第5話 残る場所、出る場所

暗いコートの中央へ、ふたりで歩いた。床板が足の下で鳴る。湊はボールを一度だけつき、こちらへ投げた。
ボールが手のひらに収まる。
今度は三回つかなかった。
俺はそのまま走り出した。
フリースローラインの外側を回り、コーナーへ抜ける。湊の足音が少し遅れてついてくる。いつもの練習なら、俺が二歩目を踏み出す前に、湊はボールを放っている。視界の端で相手の位置を捉え、誰にも見えない場所へ先にパスを置く。だが今夜は、ボールが来ない。
コーナーで止まる。
湊も止まった。
「今の、遅い」
「いきなり走るなよ」
「いつもそうだろ」
「いつもはおまえが三回ついてから動く」
「今日はつかなかった」
「それが問題なんだよ」
湊はボールを指先で回した。暗がりの中で、白い線だけが途切れ途切れに浮かんでいる。
「三回つかないと、どこへ行くか分からない」
「俺の動きに、そんな確認が必要か」
「必要だよ。おまえ、考えてるときだけ一歩目が半拍遅れるから」
「考えてない」
「考えてる」
「……何を」
「それを俺に聞くなよ」
湊はボールを胸の高さで抱えたまま、視線を俺の肩の少し先へ逃がした。
「おまえが走る方向は、だいたい分かる。でも、今夜のおまえは、走ってるふりをしてどこかへ逃げようとしてる。そういうときは、パスを出しても届かない」
胸の奥を指で押されたような気がした。
「バスケの話をしてるのか」
「半分は」
「残りは」
「進路」
湊はそれだけ言って、ボールを床へ落とした。
ドン、と一度だけ跳ねた音が、天井へ上がって戻ってくる。俺はボールを拾おうとしたが、湊が先に足で止めた。
「おまえはさ、県外の大学へ行くんだろ」
「行く」
「迷ってないじゃん」
「迷ってる」
「どっちだよ」
「行くことは決めた。怖いだけだ」
口にしてから、自分でも驚いた。怖いという言葉が、こんなに簡単に出るとは思わなかった。湊の前だからなのか、夜の体育館が広すぎて、言葉を隠す壁が足りなかったのかは分からない。
湊は笑わなかった。
「怖いって、何が?」
「行った先で、通用しないこと。今までより練習がきついこと。知らないやつらの中で、俺がただの一人になること」
「おまえが?」
「俺だって、ただの一人になる」
「推薦で行くやつが何言ってんだよ」
「推薦だからだ」
自分の声が硬くなる。
「最初から期待されている。今までの成績も、試合の映像も、全部見られている。入った瞬間から、できて当然だと思われる。そこで何もできなかったら、俺は何のために呼ばれたのか分からなくなる」
湊はボールを拾い上げた。指先で軽く回している。いつもなら、その回転を見ながら次のプレーを考えているはずなのに、今夜は回転の速さばかりが目についた。
「だったら、行けばいい」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないから言ってる。おまえがそこへ行きたいなら、行けよ。怖いからって、今いる場所を正解にするな」
「おまえは、残ることを正解にしたのか」
湊の指が止まった。
言ってはいけないことだったかもしれない。けれど、取り消すには遅かった。
「そう聞こえた?」
「違う」
「違わないだろ」
「そうじゃない。俺はただ……」
「ただ、何?」
湊はボールを抱えたまま、こちらを見た。声は大きくない。けれど、扉の前で聞いた怒りより近く、逃がしてくれない響きがあった。
「俺は、地元に残るって決めた。おまえみたいに、行きたい場所へ行ける話が来たわけじゃない。家から通える。学費も現実的。卒業したあと、商店街の近くで働けるかもしれない。親に言われたからってだけじゃない。俺はここで、なくなっていくものを見てるだけなのが嫌なんだよ」
「なくなっていくもの?」
「本町通りの店。昔はもっと人がいた。文房具店の隣にも店があったし、喫茶店の向かいには八百屋があった。俺が小さいころは、店の人が名前を呼んでくれた。今はシャッターが増えて、知らないうちに看板が外されてる。そういうのを、仕方ないで終わらせたくない」
湊の声は、話すほどに早くなった。けれど、核心に近づいたところで、少しだけ低くなる。
「専門学校では、地域のイベントとか、店の運営とか、そういうことを学べる。別に大きなことをしたいわけじゃない。通りの端に人が座れる場所を作るとか、夏祭りのときだけでも店を開ける人を増やすとか、そういう小さいことだよ。でも、俺が残るなら、残った場所で何かを始めたい」
俺は返事をしなかった。
湊が地元の話をするとき、いつもは店の名前や道の変化を、冗談のように話していた。文房具店の店主が新しい鉛筆を仕入れたこと。喫茶店のクリームソーダが少し薄くなったこと。駅前の空き店舗に、また別の張り紙が出たこと。
俺はそれを、湊が好きで話しているだけだと思っていた。
好きだから残る。
その言葉の内側に、残したいという意思があることを、考えたこともなかった。
「おまえは、俺が残るのを逃げだと思ってる」
「思ってない」
「思ってるよ。おまえはそういう顔をする」
「どんな顔だ」
「自分だけが進んで、俺を置いていくみたいな顔」
「俺は……」
言葉が止まった。
湊はボールを足元へ転がした。ボールはゆっくりと俺のほうへ進み、靴の先に当たって止まる。
「残ることを、負けみたいに扱われるのは嫌だ」
湊は視線を外したまま言った。
「俺がここにいるのは、行けないからじゃない。行かないって決めたからだ。おまえが県外へ行くのと同じくらい、俺にとっては、自分で選んだことなんだよ。それを、おまえにだけは分かってほしかった」
俺は足元のボールを拾い上げた。
革の表面には、何度も使った傷が残っている。俺たちは同じボールを使ってきたわけではない。それでも、何千回も同じ床へ落とし、同じリングへ向かって投げてきた。触れば、どこへ転がるか分かる。弾み方の癖まで知っている。
人間のことも、同じように分かっているつもりだった。
湊の好きな店も、笑うときに少しだけ目を細めることも、気まずくなると早口になることも知っていた。なのに、残る理由だけは、聞かなかった。
「俺は、おまえが残ることを見下してない」
「じゃあ、何で聞かなかった」
「聞いたら、終わる気がした」
「何が?」
「おまえと俺が、同じだと思っていたことが」
湊の顔から、わずかに表情が消えた。
「俺たちは、同じチームで、同じコートに立って、同じ勝ち方を目指してきた。だから、進路もどこかで同じように決まると思ってた。でも実際は、俺は出るし、おまえは残る。方向が違う。そうなったら、俺たちは今までみたいにはいられない」
「いられないかもしれない」
湊は言った。
その言葉は、思ったより静かだった。
「でも、違う道を選んだら、今までの時間まで嘘になるわけじゃないだろ」
「そう思えるか」
「思えないから、ここに来たんだよ」
湊は、もう一度ボールを指先で回し始めた。
「俺、あのあと何回もメッセージを打った。『推薦、おめでとう』って。おまえが行くなら、ちゃんと祝わなきゃって思った。でも、送れなかった。打って、消して、また打って。おめでとうのあとに、寂しいって書いたら、引き止めてるみたいになる。寂しいって書かなかったら、嘘になる。だから結局、何も送らなかった」
「俺も、何度も送ろうとした」
「何を?」
「湊」
「それだけ?」
「それだけ打って、消した」
「短すぎるだろ」
「長く書いても送れなかった」
「おまえ、文章でも遅いのかよ」
湊は笑った。
今度の笑いは、まだ少し歪んでいた。けれど、さっきまでのように、何かを隠すためだけのものではなかった。笑いながら、頬の内側を噛んでいる。笑いが消えたあとに、言葉を続ける覚悟を作っているのだと分かる。
「春翔」
「何」
「おまえ、推薦が決まったとき、嬉しかった?」
「嬉しかった」
「本当に?」
「本当に」
「一番に誰に言いたかった?」
俺はボールを胸の前で抱えた。指先が縫い目を探している。
「おまえに」
湊の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「でも、言えなかった」
「何で」
「おまえの顔が変わるのを見たくなかった」
「俺の?」
「今みたいな顔じゃなくて、もっと……俺の知らない顔になる気がした」
「もうなってるよ」
「そうだな」
「認めるの早いな」
「否定できない」
湊はボールを回すのをやめた。
「俺も、推薦の話を聞いたとき、最初はすごいと思った。おまえなら行けるって思った。次に、俺は何も持ってないなって思った。おまえは外へ行く理由があって、俺にはここにいる理由しかない。そう考えたら、急に腹が立った」
「おまえにも理由はある」
「今は分かるよ。でも、そのときは分からなかった。分からないまま、残る俺を見て、おまえが安心した顔をしたら嫌だった。ああ、湊はここにいるんだって。いつでも戻れる場所みたいに扱われたら、たぶん耐えられなかった」
その言葉を聞いて、胸の内側に重いものが落ちた。
俺は湊を、戻れる場所だと思っていたのかもしれない。
県外へ行っても、失敗しても、疲れても、湊のいる桐丘へ戻れば、いつものようにボールをつける。そんなふうに考えていた。湊がそこにいることを、本人の意思ではなく、自分のための景色として受け取っていた。
それは、湊を信じているのとは違った。
湊が変わらないことを、勝手に期待していただけだった。
「おまえは変わる」
俺は言った。
「俺も変わる。たぶん、今までみたいにはできないことが増える。毎日会えない。練習のあとに商店街へ寄ることも、くだらない話をしながら帰ることもなくなる。でも、変わることを理由に、今までの関係をなかったことにはしたくない」
「それ、約束できる?」
「約束する」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃない」
俺は湊を見た。
「できなくなることが増えても、できることを探す。電話する。メッセージを送る。戻れるときは戻る。おまえが専門学校で何をしているか、聞く。俺が向こうで何をしているかも、話す」
「毎日?」

「毎日は無理だ」
「ほら」
「でも、無理だから何もしないのは違う」
湊はしばらく黙っていた。
体育館の外で、遠くを車が走った。タイヤが湿った路面を擦る音が、壁の向こうを横切っていく。夜の街は静かだったが、完全に止まっているわけではない。人のいる家では明かりがつき、店を閉めた人は戸締まりを確かめ、明日のために眠る準備をしている。
世界は、誰かが離れることを待ってはくれない。
待ってくれないからこそ、離れたあとにどうつなぐかを、自分で選ばなければならない。
「先輩たちのボール」
湊がふいに言った。
「棚の上の?」
「うん。あれ、誰が最初に置いたか知ってる?」
「知らない」
「三年前の主将。卒業前に、全員に書かせたんだって。進路が決まったやつも、決まってないやつも、地元に残るやつも、県外へ行くやつも。最初はみんな、恥ずかしいから嫌がったらしい」
「湊、どこで聞いた」
「去年、元主将の人が来たときに聞いた。おまえ、練習してて聞いてなかっただろ」
「そうだったか」
「そうだった。あの人、ボールの裏側にも書いたんだって」
俺は顔を上げた。
「裏側?」
「見たことない?」
「ある」
部室で見つけた、鉛筆書きの言葉を思い出す。
――離れても、忘れるな。
「それ、あの人の字なのか」
「たぶん。本人は何を書いたか覚えてないって笑ってたけど」
「覚えてないのに、残ってる」
「そういうもんだろ。人が忘れても、物は残る。逆に、物がなくても覚えてることもある」
湊はボールを見下ろした。
「俺、あのボールを見るたびに、先輩たちはずっと同じ場所にいるんだと思ってた。でも違うんだよな。いなくなった人たちが、ここに戻ってきた証拠なんだ。進路が違っても、一度一緒にいたことを消さないために」
「俺たちも、何か残すのか」
「残したい?」
問われて、すぐには答えられなかった。
勝って、主将として部を次へつなぐ。そう考えていた。けれど、勝利だけを残すことはできない。試合の点数は記録に残る。名前もメンバー表に残る。だが、それだけでは、俺たちが何を背負い、何を怖がり、どうやって同じコートに戻ったのかは残らない。
「残すなら、明日だろ」
俺は言った。
「何を?」
「勝った試合だけじゃなくて、俺たちがちゃんと選んだことを」
「ずいぶん主将らしいこと言うじゃん」
「茶化すな」
「茶化してない。ちょっと感心してる」
湊はボールをこちらへ投げた。
俺は受け取った。今度は、少し強いパスだった。手のひらに衝撃が伝わる。ボールは逃げずに収まった。
「もう一本やるか」
「今度は俺が出す」
「俺が走る」
「どこへ」
「おまえが見つけろ」
「それ、いつものやつだろ」
「いつものに戻すんじゃなくて、いつものをもう一回選ぶんだよ」
意味が分かるようで、分からなかった。
それでも俺は、三回つかなかった。
ボールを胸の前から押し出す。湊は一歩目を踏み込み、俺の手を離れたボールの軌道に合わせて走った。今度は遅れなかった。湊がコーナーへ抜ける。俺は視線を一度だけ逆方向へ向けてから、バウンドパスを送る。
ボールは床に一度触れ、湊の手元へ届いた。
湊がシュートを放つ。
リングに当たり、ネットを揺らした。
「今のはいい」
「誰に言ってる」
「俺」
「おまえが言うな」
湊は笑って、ボールを拾った。
笑い声が、夜の体育館に広がる。以前と同じ音ではなかった。少し低く、少し疲れていて、けれどそのぶん、手の届くところにあった。
ベンチへ戻る途中、俺は部室の壁に貼られた破れた試合予定表を思い出した。裂けた紙の向こうには、去年の敗北も、そのあとの練習も、誰かが貼り直した新しい予定も、全部つながっている。
時間は、破れたところからも続いていく。
「なあ、春翔」
湊が歩きながら言った。
「何だ」
「地元に残ること、負けみたいに扱わないでくれよ」
「扱わない」
「俺も、おまえが出ることを裏切りみたいに扱わない」
湊はそこで一度、息を吐いた。
「たぶん、また嫌になる日もあるけど」
「俺も、戻りたくなる日があると思う」
「そのときは戻ってこい」
「おまえがいなくても?」
「いるよ。俺は、ここで俺のことをやってる」
その返事を聞いて、俺はすぐにうなずけなかった。
湊の言葉を、軽く受け取りたくなかった。戻ってこいというのは、いつでも同じ場所で待つという意味ではない。湊自身も変わりながら、それでも俺を受け入れる場所を、自分の意思で残そうとしているのだ。
俺はようやく、うなずいた。
「分かった」
「返事、遅い」
「考えてた」
「はいはい。考えた結果?」
「おまえの進路は、逃げじゃない」
湊の足が止まった。
俺も止まる。
言葉は体育館の中央で、ボールより先に落ちた。
「……今、それ言う?」
「今、言う」
「もっと早く言えよ」
「悪かった」
「また謝った」
「何回でも言う」
湊は視線を逸らした。暗いコートの向こう、非常灯の光が床の傷を細く照らしている。
「おまえの進学も、裏切りじゃない」
湊は言った。
「ただ、行くなら行くって、ちゃんと俺に言え。俺は置いていかれるのが嫌なんじゃない。置いていかれたことに気づけないのが嫌なんだ」
「分かった」
「それと、向こうで勝てよ」
「おまえも、ここで勝て」
「何に?」
「おまえが残ると決めた場所で」
湊はしばらく黙っていた。
それから、いつものように、少しだけ笑った。
「それ、結構むずいぞ」
「知ってる」
「だったら、たまに見に来いよ。俺が何してるか」
「行く」
「試合がなかったら?」
「商店街へ行く」
「アイス買えよ」
「おまえが好きなやつを?」
「そこは覚えてるんだな」
「覚えてる」
湊はボールを抱え直した。
ベンチへ戻ると、さっきより空白が狭くなっていた。肩は触れない。けれど、隣に座った湊の腕から、汗の冷えた匂いがする。体育館の熱に混じるその匂いを、俺は不思議なほど懐かしく感じた。
壁の時計を見る。
針は、日付が変わる少し前を指していた。
「帰るか」
「うん」
湊は立ち上がった。
南側扉へ向かう。俺が先に鍵を外すと、湊は扉の前で一度だけ立ち止まった。いつもの癖だ。だが今度は、息を吐いたあと、すぐに外へ出た。
古い金属扉が軋む。
外の湿った空気が、ふたりの間を通り抜ける。夜の校庭には誰もいない。遠くの道路を走る車の音が、校舎の壁に薄く反射している。
湊が振り返った。
「明日、七時な」
「分かってる」
「寝坊するなよ」
「しない」
「俺が起こす」
「自分で起きる」
「そこは頼れよ」
湊は笑った。
俺も、少しだけ笑った。
扉を閉める前に、湊が手を伸ばし、金属の表面を三度叩いた。
コン、コン、コン。
「何してる」
「帰る合図」
「入るときの合図だろ」
「出るときにも使えるだろ」
湊はそう言って、校舎の影へ歩き出した。
俺は扉の内側に残ったまま、その背中を見ていた。今度は呼び止めなかった。呼び止める必要がないと思えたからだ。
湊は、俺の前から消えたわけではない。
ただ、自分の道へ歩き始めただけだった。
扉を閉じる。
金属の音が、夜の体育館へ返ってくる。
俺は床に残ったボールを拾った。手のひらに伝わる革の柔らかさを確かめる。明日、俺たちは同じコートに立つ。その先では、別々の場所へ進む。
それでも今夜、ボールは一度だけ、迷いなく湊の手へ届いた。
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