6話 西側扉のノック

大会前夜の第一体育館は、消灯されてからいっそう広く感じられた。

窓から入るのは、夏の終わりの湿った夜気だけだ。昼間に溜まった熱は壁の内側へ逃げきれず、床にはまだ、部員たちの体温が薄く残っている。白い足跡とボール痕が、暗いコートのあちこちに浮かんでいた。照明を落とすと、さっきまで見えていた線が見えなくなる。そのくせ、踏んだ場所だけは靴底が覚えている。

松ヤニの匂いが低く沈んでいた。

俺はひとりで最後のシュートを打っていた。

リングへ向かって走り、二歩目で踏み切る。右手を伸ばし、ボールを板の角へ当てる。白い球が網を揺らし、床へ落ちる。拾う。戻る。また走る。

何本目かは数えていなかった。

家で書きかけた進路希望調査票は、鞄の底に入れたままだった。第一希望の欄には、学校の名前を書いた。書いたというより、字の形を置いただけだった。ペンを離したあと、その文字が本当に自分のものなのか分からなくなった。

母さんの言葉も残っている。

続けたいなら、続けたいと言わなきゃいけない。

湊の名前をメッセージ欄に打ち込み、消した。悪かった、と送ろうとして、やめた。明日、パス頼む、と打って、それも消した。文字にしてしまえば軽くなる気がした。軽くなってはいけないものまで、画面の中で薄くなる気がした。

だから、体育館へ来た。

ここなら、ボールを投げているかぎり、言葉を考えなくて済む。

床を蹴る。

一歩目。

二歩目。

踏み切る。

ボールがリングに当たった。乾いた音が、消灯後の体育館へ広がっていく。跳ね返った球を追う足音が、遅れて戻ってきた。

俺はゴール下でボールを拾った。

そのとき、西側扉のほうから音がした。

コン。

一度だけだった。

風かと思った。古い扉は、誰も触れていなくても金属を鳴らすことがある。湿気を含んだ夜気が隙間へ入り、蝶番がわずかに軋む。そういう音なら、これまでも何度か聞いてきた。

俺はボールを床についた。

跳ね返った球を受け止め、またシュートラインへ戻る。

コン、コン。

今度は二度続いた。

ボールを持ったまま、足が止まった。

西側扉は、体育館の裏手にある。正面玄関からなら、わざわざ回り込まなければならない。部員が忘れ物を取りに来るときも、先生に呼ばれたときも、普通は正面を使う。あの扉は古く、叩けば金属音が廊下まで響く。だから、誰かがそこに立つと、来たことを隠せない。

それでも、校内には半ば冗談のような話があった。

大会前夜に体育館へ行くと、本音を隠した誰かが来る。

誰が言い出したのかは知らない。去年の三年が残した話だとも、一年生が勝手に作った話だとも聞いた。俺はそんなものを信じたことはなかった。

けれど、今、その扉の向こうに誰かがいる。

三本目のノックが響いた。

コン、コン、コン。

控えめで、ためらいを押し隠したような音だった。

俺はシュートを拾い上げたまま、西側扉を見た。暗がりの中で、古い鉄の輪郭だけが青黒く浮かんでいる。扉の表面は夜の冷たさをそのまま持っているはずなのに、なぜかそこだけ、昼間の熱を閉じ込めているようにも見えた。

扉の向こうから、もう一度だけ音がする。

今度は一度だった。

俺はボールを脇へ抱えた。

鍵は開いている。山岸先生が最後に出ていくとき、戸締まりは俺がすると言っていた。先生は一度だけ俺の顔を見て、それ以上は何も聞かなかった。

扉へ歩く。

床を踏むたび、シューズの底が小さく鳴る。コートの中央から西側扉まで、ほんの数メートルしかない。それなのに、夕方まで何度も走った距離より長く感じた。

扉の前に立つ。

金属の向こうから、かすかな気配が伝わってくる。人が立っている気配。足を動かさず、帰ることもできず、こちらが開けるのを待っている気配。

俺は手を伸ばした。

指先が取っ手に触れる。

冷たい。

その冷たさの下に、ほんのわずかな熱があった。誰かの手が、反対側から触れていたのかもしれない。

俺は鍵ではなく、手で扉を押した。

古い金具が、長く軋んだ。

廊下に立っていたのは、湊だった。

「……よ」

軽口を言う前の、あの一瞬だけ目が泳ぐ顔をしている。髪には外の湿気が少しついていた。いつもなら片方だけイヤホンを入れている時間なのに、今日は何もつけていない。手には鞄も、ボールも、飲み物もなかった。

手ぶらだった。

にもかかわらず、ここへ来るまでの時間だけが、肩のあたりに残っているように見えた。

俺はすぐには何も言えなかった。

扉の金属が指先に冷たい。さっきまで握っていたボールの熱が、まだ掌に残っている。その二つの温度が、手の中で離れずにいた。

湊も黙っていた。

廊下の蛍光灯が、二人の間に薄い白線を引いている。明るいのは廊下だけで、体育館の中は青黒い。湊の顔は白い光に半分だけ照らされ、残りは扉の影へ沈んでいた。

「何してんの」

やっと出た言葉は、それだった。

湊は口元だけで笑った。

「見れば分かるだろ。夜の学校を徘徊してる」

「帰れよ」

「入れてくれないの?」

「何で来た」

「質問が二つある。どっちから答えればいい?」

「来た理由」

「そっちは答えにくいほうだな」

湊は笑いながら、耳の後ろを指で掻いた。真面目な話になると出る癖だった。だが、いつものように頭を掻いたあとで話題をずらすことはしなかった。

「練習、終わった?」

「終わった」

「なのにボール持ってるじゃん」

「最後に少し打ってただけだ」

「それを練習って言うんだよ。三浦くん、相変わらず練習と反省の区別がついてないねえ」

「うるせえ」

「怒るなって。ほら、明日、顔が怖くなるぞ」

「もう怖いだろ」

「そこは否定しろよ」

湊の声は、いつもの調子へ戻ろうとしていた。だが、途中で何度も薄くなる。笑いの形を作るたび、目だけが扉の内側へ向いた。

俺は道を空けた。

湊はすぐには入らなかった。

「いいの?」

「おまえが来たんだろ」

「先生に怒られない?」

「もう帰った」

「鍵は?」

「俺が閉める」

「それ、俺が帰ったあとでちゃんと閉めろよ。明日、体育館が使えなかったら俺のせいにされる」

「おまえのせいにする」

「やだなあ。俺、明日は被害者として試合に出るから」

湊が一歩、体育館へ入った。

その瞬間、空気が変わった気がした。

廊下の蛍光灯から切り離され、夜の体育館の乾いた広さへ身体が置かれる。湿った外気が扉の隙間から流れ込み、汗で湿ったユニフォームの背中を冷やした。湊の肩が小さく揺れた。寒いのか、緊張しているのか、俺には分からない。

扉を閉める。

金属が重く鳴り、廊下の明かりが細い線になって消えた。

「真っ暗だな」

湊が言った。

「見えるだろ」

「お前の顔は見えない」

「見なくていい」

「それは助かる」

「何が」

「今、たぶん変な顔してるから」

湊は暗がりの中で、ボールを探すように手を伸ばした。俺が抱えていた球を渡すと、湊の指が俺の手の甲に触れた。

一瞬だった。

けれど、汗で湿った指先の熱が、はっきり伝わってきた。

湊はすぐに手を引いた。

「熱いな」

「おまえの手が冷たい」

「外にいたから」

「どれくらい」

「知らない。ちょっと歩いてた」

「家から?」

「途中まで」

「途中ってどこだよ」

「駅のほう」

「何で」

「質問、多いな」

「おまえが何も言わないからだろ」

湊はボールを床へ落とした。

一度、跳ねる。

二度、跳ねる。

暗い体育館に、白い球の残像だけが浮かんだ。湊はそれを受け止め、指先でゆっくり回した。古いボールの表面には、何度も触れられた跡がある。俺たちが中学のころから使っている、少し空気の抜けた練習用のボールだった。

「今日、何本打った」

「数えてない」

「また?」

「おまえも数えろよ」

「俺はもう、数えるのをやめた」

湊はボールを俺へ投げた。

緩い軌道だった。俺は両手で受けた。胸に伝わる衝撃は軽く、けれど、受け取ったあとの重さが妙に残った。

「明日、試合だぞ」

湊が言った。

「知ってる」

「最後の」

「それも知ってる」

「だから、こんな時間まで一人で打ってるのか」

「おまえに関係ない」

「関係あるだろ。俺も出るんだから」

「そういう意味じゃねえ」

「じゃあ、どういう意味?」

俺は答えなかった。

視線が床へ落ちる。暗い床には、昼間の白い足跡がまだ残っていた。湊の靴がその上を踏む。誰かの跡に、別の誰かの跡が重なる。

湊はボールを指先で回したまま、俺を見ていた。

「進路の紙、書いた?」

「おまえは」

「質問に質問で返すなよ。先生に怒られるぞ」

「おまえが先に答えろ」

「俺は、まだ」

「まだって、明日提出だろ」

「知ってるよ。朝から紙に睨まれてる」

「ふざけるな」

「ふざけてない」

声が落ちた。

湊はボールを脇へ抱えた。暗がりでは表情がよく見えない。それでも、笑っていないことだけは分かった。

「書けないんじゃなくて、書いたら誰かに見られるから嫌なんだよ」

「誰に」

「先生とか、親とか、そういうの。書いたものって、書いてないものより説明を求められるだろ。進学に丸をつけたら、どこへ行くのか、いくらかかるのか、何年続けるのか聞かれる。就職に丸をつけたら、どうしてそっちなのか、諦めたのかって聞かれる。どっちにしても、紙の上で決めたことを、口でもう一回言わなきゃいけない」

湊はそこで一度、息を吐いた。

「俺、口で説明するのが下手だからさ。いったん書いたら、逃げられなくなる」

「逃げる気なのか」

言ったあと、胸の奥がひどく冷えた。

湊は笑わなかった。

「そう聞こえる?」

「……違う」

「お前は、俺が働くって言うと、すぐ逃げるって言う」

「言ったのは一回だけだ」

「一回で十分だろ」

湊の声は静かだった。

「言われたほうは、何度も思い出すんだよ。駅裏の自販機の前で、お前が俺を見て、何も知らないくせに逃げるって言った。俺はあのとき、怒鳴り返せばよかった。家のことも、金のことも、全部言って、お前がどれだけ分かってないか、分からせればよかった。でも、そんなことをしたら、俺はお前に説明して、理解してもらって、許してもらわないと前へ進めないみたいになるだろ。それが嫌だった」

俺はボールを握った。

革の縫い目が指先へ食い込む。力を込めすぎて、手のひらの汗が滲んだ。

「許すとか、そういう話じゃねえ」

「俺にはそう見えたんだよ」

「俺は、おまえを見下してねえ」

「分かってる」

「じゃあ、何で離れた」

「分かってるからだよ」

湊は一歩、俺のほうへ近づいた。

暗い体育館の中で、互いの呼吸が近くなる。湿った夜気と、松ヤニと、汗の匂いが混ざっていた。俺の肩はまだ熱く、湊の手は外気の冷たさを残している。

「お前が本気で心配してるのは分かってる。俺を馬鹿にしてるんじゃない。俺にも続けてほしいと思ってる。お前と同じ場所に来てほしいと思ってる。そういうの、全部分かってるから、余計に言えなかった」

「何を」

湊は視線を外した。

「俺だって、続けたいと思ってたこと」

その一言が、暗い床へ落ちた。

ボールを持つ指が止まる。

「思ってた、って過去形かよ」

「今も思うときはある」

「じゃあ、続ければいいだろ」

「簡単に言うな」

「簡単じゃねえよ」

「お前は簡単に言ってる」

「言ってねえ。俺だって、簡単じゃないのは分かってる」

「分かってない」

湊の声が初めて強くなった。

「お前は、分かろうとしてる。でも、分かろうとすることと、分かることは違う。俺が家で何を見て、何を聞いて、何を諦めたか、お前は知らない。知らないのに、俺が本当は続けたいはずだって顔をする。俺が働くと言うと、夢を捨てるなって顔をする。それが、俺には一番きついんだよ」

「じゃあ、どうしろっていうんだ」

「どうもしなくていい」

「それじゃ、友だちでいる意味がねえだろ」

「友だちだから、どうにかしなきゃいけないのかよ」

「そうだろ」

「違うだろ」

湊はボールを床へ置いた。

暗い中で、白いボールだけが二人の間に残る。

「友だちだからって、相手の人生を持てるわけじゃない。お前が推薦を取って県外へ行くなら、それはお前の選択だ。俺が地元で働くなら、それは俺の選択だ。そこに友情を混ぜて、どっちかを変えようとしたら、たぶん俺たちは本当に終わる。俺は、お前の夢の邪魔をしたくない。お前も、俺の選択を邪魔するな」

胸の奥で、何かが固く縮んだ。

「邪魔なんかしてねえ」

「してるよ」

「してねえ」

「してる。お前が自分の進路を決められないのは、俺を置いていくことになると思ってるからだろ」

俺は返せなかった。

湊は目をそらしたまま続けた。

「俺も同じだよ。お前が県外へ行ったら、俺の知らないところで勝つ。新しいチームで、新しい奴らと、俺がいなくても普通にやる。それを考えると、腹が立つし、寂しいし、悔しい。でも、それでお前に残れって言ったら、俺はただ自分が寂しくない場所へお前を縛るだけだ」

「……おまえは、俺に行けって言ってるのか」

「行きたいなら行けよ」

「簡単に言うな」

「簡単じゃない。俺だって言いたくない」

湊はようやく俺を見た。

「でも、お前が行きたいところへ行くのを、俺が止める理由にはしたくない。俺の家のことも、俺の寂しさも、お前の足首に結びつけたくない。そんなの、一緒にいるんじゃなくて、動けなくしてるだけだろ」

俺は床を見た。

そこには、夕方まで俺たちが走った跡が残っている。半歩先へ出た跡。遅れて戻った跡。何度も重なった靴底の線。暗くなれば見えなくなるのに、消えたわけではない。

「俺は」

口を開いた。

声がひどく低くなった。

「俺は、おまえが行けって言うのが嫌だ」

「何で」

「おまえが平気なふりをするからだ」

湊の顔がわずかに動いた。

「平気じゃねえよ」

「平気な顔してる」

「してねえ」

「してる。いつもそうだ。笑って、何でもないみたいにして、俺が聞いたら、別にって言う。俺はその別にが嫌なんだよ。何もないみたいにされると、俺だけが勝手に困ってるみたいになる。俺だけが、おまえと離れたくないみたいになる」

言葉にすると、胸の内側が痛んだ。けれど、もう止められなかった。

「俺は、行きたい。バスケを続けたい。推薦も欲しい。たぶん県外へ行く。でも、それを言ったら、おまえを捨てるみたいに聞こえる気がして、言えなかった。おまえが働くって言ったときも、俺だけ先に行くみたいで、怖かった。だから、勝つことばかり考えた。勝てば、俺のほうが正しいって証明できる気がした。おまえが遅れてるんじゃなくて、俺が先へ行けるって見せれば、おまえも来ると思った」

俺は一度、息を吸った。

「でも、違った。俺が勝ちたいのは、おまえに勝つためじゃない。おまえを連れていくためでもない。俺が自分で行きたいからだ。なのに、離れるのが怖くて、おまえに来いって押しつけてた。……悪かった」

最後の言葉だけが、床へ落ちるより先に喉で引っかかった。

湊はすぐには答えなかった。

長い沈黙だった。

ボールのない床が、やけに広い。体育館の奥で、どこかの金具が冷えて鳴った。窓の外では、風に揺れた木の葉が擦れている。

湊は床のボールを拾った。

「謝るの、遅い」

「分かってる」

「俺が忘れたころに言うなよ」

「忘れてねえだろ」

「忘れられるなら、もっと楽だった」

湊はボールを胸に抱えたまま、短く笑った。今度の笑いには、いつもの軽さが少しだけ戻っていたが、目の奥はまだ濡れたままだった。

「俺も悪かった」

「何が」

「逃げた。説明するのが嫌で、お前が勝手に分かってくれると思ってた。分からないなら、分からないままでいいって思ってた。でも、本当は分かってほしかった。俺が働くのは、夢がないからじゃない。家を残したいからだ。誰かが生活を回さなきゃいけない。俺が早く働けば、母さんが少し楽になる。弟の学校も続けられる。そういうのを、自分で選ぶって決めた」

湊はボールの空気を親指で押した。

「ただ、その決めたことを、お前に言うのが怖かった。お前が『それでもバスケを続けろ』って言ったら、俺はたぶん、続けたいって思ってしまう。お前と同じコートに立てるなら、家のことを誰かに押しつけてもいいんじゃないかって、一瞬でも思ってしまう。それが嫌だった。俺は、誰かの夢に乗っかって、自分の現実から目をそらしたくなかった」

「俺は、おまえに乗っかってほしいなんて思ってねえ」

「知ってる」

「じゃあ」

「だから、怖かったんだよ」

湊はそこで言葉を止めた。

「お前の隣にいると、俺もまだ何でもできる気がする。そう思えるのが、嬉しくて、同時に怖い。家に帰れば、電気代の通知も、母さんの疲れた顔も、来月の支払いもある。体育館にいるあいだだけ、それを忘れられる。お前と走ってると、俺の人生がまだ選べるみたいに思える。だから、離れなきゃいけないと思った。離れないと、俺はお前に甘える」

俺はボールを見た。

白い球の表面に、使い古された黒い汚れがある。何度も触れ、何度も床へ落とされ、それでもまだ弾むための形をしている。

「甘えていいだろ」

「よくねえよ」

「友だちなら」

「そうやって言う」

「何が」

「友だちなら、って。お前は何でもその言葉で越えようとする。金のことも、家のことも、進路のことも、友だちなら一緒にできるって。でも、できないことはある。できないから、俺は自分で決めなきゃいけない」

「……分かった」

「本当に?」

「分からないけど、聞いた」

湊は少し黙った。

俺は続けた。

「全部は分からない。おまえの家のことも、働くって決める重さも、俺には分からない。でも、分からないからって、勝手に逃げるな。俺も、勝手に先へ行かない。おまえが何を選ぶかは、おまえが決めろ。俺がどこへ行くかは、俺が決める。だけど、決めたあとに、何もなかったみたいにするな」

「それ、約束?」

「約束って言うと重い」

「お前が言うと、だいたい重い」

「うるせえ」

湊はようやく笑った。

その笑いが暗がりの中でほどける。大きくはない。けれど、さっきまでのように何かを隠すための笑いではなかった。

体育館の隅で、窓から入った風が床の紙片を動かした。

俺はボールを湊へ差し出した。

「打つか」

「今から?」

「来たんだろ」

「俺、明日本番なんだけど」

「俺もだ」

「エース様は人使いが荒いねえ」

「パスだけ出せ」

「それなら任せろ」

湊はボールを受け取った。

照明は消えたままだった。ゴールの位置は、リングの白い縁がわずかに見えるだけだ。暗いコートの中で、湊が右へ走る。俺は外へ開く。いつもの動きだった。

だが、湊はすぐにパスを出さなかった。

俺も先へ出なかった。

互いの顔が、暗がりの中でかろうじて見える。湊の呼吸が一度、浅くなる。そのあと、ボールが手を離れた。

俺は待ってから走った。

パスが来る。

手のひらに、正しい重さで収まる。

二歩目で踏み切る。身体が夜の空気を切り、リングへ向かう。白いボールが板に触れ、網を揺らした。

音だけが、広い体育館に残った。

湊が床へ着地する。

「今の、ちょっと遅かった」

「おまえが早い」

「それ、朝から逆になってない?」

「合わせろって言っただろ」

「はいはい。明日はもっとちゃんと出します」

「今日もちゃんと出してた」

言ってから、湊がこちらを見た。

俺は視線を外した。

「何それ。褒めてる?」

「別に」

「出たよ、別に」

「うるせえ」

湊はボールを拾い、胸へ抱えた。

「でも、来てよかった」

その声は小さかった。

俺はすぐに返事ができなかった。湊は返事を待つように見えたが、やがて先に視線を落とした。

「何が」

ようやく聞く。

「何がって、体育館。お前に会いに来た」

「謝るためか」

「違う」

「説明するため?」

「それも違う」

湊はボールの縫い目を指でなぞった。

「明日になったら、たぶん普通に試合をする。お前にパスを出して、お前が走って、俺が文句を言って、先生に怒られる。それで終わるかもしれない。だから、その前に一回だけ、ちゃんとお前のところへ来たかった」

「何で、扉を叩いた」

「正面から入ると、逃げそうだったから」

「おまえが?」

「俺が」

湊は短く息を吐いた。

「西側扉なら、音がするだろ。叩いたら、お前がいるかどうか分かる。返事がなかったら、帰ればいいと思ってた。でも、三回叩いたら、お前が開けた」

「三回って、決まってんのか」

「知らない。三回くらいが、迷ってる奴にはちょうどいいんじゃない?」

「適当だな」

「適当じゃない。俺、今日ずっと数えてたから。駅から学校まで何分、家に帰るか学校へ行くか何回迷ったか、自販機の前で小銭を何度触ったか。そういうのを数えて、最後に三回だけ叩いた」

湊の言葉は、暗い床へ静かに落ちていった。

俺は扉のほうを見た。

閉じた西側扉は、さっきまでの冷たさを失っていた。手のひらに残った金属の感触と、湊の指先の熱が重なり、どちらがどちらなのか分からない。

「明日」

湊が言う。

「明日、俺がパス出すから」

「分かってる」

「お前が早く走っても、今度はちゃんと合わせる」

「おまえが遅れなきゃな」

「まだ言うか」

「言う」

「じゃあ、お前も待てよ」

俺はうなずいた。

湊は一度、目を合わせようとして、途中で床へ落とした。俺も同じように目をそらした。手を伸ばすより先に、視線が揺れた。

それでも、さっきまでの沈黙とは違っていた。

言わなかったことは、まだ全部なくなったわけではない。言い争いの夜も、駅裏の自販機の青白い明かりも、湊の「お前の夢の中に、俺の席まで用意されてると思うなよ」という声も、消えずに残っている。

ただ、それらを残したまま、同じ床に立てる気がした。

廊下の向こうで、鍵束が鳴った。

山岸先生が戻ってきたのかと思い、俺は扉へ顔を向けた。だが、足音は一度止まっただけで、遠ざかっていった。先生が誰かを確かめたのか、ただ通り過ぎたのかは分からない。

湊が息を吐く。

「今の、先生?」

「たぶん」

「見つかったら怒られる」

「もう見つかってるかもしれない」

「じゃあ、帰ろう」

「まだ、もう一本」

「本番前に?」

「もう一本だけ」

湊は呆れたように笑った。

「お前、本当にそれ好きだな」

「何が」

「もう一回って言うの」

俺はボールを拾い上げた。

「今度は、外さない」

「それ、外したらどうすんの」

「拾う」

「誰が」

俺は湊へボールを投げた。

「おまえが」

湊は両手で受け止めた。

しばらく俺を見て、それから口元だけで笑う。

「仕方ねえな。拾ってやるよ」

湊が走り出す。

暗いコートの中で、白いボールが一度だけ跳ねた。俺はその音を聞き、すぐには動かなかった。湊の背中が少し遠ざかる。足音が床の上を滑り、呼吸がひとつ抜ける。

それから、俺は走った。

西側扉の金属は、閉じたあともわずかに熱を残していた。

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