第4話 扉の内側、濡れた呼吸

鍵を回すと、金属の内部で小さな音がした。
それだけで、扉の向こうにいる湊の気配が濃くなる。俺は一度、手を離しかけた。開けなければ、湊は帰るかもしれない。帰れば、今夜は何も決めずに済む。明日の朝になれば、試合のための声を出せる。主将として、必要な指示を出せる。
そう考えたところで、南側扉の向こうから、靴底が地面を擦る音がした。
「春翔」
湊の声は低かった。
「……いる」
「知ってる。さっきからずっと、床鳴らしてるから」
扉一枚を隔てているのに、いつもの湊の調子が少しだけ戻っていた。けれど、それは本当に戻ったのではなく、戻そうとしているだけだった。声の奥に、薄い膜のような緊張が張っている。
「入るなら、入れ」
言ってから、俺は鍵を外した。
扉を押し開ける。
古い金属が、喉の奥で咳をするように軋んだ。湿った夜気が細く流れ込み、昼間に溜まった床の熱を撫でていく。外灯に照らされた湊の顔が見えた。髪は汗で額に張りつき、肩から下げたバッシュの紐が片方だけ長く垂れている。いつものリストバンドは、暗がりでも分かる色をしていた。
湊はすぐには入らなかった。
扉の前で一度だけ息を吐く。体育館へ入るとき、試合前にコートへ出るとき、湊は必ずそうする。空気を切り替えるための癖だと思っていた。けれど今は、足を踏み入れる場所を選び直しているように見えた。
「門限、過ぎてる」
「知ってる」
「先生に見つかったら怒られる」
「それも知ってる。だから、誰にも見つからないうちに入れてって言ったんだけど」
「帰ればいい」
湊の口元がわずかに動いた。
「出たばっかりなのに、もう追い出す?」
「そういう意味じゃない」
「そういう意味に聞こえたけど」
軽口の形をしていたが、湊は笑わなかった。
俺は扉をさらに開けた。
「入れ」
湊は一拍置いてから、中へ入った。
扉が閉まる。金属の音が体育館の広さに吸われ、遅れて小さく返ってきた。外の虫の声が薄くなり、換気扇の回る音と、床板の軋みだけが残る。
湊は入口に立ったまま、暗いコートを見渡した。昼間なら、誰かがボールをつき、誰かが叫び、誰かが笑っている場所だ。今はリングもラインも夜の色に沈み、遠くの非常灯だけが、床の一部を青白く照らしている。
「相変わらず、広いな」
「いつも見てるだろ」
「昼と夜は違うだろ。夜の体育館は、何でも三割増しで寂しく見える」
「寂しくない」
「そういうところだよ」
「何が」
「いや、いい。主将様は夜でも主将様だなって」
湊はそう言って、また笑おうとした。けれど、笑い声は途中で消えた。俺はボールを拾い、指先で縫い目をなぞった。
「座るか」
「おまえが言うと、取り調べみたい」
「座らないなら、立ってろ」
「はいはい。相変わらず融通が利かない」
ベンチへ向かう。湊は少し遅れてついてきた。
ふたりで端に座る。間には、ひとり分の空白があった。近すぎれば肩が触れる。遠すぎれば、向かい合うために声を張らなければならない。そのどちらも嫌で、俺たちはベンチの両端に座った。
俺はボールを三回ついた。
ドン、ドン、ドン。
夜の体育館では、バウンドの振動まで床から伝わってくる。三回目の音が消える前に、湊が小さく息を吐いた。
「それ、まだやるんだな」
「何が」
「三回ついてから打つやつ。考え込んでるとき、いつもやる」
「別に」
「別にじゃない。中学のころから変わってない。フリースローの前も、試合でミスったあとも、何か言われて困ったときも、三回」
「数えてるのか」
「数えるだろ。隣にいたんだから」
湊は膝の上で指を組んだ。指先が落ち着かず、親指の爪を何度も撫でている。
「おまえも、入る前に息を吐く」
「俺のは普通の呼吸」
「普通じゃない」
「人の呼吸に文句つけるなよ」
「文句じゃない。知ってるだけだ」
その言葉が、ふたりの間に落ちた。
知っている。
俺はその意味を考えた。湊は俺の癖を知っている。俺も湊の癖を知っている。何か言いたいときほど口数が増えること。話をそらしたいときに笑うこと。目を合わせないまま核心に触れようとすること。今日、校門の影でバッシュの紐を結び直していたこと。
そこまで知っているのに、進路のことだけは何も言えなかった。
「推薦のこと」
俺が言うと、湊の指が止まった。
すぐにはこちらを見なかった。視線はコートの中央に置かれたままだった。夜の床に、非常灯の明かりが細長く伸びている。
「その話、する?」
「来たのは、そのためだろ」
「来た理由を勝手に決めるなよ」
「じゃあ、何のために来た」
「忘れ物」
「何を」
「忘れ物は忘れ物」
「明日のメニューなら、もう聞いてるだろ」
「それ以外」
「何だよ」
湊は笑いかけた。けれど、笑う前に喉を鳴らした。
「……それを聞くために来たんだよ」
「俺が?」
「そう。おまえが、何を忘れたのか聞くと思って」
「答える気はなかったのか」
「答える気があったら、最初から言ってる」
「じゃあ、何で来た」
「だから、分かんないんだって」
湊の声が、少しだけ強くなった。
「来る途中で何回も帰ろうと思った。学校の前まで来て、やっぱりやめようと思った。南側扉のところまで来て、三回叩くかどうかで、たぶん五分くらい立ってた。おまえがいなかったら、そのまま帰るつもりだったし、いても開けてくれなかったら、それでいいと思ってた。なのに、開けられたら開けられたで、何を言えばいいのか分からなくなる。謝るのも違うし、怒るのも違うし、明日の試合の話だけして帰るのも、たぶんもっと違う」
「……」
「だから、忘れ物って言った。便利だろ。忘れ物なら、取りに来ても変じゃないし、見つからなければ帰れる」
「見つからなかったら?」
「知らない。諦める」
「何を」
「だから、それを聞いてるんだろ」
湊はようやく俺を見た。
目が合ったのは、数日ぶりだった。湊の目は怒っているようにも、疲れているようにも見えた。その奥に、俺が見ないふりをしてきたものがある。けれど、覗き込めば壊してしまいそうで、俺は先に視線を外した。
「俺が、先に言うべきだった」
声に出すと、言葉は思ったより薄かった。何度も頭の中で繰り返した文なのに、口から出た瞬間、古い紙のように頼りなかった。
「そうだな」
「推薦のこと」
「うん」
「もっと早く言えばよかった」
「うん」
「……悪かった」
湊はすぐに答えなかった。
謝罪を受け取るとき、湊はいつもなら「珍しい。明日、雪降るんじゃない」と言う。今日は言わなかった。長い沈黙が、体育館の中央へ伸びていく。俺はその沈黙を埋めるために、何か説明しようとした。
「ただ、決まったわけじゃなかったから」
「それは聞いた」
「ちゃんと決めてから言おうと思ってた」
「それも聞いた」
「おまえには、適当に言いたくなかった」
湊の眉がわずかに動いた。
「その言い方、今でも嫌いだ」
「何で」
「大事だから言えなかった、みたいに聞こえるから」
「大事だった」
「なら、なおさら早く言えよ」
湊は膝から手を離し、両手をベンチの縁についた。
「決まってないから言えない。ちゃんと説明できないから言えない。おまえに変な顔をされたくないから言えない。そうやって言わない理由を並べてるうちに、俺はおまえの中で、最後に知らせればいい人間になった」
「そんなつもりはなかった」
「つもりの話じゃない」
湊の言葉は、以前に松本先生が使ったものと同じだった。けれど、先生の声が静かな床のようだったのに対して、湊の声には、踏みつけられた場所から浮かび上がる熱があった。
「おまえ、俺に言う前に、みんなに知られてたんだぞ。先生も、家の人も、たぶん推薦先の大学の人も知ってる。俺だけが、教室の後ろで誰かの話を聞いて、ああ、そうなんだって知った。おまえが行く場所も、どんな学校かも、俺は人づてに聞いた。なのに、おまえは俺の前で『まだ決まってない』って言った」
「あれは、本当に」
「本当に決まってなかった?」
「……ほとんど決まってた」
「だったら、そう言えよ」
返す言葉がなかった。
湊はそこで声を荒げなかった。怒鳴れば、俺も反論できたかもしれない。けれど、湊は静かに言葉を重ねた。静かな怒りは、体育館の壁に当たらず、まっすぐ俺のところへ届いた。
「俺はさ、おまえが行くことに反対したいわけじゃない。推薦なんて、簡単に来るものじゃないし、ずっとそういう場所でやりたいって言ってたのも知ってる。おまえが行くって決めたなら、俺が止めたって止まらないだろ。そもそも、止める権利なんかない」
「湊」
「でも、権利がないことと、寂しくないことは別だろ」
その声だけが、少し揺れた。
湊はすぐに視線を外した。体育館の隅に置かれたボール籠を見ている。籠の中には、使い古したボールがいくつも重なっていた。どれも同じように見えるのに、触れれば一つずつ違う。革の柔らかさも、傷の場所も、弾み方も。

「俺は地元に残る」
湊は続けた。
「専門学校に行って、卒業したらこの辺で働く。商店街の店を全部継ぐわけじゃないけど、今いる場所から出ない。出ないって決めた。おまえみたいに、県外の大学から声がかかるようなものじゃない。誰かがすごいって言ってくれる選択でもない。だから、俺が残るって言ったら、おまえが『そうか』って顔をするのが嫌だった」
「そんな顔はしない」
「するよ」
「しない」
「する。おまえは悪気なくする。地元に残ることを、俺が仕方なく選んだみたいに見る」
「見てない」
「見てないなら、もっと早く聞けよ。俺が何でそこへ行くのか。何をしたいのか。専門学校の名前すら、おまえはちゃんと知らないだろ」
俺は黙った。
知らなかった。
湊が駅前の専門学校へ行くことは知っている。卒業後、商店街の近くで働きたいと言っていたことも、姉から聞いた。だが、なぜそこなのか、どんな勉強をしたいのか、そこで何を作ろうとしているのか、俺は訊いていなかった。
訊けば、湊の選んだ未来が形になってしまう気がした。形になれば、自分の未来と並べて見なければならない。違いがはっきりすれば、今までのようにはいられない。
俺は進路を選ぶことから逃げたのではない。
選んだあとに、湊と並べて見ることから逃げていた。
「……怖かった」
言葉が、勝手に出た。
湊がこちらを見る。
「何が」
「言えば、おまえが変わるのが」
「俺が?」
「顔とか、声とか。今みたいに」
「今みたいにって、どんなだよ」
「分からない。でも、前と同じじゃなくなる」
言いながら、手首を押さえた。右手の皮膚に、左手の指が食い込む。
「推薦が決まったとき、嬉しかった。ずっとやりたかった場所で続けられると思った。でも、そのあとにおまえの顔が浮かんだ。先に言わなきゃいけないと思ったのに、言ったら終わる気がした。俺が行くって決めた瞬間に、ここでおまえと過ごしてきた時間まで、もう終わるみたいに感じた」
湊は何も言わなかった。
「だから、ちゃんと決まってからにしたかった。俺の気持ちが変わらないって、自分で確かめてから。おまえに話して、もしおまえが嫌な顔をしたら、それでも俺は行くって言えるようにしてから」
「それ、俺に何を求めてるんだよ」
「……分からない」
「分からないまま、俺を後回しにしたのか」
「そうだ」
湊の手が、ベンチの縁から落ちた。
沈黙が戻る。けれど、さっきまでの沈黙とは違った。言葉がなくなったのではなく、言葉にしたものが、まだふたりの間で形を変えている。
湊は立ち上がった。
「もう帰る」
「湊」
「明日、七時集合だろ。主将が寝坊したら困るし」
「待ってくれ」
俺は手を伸ばしかけた。
触れる前に止める。湊の肩と俺の指先の間に、数センチの空気が残った。湊はその距離を見下ろしたが、振り払わなかった。
「俺は、おまえを止めたいわけじゃない」
「分かってる」
「分かってないから、言ってる」
「分かってるって」
湊は低く言った。
「俺だって、止めたいわけじゃない。止めたら、おまえはたぶん行かない。行かないおまえを見たら、俺はもっと嫌になる。俺のせいで残ったみたいになるから」
「そんなふうには思わない」
「おまえは思わなくても、俺が思うんだよ」
湊はそこで、頬の内側を噛んだ。笑おうとしたのだと思う。けれど、もう笑いに変える力は残っていなかった。
「だから、ちゃんと行けよ。俺のために迷うな。俺のせいで残るな。俺のせいで勝てないな。そういうの、いちばん嫌だ」
「俺は、俺のために行く」
「なら、俺のために黙るなよ」
その言葉は、胸の奥に深く入った。
俺は手を下ろした。触れられなかった距離が、そのまま俺たちの間に残る。近いのに、まだ遠い。だが、以前のように遠ざかるしかない距離ではなかった。
「湊」
「何」
「おまえは、俺が行くのが怖いのか」
訊いてから、聞いてはいけないことだったと思った。
湊はすぐに答えなかった。体育館の奥で、換気扇が一度だけ大きく鳴る。湿った空気が動き、汗の匂いと古い木の匂いが混ざって鼻に入った。
「怖いよ」
湊は言った。
「怖いに決まってるだろ。おまえがいなくなって、俺だけがここに残る。今までなら、練習が終わっても、明日また会えるって思えた。でも、大学に行ったら、そうじゃない。連絡しなきゃ会えない。予定を合わせなきゃ話せない。おまえは新しいチームで、新しい友達を作って、俺の知らない場所で、俺の知らない時間を過ごす。俺が知ってるおまえが、俺の知らない人間になっていく」
「俺は変わると思う」
「変わるだろ」
「でも」
「でもじゃない。変わること自体が嫌なんじゃない。変わるのに、俺だけが何も知らないままなのが嫌なんだよ」
湊はようやく俺を見た。
「俺だって、地元に残るって決めたからには、ここで何かをするつもりだ。おまえがいないから、仕方なくここにいるんじゃない。俺はこの町で働きたい。商店街の店が減っていくのを見てるだけなのが嫌だし、駅前の専門学校で地域のイベントや店舗運営のことを学べるなら、そこへ行きたい。残るって、ただ動かないことじゃない。俺は俺のほうへ進むんだよ」
その言葉に、俺は顔を上げた。
湊の声には、怒りとは別の熱があった。地元への執着ではなく、地元を選び直そうとする意思。俺はそれを、ただ「残る」という一言の中へ押し込めていた。
「……悪かった」
さっきよりも、少しだけ言葉が重かった。
湊は目を逸らした。
「謝るの、今日二回目」
「何回でも言う」
「それはそれで怖いな。明日、雨降るかも」
「降ったら、扉が軋む」
「知ってる」
湊の口元が、今度はほんの少しだけ緩んだ。
笑顔というほどではない。けれど、完全に閉じた表情でもなかった。
俺はベンチの下へ手を伸ばした。そこには、さっき湊が置いたスポーツドリンクが一本残っていた。冷気が薄れ、表面の水滴はほとんど乾いている。
「飲むか」
「おまえが飲めば」
「二本ある」
「じゃあ、もらう」
湊は座り直した。
俺もベンチへ戻る。さっきより少しだけ距離が近かった。肩は触れない。けれど、ボールを置いたとき、互いの靴先が同じ床の傷に並んだ。
湊がキャップを開ける。
プシュ、と小さな音がして、甘い匂いが立った。
「明日さ」
湊が言った。
「何」
「試合、ちゃんと勝つぞ」
「当たり前だ」
「その言い方、今はちょっと腹立つ」
「勝ちたいから言ってる」
「誰と?」
湊はボトルを口元へ運びかけたまま、こちらを見た。
俺はすぐに答えなかった。いつものように一拍置いた。けれど今度は、その間を隠すためではなく、自分の言葉を選ぶために使った。
「おまえと」
湊の目がわずかに揺れた。
「それ、明日の試合だけ?」
「分からない」
「主将がそれでいいのかよ」
「今は、分からないままでも言う」
湊はしばらく俺を見たあと、ボトルを傾けた。冷えたスポーツドリンクが喉を下りる音が、静かな体育館に妙に大きく聞こえる。
飲み終えた湊が、ボトルを膝に置いた。
「じゃあ、明日は俺が先に走る」
「いつもそうだろ」
「今日は言っておく。おまえが迷って、俺がそれを見つける。そういう役割だから」
「俺は迷ってない」
「はいはい」
「……迷ってる」
「知ってる」
その返事には、責める響きがなかった。
体育館の外で、風が校舎の壁を撫でていった。南側扉がわずかに揺れ、金属の継ぎ目がかすかな音を立てる。俺はその音を一度、二度と数えた。
扉の内側で、湊の呼吸が隣にある。
まだ、何も終わっていない。進路も、明日の試合も、離れていく先のことも、ひとつも解決していない。それでも、さっきまで胸を塞いでいたものが、少しだけ薄くなっていた。
湊がボールを拾い、指先で回し始める。
「一本だけ、合わせるか」
「今から?」
「一本だけ。司令塔としての最終確認」
「口実だろ」
「そう。口実」
湊は立ち上がった。
俺も立ち上がる。
暗いコートの中央へ、ふたりで歩いた。床板が足の下で鳴る。湊はボールを一度だけつき、こちらへ投げた。
ボールが手のひらに収まる。
今度は三回つかなかった。
俺はそのまま走り出した。
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