3話 本町通りの短い電話

本町通りへ出ると、商店街は夕暮れの熱を少しだけ逃がし始めていた。

アスファルトはまだ昼の光を抱えていて、歩くたびに靴底から熱が上がってくる。けれど、建物の隙間を抜ける風には、昼間とは違う薄い冷たさが混じっていた。店先の植木鉢の葉が一枚だけ揺れ、その向こうで、文房具店のシャッターが半分ほど下ろされている。

店の前には、鉛筆や消しゴムを詰めた籠が並んでいた。夏休みの宿題を買いに来る小学生のためだろう。色とりどりのノートが、夕陽を受けて表紙だけ明るく見えている。

古い喫茶店の窓から、氷の触れ合う音が聞こえた。

カラン、と一度鳴って、しばらくしてからもう一度鳴る。

店内では、誰かがアイスコーヒーを混ぜているらしい。その音を聞くと、湊と練習帰りに寄った日のことを思い出した。湊はいつも炭酸の抜けたクリームソーダを頼み、飲み終わってから「やっぱり喫茶店は氷が主役だな」と言う。俺が意味を訊くと、「氷がなければ、ただの甘い水だろ」と、分かったような顔をする。

ああいうくだらない会話を、最近はしていない。

アイスの自販機の前で立ち止まった。

透明な扉の向こうで、棒状のアイスが何本も並んでいる。湊が好きだった、安いソーダ味のものも残っていた。俺は財布を出しかけて、手を止めた。

買っても、渡す相手がいない。

そう思ったところで、ポケットの中のスマートフォンが震えた。

画面には、真奈美の名前が出ていた。

姉から電話がかかってくるときは、たいてい要件がない。要件があるときほど、最初にどうでもいい話をする。東京の電車が遅れたとか、駅の売店で買ったコーヒーがまずかったとか、こちらが返事をする前に、ひとりで話を進めていく。

「もしもし」

「まだ学校?」

開口一番、そう訊かれた。

「今、帰り」

「帰りって、もう家の近く?」

「本町通り」

「じゃあ、まだ学校みたいなもんじゃん」

真奈美の声の向こうで、電車が通過する音がした。東京の音は、こちらの商店街の音と違う。遠くで車が走る音や、自転車のベルではなく、いくつものものが重なって、どれも止まらずに流れていく。真奈美はその中で暮らしている。

俺は自販機の前に立ったまま、透明な扉の中のアイスを見ていた。

「明日、試合なんでしょ」

「うん」

「県大会前日に、こんなところでのんびりアイス選んでて大丈夫なの」

「選んでない」

「じゃあ、何してるの」

「立ってる」

「それを世間では、のんびりしてるって言うんだよ」

真奈美は笑った。

笑い声は明るかったが、その明るさには、こちらへ手を伸ばしすぎない距離があった。家にいたころの姉は、俺の部屋のドアを勝手に開け、返事をするまで何度も名前を呼んだ。東京へ出てからは、電話をかけてきても、俺が黙ると黙って待つようになった。

その変化を、俺は少しだけ寂しく思っている。

「姉ちゃん」

「ん?」

「東京って、慣れる?」

訊いてから、言葉の選び方を間違えたと思った。

真奈美はすぐに返事をしなかった。電車の音も、今度は聞こえない。代わりに、遠くで何かが擦れる音がした。駅のベンチにでも座ったのかもしれない。

「何に?」

「生活に」

「ずいぶん大きく出たね」

「……そういう意味じゃなくて」

「分かってる。分かってるけど、質問が雑なんだよ」

笑いを含んだ声だった。

「東京に慣れるかどうかなら、今でもよく分かんない。道は覚えたし、電車の乗り換えもできる。家賃を払って、洗濯して、知らない人に混じって講義を受けて、帰りに一人で飯を食う。それが続けば、慣れたってことにしていいのかもしれない。でも、慣れたから寂しくないわけじゃないし、寂しいから帰るわけにもいかない」

俺は黙って聞いていた。

自販機の冷却装置が低く唸っている。夕陽が透明な扉に反射し、アイスの箱を二重に見せていた。

「地元を出るって、もっときれいなものだと思ってた」

「誰がそんなこと言ったの」

「言われてない」

「なら、勝手にきれいにしないほうがいいよ。出るのも残るのも、実際はそんなにきれいじゃないから」

「湊は、地元に残る」

口にした途端、胸の奥が硬くなった。

真奈美は、また少し間を置いた。

「そう」

「専門学校に行くって」

「知ってる。前に会ったとき、湊くんがずっとその話してたから。駅前の校舎がどうとか、卒業したら商店街の近くで働きたいとか」

「俺には、ちゃんと話してない」

「それは湊くんが話してないの? それとも、あんたが聞いてないの?」

返事ができなかった。

真奈美は、俺が黙るのを知っていて訊いている。子どものころからそうだった。俺が何かを隠そうとすると、姉は問い詰める代わりに、少しだけ違う角度から言葉を置いた。逃げ道を残しているようで、実際にはどこへ逃げても同じ場所へ戻される。

「推薦、決まったんだって?」

「……うん」

「おめでとう」

「ありがとう」

「それだけ?」

「何が」

「嬉しいとか、怖いとか、行きたいけど行きたくないとか。そういうのは?」

「行くよ」

「聞いてない。行くかどうかじゃなくて、どう思ってるかを訊いたの」

俺は自販機のボタンに指を置いた。

ソーダ味のアイスを選ぶ。押し込むと、内部で機械が動き、しばらくしてから、冷たい缶が一つ落ちてきた。アイスではなくスポーツドリンクだった。間違えたことに気づいたが、戻すこともできない。

「嬉しいよ」

俺は言った。

「ずっと、そういうところでプレーしたかった。練習環境もいいし、大学でも続けられる。松本先生にも、逃したら後悔するって言われた」

「松本先生がそう言ったの?」

「そういう意味じゃない」

「また雑になった」

「……自分で決めた」

「うん」

「だから、誰かのせいにはしたくない」

言葉にすると、ひどく固かった。

自分のために決めた。努力して、選ばれて、行くと決めた。それを湊に否定されたくなかったし、否定されるような選択にしたくなかった。けれど、そのために先に何も伝えなかったことが、別の形で湊を傷つけた。

正しい選択をしようとした。

その結果だけが、正しさからこぼれ落ちている。

「春翔」

真奈美が、俺の名前を呼んだ。

姉がこういう呼び方をするときは、だいたい余計なことを言う。

「迷ってるなら、歩きながら考えなよ」

「歩きながら?」

「立ち止まって、全部きれいに整理してから動こうとするから、あんたは遅いんだよ。進路も、人間関係も、試合も。歩きながら考えて、考えながら間違えて、それでも次の角を曲がるしかない」

「でも、間違えたら」

「戻ればいいじゃん」

「そんな簡単に」

「簡単だよ。戻るのが簡単なんじゃなくて、戻る場所をなくさないことが大事なの」

その言葉が、胸の奥に残った。

本町通りの先には、桐丘高校の校門がある。その向こうに第二体育館があり、南側の古い扉がある。俺は今、そこから歩いて離れているのに、真奈美の言葉を聞いた瞬間、もう一度戻る道を考えていた。

「湊と、何かあった?」

姉は、やはり余計なことを訊いた。

「別に」

「その返事をするとき、声が低くなるね」

「何もない」

「何もない人は、電話の途中で自販機に二回もお金を入れない」

手元を見ると、俺はいつの間にか缶を握りつぶしかけていた。冷えた水滴が手のひらへ流れ、指の間に溜まっている。

「喧嘩した」

「珍しいね」

「珍しくない」

「あんたたち、喧嘩しても翌日には戻ってたでしょ」

「今回は戻ってない」

「じゃあ、戻ってない理由があるんじゃない」

「推薦のことを、言うのが遅れた」

口から出た声は、自分で思っていたより小さかった。

真奈美は何も言わなかった。否定も、慰めもない。俺が話し続けるのを待つための沈黙だった。

「言おうと思ってた。でも、ちゃんと決まってから言いたかった。湊だけには、適当に言いたくなかった」

「それで黙ってたの?」

「うん」

「それ、湊くんにはどう聞こえると思う?」

俺は答えられなかった。

「大事なことだから言えなかった。大事な相手だから、先に言えなかった。あんたの中ではそうでも、相手には、先に言う価値もないって聞こえることがあるよ」

痛かった。

けれど、否定できなかった。

「姉ちゃんは、出ていくとき、誰かにそう思われた?」

「思われたよ」

「誰に」

「家族とか、友達とか。まあ、私が全部説明しなかったのも悪いけど。でもね、出ていく人間は、自分のことで精いっぱいになる。残る人間は、出ていく人間の背中ばかり見る。どっちも自分のことで精いっぱいなのに、見ている方向が違うんだよ」

「……湊は、俺の背中を見てるのかな」

「さあ。それは本人に聞けば」

真奈美はそこで、いつものように話を切り上げた。

「じゃあ、明日寝坊しないで。主将が遅刻したら、推薦取り消しになるかもよ」

「ならない」

「分かんないよ。大学って怖いから」

「適当なこと言うな」

「ほら、少し戻った」

電話の向こうで、真奈美が笑った。

俺も笑いかけたが、うまく笑えなかった。

「姉ちゃん」

「何」

「東京に行って、後悔した?」

訊くと、今度は長い沈黙があった。

「後悔した日はあるよ」

「毎日?」

「毎日じゃない。帰りたいと思った夜は、けっこうあった。駅から部屋までの道が分からなくなったり、誰にも話さずに一日が終わったりするとね。でも、帰ったら帰ったで、出なかったことを後悔したと思う」

「じゃあ、どうしたの」

「後悔が少ないほうを選んだ」

それは、あまりにも姉らしい答えだった。

何かを選べば、何かを失う。失わないために止まっていれば、止まったことを後悔する。だから完全に納得できる道を待つのではなく、自分があとで抱えられる後悔のほうへ進む。

「迷ってるなら、歩きながら考えなよ」

真奈美はもう一度、同じ言葉を言った。

「ただし、歩きながら誰かを置いていかないようにね。置いていくなら、置いていくって言えばいい。戻るつもりなら、戻るって言えばいい。言わないまま歩くから、後ろの人間には消えたように見えるんだよ」

電話が切れた。

俺はしばらく、暗くなりかけた画面を見つめていた。

缶の水滴が手のひらを伝って、肘の近くまで落ちてくる。冷たいはずなのに、皮膚の上では熱く感じた。俺は蓋を開け、スポーツドリンクを飲んだ。甘さが口の中に広がり、汗で乾いた喉をゆっくり下りていく。

飲み終えてから、俺は学校のほうへ歩き出した。

商店街の中央にあるベンチを通り過ぎる。湊と何度も並んで座った場所だった。背もたれの塗装が剥げ、木の表面が露出している。冬に座ると冷たく、夏は服が汗で張りつく。それでも湊は毎回そこへ座り、買ったアイスを食べながら、どうでもいい話を続けた。

ベンチの脇に、小さなレシートが落ちていた。

拾い上げると、昨日の日付が印刷されている。アイス一個、炭酸飲料一本。湊が買ったものかどうかは分からない。分からないのに、俺はそれを捨てられず、ベンチの端へ置いた。

商店街の奥で、店主がシャッターを下ろし始めた。金属の擦れる音が通りに響く。閉じていく店の隙間から、焼き魚と油の匂いが流れてきた。生活の匂いだった。誰かが夕食を作り、誰かが店を閉め、誰かが明日のために明かりを消している。

湊がここに残りたいと言った理由を、俺は分かったつもりでいた。

でも、分かっていたのは、店の名前や道の順番だけだった。湊がこの町のどこに、どんな時間を置いているのか。残ることを、どんな覚悟で選んだのか。俺は訊いていなかった。

角を曲がると、校門が見えた。

その影に、誰かが立っていた。

肩にバッシュの紐をかけている。いつも使っている、少し擦り切れたものだ。手首には、同じ色のリストバンド。遠目にも湊だと分かった。

湊は、こちらを見ていた。

俺は足を止めた。

湊もまた、動かなかった。

校門の向こうで、第二体育館の窓が夕暮れを映している。西日が消えた空は、まだ完全には暗くなっていない。蝉の声は途切れ途切れになり、代わりに、どこかの家からテレビの音が聞こえていた。

呼び止めなければならない。

今度こそ、そう思った。

けれど、何と言えばいいのか分からない。推薦のことを謝るのか。さっき姉に言われたことを話すのか。それとも、何も整理できていないまま、ただ湊の名前を呼ぶのか。

湊が先に笑おうとした。

口元がわずかに動く。いつものように、冗談を一つ挟むつもりだったのだと思う。だが笑いきれず、顔の片側だけが引きつった。

俺は缶を握ったまま、湊を見ていた。

湊は視線を外した。

肩にかけたバッシュの紐を、意味もなく結び直している。結び目はほどけていない。何かを言うとき、手を動かしていないと落ち着かないのだろう。

俺は一歩、前へ出た。

湊も同じだけ後ろへ下がった。

それだけの動きで、間にあった距離が、さっきまでより広くなった気がした。

「湊」

名前を呼んだだけで、喉が乾いた。

湊は振り返らなかった。

「何」

「……まだ、学校に戻るのか」

「忘れ物」

「何を」

「忘れ物は忘れ物」

軽口の形をしていたが、声に力がなかった。

「明日のメニューか」

「それはもう聞いた」

「じゃあ何」

「だから、忘れ物だって」

湊は笑おうとした。けれど、今度は笑い声にもならなかった。視線を校門の外へ向けたまま、頬の内側を噛んでいるのが分かる。

俺はそれ以上訊けなかった。

湊は背を向けた。

歩き出す前に、一度だけ立ち止まった。扉の前でいつもそうするように、息を整える仕草だった。第二体育館へ入るときも、試合前にコートへ出るときも、湊は必ず一度だけ息を吐く。

その背中を、俺は呼び止められなかった。

呼び止める言葉が、どれも正しくない気がしたからだ。

言葉は正しくなくてもいい。姉はそう言っていた。歩きながら考えろ。戻るつもりなら、戻ると言え。

それでも俺は、口を開けなかった。

湊の姿が校舎の角へ消える。

缶の水滴が手のひらに落ち、夏の熱を少しだけ冷ましていく。俺はその冷たさを確かめるように、指を握り直した。

胸の奥は、むしろ熱くなったままだった。

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