第7話 夜明け前の缶コーヒー

体育館の窓の外がまだ群青に沈んでいる時間、俺は第一体育館の裏手へ回った。
家を出るとき、母さんは台所の明かりだけをつけていた。朝の仕込みへ出る前の、音の少ない時間だった。冷蔵庫の横に置かれた握り飯は三つ。ラップの上から触れると、まだわずかに温かかった。
「食べてから行きなさい」
母さんはそれだけ言った。
俺は一つを鞄へ入れ、残りを手に持ったまま玄関を出た。食べる気はなかった。けれど、母さんの言葉を無駄にしたくなかった。歩きながら一口かじると、塩の味が舌に残った。昨夜の味噌汁の熱と、台所で流れていた水の音が戻ってくる。
勝つことだけを連絡しなくていいから。
母さんの声は、朝の冷えた空気の中でも消えなかった。
西側扉の前で足を止める。
昨日まで何度も聞いた金属の響きが、まだ耳の奥に残っている気がした。扉は夜の冷たさを抱えていた。俺は取っ手へ手を伸ばす前に、指先で扉を三回叩いた。
コン、コン、コン。
自分で叩いた音なのに、胸の奥がわずかに跳ねた。
昨日の夜、湊がここで同じ音を鳴らした。控えめで、帰るつもりと来たい気持ちの間に挟まれたようなノックだった。あの音を聞いてから、俺はずっと眠れなかった。
目を閉じると、暗い体育館の中で湊がボールを抱えていた。働くことは逃げではないと言った声。俺の夢の中に、自分の席まで用意されていると思うなと言った、あの夜の声。どちらも消えずに残っていた。
俺は扉を開けた。
金具が低く軋む。
中へ入ると、床には夜の冷気が薄く貼りついていた。照明は落ちたままで、窓から差す群青色の光がコートの輪郭をかろうじて浮かべている。白線は途中で闇に溶け、ゴールのリングだけが遠い場所に浮いていた。
松ヤニの匂いが、かすかに息をしている。
誰もいないと思っていた。
ベンチ裏から、布の擦れる音がした。
「……早いな」
湊がいた。
膝を抱えたまま、壁にもたれている。眠っていたわけではない顔だった。目の下に薄い影があり、髪はいつもより乱れている。けれど、口元には軽口を用意しているような気配があった。言葉にする前に、喉のあたりで止まっている。
俺は足を止めた。
「おまえ、いつからいる」
「さあ」
「さあ、じゃねえよ」
「時計見てないから、正確には分からない。四時半くらい?」
「何で」
「体育館が開く時間に来た」
「開けたのは誰だよ」
「そこは聞かないほうがいい話」
「先生の鍵、勝手に使ったのか」
「借りただけ。正確には、置いてあったのを使っただけ」
「それを勝手に使ったって言うんだよ」
「朝から説教するなあ。今日の俺、試合前なんだけど」
湊は笑った。
けれど、笑いは長く続かなかった。ポケットから缶を取り出し、俺へ差し出す。まだ温い缶コーヒーだった。
「飲む?」
俺は受け取った。
「買ってきたのか」
「自販機」
「こんな時間に」
「自販機は時間を選ばないからな。人間より働き者」
「おまえは」
「俺はこれから働く予定」
湊はいつもの調子で言ったが、視線は床に落ちていた。
缶を握る。金属の温度が掌へ移ってくる。湊の指先は冷えていた。触れたのは一瞬だったのに、その温度差が不思議なくらいはっきり分かった。
「おまえ、帰ったのか」
俺が聞くと、湊は返事の前に一度息を吐いた。
「帰ったよ」
「寝た?」
「寝てない」
「何で」
「お前に言われたから」
「何を」
「勝手に逃げるなって」
俺は缶の蓋を見た。開ける気になれず、そのまま指で縁をなぞる。
湊はベンチの脚を靴先で軽く叩いた。トン、トン、と一定の間隔で音がする。教室で焦っているときの癖だった。
「帰ってから、母さんに明日の試合のこと聞かれてさ。勝つよって言ったら、珍しく笑ってた。で、弟が朝早いから、俺が起こすことになって。起こしたあと、もう一回寝ようと思ったんだけど、無理だった」
「何で」
「知らない。目を閉じると、お前が昨日言ったことが出てくるから」
「何を言った」
「忘れた?」
「忘れてねえ」
「なら、聞くなよ」
「おまえが言ったんだろ」
湊は小さく笑った。
「そうやって、すぐ正面から来るよな。朝からまぶしいんだよ」
「おまえが暗いだけだ」
「それ、体育館の照明の話?」
「違う」
「じゃあ、やめよう。朝から深いところへ行くと戻ってこられなくなる」
湊はそう言って、缶コーヒーを指で弾いた。俺が持っている缶から、かすかな金属音が返ってくる。
その音が、昨日のノックに似ていた。
俺は蓋を開けた。
プシュ、と小さく空気が抜ける。甘いコーヒーの匂いが立った。湊の好む、砂糖が少し入った安い缶コーヒーだった。俺は一口飲む。熱はもう強くない。舌の上に苦みが残り、喉を通るころには、身体の内側へ薄く広がった。
「甘い」
「文句言うなら飲むなよ」
「おまえが買ったんだろ」
「俺は苦いのが苦手なんだよ。人生だけで十分」
「そういうの、朝から言うな」
「朝だから言えるんだよ。夜に言ったら重い」
俺はベンチの端へ座った。
湊との間に、ひとり分の空間が残る。昨夜、山岸先生が空けていたような、座ってもいいし、座らなくてもいい空白だった。
窓の外が少しずつ明るくなっていく。群青の中へ、薄い灰色がにじんでいた。校庭の端に植えられた木の葉が、夜風に揺れている。まだ鳥の声はない。学校全体が、起きる時間を待っているようだった。
「調査票」
湊が言った。
「何」
「書いた?」
「おまえはそればっかだな」
「お前も昨日からそればっかだろ」
「俺は書いた」
湊がこちらを見た。
「本当に?」
「第一希望だけ」
「何て書いた」
俺は缶を握り直した。
「県外の大学」
湊の顔から、いつもの笑いが消えた。
「そう」
「推薦の話が来てるところ」
「そう」
「まだ、決まったわけじゃない」
「それは知ってる。お前、決まってないことには妙に慎重だから」
「うるせえ」
「でも、受けるんだな」
「受ける」
その言葉を口にすると、胸の奥にあったものが一つ、床へ置かれたような気がした。重さが消えたわけではない。ただ、抱えたまま走らなくてよくなった。
湊は少し下を向いた。
「そっか」
「おまえは」
「俺は、まだ書いてない」
「提出、今日だろ」
「知ってる」
「書けよ」
「命令?」
「違う。出せって言ってる」
「同じだろ」
「違う」
「何が違うんだよ」
「おまえの進路は、おまえが決めろって言ってる」
「昨日の夜も聞いた」
「なら、分かってるだろ」
「分かってる。でも、分かってるから書けるってわけじゃない」
湊は缶を両手で包んだ。指先が冷えているせいか、熱を逃がさないようにしているように見えた。
「就職に丸をつける。たぶん、地元の工場。親戚の知り合いがいるところで、春から働ける。給料は高くないけど、家から通えるし、母さんに少し入れられる。弟の進学もある。そこまで書けば、たぶん筋は通る」
「たぶん?」
「筋が通るって言葉、嫌いなんだよ。人間の生活が、紙の上でまっすぐになるみたいで」
湊の声は静かだった。
「働くのは、俺が選ぶ。そこは決めてる。でも、それを選んだら、バスケを続けたいと思った自分まで嘘になる気がする。逆に、バスケを続けたいと言ったら、家のことを見ていないみたいになる。どっちかを選ぶたび、もう片方を捨てる文章になりそうで、ペンが動かない」
「両方書けばいいだろ」
「調査票にそんな欄はない」
「欄がなければ、余白に書け」
「先生に怒られるぞ」
「俺が一緒に怒られる」
「そういうところだよ」
湊は笑った。今度は少し長く続いたが、やはり目は笑っていなかった。
「お前は、何でも一緒に背負おうとする。俺が紙を書けないって言ったら、余白まで自分のものにする。そうじゃなくてさ、晴翔。俺は、俺の紙に俺の字で書きたいんだよ。お前が隣にいるのは嬉しい。でも、お前の字で俺の人生を書かれたくない」
胸の奥に、昨日とは別の痛みが走った。
俺は缶を見た。
「……分かった」
「本当に?」
「分からないけど、聞いた」
湊が顔を上げた。
「それ、お前の新しい逃げ方?」
「何が」
「分からないけど聞いたってやつ。便利だな。責任を取らずに分かった顔ができる」
「そんなつもりじゃねえ」
「分かってる。だから困るんだよ」
湊の声が少し揺れた。
「お前は、本気で俺のことを考えてる。だから、俺も本気で拒まなきゃいけない。そうしないと、俺はたぶん、お前に甘える。お前の隣にいれば、まだ同じ道を走れる気がするから」
俺は顔を上げた。
湊は膝の上で手を組み、指先を何度も擦っている。
「昨日の夜、俺が来たのは、謝るためじゃない。お前に説明して、納得してもらいたかったわけでもない。ただ、明日の試合が終わったら、俺たちが本当に別々になる気がした。そう思ったら、家に帰っても何もできなくなった。片づけをして、風呂に入って、弟を寝かせて、それでも時間だけが余った。お前に連絡しようと思った。でも、メッセージにすると、また軽くなる気がしてやめた」
「だから扉を叩いた」
「うん」
「三回」
「三回」
「意味あるのか」
「ある。俺が一回目で帰らなかったこと。二回目でまだ帰らなかったこと。三回目で、お前が開けたこと」
俺は返事をしなかった。
湊は缶を見たまま続けた。
「お前が開けなかったら、俺はたぶん帰ってた。でも、帰ったあとも、来たことを後悔したと思う。開けてくれたから、言えた。全部じゃないけど、少しは言えた」
「俺も、開けてよかった」
口にしてから、湊の目がこちらへ向いた。
「それ、初めて聞いた」
「そうかよ」
「そうだよ。お前、いつも開けたあとで、来た理由を聞くから」
「聞くだろ」
「聞くけど、来てよかったかどうかは言わない」
俺は視線を床へ落とした。
「……来てよかった」
声にすると、恥ずかしさが首筋まで上がった。缶コーヒーを飲んで隠そうとしたが、もう空に近かった。
湊は笑わなかった。
「そっか」
「おまえも」
「何」
「来てよかったって言え」
「俺は言った」
「小さすぎる」
「聞こえたならいいだろ」
「もう一回」
湊は一瞬、目を見開いた。それから、口元を歪めた。
「お前、それ好きだな」
「いいから」
「来てよかった」
「声が小さい」
「朝だぞ。近所迷惑だろ」
「ここ学校だ」
「学校でも迷惑」
「もう一回」
湊は缶を膝の上へ置いた。軽くなった缶が、ベンチの木を小さく鳴らす。
「……来てよかったよ」
さっきよりはっきりしていた。
俺はうなずいた。
「分かった」
「何が」
「おまえが、まだ離れるつもりはないってこと」
湊の表情が止まった。
「それ、俺が言った?」
「言ってない」
「じゃあ、勝手に決めるな」
「でも、ここにいる」
「試合があるから」
「それだけか」
湊は答えなかった。
体育館の外で、鳥が一羽鳴いた。遠くの校舎から、配管を水が流れる音がする。学校がゆっくり起き始めている。
湊はポケットから小さなメモ帳を取り出した。表紙の角が擦れ、端が柔らかくなっている。家計簿のような数字が並んだページの間に、折りたたまれた紙が挟まっていた。
「これ、昨日から持ってた」
「見せるのか」
「見せない。俺が話すだけ」
「何だよ」
「工場の名前と、採用の条件。親戚の知り合いって言ったけど、正式には説明会へ行って、面接を受けて、受かったら働ける。まだ決まってない。だから、就職するって言っても、確定じゃない」
「それでも、そこへ行きたいのか」
「行きたい。家を支えたいから。でも、バスケを続けたい気持ちもある。休日に市民クラブへ入るかもしれない。高校ほど毎日は無理だけど、ボールを触らなくなるつもりはない」
「なら、続けろよ」
「またそれか」
「違う。今度は、俺が決めてない。おまえが続けたいって言ったから、続ければいいって言ってる」
湊は黙った。
俺は言葉を選んだ。普段なら、考えるより先に身体を動かしている。だが今は、先へ出たらいけない気がした。湊が自分の言葉を置き終わるまで、待つ必要がある。
「俺は、おまえに県外へ来いって言わない。来てほしいと思っても、言わない。おまえが地元で働くって決めたことを、俺のために変えてほしいわけじゃない。でも、バスケを続けたいなら、続けたいって言っていい。家を選んだから、バスケを捨てたことにしなくていい」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない」
「お前、昨日からそればっかりだな」
「おまえに言われたから」
湊はしばらく俺を見ていた。
「お前は、俺に先へ行けって言ってるのか」
「行きたいなら」
「自分だけ?」
「俺も行く」
「じゃあ、置いていくじゃん」
「置いていかない」
「どうやって」
その問いは、昨夜より深かった。
俺は答えをすぐに出せなかった。遠くのゴールを指さすような言葉では、湊の生活まで届かない。頻繁に会えると約束することも、同じようにやれると断言することもできない。
だから、分からないまま言った。
「どうやってかは、まだ分からない」
湊の眉がわずかに動いた。
「でも、分からないからって、何も言わずにいなくなるのはやめる。連絡する。帰ってきたら会う。おまえが働き始めたら、店でも工場でも、場所を聞く。暇なら、俺が行く。おまえが忙しいなら、待つ。毎日同じ場所にいられなくても、俺はおまえを探す」
言っているうちに、言葉が自分の中で形になっていった。
「おまえが俺を置いていくつもりがないなら、俺もおまえを置いていくつもりはない。たぶん、今まで俺たちは、同じ床に立つことだけが一緒にいることだと思ってた。でも、それだけじゃない。今日、俺はおまえと同じ場所にいる。おまえは俺と別の道を選ぶ。それでも、今ここで話してる」
湊は目をそらした。
耳の後ろを掻く。何か言いかけて、喉の奥で一度止める。
「……そういうの、反則だろ」
「何が」
「普段しゃべらない奴が、急に長くしゃべるなよ。こっちは返し方が分からない」
「返さなくていい」
「それも困る」
「じゃあ、言えよ」
「何を」
「置いていかないって」
湊は苦笑した。
「お前、言わせるの好きだな」
「俺が言った」
「そういう問題じゃない」
湊はメモ帳を閉じた。表紙を親指で押さえ、しばらく動かなかった。
「大会が終わっても、お前のことを置いていくつもりはない」
その声は震えていなかった。
「県外へ行っても、俺が地元で働いても、同じチームじゃなくなっても、お前のことを置いていくつもりはない。置いていく側になるのが嫌で、先に離れたふりをしていたけど、もうやめる。寂しいときは寂しいって言う。悔しいときは悔しいって言う。お前に来いとは言わない。でも、来てほしいときは、来てほしいって言う」
俺は缶を握った。
空になった金属が、手の中で軽くへこむ。
「俺も」
「何」
「行きたいときは行きたいって言う。寂しいときは……」
そこで言葉が止まった。
湊がこちらを見る。
「何」
「寂しいって言う」
「言えるの?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「練習する」
湊は笑った。今度の笑いは、隠すためではなかった。笑ったあとで、目元に疲れが残っている。その疲れも含めて、俺の前に置いているように見えた。
ベンチの外へ、朝の光が広がっていく。
床に残った白い足跡が少しずつ見えるようになった。昨日の夜、俺たちが何度も走った跡。先へ出た跡。待った跡。戻った跡。どれも消えずに重なっている。
「缶、捨てるか」
湊が言った。
「持って帰る」
「何で」
「別に」
「出たよ、それ」
「うるせえ」
「空き缶集めが趣味だったっけ」
「おまえが買ったから」
「だから何だよ」
「知らねえ」
湊は空き缶を見て、それから俺を見た。
「それ、俺が初めてお前に渡した缶コーヒーだからな」
「昨日が初めてだろ」
「そうだよ」
「何で覚えてる」
「覚えるだろ。大会前の朝に、幼なじみへ缶コーヒーを渡すなんて、人生で何回あると思う?」
「一回で十分だ」
「じゃあ、大事にしろ」
「言われなくても」
俺は空き缶を鞄の脇へ入れた。
そのとき、体育館の入口から鍵束の鳴る音がした。
山岸先生だった。
扉を開ける音がして、先生が中へ入ってくる。俺たちを見つけても、驚いた様子はなかった。床を一度見回し、ベンチの空いた場所と、二人の手にあるメモ帳や缶を順に見た。
「早いな」
「先生こそ」
湊が言った。
「俺は仕事だ。お前たちは?」
「朝練です」
「照明はつけていないようだが」
「節電」
「嘘をつくなら、もう少し考えろ」
湊は口を閉じた。
山岸先生は腕時計を見た。朝の練習開始までは、まだ少し時間がある。
「何か決まったか」
俺は先生の顔を見た。
昨夜のことを尋ねられているのか、進路のことを尋ねられているのか、すぐには分からなかった。
「……進路は、まだです」
湊が言った。
「そうか」
「でも、今日出します」
「白紙では出すな」
「分かってます」
先生は一度だけ湊を見た。それから俺を見る。
「三浦は」
「推薦を受けます」
言葉にした瞬間、心臓が一度大きく鳴った。
先生はうなずいた。
「なら、今日の試合で余計なものを証明しようとするな」
「はい」
「勝つために必要なことだけをやれ。相沢のパスを待つ。相沢は、出すなら迷うな」
「はい」
「返事だけはいいな」
「先生、俺たちのこと、何か知ってます?」
湊が聞いた。
山岸先生はすぐに答えなかった。鍵束をベンチへ置き、床に残ったボール跡を見た。
「知らないことのほうが多い」
「じゃあ、何で何も聞かないんですか」
「聞けば話すのか」
「……分かりません」
「なら、今は聞く必要がない」
先生は低い声で続けた。
「お前たちが何を選ぶかは、お前たちのものだ。俺が勝手に意味をつければ、選んだ本人より先に、選択を美談にしてしまう。そういうのは嫌いだ。進学するなら行け。働くなら働け。続けるなら続けろ。ただし、選んだあとに他人のせいにするな。自分で選んだことを、自分の足で引き受けろ」
先生は笛を首から外した。
「それができるなら、ここで何を話していても構わん。だが、開始時間までには準備しろ」
先生はそれだけ言って、照明のスイッチへ向かった。
蛍光灯が一列ずつ点く。
青黒かった体育館が、白い光の中へ戻っていく。床の傷、ボールの跡、松ヤニの粉、昨日の靴跡。隠れていたものがすべて見えるようになった。
湊が立ち上がった。
「行くか」
「うん」
「うん?」
「何だよ」
「いや、珍しい返事だなと」
「うるせえ」
俺も立ち上がる。
身体は重かった。眠れていないせいか、膝の奥に鈍い疲れがある。けれど、昨日までの重さとは違った。抱えたまま走るしかなかったものを、いくつか床へ置いてきたからかもしれない。
湊がボールを拾った。
「最初のセット、俺から出す」
「分かってる」
「俺が右へ流れて、お前が一度止まる。そこから逆へ切る」
「そのあと」
「パスを出す」
「どこへ」
湊は俺の顔を見た。
「お前がいるところ」
「遅れたら」
「待つ」
「俺が早かったら」
「呼ぶ」
「声、出せるのか」
「試合中なら」
「便利だな、試合中って」
「お前に言われたくない」
湊はボールを俺へ投げた。
俺は両手で受け止めた。正しい重さだった。
指先で縫い目をなぞる。ボールは冷えていたが、手のひらに触れているうちに、少しずつ温度を持ち始める。
窓の外では、朝の光が校舎の壁を白くしていた。群青はもう残っていない。けれど、体育館の隅には夜の冷たさがまだ沈んでいる。昨日のノックも、扉越しの手のひらの熱も、消えたわけではなかった。
俺たちはコートへ入った。
湊が右へ走る。
俺は一度、そこに残った。
身体が先へ出ようとする。いつもの癖が、足の裏からせり上がってくる。だが、湊の顔を見る。呼吸が一つ抜ける。ボールが手を離れる。
俺は走った。
パスが来る。
手のひらへ、正しい重さで収まる。
リングへ向かって踏み切る。白いボールが朝の光を横切り、古いゴールの板へ触れる。網が揺れ、音が体育館の隅まで広がった。
湊がゴール下で待っていた。
「今の、少し遅い」
「おまえが早い」
「合わせろって言ったの、そっちだろ」
「合わせた」
「なら、合格」
湊はボールを拾って、俺へ返した。
そのパスは、昨日より少し強かった。
俺は受け止めた。
西側扉は閉じていた。朝の光を受けた金属は冷たく見える。それでも、取っ手には夜の熱が残っている気がした。
同じ床に立つ時間は、もう長くない。
だからこそ、俺は先へ走る。
湊が来るのを待ちながら。
湊のパスを受け取りながら。
扉の向こうへ離れていくのではなく、離れても戻れる場所を、足音と呼吸で確かめるように。
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