第5話 台所の音

家に戻ると、台所から水の流れる音がしていた。
玄関の戸を閉め、靴を脱ぐ。右のバッシュの踵が少し浮いた。母さんが直してくれた糸が、今日の練習でまた擦れたらしい。靴底には体育館の床の白い粉が薄く残っている。俺はそれを玄関の端で落とそうとしたが、うまく取れず、そのまま靴箱へ押し込んだ。
「ただいま」
返事はなかった。
台所では、弁当箱を洗う水音が続いている。蛇口から落ちる水が、金属の底を細かく叩いていた。まな板の上では胡瓜が切られている。トン、トン、と乾いた音が一定の間隔で響く。朝の仕込みを終えたあとだろう、母さんのエプロンの裾には白い小麦粉が残っていた。
俺が居間へ入ると、母さんは弁当箱の蓋を裏返した。
中身を確かめるときの癖だ。
空になった容器をしばらく見て、それから水を止めた。こちらを振り向かないまま、食器棚から茶碗を出す。いつもより少し大きいものだった。
「今日は、これ」
「何が」
「茶碗」
「見れば分かる」
「なら聞かない」
母さんは味噌汁をよそった。豆腐と葱、それから油揚げが入っている。湯気が立ち、昼間の体育館とは違う熱が顔へ触れた。
俺は椅子に座った。
練習試合のあとで身体は重かった。勝った。点差はわずかだったし、俺は前半だけで何本も無駄なシュートを打った。山岸先生には、勝ちたい気持ちをそのまま速さにするなと言われた。凛には、迷ったまま先へ行こうとするのが遅いと言われた。
湊には、俺が先に走っているだけだと言われた。
その全部が、まだ身体の内側に残っている。
母さんは俺の向かいに座らず、台所の流しを拭いていた。食事のときも、何か片づけるものを見つけて手を動かしている。忙しいからではなく、手を止めると余計なことを考える人なのだと、最近になって分かってきた。
「試合、勝ったの」
母さんが聞いた。
「うん」
「怪我は」
「ない」
「そう」
それで会話は終わった。
味噌汁を飲む。熱が喉を通り、胃の底へ落ちていく。そこでようやく、自分がずっと息を浅くしていたことに気づいた。
母さんは炊飯器の蓋を開け、残っていたご飯を茶碗へ足した。最初から多く盛ったのに、さらに半膳ほど乗せる。
「多くない?」
「今日は食べる顔をしてる」
「顔で分かるのかよ」
「顔じゃない。箸の動き」
俺は箸を止めた。
母さんは胡瓜の浅漬けを小皿へ盛っている。塩の匂いが、まだ湿った台所の空気に混じった。
「今日、何本外したの」
「数えてない」
「数えてない顔じゃない」
「……四本くらい」
「四本だけ?」
「もっとかも」
「なら、食べなさい」
母さんはそれだけ言った。
責めるでもなく、慰めるでもない。外したシュートの数を聞いておいて、結局は食べろと言う。その言い方が、少しだけ山岸先生に似ていた。問題の場所を見つけても、そこで立ち止まらず、次に必要なことをさせる。
俺はご飯を口へ運んだ。
米が熱い。少し硬めに炊かれていて、噛むたびに甘みが出る。朝、弁当の蓋を開ける前から重いと思っていた。あれはおかずの量だけではなかったのかもしれない。
「明日も試合?」
「最後の大会」
「そうだったね」
母さんは布巾をすすいだ。
「朝、何時に起きるの」
「五時半」
「握り飯、三つで足りる?」
「二つでいい」
「三つにする」
「食えない」
「食べられなかったら持って帰ればいい」
「荷物になる」
「バスケットボールのほうが大きい」
言われて、反論できなかった。
母さんは布巾を絞り、流しの縁へ掛けた。ひとつひとつの動作が迷いなく進む。料理をし、洗い、詰め、拭く。そうやって家の中の時間を途切れさせない。進路希望調査票の白い欄とは違い、台所には空白がない。何かがなくなれば買い足し、汚れれば洗い、腹が減れば食べる。選ぶ前に、やらなければならないことがある。
俺は湊の家のことを考えた。
家計がきつい。早く働く道を考えている。そこまでは知っている。けれど、知っていると言えるほど知っているわけではない。
以前、湊の家の前を通ったことがある。夜の九時を過ぎていた。二階の窓には明かりがついていて、湊の影がカーテンの向こうを何度も横切っていた。俺が電話をかけると、湊はすぐに出た。
『何』
『別に。今、家?』
『家じゃなかったら何なんだよ』
『いや……』
『用ないなら切るぞ。風呂上がりで髪が濡れてるから、風邪ひく』
そのときも、俺は何も聞かなかった。
湊が電話の向こうで、誰かに「それ、俺がやる」と言っていた。低い声だった。いつもの軽口とは違う、家の中で使う声だった。
俺はその声を知っていたのに、意味を知ろうとはしなかった。
「湊くんは」
母さんが言った。
俺は箸を止めた。
「何」
「同じ部の子。相沢くん」
「知ってるだろ」
「何かあった?」
母さんは俺を見なかった。味噌汁の鍋を火から下ろし、蓋を少しずらす。湯気が細く逃げていく。
「別に」
「そう」
「何もない」
「そう」
母さんはそれ以上聞かなかった。
その沈黙のほうが、質問されるより苦しかった。何もないと言った自分の声が、食卓の上で薄く浮いている。母さんは信じたわけではない。ただ、俺がまだ話せないことを、そのまま置いてくれた。
「……進路のことで、ちょっと」
口にすると、箸の先が震えた。
母さんは顔を上げた。
「学校の紙?」
「うん」
「書いたの」
「まだ」
「湊くんも?」
「たぶん」
「たぶん、というのは」
「白紙だった」
母さんは短く息を吐いた。驚いたというより、朝から少しだけ濃くなった空気の理由に触れたような顔だった。
「そう」
「母さんは、進学したほうがいいと思う?」
俺が聞くと、母さんの手が止まった。
止まったのは一瞬だったが、俺には分かった。母さんが何かを言う前に、台所の時計が秒針を進めた。カチ、カチ、と乾いた音がする。
「それは、晴翔が決めること」
「でも、金かかるだろ」
「かかる」
「県外なら、もっと」
「かかるね」
「推薦が取れたとしても、全部がただになるわけじゃない」
「そうだね」
母さんは皿を一枚、食卓へ置いた。胡瓜の浅漬けが、薄い緑色をしている。
「だから、行きたいなら、かかるお金を調べればいい。足りないなら、どうするか考える。行きたくないなら、行かない理由を自分で持てばいい。お母さんが行けと言っても、行きたくないものは続かないし、行くなと言っても、行きたいものは隠れて続けるから」
「簡単に言うなよ」
「簡単には言ってない」
母さんの声が少し低くなった。
「家のお金は、簡単じゃない。毎月、何を残して何を削るか考えている。でもね、苦しいからって、子どもが先に夢を捨てればいいとは思っていない。反対に、夢があるからって、生活のことを見なくていいとも思っていない」
俺は黙った。
母さんは続けた。
「生活は、夢の敵ではないよ。夢だけでは朝ご飯は出てこないけれど、朝ご飯があるから夢を考えられる日もある。どちらか一つに決める必要はない。ただ、両方を見るのは疲れる。疲れるから、自分で見たことにするしかない」
声は穏やかだった。説教ではなかった。母さん自身が長いあいだ、生活と何かを同じ机の上に置いてきた人の話し方だった。
俺は湊の顔を思い出した。
家計の話をしようとして、耳の後ろを掻いた。笑ってごまかそうとしたが、口元しか動かなかった。俺が「逃げてるだけだろ」と言ったとき、湊は笑わなかった。
「働くって、選ぶことだ」
あの夜の声が、体育館の床へ落ちたボールみたいに、何度も胸の中で跳ね返っている。
「俺、湊にひどいこと言った」
母さんは返事を急がなかった。
「どんなこと?」
「逃げてるって。最初から諦めてるって」
「本当に逃げていると思ったの」
俺は味噌汁の椀を見た。表面に浮いた油が、照明を小さく反射している。
「……分からなかった」
「分からないのに言ったの」
「腹が立ったから」
「何に」
「黙ってることに」
「どうして」
俺は答えられなかった。
母さんは、俺の前から空いた皿を下げた。俺がまだ食べている途中の浅漬けには触れず、味噌汁の椀だけを少し端へ寄せる。
「お母さんは、晴翔が試合で負けたときより、何も食べずに部屋へ行くときのほうが心配」
「今、それ関係ある?」
「あるよ。人は、困っているときに困っているとは言わないことがある。食べることも忘れるくらいなら、誰かに説明する余裕はないかもしれない」
「湊は、俺に言えばいいだろ」
「言える人にはね」
母さんは湯飲みにお茶を注いだ。熱すぎないよう、少し冷ましたものだった。
「言ったら助けてもらえると思う人ほど、言えないこともある。助けてもらうのが嫌だからではなく、助けてもらったあとに、自分が何者になるか分からなくなるから」
その言葉は、俺の中にゆっくり沈んだ。
湊が嫌がっていたのは、俺の励ましそのものではなかった。俺の中で、湊を「助けられる側」に置いてしまうことだった。俺は一緒に走りたいと思っていた。だが、湊から見れば、俺だけが前へ出て、手を引こうとしていたのかもしれない。
「人には、食べるだけで精一杯の日もある」
母さんはそう言った。
励ましでも、叱責でもない。台所の湿った空気に混ざった、生活の言葉だった。
俺は箸を置いた。
「俺、湊のこと、分かってるつもりだった」
「幼なじみだから?」
「うん」
「長く一緒にいることと、何でも分かることは違うよ」
「……分かってる」
「今、分かった顔をしている」
俺は顔を上げた。
母さんはわずかに笑った。湊が冗談を言うときの笑い方とは違う。相手をからかうのではなく、逃げ道を塞がないための笑いだった。
「分かったなら、次は聞けばいい。答えないなら、答えないことも含めて聞いていればいい」
「それでいいのかよ」
「すぐに分からなくても、聞いたことは残るから」
「でも、明日が最後の大会で」
「最後かどうかは、明日にならないと分からないでしょう」
「公式戦としては最後だ」
「そう。でも、同じ場所で毎日会う時間が終わることと、その人との時間が全部終わることは、同じじゃない」
母さんはおにぎりを二つ、ラップに包み始めた。手際がいい。ご飯を広げ、塩を振り、具を中央に置く。形は少し不揃いだった。忙しい朝に握ったものは、いつも少しだけ角が残る。
「これは明日」
「三つじゃないのか」
「今夜食べるなら二つで足りる」
「食べない」
「なら、朝に三つ作る」
母さんはラップの上からおにぎりを押さえた。
俺はその手を見た。働いて、食べさせて、洗って、また働く手。夢や選択という言葉を使わずに、ずっと俺の先を支えてきた手だった。
「母さん」
「何」
「推薦、受けてもいい?」
聞き終わる前に、目線が床へ落ちた。
母さんは少し黙った。
「受けたいの?」
「……うん」
「なら、受けなさい」
「湊は、働くかもしれない」
「そう」
「俺だけ進学したら、置いていくみたいになる」
母さんはおにぎりを包み終え、輪ゴムで留めた。
「置いていく人は、置いていくことを決めた人。前へ進む人が、必ず誰かを置いていくわけじゃないよ」
「でも、同じ場所にはいられない」
「同じ場所にいないと、続かない関係なら、最初からそんなに強くない」
母さんはラップの端を整えた。
「ただし、続けたいなら、続けたいと言わなきゃいけない。食べ物と同じ。お腹が空いているのに、空いていないふりをしていたら、誰も皿を出せない」
俺はおにぎりを見た。
「言えるかな」
「言えるかどうかじゃない。言わなかったら、言わなかったことが残るだけ」
その言葉で、胸の奥にあった鈍い痛みの形が少し見えた。
俺は湊の沈黙に腹を立てていたのではない。分からないまま置き去りにされるのが怖かった。けれど、本当は俺も同じだった。自分が湊を置いていくのが怖くて、推薦の話を正面から見られず、勝ちたい理由を全部バスケに押し込めていた。
母さんが食器を重ねる。
「おかわりは」
「もういい」
「本当に?」
「……もう少し」
母さんは何も言わず、茶碗を受け取った。
味噌汁を注ぎ足す。湯気がまた頬に触れる。さっきより呼吸がしやすかった。
窓の外では、夜の虫が鳴いていた。遠くを車が走り、濡れた道路をタイヤが擦る音がする。体育館の乾いた床とは違う、生活の音だった。どこかで誰かが夕飯を食べ、明日の準備をして、朝の時間を決めている。
俺は食べ終わった弁当箱を流しへ運んだ。
「置いといて」
母さんが言った。
「洗う」
「疲れてるでしょう」
「これくらいできる」
俺は蛇口をひねった。冷たい水が手の甲を流れる。弁当箱の底に残った油を指でこすり、朝の飯粒を落とす。洗剤の匂いが、体育館の松ヤニとは違う形で鼻に残った。
母さんは隣で、おにぎりを冷蔵庫へ入れている。
「冷やしすぎないで」
「朝、出す」
「硬くなる」
「じゃあ、台所に置く」
「猫に取られる」
「猫いないでしょ」
「いないけど、念のため」
くだらない会話だった。
けれど、そのくだらなさに少し救われた。湊となら、こういう話を何度もしてきた。中身のない言葉を重ねているうちに、隣にいることが自然になっていく。大事なことを言えなくても、どうでもいいことを言える時間が、俺たちの間には確かにあった。
弁当箱をすすぎ、布巾の上へ伏せる。
水滴が、流しの底で小さく弾けた。
「明日、帰りは遅い?」
母さんが聞いた。
「分からない」
「勝っても負けても、連絡しなさい」
「分かった」
「晴翔」
「何」
「勝つことだけを連絡しなくていいから」
俺は蛇口を閉めた。
母さんはそれ以上、何も言わなかった。
俺も返事をしなかった。返事をすれば、何かがこぼれそうだった。
自分の部屋へ戻り、鞄から進路希望調査票を取り出す。紙は何度も折り直され、角が柔らかくなっていた。机の上へ広げると、第一希望の欄が白く残っている。
ペンを持った。
すぐには書けなかった。
代わりに、紙の隅へ小さく線を引いた。まだ文章にはならない線だった。けれど、空白をただ見つめているだけではなくなった。
居間から、食器を片づける音が聞こえる。
水の音。皿の触れ合う音。冷蔵庫の扉が閉まる音。
そのどれもが、家を明日のほうへ運んでいた。
俺はペンを置き、スマートフォンを手に取った。
湊の名前を開く。
メッセージ欄には、最後に俺が送った「明日、遅れんなよ」が残っている。湊からは、しばらくして「お前こそ」とだけ返ってきていた。
俺は新しい文章を打った。
――今日、悪かった。
そこまで入力して、消した。
――明日、パス頼む。
それも消した。
指が止まる。
結局、何も送らず、画面を伏せた。
まだ言えない。けれど、言わなかったことが残るなら、明日は残したい言葉を選ばなければならない。
窓の隙間から、夜の湿気が入り込んでくる。遠くで、金属を叩くような音が一度だけ響いた。体育館の西側扉を思い出す。
冷たい扉の向こうに、湊が立っていた。
俺はその手のひらの熱を、まだ見ていない。けれど、思い浮かべることはできた。
机の上の調査票へ、もう一度目を落とす。
白い欄は、相変わらず白い。
それでも今は、空白に見張られている感じが少し薄れていた。書くことは、誰かを置いていく宣言ではない。自分がどこへ行きたいのかを、まず自分に渡すためのものなのかもしれない。
俺はペンを握り直した。
居間では、台所の音がまだ続いている。
水が流れ、布巾が絞られ、皿が棚へ戻される。
その音を聞きながら、俺は空白の上に、ゆっくりと一文字目を書いた。
← 横にスクロールして読み進められます
