第6話 伊吹の圧、体育館の圧

翌朝、第二体育館の床は、夜の湿気をまだ吐き出しきれていなかった。
窓を開けても風は弱く、重たい空気がコートの上に溜まっている。ワックスと汗と、昨夜の雨を吸った土の匂いが混ざっていた。雨は降らなかったはずなのに、南側扉の金属は薄く濡れている。指で触れると、冷たい水分が皮膚に移った。
「集合、七時だぞ」
松本先生の声が飛ぶ。
部員たちは返事をしながら、床に散ったボールを拾っていた。佐伯が欠伸を噛み殺し、三浦がそれを見て笑う。湊はいつものように、誰かの寝癖をからかい、後輩のシュートフォームに余計な口を挟んでいた。
「佐伯、昨日より肘が外に逃げてる。寝ながら打った?」
「寝ながら打てるなら、むしろ才能じゃないですか」
「寝ながら外してるから、才能じゃない」
「朝から厳しいなあ」
湊の声はよく通った。
俺はコートの反対側で、ボールを三回ついた。
ドン、ドン、ドン。
昨夜、湊は「三回つかないと、どこへ行くか分からない」と言った。今朝も、指先は勝手に同じ動作を繰り返した。けれど、三回目のバウンドは昨夜ほど低くなかった。手のひらへ返ってくる振動が、少しだけ深い。
湊がこちらを見た。
目が合う。
ほんの一瞬だった。湊はすぐに視線を外し、ボールを指先で回した。昨日までなら、その視線の外し方に胸を掴まれていたかもしれない。だが今は、そこに逃げるためだけではない間があることを知っている。
俺はシュートを放った。
リングの内側へ、ボールが落ちた。
「春翔」
松本先生が呼んだ。
「はい」
「相手校が一校、練習試合を申し出てきた。会場へ移る前に、十分だけ使わせる」
「相手校?」
湊が振り返った。
「伊吹のところだ」
先生はそれだけ言い、ホイッスルを首へかけた。
数分後、南側扉が軋んだ。
古い金属が、眠りから無理に起こされたような音を立てる。俺はボールを拾おうとして、手を止めた。
扉の向こうから入ってきたのは、伊吹だった。
黒に近い練習着。汗で濡れた髪。手首には、何度も洗われたように色の薄いリストバンドが巻かれている。彼は体育館へ足を踏み入れると、挨拶の代わりに床を見た。靴底の状態を確かめるように、片方ずつ足を動かす。
それから、俺を見た。
視線がまっすぐすぎて、避ける場所がなかった。
「桐丘の主将は、おまえか」
「そうだ」
「知っている」
伊吹は短く答えた。視線が俺の顔から肩、肘、足元へと移る。フォームを見るというより、俺の身体に残った迷いの形を探しているようだった。
「昨日の試合、見た」
「どこで」
「隣の会場」
「そうか」
「動きが遅かった」
俺の指が、ボールの縫い目をなぞった。
「今日は戻す」
「戻す?」
「調子を」
「違う」
伊吹は視線を逸らさなかった。
「おまえが遅いのは、脚じゃない。決めたふりをしているからだ」
体育館の音が、そこで薄くなった。
後輩たちのボールが床を叩いている。誰かが笑っている。窓の外では、蝉が朝から鳴いている。それなのに、伊吹の声だけが、空気の中で形を持って残った。
「何の話だ」
「勝負の話だ」
「俺は今日、勝つつもりでいる」
「つもりは要らない」
伊吹はそう言って、ボールを一つ拾った。粉の残った指先で、表面の埃を払う。動作は丁寧だった。手入れをしないものを、勝負の場へ持ち込むことが許せないのだろう。
「勝つために何を捨てるか、決めたか」
「……」
「人間関係でも、進路でも、昔の自分でもいい。何かを選ぶなら、選ばなかったものが残る。残ったものを見ないふりをしたまま、コートに立つな」
胸の奥が硬くなった。
伊吹が湊のことを知っているはずはない。俺たちの口論も、夜の体育館も、三回のノックも知らない。なのに、言葉は昨夜から続いているように聞こえた。
「おまえに関係ない」
「関係ある」
伊吹はボールを一度だけついた。
ドン。
乾いた音が、体育館の天井へ上がった。
「県大会で当たる可能性がある。おまえが迷ったままなら、俺の勝ちになる。俺は、迷っている人間に勝ったとは思いたくない」
「ずいぶん勝手だな」
「勝負は勝手なものだ」
「相手の事情を聞く気もないくせに」
「聞く必要がない」
伊吹は言い切った。
「コートに立つ人間が何を抱えているかは、結果に出る。家族のことでも、友達のことでも、金のことでも、関係ない。苦しいなら、苦しいまま動け。隠したまま動けないなら、最初から立つな」
その言葉に、湊がボールを回す手を止めた。
「おまえさ」
湊が口を挟んだ。
「人の事情を全部、靴底の汚れみたいに扱うよな。ついてるなら落とせばいい、落とせないならコートに入るなって」
伊吹は湊へ顔を向けた。
「違うか」
「違うね」
湊の声は、普段より低かった。後輩たちが遠巻きにこちらを見ている。湊はそれに気づいていたはずだが、視線を外さなかった。
「人間は靴じゃない。汚れたからって、脱いで置いていけない。誰かと揉めたら、切ればいい。進路が違ったら、関係を捨てればいい。そうやって勝てるなら、おまえはずいぶん楽だろうけど、俺はそんな勝ち方をしたくない」
「甘い」
「そうかもな」
湊は笑いかけた。だが、笑いはすぐに消えた。
「でも、甘さを抱えたまま勝つ方法だってある。俺たちは、ずっとそうやってきた。相手の癖を覚える。疲れたときの足音を聞く。言わなくても走る方向を読む。そういう面倒なものを全部切り捨てて、数字だけ残して、何がチームだよ」
伊吹の目が細くなった。
「チームで勝つなら、全員が同じ方向を向いている必要がある」
「同じ方向って、同じ気持ちになることじゃないだろ」
湊はボールを胸の前で抱えた。
「俺は地元に残る。春翔は県外へ行く。考え方も、これから見る景色も変わる。それでも、今このコートで背中を預けられるなら、それで十分だ。違う場所へ行くことと、同じ方向を向けないことは別だ」
体育館の空気が、さらに重くなった。
俺は湊の横顔を見た。昨夜、扉の前で立ち止まっていたときの顔とは違う。まだ不安は残っている。けれど、その不安を笑いで包まず、言葉の中へ置いている。
伊吹はしばらく黙っていた。
やがて、俺へ視線を戻した。
「おまえは、どうする」
問いは短かった。
けれど、逃げ道はなかった。
俺は左手で右の手首を押さえた。昨日までなら、その仕草を隠すためにボールを三回ついていた。今日は、ボールを床へ置いたままにした。
「俺は、県外へ行く」
声が体育館に響く。
「行きたいから行く。推薦だからでも、先生に勧められたからでもない。俺が、そこでバスケットを続けたいと思ったからだ」
伊吹は黙って聞いている。
「怖い。通用しないかもしれない。知らないチームで、今までみたいに声が出せないかもしれない。湊と毎日会えなくなるのも嫌だ。俺がいない場所で、湊が変わっていくのを見るのも怖い。それでも行く」
言葉を続けるほど、胸の中にあったものが、形を変えて外へ出ていく。怖さを口にしても、足元は崩れなかった。
「湊を置いていくつもりはない。でも、湊がここに残ることを理由に、俺が行かないつもりもない。俺たちは別々の道を選ぶ。選ぶから、今日の試合で一緒に勝ちたい」
伊吹は一拍置いた。
「それが、おまえの答えか」
「今は」
「今は、では足りない」
伊吹の声は冷たかった。
「試合中にまた迷ったら、どうする」
「そのときは、迷っていると認める」
「認めて、動けるのか」
「動く」
「根拠は?」

俺は湊を見た。
湊は視線を合わせたあと、ほんの少しだけ外した。いつもの癖だった。だが今度は、逃げるための視線ではない。俺が次に何を言うかを待つためのものだった。
「俺には、湊がいる」
伊吹の眉がわずかに動いた。
「それは依存かもしれない」
「そうならないように、俺も走る」
「一人で走れるか」
「一人で走れる。でも、湊が出したパスを信じたい」
湊が小さく息を吐いた。
「俺も、春翔が走った先へ出す。たとえ、その先が今まで見たことのない場所でも」
伊吹は俺たちを見た。
その表情から、何を考えているのかは分からなかった。ただ、さっきまでの鋭さが、ほんの少しだけ変わっている。怒りが消えたわけではない。むしろ、勝負へ向けた熱が、冷たい皮膚の下で濃くなったように見えた。
「なら、負けるな」
伊吹はボールを俺へ投げた。
強いパスだった。
俺は両手で受け止めた。手のひらに衝撃が残り、腕がわずかに後ろへ引かれる。ボールは逃げなかった。
「俺は、情を理由に手を抜かない」
伊吹は続けた。
「おまえたちが何を背負おうが、俺は勝ちに行く。勝ったあとに、仲が続くかどうかも知らない。だが、勝つために本気で迷っているなら、少なくとも昨日よりはましだ」
「褒めてるのか」
「評価しただけだ」
「感じ悪いな」
湊が言った。
「おまえは、そういうところが損だよ。もう少し普通に言えばいいのに」
「必要ない」
「ほら、それ」
湊は肩をすくめた。
「必要ないって言いながら、わざわざここまで来てるじゃん。勝つだけなら、別会場で準備してればいい。何で来たんだよ」
伊吹の指が、わずかに開閉した。
その動きは一瞬だった。けれど、俺には見えた。勝負の話をするときだけ、伊吹の声に温度が混じる。その温度が、いま指先へ逃げている。
「確認したかった」
「何を?」
「おまえが、昨日のままかどうか」
「昨日のままなら?」
「勝つ」
「変わってたら?」
「それでも勝つ」
湊が吹き出した。
「結局、どっちでも勝つんじゃん」
「そうだ」
「潔いねえ」
「おまえは、勝つ気があるのか」
伊吹の視線が湊へ移る。
湊は一度、ボールを指先で回した。白い線が朝の光を断続的に受ける。
「あるよ。春翔のためじゃなくて、俺が勝ちたいからな。俺が出すパスで流れを変えて、俺が選んだ場所で、俺ができることをやる。そのうえで春翔と勝てるなら、もっといい」
湊はそこで俺を見た。
「おまえも、俺のためじゃなくて自分で勝てよ」
「分かってる」
「また返事が遅い」
「考えてた」
「考えた結果?」
俺はボールを一度だけついた。
ドン。
「俺は、誰と勝ちたいかを自分で選ぶ」
その言葉は、以前の自分なら口にできなかった。勝利を求めることと、誰かを選ぶことを、同じ場所へ置いてはいけないと思っていたからだ。主将なら、個人的な感情を捨て、チームのために勝つべきだと考えていた。
だが、チームのためという言葉の中から誰かの顔を消すことが、正しいとは限らない。
湊の顔を消さずに、俺は勝ちたい。
湊もまた、自分の選んだ道を失わずに、俺へパスを出そうとしている。
それを抱えたままコートへ立つことが、俺の選ぶ覚悟だった。
「春翔」
松本先生が呼んだ。
先生はコートの端で腕を組んだまま、ずっとこちらを見ていた。伊吹を止めなかった。湊の言葉も遮らなかった。俺が言葉を探す時間も、黙って立っていた。
「確認は終わったか」
「はい」
「なら、動け」
「先生は、何も言わないんですか」
俺が訊くと、先生は少しだけ視線を外した。
「言った」
「いつ」
「昨日」
「それだけですか」
「足りないか」
俺は答えなかった。
先生は、床に置かれたボールを一つ拾った。手のひらで重さを確かめるように持ち、俺へ差し出す。
「迷ったままでも、時間は進む。進んだ時間の責任は、あとから誰かに返せない」
ボールを受け取った。
「今日、どうするかは自分で決めろ」
先生はそれ以上言わなかった。
伊吹が南側扉へ向かう。扉を開ける前に、足元を見た。床に残った細い水滴を避けるように、一歩だけ位置を変える。
「伊吹」
俺が呼ぶと、彼は振り返った。
「試合で会ったら、手を抜くな」
「最初からそのつもりはない」
「俺もだ」
「なら、迷うな」
「迷ったら?」
伊吹は一拍置いた。
「そのまま決めろ」
扉が軋んだ。
伊吹が外へ出ると、朝の光が一瞬だけ体育館の床へ伸びた。湿った空気が入り込み、汗の匂いを薄く散らす。扉が閉まると、またボールの音が戻ってきた。
湊が隣へ来た。
「ずいぶん厳しい応援だったな」
「応援じゃない」
「じゃあ何」
「圧だ」
「体育館の圧と、伊吹の圧。今日は圧ばっかりだな」
湊はそう言って笑った。
俺も笑いかけたが、すぐにコートの中央へ視線を戻した。ラインは昨日と同じ場所にある。リングも、床の傷も、壁際の古い水筒も変わらない。それなのに、見え方が少し違った。
松本先生がホイッスルを吹く。
「十分だけ、実戦形式」
部員たちがコートへ散る。
湊がボールを持った。指先で一度回し、俺の肩の少し先を見る。次の瞬間、彼は何も言わずに走り出した。
俺も走った。
三回つかなかった。
湊のパスが、まだ届かない場所へ伸びてくる。俺は一歩目を踏み込み、手を伸ばした。ボールが指先に触れ、掌へ収まる。
そのままリングへ向かった。
足音が重なった。床に伝わる振動が、昨夜よりはっきりしている。背中の後ろから、湊の声が飛んだ。
「春翔、右!」
俺は右へ切り返した。
シュートを放つ。
ボールがリングを通り、ネットが揺れた。
乾いた音が体育館へ広がる。けれど今度は、音が戻ってくる前に、湊が次のボールを拾っていた。
同じコートに立つ時間は、あと少ししかない。
その少しを、俺はもう、失うことだけを考えて過ごしたくなかった。
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