1話 夕方の反響

七月下旬の桐丘高校は、夏休みに入った校舎特有の、使われなくなった道具みたいな静けさに包まれていた。

廊下の窓は開いているのに風が通らない。掲示板の端で、進路説明会の紙だけがかすかに震えている。誰もいない教室から、古い蛍光灯の唸りが聞こえた。グラウンドでは野球部の掛け声が遠く続いていたが、校舎を一枚隔てると、その声も水の底から響いてくるようだった。

第二体育館の南側扉を開けると、熱がまとわりついた。

西日を吸った床板は、白い木目の一つひとつまで浮かび上がらせている。ワックスの匂いに、汗とゴムの匂いが重なっていた。高い天井の鉄骨は薄暗く、窓から差し込む光の帯の中で、細かな埃がゆっくり落ちている。

俺はボールを拾い、三回ついた。

ドン、ドン、ドン。

手のひらに伝わる振動が、いつもより浅い。三回目のバウンドが低くなり、ボールは腰のあたりで不自然に跳ね返ってきた。

それでもシュートを打った。

ボールはリングの手前に当たり、金属の縁を一周して落ちた。

ネットが揺れた。

音だけが、妙に長く残った。

「春翔、まだやってんのか」

背後から声がして振り返ると、一年の佐伯が入口に立っていた。練習用のシャツを肩に引っかけ、片方の靴紐だけほどけている。後ろには二年の三浦もいて、手にはモップを持っていた。

「片づけ、終わったか」

「終わった。というか、先輩が残るなら俺らも残るしかないじゃん」

「帰っていい」

「それ、主将が言うと帰れないやつ」

三浦が笑った。いつもの部活の空気だった。誰かがからかい、誰かがそれに乗り、最後には床に散ったボールを数えながら戸締まりをする。俺はそういう時間を嫌いではなかった。むしろ、練習よりも少しだけ好きだったかもしれない。

ただ今日は、その輪の中に戻ることができなかった。

「明日、最初の試合、八時半だよね」

佐伯が訊いた。

「集合は七時」

「早。主将、寝坊したらどうする?」

「寝坊しない」

「そこは『おまえらが起こせ』とか言うところじゃないの」

「自分で起きろ」

「厳しいなあ」

佐伯がわざとらしく肩を落とす。三浦が笑いながらモップを壁に立てかけた。

「湊がいれば、もうちょっと柔らかく言ってくれるのにな」

何気ない言い方だった。

俺の指が、ボールの縫い目の上で止まった。

三浦は気づかなかったのか、気づいていてあえて続けたのか分からない。佐伯が「湊先輩、今日来てないんすか」と訊く。声の調子には、ただの確認以上のものはなかった。

「今日は別だ」

自分でも驚くほど短い返事になった。

「別って?」

「帰れ」

三浦がモップを持ち直した。

「はいはい。主将様の自主練を邪魔しないようにしますよ。明日、ちゃんと寝てくださいね」

二人が出ていく。南側扉が閉まると、体育館はまた広くなった。

広くなったというより、俺ひとりを残して余計なものが消えたようだった。

ボールを持って、フリースローラインに立つ。

リングを見る。

その向こうに、湊の顔が浮かんだ。

目を合わせる前に少しだけ視線を外す癖。何かを言う前に喉を鳴らす癖。気まずくなると、どうでもいい冗談を一つ挟む癖。俺が返事をしないままでいると、「はいはい、考え中ね」と笑って待つ癖。

その笑い声を、ここ数日は聞いていない。

ボールを三回ついた。

ドン、ドン、ドン。

今度はきちんと腰の高さまで跳ねた。けれど、呼吸が合わない。息を吸うタイミングが遅れ、肘が少し開いた。放ったボールはリングの右側に当たり、床へ落ちた。

拾いに行く。

転がったボールが、コートの隅で止まった。そこには先週、湊がバウンドパスの練習中に転ばせたボールがつけた黒い跡が残っている。湊は床に手をついたまま、「今のは床が悪い」と言い張った。俺が笑わなかったので、三秒後に自分で吹き出した。

あのときは、何も失わないと思っていた。

進路の話をしても、推薦の通知を見せても、少し揉めるだけで、最後にはいつものように戻れると思っていた。

俺は、そう思っていた。

だから伝えるのが遅れた。

推薦の話を最初に聞いたのは、六月の終わりだった。松本先生に呼ばれ、進学先の名前を告げられた。県外の大学。バスケットボール部からの推薦。練習環境も、寮も、学費の支援もある。俺が望んできたものが、いくつも整った形で目の前に並んだ。

先生は「考えておけ」としか言わなかった。

家に帰って、姉の真奈美に連絡した。真奈美は電話に出るなり、「で、行くの、行かないの」と訊いた。まだ何も決めていないと答えると、「決めてない人間の声じゃないけど」と笑った。

その夜、俺は湊にメッセージを送ろうとした。

推薦の話がある。

文字にすると、それだけだった。

何度も打ち直した。送信ボタンに指を置いたまま、画面を閉じた。次の日も、その次の日も送らなかった。

湊には、俺の口から言わなければいけないと思った。俺たちは中学の頃から、試合のあとにどちらが先に水を飲むかみたいなくだらないことまで、隣で話してきた。大事なことほど、直接言わなければならない。

そう考えているうちに、時間だけが過ぎた。

そして先週、進路希望調査の紙を先生が集めた。

教室の後ろで、誰かが俺の推薦の話をしていた。湊はそのとき初めて知った。

「おまえ、行くんだってな」

練習が終わったあと、体育館の裏でそう言われた。

俺は「まだ決まってない」と答えた。

「でも、ほとんど決まってるんだろ」

「そういう話だ」

「へえ。そういう話ね」

湊は笑った。いつもの笑い方に似ていたが、目が笑っていなかった。

「俺には言わなくてよかったんだ」

「言おうと思ってた」

「いつ?」

「ちゃんと決まってから」

「決まってからって、何が? 俺に言うことが?」

「そうじゃない」

「じゃあ何だよ」

湊の声は大きくなかった。大きくないぶん、逃げ場がなかった。

俺は何か返そうとした。けれど、どの言葉も言い訳に聞こえた。先に言うべきだった。そう思っていたのに、それを口にすれば済む問題ではない気がした。

「おまえは、もう決めたんだろ」

湊はそう言って、俺の返事を待たずに歩き出した。

その背中を見ていた。

呼び止めるべきだった。

だが俺は、主将として何を言うべきかを考えてしまった。謝るのか。説明するのか。湊の進路を訊くのか。どれも遅すぎる気がした。

結果、何も言わなかった。

その沈黙が、今も体育館の床に貼りついている。

俺はまたシュートを打った。

入った。

次も入った。

三本目は外れた。

外れるたびに、同じ場所から打ち直した。五本、十本、十五本。数えているうちは、考えなくて済む。ボールを受け、膝を曲げ、肘を固定し、指先から放す。動作を一つずつ確かめれば、気持ちの置き場所も見つかると思っていた。

だが、二十本目を外したとき、リングに当たった音が湊の言葉に聞こえた。

――おまえは、もう決めたんだろ。

俺はボールを拾い、ベンチへ戻った。

水筒の蓋を開ける。冷えたスポーツドリンクを喉へ流し込む。甘さが舌の奥に残り、汗で乾いた口の中をべたつかせた。好きな味のはずなのに、今日は飲み終えたあとも、何かを飲み込めていない感じがした。

スマートフォンを取り出す。

湊とのトーク画面を開いた。

最後に届いたメッセージは、三日前のものだった。

『明日のメニュー、松本先生から聞いといて』

その前には、俺が送った短い返事。

『了解』

それだけだった。

文字の間に、言わなかったことが積もっている。画面をスクロールしても、俺たちが以前どんなくだらない話をしていたのか、すぐには思い出せなかった。試合の動画を送ったり、商店街の自販機に新しいアイスが入ったと騒いだり、後輩の寝癖を写真に撮ったりしていたはずなのに、今は短い二文字しか残っていない。

俺はメッセージ欄を開いた。

湊。

そこまで打って、消した。

推薦の話をしていなかったことを謝る。勝手に決めたわけではないと説明する。おまえを置いていくつもりはないと伝える。

どの言葉も、今さら言えば自分を楽にするためのものに思えた。

スマートフォンを伏せる。

体育館の外で、蝉が一斉に鳴き始めた。夕方の光がさらに傾き、床の白い反射が薄くなる。もうすぐ照明をつけなければ、リングが見えなくなる。

それでも俺は立ち上がった。

あと十本だけ打つ。

十本決めたら帰る。

そう決めたはずなのに、ボールを三回ついたあと、指先がわずかに震えた。

ドン、ドン、ドン。

その音は、広い体育館の奥へ転がっていった。

俺はボールを構えた。

リングの向こうには、まだ誰もいない。

それなのに、扉の外に誰かが立っているような気がして、俺は一度だけ南側扉を見た。金属の表面は夕暮れを鈍く映している。鍵はかかっていない。けれど、開ける理由もなかった。

シュートを放つ。

ボールは高く弧を描き、リングの内側へ落ちた。

ネットが揺れた。

乾いた音が、今度はどこにも逃げず、俺のいる場所へ戻ってきた。

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夕方の反響 - 三回の合図 - 誰でも作家life