第7話 紙片と、まだ熱い床

扉の下から、白いものが滑り込んできた。
俺はボールを拾おうとして、手を止めた。紙片は南側扉の内側で、床に残った汗の跡を一筋だけ横切っていた。昼の練習で誰かがこぼした水分を、古い木床がまだ吐き出しきれていない。紙の端は湿り、そこだけ少し透明になっている。
しゃがんで、それをつまみ上げた。
湊の字だった。
右上がりで、急いで書くと最後の払いが妙に長くなる。授業中にノートの端へ書くときも、試合のタイムアウトに作戦を走り書きするときも、同じ字だった。
『明日、七時集合。忘れるな。頼む』
それだけだった。
謝罪でもない。昨日のことをなかったことにする言葉でもない。俺に行くなと言う言葉も、勝てと命じる言葉もない。ただ集合時間が書かれ、その下に、「頼む」とある。
その二文字を、俺は何度も見た。
誰に頼んでいるのか分からない。寝坊するなという意味かもしれない。主将として部員をまとめろという意味かもしれない。あるいは、明日も俺の隣に立ってくれという、湊自身にも言葉にできない頼みなのかもしれなかった。
紙片を裏返す。
何も書かれていない。けれど、指先には湿った紙の柔らかさが残った。
俺は立ち上がり、扉の外を見た。
校庭には誰もいない。夜の照明は校舎の壁を薄く照らしているだけで、南側の通路は途中から暗がりへ沈んでいた。湊の姿はもう見えない。帰ったのか、まだどこかで立ち止まっているのか、それを確かめるために外へ出る気にはなれなかった。
さっきまで、扉の向こうにいた。
三回のノックをして、俺が開けるのを待っていた。
あのとき、もし開けなかったら、この紙も届かなかったのだろうか。
紙片を握ると、湿気を吸った端が指の腹へ貼りついた。俺はそれをポケットへ入れた。捨てる理由はなかった。大切にする理由も、まだ分からない。ただ、湊の字が書かれたものを、床に置いたままにはできなかった。
体育館の中へ戻る。
昼の熱が床板に残っている。靴を脱いで歩けば、足の裏からじかに温度が伝わってきそうだった。高い天井の鉄骨は暗く、窓の外から入る風は弱い。換気扇が回っているのに、汗とゴムと古い木の匂いは、広い空間のどこにも逃げずに漂っていた。
俺はベンチへ座った。
ボールをつく気にはなれなかった。
音を出せば、その音に何かを返される気がした。湊の声か、伊吹の言葉か、松本先生の短い問いか。今の俺には、どれも受け止めるだけの余白が残っていない。
ポケットの上から、紙片を押さえる。
そこに湊がいるような気がした。
もちろん、そんなはずはない。紙は紙で、字は字だ。それでも、指先に触れる薄い感触が、夜の体育館でひとりになった俺を、完全にはひとりにしなかった。
俺は天井を見上げた。
鉄骨の向こうに、昼間の光景が浮かぶ。湊が後輩のシュートフォームをからかい、佐伯がふざけて反論し、松本先生が少し離れたところで何も言わずに見ている。伊吹が床の水滴を避けて歩き、俺に強いパスを投げた。ボールは手のひらに衝撃を残したが、逃げなかった。
逃げなかったのは、俺が両手で受けたからだ。
当たり前のことなのに、妙に引っかかった。
進路の話も、湊の怒りも、伊吹の言葉も、俺はずっと片手で受けようとしていた。自分だけで処理できると思い、胸の前で抱えたまま誰にも渡さなかった。けれど、重いものは片手では落ちる。落ちたあとで、拾うのに時間がかかる。
湊は、俺にパスを出せと言ったわけではない。ただ、俺がどこへ走るのかを見ようとしていた。
俺はそれを、ずっと避けていた。
ベンチから立ち上がり、部室へ向かう。
廊下は昼間より狭く感じた。窓の外から虫の声が入り、壁に貼られた大会案内の紙が、風もないのにわずかに揺れている。県大会の日程、集合時間、会場までの経路。誰かが赤いペンで重要な箇所に線を引いていた。
俺たちは明日、ここを出る。
そう思うと、廊下の一つひとつが急に手触りを持った。階段の角にある欠けたタイル。部室の前の、何度も靴で擦られて黒くなった床。壁に残った古いテープの跡。どれも見慣れたものなのに、もうすぐ見慣れなくなるかもしれないものだった。
部室の照明をつける。
棚の上の寄せ書き入りボールが、白い光を受けて浮かび上がった。文字の一部は薄れ、油性ペンの線が革の傷に沿って途切れている。俺はボールを手に取った。
ずっしりと重い。
バスケットボールとしては、いつも使っているものと変わらないはずだった。けれど、寄せ書きのある面を指でなぞると、何人もの手が重なっているように感じた。先輩たちがここへ置いていった時間。そのあとに俺たちが受け取った時間。さらに明日、次の代へ渡される時間。
表の文字を一つずつ読んでいく。
『勝て』 『楽しめ』 『声出せ』 『最後まで走れ』
どれも、書いた人間の顔が浮かぶ。
その中に、湊の名前はない。俺たちはまだ、このボールへ何も書いていない。
棚へ戻そうとしたとき、裏側にある鉛筆書きが目に入った。
――離れても、忘れるな。
誰が書いたのか、まだ分からない。
指で文字をなぞる。鉛筆の跡は浅く、強く触れれば消えてしまいそうだった。なのに、何年も残っている。
残ることは、動かないことではない。
誰かが遠くへ行ったあとも、ここにあるものが、その人の時間を抱えている。誰かがこの場所を離れても、残った人間が勝手に同じままでいる必要はない。ただ、変わりながら覚えていることはできる。
俺はボールを戻した。
壁際の試合予定表へ目を向ける。
破れた紙は、去年の大会の途中で裂けたままだった。裂け目の向こうには、試合名も時間も、勝敗を書く欄もない。けれど、紙が欠けたからといって、去年の時間までなくなったわけではない。負けた日も、その翌日に誰かが無言で走ったことも、松本先生が練習を止めずに床のラインを見ていたことも、俺の身体には残っている。
去年、俺は負けた帰り道で、ひとりだけ黙っていた。
湊は隣を歩きながら、何度も話しかけようとした。コンビニの新商品がどうとか、駅前の猫が太ったとか、くだらない話をいくつも投げてきた。俺はどれにも返さなかった。
その夜、湊は最後に一度だけ、俺の肩を叩こうとした。

けれど、触れる前に手を引いた。
俺はそのことを、今まで覚えていなかった。覚えていなかったのではなく、覚えないようにしていたのだと思う。触れられなかった手のひらが、今になって胸の奥で開いている。
ロッカーの扉を開ける。
奥に、推薦内定の通知を挟んだ封筒があった。角が少し折れている。何度も持ち出そうとして、結局そのたびに戻したせいだった。
封筒を手に取る。
紙の硬さが、寄せ書き入りのボールとは違う。こちらには、進学先の名前と、入学後の予定と、俺が選んだ未来が印刷されている。明確で、正しくて、誰かに説明しやすい。
けれど、その紙を握っただけでは、不安は消えなかった。
封筒を開ける。
通知書を広げる。県外の大学名。推薦入学を認める文面。入学手続きの期限。寮の案内。必要書類の一覧。
どれも、俺が欲しかったものだ。
手に入ったときは、嬉しかった。
その嬉しさを、なかったことにする必要はない。湊が寂しがったからといって、俺が喜んだことまで間違いになるわけではない。逆に、俺が行きたいと思ったからといって、湊が傷ついたことが消えるわけでもない。
ふたつの事実は、同じ場所に置ける。
それを認めることが、今までの俺にはできなかった。
通知書を封筒へ戻す。
代わりに、棚の脇へ置かれていた古いタオルを手に取った。中学のころから使っているものだった。白かったはずの布は何度も洗われ、縁が擦り切れている。練習後、湊が勝手に使っては、俺が「自分のを使え」と取り返した。試合で汗をかきすぎた日は、結局ふたりで同じタオルを使った。
布には、洗剤と古い汗の匂いが残っていた。
俺はそれを握り、目を閉じる。
湊のパスが床を一度だけ叩く音。俺が走る足音。背中の後ろから飛んでくる声。ボールが手元へ届く、その一瞬の確かさ。
同じ道を選ぶことが、背中を預ける条件ではなかった。
同じコートに立つために必要だったのは、互いがどこへ向かうかを隠さないことだった。
俺はタオルをたたみ直し、バッグへ入れた。
それから、部室を出た。
もう一度、第二体育館へ戻る。照明は消していない。白い床の上に、昼の熱がまだ残っている。ベンチの下には、湊が飲みかけたスポーツドリンクの空きボトルがあった。透明なボトルの底に、ほんの少しだけ液体が残っている。
俺はそれを捨てようとして、手を止めた。
捨てるべきものだった。明日の朝、誰かが片づける。そうすれば、ただの空きボトルになる。
けれど今は、そこに口をつけたときの甘さまで思い出せた。冷たさが喉を下り、言葉にならないものを少しだけ流してくれた感覚。
俺はボトルを持って、部室の分別箱へ入れた。
思い出を残すことと、物を捨てないことは違う。
残すべきものは、物の形だけではない。湊と話したこと。湊が地元に残る理由を知ったこと。俺が怖いと認めたこと。これから先、毎日会えなくなっても、知ろうとすること。
それらは、ボトルを捨てても消えない。
体育館へ戻り、照明を一つずつ消す。
最後の一灯が消えると、コートは暗闇の中へ沈んだ。非常灯だけが南側扉の近くを照らし、床に細長い光を落としている。
俺は扉の前へ立った。
ポケットの中で、紙片に触れる。
扉を開ける。夜の空気が入ってきた。昼よりは冷えているが、湿り気はまだ重い。遠くで犬が一度吠え、道路を走る車の音が校舎の壁を薄く震わせた。
湊の姿はない。
俺は通路へ出ず、扉の内側に立ったまま、紙片を取り出した。
裏側に、ボールペンで一行だけ書き足す。
『分かった。明日、行く』
それから紙を折り、扉の下へ滑らせた。
外へ落ちた紙片は、風に押されて少しだけ進み、通路の暗がりで止まった。
明日、俺は県外へ行くために勝ちたい。
湊は、この町で自分の選んだものを守るために勝ちたい。
その理由は、もう同じではない。
それでも、同じボールを追うことはできる。
俺は扉を閉めた。
古い金属が、低く軋む。
音は体育館の奥へ広がり、天井からゆっくり戻ってきた。今までなら、その反響をひとりで受け止めようとしていた。けれど今夜は、どこかに湊の呼吸が残っている気がした。
俺はボールを一つ拾った。
三回つく。
ドン、ドン、ドン。
手のひらへ返る振動は、もう浅くなかった。
シュートを放つ。
ボールはリングの内側へ落ち、ネットを揺らした。
その音のあと、俺はすぐに次のボールを拾った。
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