8話 本町通りの朝、喫茶店の前

夜が明ける前の本町通りは、思ったより静かだった。

自販機の冷却装置が低く唸り、透明な扉の内側で棒アイスの列がぼんやり光っている。古い喫茶店の窓にはまだ灯りがない。看板の文字が街灯の光を受けて、輪郭だけを浮かび上がらせていた。商店街のシャッターは半分しか上がっておらず、開いた隙間から、昨日仕込んだ出汁の匂いがかすかに漏れてくる。路地には、昨日の熱をしまい込んだ湿った空気が沈み、そこへ朝の風だけが細く通り抜けていった。

俺が本町通りに着いたとき、湊はすでに喫茶店の前に立っていた。

肩にかけたバッシュの紐は、いつものように片方だけ長く垂れている。手首には見慣れたリストバンド。街灯の光を斜めに受けた横顔は、まだこちらに気づいていないように見えた。俺は足を止め、少しの間その背中を見ていた。

湊が、扉の前で一度だけ息を吐いた。

体育館へ入るとき、試合前にコートへ出るとき、いつもそうする癖だ。だが喫茶店はまだ開いていない。開いてもいない扉の前で、湊は何かに向けて息を整えていた。その仕草が、そのまま肩のこわばりになって見える。

「早いな」

俺が声をかけると、湊は振り返った。

いつもの軽口は、まだ出なかった。

「……おまえもな」

それだけ言って、湊はまた喫茶店の窓に目を戻した。

俺たちは並んで立ったまま、すぐそこのベンチにも、まだ閉まっている喫茶店の中にも入らなかった。座れば、向き合わなければならない。向き合えば、言葉を探さなければならない。どちらもまだ、覚悟が足りなかった。

先に口を開いたのは湊だった。

だが出てきたのは、謝罪でも、進路の続きでもなかった。

「昨日、コンビニでアイス買ったんだけどさ」

「うん」

「思ったより溶けるの早くて、レジ袋の中でもう半分液体になってた。店員のおばちゃんが『氷、追加でお付けしましょうか』とか言い出して、いや氷入れてどうすんだよって」

「……それで?」

「入れてもらった」

俺は思わず湊の顔を見た。

「意味ないだろ」

「意味なくはない。氷入れたら、少なくとも溶けるスピードは落ちる。理論上は」

「理論上な」

「うるさいな。理論は大事なんだよ」

湊はそう言って、視線を路地の先へ逃がした。

「あと、文房具店。夏休みのあいだだけ、営業時間ちょっと伸ばしたんだって。店のおっちゃんが言ってた。宿題を最後まで溜め込むガキが多いからって」

「湊も溜め込む方だろ」

「俺は溜め込まない。最初からやらないだけだ」

「それ、もっと悪いだろ」

「うるさい」

湊は早口だった。

いつもより明らかに速い口調で、どうでもいい話を継ぎ足していく。アイスの話、文房具店の話、次は駅前の猫が今年も太った話。俺はそれを黙って聞いていた。

話をそらしたいときの湊は、いつもより少し早口になる。

それを俺は知っている。目を合わせず、肩の少し先を見ながら話すときほど、湊の中には言いたいことがある。言いたいことが多いほど、関係のない言葉で埋めようとする。まるで、本音を包む紙を何枚も重ねていくみたいに。

その癖を、今さらながら痛いほど知っていた。

知っていたのに、これまで何度、その紙の下にあるものを見ようとせずに済ませてきただろう。

湊の言葉が、ふっと途切れた。

自販機の唸りだけが、路地に低く響いている。遠くで、シャッターを上げる金属音が一度だけ鳴った。誰かが早い時間から店を開けようとしているのだろう。生活は、俺たちの事情など待たずに、いつも通り動き出していく。

湊は視線を路地の先に置いたまま、しばらく黙っていた。

その沈黙は、昨夜のベンチで交わした沈黙とは少し違っていた。あのときの沈黙は、互いに何を言うべきか探すための沈黙だった。今の沈黙は、もう探す必要のない言葉を、それでも口にする勇気を集めているような沈黙だった。

「置いていかれるの、嫌だった」

湊が、ぽつりと言った。

声は大きくなかった。むしろ小さすぎて、自販機の唸りに紛れてしまいそうだった。だが俺の耳には、はっきりと届いた。

それは、進路の話の形をしていた。

推薦だとか、専門学校だとか、どちらが正しいとか、そういう言葉の並びに見えた。だが、その言葉の中身は、進路そのものではなかった。

先に遠くへ行く背中を見送る怖さの話だった。

俺はすぐには返せなかった。

顎を少し引いて、黙る。俺の癖だ。湊はそれを知っている。知っていて、責めなかった。今度は笑わなかった。以前なら、俺が黙り込むと湊は「はいはい、考え中ね」と軽く流していた。だが今は、その沈黙が逃げではなく、考えるための間だと知っている顔をしていた。

朝の空気が、少しずつ色を変え始めている。

建物の隙間から差し込む光はまだ弱く、路地の底には夜の名残がわだかまっていた。それでも、東の空はすでに白みを帯びている。俺たちが立っているこの数分のあいだにも、夜は確実に朝へと明け渡されていく。

「湊」

俺はようやく、名前を呼んだ。

湊はこちらを見なかった。視線は路地の先に置いたままだった。だが、耳だけはこちらへ向いているのが分かった。

「昨日の夜、体育館で話したこと」

「うん」

「あれで、全部終わったわけじゃないよな」

湊の肩が、わずかに動いた。

「終わってほしいのか?」

「そうじゃない」

「じゃあ、何だよ」

俺は喉の奥に力を入れた。

「終わりにするための話じゃなくて、これから続けるための話だと思ってる。昨日話したことも、今おまえが言ったことも」

湊は、少しのあいだ黙っていた。

それから、ようやくこちらを見た。街灯の光が薄れ、代わりに朝の光が湊の頬のあたりを淡く照らしている。目の下には、うっすらと隈が浮かんでいた。昨夜、あれから家に帰って、どれだけ眠れたのだろうか。俺自身、部室のベンチで少しうとうとしただけで、ほとんど眠っていない。

「置いていかれるのが嫌だったって、言った」

湊は繰り返した。

「それ、進路の話じゃないって、おまえも分かってるだろ」

「分かってる」

「じゃあ、何の話か言ってみろよ」

試すような口調だった。だが、そこに含まれているのは意地悪さではなく、確かめたいという気持ちだった。俺がちゃんと受け取ったかどうかを、湊は確かめようとしている。

俺は一拍置いた。

いつもの、返事の前に間を空ける癖。だが今度は、逃げるための間ではなかった。

「おまえは、俺が遠くへ行くこと自体を嫌がってるわけじゃない。俺が先に、この場所を離れる人間になることが怖いんだ。今までは、練習が終われば明日また会えた。それが当たり前だった。でも、これからは違う。会うために、予定を合わせなきゃいけなくなる。俺がおまえの知らない場所で、おまえの知らない時間を過ごすようになる。そのことが、怖い」

言いながら、俺は自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。

昨夜、湊に同じことを言われたときは、うまく言葉にできなかった。だが一晩を挟んで、俺の中でその感情が少しずつ形を持ち始めていた。怖いという感情は、消えたわけではない。ただ、輪郭がはっきりしてきただけだった。

湊は、しばらく黙って俺を見ていた。

それから、小さく息を吐いた。安堵にも似た、けれどまだどこか固さの残る息だった。

「合格」

「何のテストだよ」

「俺が言いたかったことを、ちゃんと拾えたかのテスト」

「勝手に採点するな」

「採点する権利くらいある。俺が出した問題だぞ」

湊はそう言って、ようやく笑った。

昨日までのような、何かを隠すための笑いではなかった。かといって、完全に晴れた笑顔でもない。まだどこかに、不安の残滓が張りついている笑い方だった。だが、それでよかった。すべてが晴れてしまったら、かえって嘘くさい。

自販機の唸りが、ふいに大きくなった気がした。

俺は財布を取り出し、小銭を数えた。

「何か飲むか」

「奢り?」

「奢りじゃない。割り勘」

「ケチだな、主将は」

「推薦組はケチなんだよ」

「それ、理由になってないだろ」

湊は笑いながら、自分の財布を取り出した。俺はいつものソーダ味を選び、湊は迷わず同じものを選んだ。缶を受け取ったとき、指先に冷たさが伝わる。まだ夜の冷気を含んだ金属の感触だった。

プシュ、と小さな音がして、湊がキャップを開ける。

甘い匂いが、朝の湿った空気にふわりと広がった。

「試合、何時だっけ」

「八時半。集合は七時」

「あと二時間ちょっとしかないな」

「寝てないだろ、おまえ」

「おまえもだろ」

湊は缶を口に運びながら、路地の先を見た。

喫茶店の窓に、かすかな灯りが灯った。マスターが早朝の仕込みを始めたのだろう。ドアの向こうで、椅子を動かす音がした。

「開いたら入るか」

「試合前にコーヒーは飲まない」

「じゃあ、開いてるのを見るだけでいい。ここに立って、開いていくのを見る」

その言葉の意味を、俺はすぐには汲み取れなかった。だが、湊の横顔を見ていると、なんとなく分かる気がした。

開いていく店を見る。

それは、何かが動き始める瞬間を、一緒に見ていたいということなのだろう。俺たちがこれから向かう場所も、開いていく扉の向こうにある。まだ何も決まっていない、真新しい朝の続き。

「湊」

「何」

「今日、勝ったら」

「勝ったら?」

「先輩たちみたいに、寄せ書き、書くか」

湊はしばらく黙っていた。

それから、缶を胸の高さに持ったまま、小さくうなずいた。

「書く。今度は、俺の字で」

「俺も書く」

「当たり前だろ。主将が書かなかったら、誰が書くんだよ」

湊は笑って、缶を軽く掲げた。

「乾杯でもするか」

「まだ何も終わってない」

「終わってないから、乾杯するんだよ。これから始まるものに」

俺は少しのあいだ迷ってから、自分の缶を持ち上げた。

金属同士がぶつかる、小さな音がした。

カン、と一度だけ。

その音は、体育館の南側扉が軋む音とは違う、もっと軽くて、もっと短い音だった。だが、俺の胸の奥では、それが昨夜聞いた三回のノックと、どこかでつながっているような気がした。

喫茶店の窓の灯りが、少しずつ明るさを増していく。

路地の向こうから、朝刊を配る自転車のブレーキ音が聞こえた。誰かが早い時間から、いつも通りの一日を始めようとしている。俺たちの一日も、少しずつ動き出していた。

湊が缶を飲み干し、大きく息を吐いた。

「行くか」

「まだ時間ある」

「時間があるうちに行くんだよ。ぎりぎりまで粘るのは、おまえの悪い癖だ」

「おまえだって、いつも遅刻ぎりぎりだろ」

「今日だけは違う」

湊はそう言って、缶を自販機の脇にあるゴミ箱へ放り込んだ。軽い音を立てて、缶が底に落ちる。

俺も同じように、自分の缶を捨てた。

朝の光が、路地の奥までゆっくりと届き始めていた。商店街のシャッターが、あちこちで音を立てて開いていく。生活の音が、少しずつ通りに満ちていった。

湊が先に歩き出した。

俺はその背中を、今度はすぐに追いかけた。

肩を並べて歩く距離は、以前とまったく同じではなかった。だが、それでよかった。同じでなくても、隣を歩くことはできる。違う場所へ向かう朝でも、今この瞬間だけは、同じ方向へ足を踏み出している。

本町通りの先に、桐丘高校の校門が見えてきた。

その向こうに、第二体育館がある。夜のあいだ、俺たちの言葉を受け止め続けた古い建物が、朝の光の中で静かに待っていた。

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本町通りの朝、喫茶店の前 - 三回の合図 - 誰でも作家life