2話 棚の上の記憶

部室へ戻ると、汗を吸った空気の中に、古い木と樹脂の匂いが混じっていた。

窓は開いている。けれど、夕方の風は部屋の入口で止まったように、棚の奥まで届かない。壁に立てかけられたモップの柄から、まだ水の滴る音がしていた。誰かが急いで片づけたのだろう。床には細い水筋が何本か残り、その上に、窓から差した西日の帯が途切れ途切れに重なっている。

棚の上には、引退した先輩たちの寄せ書き入りのボールが置かれていた。

白い油性ペンで書かれた文字は、時間が経つほど薄くなるはずなのに、ところどころ濃く残っている。誰かの「次は頼む」という字の横に、別の誰かが描いた変な顔が重なり、その下に、卒業した先輩の名前が斜めに走っていた。

俺はいつも、そこを見ないふりで通る。

見てしまうと、自分もいつかここに残す側になるのだと、急に現実が形を持つからだった。

明日の試合が終われば、俺たち三年は引退する。勝てば次があるように思えるが、県大会の先に続くのは、俺たちの高校生活ではない。推薦の大学へ進む俺も、地元の専門学校へ行く湊も、今までのように同じ時間割で授業を受け、放課後になれば第二体育館へ集まることはなくなる。

それは分かっていた。

分かっていたからこそ、見ないでいた。

「春翔」

入口から松本先生に呼ばれた。

先生はクリップボードを脇に抱え、いつものように腕を組んで立っていた。汗をかいている様子もない。黒いポロシャツの襟だけが少し湿っていて、そこに体育館の熱が残っているように見えた。

「はい」

「これ」

差し出された紙を受け取る。

県大会のメンバー表だった。上から順に名前が並び、俺の名前の横には主将を示す印がついている。湊の名前は、俺のすぐ下にあった。いつもなら見慣れた並びに何も感じないはずなのに、その二つの名前が、今日は同じ紙の上で妙に離れて見えた。

「確認しろ。間違いがあれば今日中に言え」

「ありません」

「本当にか」

俺は紙から目を上げた。

先生は俺を見ていなかった。窓の外へ視線を向け、開いた窓から入ってくる蝉の声を聞いているようだった。

「……ありません」

「そうか」

それだけ言って、先生はクリップボードを脇に抱え直した。

俺は紙を折らずに、両手で持ったまま立っていた。何か言われると思っていた。明日は最後だとか、主将として声を出せとか、湊とは話したのかとか。けれど先生は、そういう言葉を一つも寄越さない。

待っているのは、たぶん俺のほうだった。

「先生」

「何だ」

「推薦のことなんですけど」

言葉にした途端、喉の奥が乾いた。進路という言葉を使うだけで、湊の顔が浮かぶ。俺はメンバー表の端を指で押さえた。

「湊には、まだ……きちんと話せていません」

「知っている」

先生の返事は短かった。

「知っているって、どういう意味ですか」

「部の空気は見ている」

「だったら、何か言ってください。俺が説明するべきなのか、湊に話をさせるべきなのか。明日は試合です。こういう状態のままじゃ、チームにも影響が出る」

言いながら、声が少しずつ硬くなるのが分かった。主将らしいことを言っているつもりだった。部のために、試合のために、空気を整えなければならない。そう思っているのに、実際には、自分が何をすれば楽になるのかを訊いているだけだった。

先生はすぐに答えなかった。腕を組んだまま、窓の外を見ている。

「春翔」

「はい」

「おまえは、湊に何を言わせたい」

その質問は、予想していなかった。

「……何を、って」

「謝らせたいのか。祝わせたいのか。納得させたいのか。それとも、自分が悪くないと確認したいのか」

「違います」

思わず声が出た。

「俺は、そんなつもりじゃ」

「つもりの話はしていない」

先生はそこで初めて俺を見た。

「おまえが何をしたいのかを聞いている」

言葉が止まった。

メンバー表の紙が、指の間でわずかにたわむ。自分が湊に何を求めているのか、考えたことがなかった。俺はただ、元に戻りたいと思っていた。進路の話をする前の、練習後にくだらない話をして、商店街でアイスを買って、帰り道に次の試合の展開を話す時間へ戻りたい。

けれど、それは湊に何かをしてもらう願いではない。過ぎた時間を、なかったことにしてほしいという願いだった。

「……分かりません」

やっとそう言うと、先生は少しだけ目を細めた。

「なら、今すぐ決めるな」

「でも、明日が」

「明日があるから、今日すべて片づける必要はない」

「試合に持ち込めということですか」

「持ち込むかどうかを決めるのも、おまえだ」

先生はクリップボードを持ち直した。

「主将だから迷うな、という意味ではない。迷ったままでも、誰かに決めさせるなという意味だ」

それだけ言うと、先生は部室を出ていった。

南側扉の閉まる音が、廊下の奥へ長く響いた。

俺はメンバー表を見下ろした。湊の名前の上に、窓から入った光が細く落ちている。紙の白さの中で、その名前だけが、手を伸ばせば届く場所にあるのに触れられないもののように見えた。

棚の上のボールへ視線を移す。

寄せ書きの中に、見覚えのある字があった。二年前、俺たちが一年だったころの三年生が書いたものだ。

――どこに行っても、たまには戻れ。

その下に、別の字で小さく「戻る場所があればな」と書き足されている。

俺は椅子を引き、棚の前に座った。ボールを手に取る。表面は乾いていて、何人もの手の脂が染み込んだ革の感触がした。ペンの盛り上がりが指先に当たる。文字をなぞると、知らない先輩たちの声まで聞こえてくるようだった。

卒業してから、誰も同じ場所にはいない。

県外の大学へ行った人もいる。家業を継いだ人もいる。地元の工場に勤めた人もいる。それでもこのボールは、進路の違いを一つの棚に置いたまま、何年も部室に残っていた。

ただ、残っている。

それだけのことが、急に大きく感じられた。

壁際の破れた試合予定表に目を向ける。

去年の県大会の日付の部分が、途中から裂けていた。負けた試合の欄だけが消えているわけではない。勝った試合も、次の試合も、その先の空白も、紙の裂け目の向こうに一緒に途切れている。

俺は立ち上がり、予定表の端を指で押さえた。

試合は終わっても、予定表は残る。勝っても負けても、紙は破れる。記録は欠ける。それでも、誰かが次の紙を貼る。

そうやって部は続いてきた。

「春翔、まだいる?」

廊下から一年の佐伯の声がした。

「いる」

「先生、戸締まりするって。あと、明日の集合、七時で合ってる?」

「合ってる」

「湊先輩にも伝わってるかな」

胸の奥が一度だけ強く縮んだ。

「……先生から伝わってる」

「そっか。じゃあ大丈夫だね」

佐伯はそれ以上訊かなかった。明るい足音が遠ざかる。俺は返事をしたあとで、自分が何に対して答えたのか分からなくなった。

大丈夫。

その言葉を、俺は何度使ってきただろう。後輩が練習についてこられないときも、松本先生に怒られたときも、試合で負けた帰り道も。大丈夫と言えば、問題が小さくなるような気がした。

けれど、湊に対してだけは、その言葉が通じなかった。

湊は、俺の「大丈夫」に根拠がないとき、すぐに気づく。俺が目を合わせず、返事の前に一拍置くことも、ボールの縫い目をなぞることも知っている。知っているから、たぶん今も、俺が大丈夫ではないことを知っている。

部室を出る前に、俺は棚の上のボールを元の位置へ戻した。

そのとき、ボールの裏側に、細い鉛筆書きの文字があるのに気づいた。

――離れても、忘れるな。

誰が書いたのかは分からない。表の寄せ書きにはなかった言葉だった。人目につかない場所へ、わざと隠すように記されている。

俺はしばらく、その文字に触れていた。

忘れるな、と書かれているのが、何を指しているのか分からない。場所か、仲間か、負けた試合か、それとも、離れることを怖がった自分自身か。

ボールを棚へ戻し、部室の照明を消した。

最後に、床を拭くことにした。

雑巾を水道で濡らす。絞った布から、ぬるい水が手首を伝って肘へ落ちた。体育館へ戻り、木床に残った汗の跡を、ゆっくり、まっすぐ拭き取っていく。

手を動かしている間だけは、湊の顔を見ずに済む。

見なくて済むなら、湊の沈黙に追い詰められずに済む。そう思っていた。

だが、床を半分ほど拭いたところで、南側扉の向こうから、かすかな音がした。

金属が、わずかに擦れる音。

俺は雑巾を止めた。

風だと思った。古い扉は雨の日に軋む。今日は雨の気配こそないが、夕方から湿気が増している。先生も、扉の音を聞くと天候を確認する癖があると言っていた。

もう一度、音がした。

今度は、誰かが扉に触れた音だった。

俺は立ち上がった。濡れた雑巾を床に置いたまま、南側扉へ歩く。体育館の床が、足の下で小さく鳴った。

扉の前で止まる。

外に誰かいる。

その気配だけが、金属一枚を隔てて伝わってくる。俺は鍵へ手を伸ばした。指先が冷たい金属に触れる。開ける理由はない。門限は過ぎている。こんな時間に残っていること自体、先生に見つかれば叱られる。

それでも、手を離せなかった。

扉の向こうで、誰かが息を整えている。

一度。

長い間。

そして、三回。

コン、コン、コン。

音は小さかった。

けれど、広い体育館の中では、ボールの跳ねる音よりはっきりと響いた。

「春翔」

扉の向こうから、湊の声がした。

いつもの明るさはなかった。早口でもない。喉を一度鳴らしてから、言葉を選ぶときの声だった。

「まだ、いる?」

俺は鍵に触れたまま、返事をしなかった。

扉の向こうで、湊が少し動いた。靴底が地面を擦る音がする。帰るつもりなら、もう背を向けているはずだった。

「誰にも見つからないうちに、入れてくれない?」

軽口にしようとして、できなかった声だった。

俺は扉の前に立ったまま、開けるかどうかを決められずにいた。向こうにいるのが、謝りに来た湊なのか、何かを終わらせに来た湊なのか、それさえ分からない。

ただ、三回のノックだけが、金属の内側でまだ震えていた。

← 横にスクロールして読み進められます

棚の上の記憶 - 三回の合図 - 誰でも作家life