。けれど、閉じているからといって、向こう側がなくなるわけではない。

夜、湊は三回叩いた。

俺は一度、開けるのをためらった。

それでも扉を開けたから、俺たちは今、同じ朝へ向かって歩いている。

校門の前で、湊が少しだけ先へ出た。俺はその背中を見て、今度は迷わず追いついた。

肩は触れなかった。

けれど、歩幅は同じだった。

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