9話 山岸先生の席

日が昇るころ、山岸先生が第一体育館へ入ってきた。

西側扉の鍵が外れる音に続いて、鍵束が短く鳴る。古い金属の響きは、消灯後の夜に聞いたものより軽かった。それでも、昨夜のノックを思い出させるには十分だった。

俺と湊は、ベンチの前に立っていた。

朝の体育館は、夜とは別の場所に見える。窓から差し込む光が床の傷やボール痕をすべて照らし出している。夕方の赤も、消灯後の青黒さもない。ただ、白い線と、汗が乾いたあとに残る薄い跡と、松ヤニの匂いだけが、昨日から続いているものとしてそこにあった。

山岸先生は、俺たちを見た。

湊の手にある空き缶。俺の鞄から少し覗いている進路希望調査票。どちらにも目を止めたが、何も尋ねなかった。

「練習、始めるぞ」

低い声だった。

先生はベンチの端へ歩き、置かれていたタオルを一枚だけ横へずらした。三人掛けのベンチに、二人分の場所が空く。座れ、と命じたわけではない。そこに座ってもいいと、空白だけを残したように見えた。

湊がその場所を見た。

「先生、これ」

「座るなら座れ。立っていたいなら立っていろ」

「選択肢が雑だなあ」

「お前の進路希望調査票よりは多い」

湊は一瞬、口元だけで笑った。けれど、俺のほうを見なかった。

俺も座らなかった。

山岸先生は腕時計を見下ろし、笛を首から外した。

「アップ二周。終わったら、昨日の最初のセットを確認する」

「昨日の夜もやりましたけど」

湊が言う。

「だから、今朝もやる。身体は一度で覚えない」

「俺たちは、けっこう覚えがいいほうですよ」

「頭で覚えた動きは、頭が揺れると忘れる」

先生は俺を見た。

「三浦。左足の踏み切りが早い」

「はい」

「相沢。返球が一拍遅い」

「はい」

俺は湊を見た。

湊も俺を見たが、すぐに視線を外した。

「先生、俺たち、どっちが悪いんですか」

湊が尋ねた。

「二人とも悪い」

「便利ですね、その答え」

「便利ではない。正確だ」

山岸先生はベンチの前から動かなかった。

「三浦が先に行く。相沢が合わせようとする。その結果、相沢の返球が遅れ、三浦がさらに先へ行く。どちらか一人を直せば済む問題ではない」

「でも、俺が早いのが原因で」

俺が言うと、先生はすぐに遮った。

「原因を一つに決めるな。そういう決め方をするから、相手の動きを見失う」

湊が小さく息を吐いた。

「朝から厳しいなあ」

「大会の日の朝に、優しくしてほしいのか」

「できれば、少しだけ」

「寝ているときに来い」

「それ、優しいんですか」

「知らん」

湊は肩をすくめた。

俺たちは外周を走り始めた。

床を蹴る音が、まだ部員の少ない体育館へ広がる。窓から入る朝の風は冷たく、汗をかく前の身体には少し硬かった。湊は俺の半歩前を走っていた。いつもなら、俺が速度を上げて並ぶ。だが、今日はそのままにした。

湊の背中を見る。

洗い込まれた練習着が、肩の動きに合わせて小さく揺れている。右足の着地が少し内側へ入る。疲れているときの癖だ。俺はそれを知っている。知っているから、先へ出る前に声をかけようとした。

「湊」

呼びかけて、口を閉じた。

湊が振り返る。

「何?」

「……別に」

「それ、昨日から何回目だよ」

「数えてない」

「俺は数えてる」

湊は走りながら笑った。けれど、息が少し乱れている。笑うために呼吸を余計に使ったせいだ。

二周目に入る。

俺は速度を落とした。湊の背中が少し遠ざかる。普段なら、置いていかれたように感じる距離だった。足の裏が勝手に前へ出ようとする。

先へ行け。

追いつけ。

置いていかれるな。

身体の内側で、昨日までの自分が騒いでいる。

俺はそれを無視した。

遅れることを覚えろ。

山岸先生の声が、朝の冷気の中に残っていた。

走り終えると、湊が膝へ手を置いた。俺はその横で呼吸を整える。先生は二人の足元を見てから、ボールを一つ投げた。

「向かい合え」

俺と湊は、コートの中央で向き合った。

三メートルほどの距離がある。近すぎて動きは隠せない。遠すぎて、冗談で間を埋めることもできない。

「三浦は、相沢の顔を見る」

「またそれですか」

「まただ」

「肩や足を見たほうが、動きは読みやすいです」

「読みやすいものだけを見ているから、先に行く」

「でも、顔を見たら遅れます」

「遅れろ」

先生の答えは、昨日と同じだった。

湊がボールを拾った。

「先生、俺はどこ見ればいいんですか」

「三浦を見るな」

「それ、けっこう難しいですよ」

「普段はできている」

湊は黙った。

その一瞬だけ、朝の体育館に残った音が薄くなった。窓の外の鳥の声、遠くの校舎から響く水道の音、誰かが廊下を歩く靴音。そのすべての奥に、言わなかった時間が沈んでいる。

先生は気づかないふりをして、ボールを湊へ返した。

「始めろ」

湊が右へ踏み出す。

俺は顔を見る。

一瞬、目が合った。

湊の視線がわずかに揺れる。いつもなら、その揺れを合図に身体を先へ出す。だが、今日は動かなかった。

湊が一歩、遅れて切り返す。

俺は半拍遅れてついていく。

「遅い」

山岸先生が言った。

「でも、今のはいい」

俺は息を吐いた。

遅いのに、いい。

その言葉が、これまでの自分の中にはなかった。速く、強く、先に行く。そうでなければ、勝負の場に立てないと思っていた。けれど、遅れたことで見えたものがあった。湊の呼吸。足の向き。踏み出す前のわずかなためらい。

それは、肩や腰よりもずっと確かな合図だった。

「もう一回」

湊が言った。

「今度は、俺がちゃんと出す」

「昨日も出してた」

「昨日は、お前が先に行った」

「おまえが遅かった」

「まだ言うか」

「言う」

「じゃあ、今日の俺が遅れたら、全部俺のせいにしろよ」

湊は笑った。

「お前、そういうほうがやりやすいだろ。自分が悪いって言われるより、俺が悪いって言われたほうが、走れる」

「……何だよ、それ」

「知らない。長年の観察結果」

「勝手に分析すんな」

「お前のことなら、けっこう詳しいよ。感情が乱れるとシュートが早くなる。褒められると目線が泳ぐ。焦ると肩が上がる。あと、困ると『別に』って言う」

「おまえもだろ」

「俺は困ったら笑う」

「知ってる」

湊の笑いが止まった。

「知ってた?」

「昔から」

「そういうの、もっと早く言えよ」

「言う必要なかった」

「今は?」

俺は返事の前に一拍置いた。

「今は、言ったほうがいいと思った」

湊は少しだけ目を細めた。

山岸先生が笛を鳴らした。

「話すなら動きながら話せ。止まっていると、また余計なものを考える」

「先生、俺たちの会話、余計なもの扱いですか」

「練習中は全部余計だ」

「ひどい」

「ただし、必要なものは残る」

湊はボールをついた。

「ほら、行くぞ」

俺たちは同じ動きを始めた。

湊が右へ流れ、俺が外へ開く。いつものセットだ。だが、今日は俺が先に走らない。湊が守備役の部員を引きつけるまで、足を床へ残す。

一歩。

二歩。

湊の顔を見る。

呼吸が抜ける。

俺は走った。

パスが来る。

身体の中心で受けられた。踏み切りの位置も合っている。ボールを板へ当てる。白い球が網を揺らし、朝の光の中へ落ちた。

「今のは普通」

俺が言った。

湊がボールを拾う。

「普通って言うとき、ちょっと嬉しそうだな」

「言ってない」

「顔に出てる」

「おまえ、凛にも同じこと言われるぞ」

「佐伯は言わない。事実だけ置いていくから」

「おまえも、たまにそうだろ」

「俺は事実を置いたあと、余計な飾りをつける」

「自分で言うな」

湊は笑いながら、ボールを返した。

次の動きで、俺は受け損ねた。

パスが少し低かった。手のひらに当たったボールが脇へ流れ、俺の身体が一歩よろめく。右足が床の松ヤニを踏み、靴底がきゅ、と鳴った。

反射的に、湊の手が伸びた。

触れる直前で止まる。

代わりに、短い声が飛んだ。

「足、残せ」

雑な言い方だった。

いつもの湊なら、「大丈夫?」とは言わない。心配していると気づかれるのが嫌なのか、わざとぶっきらぼうに言う。けれど、その声の底には、俺が倒れないように見ていた熱があった。

俺は体勢を戻した。

「分かってる」

「分かってないからよろけたんだろ」

「パスが低い」

「お前が手を下げた」

「下げてない」

「下がってた」

「おまえがちゃんと出せば取れた」

「はいはい。全部俺のせいでいいよ。そうしたらお前、また走れるんだろ」

湊は軽く言った。

けれど、目は笑っていなかった。

俺はボールを拾い、湊へ歩いた。

「今のは、俺が悪い」

湊が黙った。

「手を出すのが早かった。パスが来る前に、取れると思って動いた」

「……そう」

「おまえのせいじゃない」

湊は視線を床へ落とした。耳の後ろを掻こうとして、途中で手を止める。

「別に、そんなに気にしなくていい」

「気にする」

「何で」

「受け取ったパスを、無駄にしたくないから」

その言葉に、湊の表情が少し変わった。

俺は続けた。

「一度受け取ったものは、簡単には無駄にしたくない。ボールも、時間も、言葉も」

最後の言葉を口にすると、胸の奥が熱くなった。

湊は何も言わなかった。

山岸先生が、ボールを一つ手に取った。

「続けるぞ」

先生は俺たちの間へ、わざとボールを転がした。白い球が床を滑り、二人の足元で止まる。

「今の失敗を、次で直せ。反省を長くするな。練習で使えない反省は、ただの滞留だ」

「先生、朝から難しいこと言いますね」

湊が言った。

「難しくない。お前たちは、話したあとに止まりすぎる」

「俺たち、そんなに止まってます?」

「足ではなく、目が止まる」

山岸先生は俺を見た。

「三浦、お前は相沢を見たあと、何かを確かめようとする。相沢、お前は見られたあと、見られていないふりをする。どちらも余計だ」

湊が口元を歪めた。

「先生、そこまで見てるんですか」

「見ていなければ、顧問はできん」

「怖いなあ」

「怖がる暇があるなら動け」

「はいはい」

湊はボールを拾った。

「次、いくぞ」

俺は頷いた。

今度は、湊の肩を見なかった。足元も見なかった。顔だけを見る。湊の口元がわずかに開き、呼吸が抜ける。俺は一拍待った。

走る。

パスが来る。

手のひらに収まる。

だが、今度は俺の踏み切りが遅れた。ボールを受けた位置が低く、レイアップはリングの手前で弾かれた。

「今のは?」

湊が聞いた。

「遅い」

「俺が?」

「俺が」

「珍しいな」

「うるせえ」

「いや、いいと思うよ。お前、ちゃんと自分の遅さを言えるようになった」

「褒めてんのか」

「事実」

「佐伯みたいに言うな」

「じゃあ、すごいすごい。成長したね、エース様」

「それは腹立つ」

湊がボールを拾い、俺へ投げた。

俺は受け取った。

今度のパスは強かった。掌に衝撃が残る。けれど、その強さが嫌ではなかった。湊がまだ、俺の手の届くところへ投げている。その事実が、皮膚の近くで分かった。

練習が進むにつれて、部員たちが増えていった。

体育館の扉が開き、後輩たちの声が入り込む。靴底が床を擦り、ボールが次々に弾む。朝の静けさは薄れていったが、俺と湊の間にあった呼吸は、前よりも見つけやすくなっていた。

完璧ではない。

俺は何度か先へ出た。湊も、迷ってパスのタイミングを遅らせた。先生はそのたびに、笛を鳴らすのではなく、短い言葉を置いた。

「待て」

「出せ」

「見ろ」

その三つだけで、俺たちは何度もやり直した。

最後のセットで、俺はまたパスを受け損ねた。

ボールが手のひらを滑り、身体が横へ流れる。床の白線が視界の端で傾いた。湊の手が伸びる。今度は、触れた。

指先が俺の肘にかかる。

ほんの一瞬、体重を預けた。

湊はすぐに手を引いた。代わりに、いつも通り雑な声を投げる。

「ちゃんと立てよ」

「引っ張っただろ」

「引っ張ってない。倒れそうだったから、そこに手があっただけ」

「便利な手だな」

「お前が勝手に倒れそうになるからだろ」

「倒れてねえ」

「倒れる手前は、倒れたのと同じ」

「違う」

「違わない」

俺たちは言い合いながら、またコートへ戻った。

山岸先生は、その様子を見ていた。けれど、何も言わなかった。先生の視線は、俺たちの手や顔ではなく、二人が再び立った位置に向けられていた。

昨日までなら、湊の手が伸びた瞬間、俺は反射的に振り払っていたかもしれない。助けられたと思われるのが嫌だった。弱く見られたくなかった。けれど今は、伸びた手をそのまま受け取ったことが、少しだけ自然に思えた。

俺は一人で走るために強くなりたいわけじゃない。

誰かの手が伸びたとき、それを拒まないためにも、強くなりたい。

そう思った。

練習の終わりを告げる笛が鳴った。

部員たちが床へ座り、タオルで汗を拭う。汗で湿ったユニフォームから、朝の冷たい空気へ体温が逃げていく。誰かが窓をさらに開け、夏の終わりの風が体育館を横切った。

松ヤニの匂いが、汗と古い木材の匂いの下から立ち上がる。

山岸先生は床を見回した。

「片づけ」

短い指示が飛ぶ。

俺と湊は、ベンチ脇のボールを集め始めた。湊が一つ拾い、俺へ投げる。俺が受け、棚へ置く。言葉はほとんどなかった。

それでも、昨日までの沈黙とは違った。

何を言えばいいのか分からず黙っているのではない。言わなくても、次の動きが分かるために黙っている。

最後のボールを棚へ置いたとき、湊が言った。

「今日の俺、返球遅かった?」

「少し」

「お前は早かった?」

「少し」

「じゃあ、引き分け」

「試合なら勝敗つけろよ」

「朝練は引き分けでいいんだよ。明日に残るから」

俺は倉庫の扉を閉めた。

「明日も、俺が待つ」

湊がこちらを見る。

「毎回言うなよ。言われると、こっちも遅れられなくなる」

「遅れていい」

「どっちだよ」

「遅れたら、俺が合わせる」

「お前が?」

「俺が」

湊は一度だけ息を吐いた。

「……じゃあ、俺も、出す」

「分かった」

「またそれ」

「何だよ」

「いや。前より、ちゃんと聞こえるから」

湊は目を合わせたまま、少しだけ笑った。

俺はその視線から逃げなかった。

体育館の奥で、ボールが一つ、誰かの手からこぼれた。

床へ落ちる。

一度、跳ねる。

二度、跳ねる。

朝の光を受けた白い球が、床の上をゆっくり転がっていく。俺と湊は同時に走り出した。

一歩目は、ほとんど同じだった。

二歩目で、俺が少し遅れた。

湊が振り返り、声を飛ばす。

「晴翔、来い!」

名前を呼ばれた。

その声は短く、雑で、けれど迷いがなかった。

俺は床を蹴った。

湊の背中へ追いつく。転がったボールを、二人で同時に拾おうとして、指先が触れた。

「おまえ、早い」

「おまえが遅い」

「そこは合わせろよ」

「合わせた」

「どこが」

「手」

湊が笑った。

俺も、少しだけ笑った。

笑うと、呼吸が乱れた。けれど、乱れた呼吸を隠す必要はなかった。体育館の床には、俺たちの靴跡がまた一つ増えている。昨日までの跡に重なり、先へ出た跡と、待った跡が混ざっていく。

ベンチの片側には、まだ空白が残っていた。

座るための場所なのか、離れるための余地なのか、今の俺には分からない。

ただ、そこに空白があるからこそ、誰かが戻ってくることもできる。

西側扉の金属は、朝の光の中で冷たく見えた。

それでも、俺の指先には、昨夜の取っ手の熱と、湊の肘へ伸びた手の温度が重なって残っていた。時間が経てば、どちらも消えるだろう。

消える前に、俺はもう一度、ボールを湊へ投げた。

今度は、迷わずに。

湊は両手で受け止めた。

「明日も、ちゃんと出すからな」

「待ってる」

「遅れたら?」

「走り直す」

湊は一拍置いた。

「それなら、まあ、いいか」

窓の外で、夏の終わりの風が校舎の壁を撫でていた。

俺たちは、同じ床の上に立っていた。完璧に戻ったわけではない。明日になれば、試合の速さに身体が急かされる。勝ちたい気持ちが、また足を先へ出すかもしれない。

それでも、今度は知っている。

先へ行くことと、置いていくことは同じではない。

待つことと、遅れることも同じではない。

俺は湊の顔を見た。

湊は少し遅れて、こちらを見た。

その間に、ボールが床へ落ちた。

一度、跳ねる。

二度、跳ねる。

俺たちは同じ音を聞きながら、次の一歩へ向かって走り出した。

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