第8話 勝ちたい理由

朝の明るさが少しだけ増したころ、湊は俺の左手を見た。
古いリストバンドが、汗で湿った手首に巻かれている。中学の最後の大会で買ったものだった。黒い布地は何度も洗われ、端の糸がほつれている。俺のものと湊のものを、どちらがどちらか分からないまま使い回してきた。片方を忘れた日に貸し、洗濯に出し忘れた日にまた貸した。いつから二人のものになったのか、もう覚えていない。
湊は、その端を指で弾いた。
ぱち、と乾いた音がする。
「まだ使ってんの、それ」
「使えるから」
「糸、切れかけてるけど」
「おまえが貸したやつだろ」
「俺が?」
「最初に買ったのは、おまえ」
「よく覚えてるな」
「覚えてる」
言い切ると、湊の指が止まった。
窓の外では、薄い朝の光が校庭へ広がっている。夜の湿気はまだ床の近くに残っていて、窓から入る風が、汗の冷えた首筋を撫でた。松ヤニの匂いは昨夜より弱い。それでも、何度も踏まれた床の奥から、消えずに立ち上がっている。
湊は俺の手首から目を離し、缶コーヒーの空き缶をベンチの脇へ置いた。
「それ、明日には捨てろよ。試合中に切れたら邪魔だろ」
「切れない」
「お前のそういう根拠のない自信、たまに羨ましいわ」
「おまえだって、根拠なく笑ってるだろ」
「笑うのには根拠がいらないんだよ。困ったら笑っとけば、だいたいの人は困ったまま帰ってくれる」
「俺は帰らない」
湊がこちらを見た。
俺は一拍置いてから、視線を床へ落とした。
「……昨日も帰らなかっただろ」
「お前が扉を開けたから」
「開けなかったら、帰ってたのか」
「たぶん」
「たぶんばっかだな」
「未来のことを断言する奴は信用できないんだよ」
「俺は?」
「お前は、断言したあとで勝手に走り出すから、もっと信用できない」
湊は口元だけで笑った。
その笑いは、昨夜の体育館で見せたものと同じだった。以前のように何もなかったことにするためではなく、言葉の重さを少しだけ持ち上げるための笑い。俺はその違いを、ようやく見分けられるようになっていた。
ベンチ裏には、湊の小さなメモ帳が置かれている。
表紙の角は擦れ、何度もポケットへ出し入れしたせいで、紙が波打っていた。俺は昨夜、その中に並んだ数字を見た。家計簿のような細い字。家賃、光熱費、食費。アルバイトの時間。削った金額。書かれた数字の間に、書かなかったものの形まで残っているようだった。
湊はそのメモ帳を手に取った。
「見たい?」
「いい」
「即答だな。昨日は見たそうな顔してたのに」
「見るなって顔してただろ」
「分かる?」
「分かる」
「そういうところだけは、昔から鋭いんだよな」
湊はメモ帳を膝の上へ置き、親指で表紙の縁をなぞった。
「俺さ、働くって決めたとき、最初はバスケを捨てるつもりだった」
その言葉に、朝の体育館が少し狭くなった気がした。
俺は返事をせず、缶コーヒーの空き缶へ目を向けた。金属の表面に、窓の光が細く映っている。
湊は続けた。
「捨てるっていうか、捨てたことにする。そうすれば、後から惜しがらなくて済むだろ。続けたいけど続けられない、なんて考え方をすると、ずっと何かのせいにしてるみたいになる。家のせい、金のせい、親のせい。そういうの、俺は嫌だった」
「おまえが悪いわけじゃない」
「分かってるよ。分かってるけど、悪くないからって軽くなるわけじゃないんだよ」
湊はメモ帳を開いた。
紙の上には、細かな数字が並んでいた。昨夜より明るい場所で見ると、余白の少なさがはっきり分かる。数字の横に、短い言葉が書かれている。電気、学費、食費、通院。ところどころ鉛筆で消され、書き直されていた。
「母さんが働いてる時間を増やせば、俺がすぐに働かなくてもいいかもしれない。でも、それを言ったら、母さんはたぶん増やす。そういう人だから。自分が倒れるまでやる。俺はそれを知ってるから、俺が働くって決めた。母さんにやらせるより、俺がやったほうがいいこともある」
「弟のことも?」
湊は一瞬、俺を見た。
「知ってたのか」
「少しだけ」
「誰から?」
「誰からでもない。おまえが電話で言ってた」
「電話?」
「前に、おまえの家の前を通ったとき」
湊の眉が動いた。
「聞いてたのかよ」
「聞こえただけだ」
「盗み聞きじゃん」
「おまえが窓開けてたんだろ」
「普通、家の前を通っただけで電話の内容まで覚えてるか?」
「覚えてた」
「そういうのだよ」
湊は笑いかけて、やめた。
「お前は、俺のことを覚えすぎてる」
その言葉は責めるようではなかった。だから余計に、返事が難しかった。
俺はボールを手に取った。指先で縫い目をなぞる。革の溝に、昨夜の汗が乾いたざらつきが残っていた。
「忘れたくないから」
口に出してから、遅れて恥ずかしさが来た。
湊はすぐに何も言わなかった。窓の外から、校庭を掃く箒の音が聞こえる。砂を引く音が一定の間隔で続いている。
「それ、勝ちたい理由の一つ?」
「何が」
「忘れたくないからってやつ」
「……たぶん」
「じゃあ、他は?」
「勝ちたい」
「それは理由じゃなくて、目的」
「同じだろ」
「違う。勝ちたいのは分かった。何で勝ちたいのかを聞いてる」
俺はボールを回そうとした。手のひらが汗ばんでいて、うまく回らない。ボールは指から滑り、膝へ落ちた。
「推薦が欲しい」
「うん」
「バスケを続けたい」
「うん」
「今までやってきたことを、最後に無駄にしたくない」
「それも分かる」
湊は急かさなかった。俺が言葉を探しているあいだ、メモ帳の端を指でなぞっている。いつもなら、俺が黙れば何か冗談を挟む。今日はそれをしなかった。
俺は床を見る。
昨夜、ここで何度も走った。湊が先に出て、俺が待った。パスが来るまでのほんの一瞬が、試合のどんな場面より長く感じられた。
「俺だけ、先へ行くのが怖い」
声は、自分で思っていたより小さかった。
「推薦を受けて、県外へ行って、新しいチームに入って、知らない奴らと練習する。そういうのを考えると、楽しみなはずなのに、最初に浮かぶのはおまえのことだった。おまえはどこにいるんだろうって。地元で働いて、俺の知らない時間を過ごして、そのうち俺のことを必要としなくなるんじゃないかって」
湊は何も言わない。
「勝ちたい。推薦を掴みたい。もっと上でやりたい。それは本当だ。でも、それをやったら、おまえがいなくなる気がした。だから、俺も先へ行けるって見せたかった。おまえを置いていくんじゃなくて、おまえが来られる場所まで俺が行けばいいと思った」
「俺が来る前提なんだな」
「……そう思ってた」
「勝手だな」
「分かってる」
「俺が来たいかどうかは聞かなかった」
「聞いたら、来ないって言われそうだった」
湊は視線を窓へ向けた。
朝の光が横顔を白くしている。いつもなら、何か言って笑うところだ。けれど、笑いは出てこなかった。
「俺は、お前のところへ行きたかったよ」
その言葉で、ボールを持つ指が固まった。
「県外の学校も調べた。寮の費用も、奨学金のことも、練習時間も。お前が見てないところで、結構ちゃんと調べてた。だから、行けないって決めたときは、自分でも少し驚いた。行きたいって思ってた分だけ、行けない現実がはっきりしたから」
「何で言わなかった」
「言えなかったんだよ」
「俺なら聞いた」
「聞くから言えなかった」
「矛盾してるだろ」
「してるよ。俺だって分かってる」
湊はメモ帳を閉じた。
「お前に話したら、俺の中で終わってないものが見えるだろ。俺は、働くって決めたあとも、バスケを続けたい気持ちを完全には消せなかった。そんなのをお前に見せたら、俺がどれだけ迷ってるか分かる。分かったら、お前は放っておかない。俺を連れていこうとする。たぶん、俺も一瞬、連れていってほしいと思う。だから黙った」
「俺は、連れていくなんて言ってない」
「言葉ではな。でも、プレーがそうだった」
湊は俺の胸元を指した。
「お前は、俺のパスを受ける前から走ってた。俺が出す場所を待たずに、先にゴールへ行こうとしてた。あれ、試合のためだけじゃないだろ。俺のところまで、無理やり道をつなごうとしてた」
「そんなつもりじゃ」
「つもりがなくても、そう見えた」
俺は返せなかった。
プレーは嘘をつかない。少なくとも、俺のプレーはそうだった。怒っているときは強く跳ぶ。焦っているときはシュートが早くなる。湊に言いたいことがあると、パスを強く出す。
俺はずっと、コートの上で湊を説得していたのかもしれない。
言葉ではなく、走る速さで。
「……俺は、おまえを助けたいわけじゃなかった」
「分かってる」
「一緒にいたかった」
「それも分かってる」
「でも、同じ場所にいることしか考えてなかった」
「うん」
湊は返事をした。
短いのに、逃げていない返事だった。
「俺も悪い」
「何が」
「お前がそうなるまで、黙ってた。お前に先へ行くなって言えばいいのか、行けって言えばいいのか分からなくて、どっちも言わなかった。俺が黙れば、お前は自分で好きなほうに解釈する。置いていかれると思うのも、俺がそう思わせたからだ」
「おまえは、俺が行くのを止めたくないのか」
湊はすぐに答えなかった。
メモ帳をポケットへしまい、代わりにリストバンドを見た。俺の手首に巻かれた、擦り切れた黒い布。
「止めたいよ」
その声は、昨夜よりずっと静かだった。
「本当は止めたい。県外なんか行くなって言いたい。推薦なんか受けるなって言いたい。俺と同じ地元の大学を探せって言いたい。そうすれば、今までみたいに毎日会えるし、練習もできる。お前が知らない奴らと笑ってるところを想像しなくて済む」
俺は顔を上げた。
湊はまっすぐこちらを見ていた。
「でも、俺が寂しくないために、お前の行きたい場所を潰すのは違う。お前はずっと、先に行く者は置いていく者じゃないって言ってた。だったら、お前が先へ行くことを、俺が置いていかれることに変えるなよ」
「俺が?」
「そう。お前が勝手に罪悪感を持って、俺のために残ろうとしたら、俺はたぶん、お前を嫌いになる。俺のせいで、お前が選びたいものを選べなくなるのは嫌だ。そんな形で隣に置かれるくらいなら、ちゃんと離れて、ちゃんと寂しいほうがいい」
言葉が、朝の空気を切った。
俺はリストバンドを指で押さえた。布地の下で脈が打っている。速い。けれど、昨日までのように足だけが先へ跳ねる感じはなかった。
「おまえは、強いな」
「何それ」
「そういうふうに言えるのが」
「言えるだけで、強いわけじゃない。言ったあとで、たぶん後悔する。今日の試合が終わったら、やっぱり行くなって言うかもしれない」
「そのときは聞く」
「聞くだけ?」
「怒るかもしれない」
「そこは怒るんだ」
「おまえが勝手に決めたら、怒る」
湊は少し笑った。
「じゃあ、俺も怒る。お前が勝手に俺のために何か決めたら、怒る」
「分かった」
「またそれ」
「今度は分かった」
「本当に?」
「怒られるのは嫌だから」
「理由が小さいな」
「大きい理由は、言うのが恥ずかしい」
湊は笑った。肩の力が抜けたように見えた。
だが、次の瞬間、体育館の入口から足音がした。
鍵束の音が、床に反響する。
山岸先生が入ってくる。先生は俺たちを見ると、ベンチの空いた場所へ一度目を向け、それから腕時計を確認した。何を話していたのか、尋ねる気配はない。
「練習開始まで、あと十五分だ」
「はい」
俺と湊が同時に返事をした。
先生はコートの中央へ歩き、床に残るボール跡を見た。昨夜のシュートの跡が、白い線のそばに薄く重なっている。先生はそれを靴底でこするようにはせず、ただ見ていた。
「三浦」
「はい」
「推薦を受けるそうだな」
俺は一瞬、湊を見た。湊は目をそらしている。
「……はい」
「相沢」
「はい」
「進路は」
「今日、書きます」
「何と」
湊は返事の前に息を吐いた。
「就職を第一希望にします」
先生はうなずいた。
「そうか」
それだけだった。
「先生、何も言わないんですか」
湊が聞いた。
「言う必要があるか」
「いや、普通は何か、頑張れとか、まだ考え直せるとか」
「普通を俺に求めるな」
「求めてないですけど、先生なら何か言うと思ってました」
「何か言えば、お前はそれを正解にするのか」
湊は黙った。
山岸先生は、俺たちを順番に見た。
「進路は、部活の延長で決めるものではない。だが、部活を軽く扱って決めるものでもない。三浦、お前は推薦を受ける。相沢、お前は働く道を選ぶ。どちらも、今日の試合の結果で正しさを証明する必要はない」
「でも、勝ちたいです」
俺が言った。
「勝ちたい理由は、もう分かったのか」
先生の声は低かった。
俺は返事をしようとした。いつものように一拍置く。けれど、今度は床を見なかった。
「勝ちたいからです」
先生は少し眉を動かした。
「それだけか」
「それだけじゃないです。推薦を掴みたい。今までやってきたことを、ちゃんと次へつなげたい。湊と一緒に積み上げた時間を、なかったことにしたくない。でも、湊を連れていくためじゃない。俺が行きたいから、行くために勝ちたいです」
言葉が体育館の中へ広がった。
湊は何も言わない。
俺は続けた。
「それと、離れたくないです。離れるのが怖い。でも、怖いからって、湊の進路を変えたいわけじゃない。俺は先へ行く。湊も自分で決めた場所へ行く。そのあとで、どうやって続けるかは、まだ分からない。でも、分からないままでも、いなくなったことにはしない」
山岸先生は、しばらく俺を見た。
それから、湊へ顔を向ける。
「相沢」
「はい」
「お前は」
湊はメモ帳の入ったポケットを押さえた。
「働くのは、逃げじゃないです。家のことを支えるために、自分で選びます。でも、バスケを続けたい気持ちまで、なかったことにはしません。毎日できなくても、同じチームじゃなくても、ボールは触ります。晴翔が県外へ行っても、俺は俺の場所で続ける。……続けたいって、言っていいと思えたので」
先生は一度だけ目を伏せた。
「なら、今日はそれをプレーで証明しろ」
「結果で、ですか」
「結果だけではない。自分で決めた人間の動きでだ」
先生は笛を首へ掛けた。
「相沢、最初のセットを確認する。三浦は一度止まれ。相沢は迷わず出せ。二人の進路の話を、コートへ持ち込むな。ただし、コートで交わした時間まで忘れるな」
「はい」
俺たちは返事をした。
湊がボールを拾う。
「なあ」
「何だよ」
「今日、俺のパス、速いぞ」
「合わせる」
「お前が?」
「俺が」
「珍しいな。朝から何回目だよ、その台詞」
「数えるな」
「数えるのは得意なんだよ。家計簿も、パスの本数も、お前が先に走った回数も」
「じゃあ、今日から数えるものを変えろ」
「何に?」
俺はコートの中央へ歩き出した。
「俺が待った回数」
湊は少し黙った。
そのあとで、いつものように肩をすくめる。
「それ、たぶん少ないぞ」
「増やす」
「試合中に?」
「試合中だから」
湊が笑った。
朝の体育館に、ボールが落ちる。
一度、跳ねる。
二度、跳ねる。
俺はすぐには走らなかった。湊の足音を聞き、呼吸が変わるのを待つ。身体の奥では、早く出ろと、いつもの焦りが騒いでいる。けれど、俺はその焦りごと床へ置いた。
湊が右へ切り込む。
顔を見る。
目が合う。
ボールが手を離れる。
俺は走った。
手のひらへ、正しい重さでパスが収まる。踏み切り、跳ぶ。リングへ触れたボールが網を揺らし、白い残像が朝の光の中でほどけた。
着地した俺の横へ、湊が来る。
「今のは、遅い」
「おまえが早い」
「また始まった」
「合わせた」
「なら、次も頼む」
湊がボールを拾い、俺へ返す。
そのパスは少し強かった。
俺は両手で受け止めた。
西側扉は閉じている。朝の金属は冷たく見えた。それでも、昨夜触れた取っ手の熱は、まだ指先のどこかに残っていた。温度は時間が経てば消える。けれど、消えるまでのあいだに、何を受け取ったかは忘れない。
俺はボールを湊へ返した。
今度は、迷わずに。
湊はそれを受け、コートの向こうへ走り出した。俺は一度だけ、その背中を待った。
それから、同じ方向へ走った。
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