第10話 第10話「背中を預ける朝」

第二体育館の南側扉は、朝になっても少しだけ重かった。
俺が押し開けると、金属の擦れる音が床を這い、湿った空気が中へ流れ込んだ。夜のあいだに溜まった熱が、まだ体育館の隅に残っている。ワックスの匂いと、古い木材の乾いた匂い。窓から差し込む光は白く、コートの上に細長い四角形をつくっていた。
先に入った湊が、扉を押さえたまま振り返る。
「今日は、三回じゃないんだな」
「鍵を持ってるからな」
「つまらない」
「何が」
「せっかくの合図なのに」
「合図は、もう分かってるだろ」
湊は一瞬だけ俺を見て、それからいつものように笑った。
「まあな」
体育館の奥では、二年の連中がボールを出していた。後輩のひとりが俺たちに気づき、慌てて頭を下げる。
「おはようございます、主将」
「おはよう。テーブル、出してくれ。メンバー表を置く」
「はい」
声を出したことで、喉の奥が少し開いた気がした。
昨夜まで、俺は主将という言葉を、自分を縛るために使っていた。迷ってはいけない。弱音を見せてはいけない。先に決めた以上、揺れてはいけない。
だが今朝、その言葉は以前ほど重くなかった。
俺が迷わないから、主将なのではない。迷ったままでも、コートへ出るために先に立つ。それくらいの意味でいいのかもしれない。
部室から戻ると、松本先生がスコアブックを開いていた。黒いクリップボードを片手に、メンバー表の名前を一人ずつ確認している。俺が近づくと、先生は顔を上げた。
「寝たか」
「少し」
「湊は」
「たぶん、同じくらいです」
隣で湊が口を挟む。
「俺はちゃんと寝ました。夢の中で三回くらい勝ってます」
「なら、今日は四回目を現実でやれ」
先生はそれだけ言って、メンバー表を俺へ差し出した。
紙の上に並んだ名前を、指でなぞる。俺の名前。そのすぐ下に湊の名前。何度も見てきた並びなのに、今朝は少し違って見えた。
「主将」
「はい」
「今日、最初の声はおまえが出せ」
「分かっています」
「そうか」
先生はそれ以上言わなかった。
湊が俺の横から紙を覗き込む。
「先生、俺の名前、字がちょっと薄くないですか」
「おまえの存在感が薄いからだ」
「司令塔に向かって、それ言います?」
「コートで濃くしろ」
湊は一度だけ口を開き、それから何も言わずにメンバー表を見た。ふざけた返しを探しているのだろう。だが見つからなかったのか、指先で紙の端を軽く押さえた。
体育館の外から、車のドアが閉まる音がした。
続いて、いくつかの声。大会へ向かうため、他の部員たちも集まり始めたらしい。静かだった校舎が、少しずつ人の気配を取り戻していく。
俺はボールを一つ拾った。
指先に馴染んだ革の感触。縫い目の位置。少しだけ潰れた表面。三回、床へつく。
タン、タン、タン。
湊がそれを聞いて、こちらを見る。
「今日も三回か」
「癖だ」
「知ってる」
「だったら言うな」
「確認。合図は大事だから」
湊はそう言って、自分のボールを指先で回した。回転が安定している。緊張しているときほど、湊はボールを長く回す。いつもならそのまま軽口を続けるはずなのに、今日は黙っていた。
俺はそれを見て、ボールを湊へ投げた。
湊は片手で受け取った。
「何だよ」
「走るんだろ」
「走る」
「なら、今から動け」
「命令?」
「主将からの」
「はいはい」
湊は笑いながら、コートへ出ていった。
アップが始まる。靴底が床を擦り、ボールが跳ね、後輩たちの声が反響する。いつもの朝の音だった。だが、その一つひとつが妙に鮮明に聞こえた。
パスを受ける。
返す。
湊が走り込む。
俺は一度も顔を上げずに、リングの左斜め前へボールを出した。湊の手がそこへ伸びる。足音が二つ続き、レイアップがリングを抜けた。
「今の、見えてた?」
湊が戻りながら訊く。
「見えてない」
「じゃあ、何で出した」
「おまえがそこへ来ると思った」
「それを見えてたって言うんだよ」
湊はボールを拾い、今度は俺へ返した。
パスの強さが、いつもより少しだけ強い。受けた手のひらが痺れた。
「今日は、弱いパス出さないから」
「いつも弱くない」
「今日は特に」
湊は前を向いたまま言った。
「受け取れない場所にも出す。無理なら、無理って言え」
「言わない」
「言えよ。無理なものは無理だ」
「おまえのパスなら取る」
湊の足が一瞬止まった。
俺自身も、口にしてから驚いた。以前なら、そんなことは言わなかった。言い切れる根拠を探しているうちに、機会を逃していた。
湊は振り返らず、片手を上げた。
「それ、忘れるなよ」
窓の外で、蝉が一斉に鳴き始めた。
体育館の中の声を押し流すような大きさだった。夏の熱が、音になって降ってくる。俺は額の汗を手の甲で拭い、コートの中央へ戻った。
松本先生が笛を鳴らす。
「集合」
部員たちが円になる。俺はその輪の前に立った。後輩たちの顔が並んでいる。眠そうなやつもいる。緊張で唇を結んでいるやつもいる。全員が、俺の次の言葉を待っていた。
以前の俺なら、勝つための言葉を探した。
負けるな。悔いを残すな。最後まで走れ。
どれも間違いではない。だが、今朝はそれだけを言いたくなかった。
「今日、俺たちは別々の場所へ行く」
湊がわずかに顔を上げた。
「この大会が終われば、進学するやつもいる。残るやつもいる。部活を続けるやつも、別のことを始めるやつもいる。でも、今だけは同じコートに立つ。だから、ここにいる全員の動きを信じてほしい。見えなくても、誰かが走っている。声が聞こえなくても、誰かが空いている。迷ったら、近くの味方を見ろ」
喉が少し震えた。
「俺も、そうする」
誰かが小さく息を吸った。
「勝とう」
短い言葉だった。
それでも、胸の奥から出てきたものを、そのまま置けた気がした。
松本先生が笛を首にかける。
「行くぞ」
体育館を出ると、校門の向こうに夏の光が溢れていた。バスのエンジンが低く鳴っている。湊が俺の隣へ並び、肩にかけたバッグの紐を直した。
「なあ」
「何だ」
「今日、負けても喫茶店な」
「昨日も言った」
「確認」
「合図は大事なんだろ」
湊は少しだけ目を細めた。
「そう。三回くらい確認しないと」
俺たちはバスへ向かって歩いた。
背中に、第二体育館の扉が閉まる音がした。もう振り返らなかった。扉の向こうにあるものは、置いていくのではなく、あとで戻ってくる場所として残っている。
バスの前で、湊が先に乗り込む。
俺はその背中を追った。
今度は、見失わないためではない。
見えない場所でも、きっと走っていると信じるために。
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