4話 空回りの試合

練習試合の朝は、空気が乾いていた。

夏の終わりだというのに、第一体育館の床は昨夜より軽く見えた。窓を開けても湿気がまとわりついてこない。代わりに、校庭から細かな砂の匂いが入り込み、古いゴールの金属臭と混ざって鼻の奥に残った。

青葉高校のゴールは、シュートがリングに触れるたび、かすかに軋む。

きい、と鳴る。

その音を聞くたび、俺の肩が少しだけ上がった。

試合前のアップで、ボールを何度も床へついた。一定の高さ、一二、一二、と数えるようにしていたが、指先が縫い目に触れるたび、余計なことを思い出す。教室の机に置かれた進路希望調査票。白いままの欄。湊の視線が逃げた瞬間。最後に聞いた、パスから逃げるな、という声。

ボールが手のひらから少し滑った。

拾い直す。

「今日、ボールに何か書いてあるの」

向こうのコートから声がした。

佐伯凛が、靴紐を結び終えたところだった。左右の長さを揃え、結び目を指先で一度押さえる。余計な動きがない。彼女は立ち上がると、手首を回し、こちらを見た。

「別に」

「さっきから三十秒、同じところを触ってる」

「数えてたのかよ」

「見ていた」

凛はボールを持ったまま、こちらへ歩いてきた。隣校の練習着は白と青で、汗を吸う前の布地が硬く見える。彼女は俺の手元ではなく、目を見た。

「今日は、いつもより早い」

「何が」

「目線」

「それで?」

「先に行こうとしている。ボールより、相手より、たぶん自分より」

凛はそこで言葉を切った。沈黙を嫌がらない。俺が返事を探している時間さえ、試合の一部として扱っているみたいだった。

「試合前に説教かよ」

「説教はしない。無駄だから」

「なら、余計なこと言うな」

「余計かどうかは、試合が終われば分かる」

彼女はそれだけ言って、コートの反対側へ戻った。

腹が立った。

腹が立ったまま、俺はボールを強くついた。床が低く鳴り、白いボールが胸の高さまで跳ね返ってくる。指先で受け止めた瞬間、革のざらつきが皮膚へ食い込んだ。

湊は少し離れたところで、他の部員とパス回しをしていた。

俺のほうを見なかった。

試合が始まった。

最初の攻撃で、湊からパスを受けた。左のウイングへ開き、相手の重心がわずかに内側へ傾いたのが見えた。いつもなら、一度止まってから抜く。だが、今日は止まらなかった。

一歩目から踏み込む。

相手の肩が動くより早く、身体が前へ出た。

抜けた。

抜けたはずなのに、ヘルプの選手が思ったより近い。俺は身体をぶつけ、空中で無理に姿勢を変えた。右手から放ったボールはリングの手前に当たり、乾いた音を立てて跳ね返った。

リバウンドへ飛ぶ。

相手より先に触れた。だが、着地の足が乱れ、ボールを抱えたままラインの外へ出た。

「三浦、落ち着け!」

ベンチから声が飛ぶ。

俺は返事をしなかった。

次の守備で、凛がボールを持った。

彼女のドリブルは低い。床に近く、音が短い。一つ、二つ。俺が腰を落とした瞬間、凛の右肩がわずかに揺れた。

フェイントだと思った。

反応した。

その一歩を、彼女は待っていた。

凛の身体が左へ滑る。俺の足が遅れ、視界から白いユニフォームが消えた。振り返ったときには、凛はもうゴール下へ入り込んでいた。味方が寄る。彼女は無理に打たず、外へパスを出した。

三点シュートが決まる。

ネットが乾いた音を立てた。

「今のは、俺が抜かれたわけじゃない」

俺が言うと、近くにいた湊がボールを拾いながら笑った。

「そういうことにしとく?」

「何だよ」

「いや、今日は説明が多いなと思って」

「黙ってろ」

「了解。口は閉じる。手は開ける」

湊は次の攻撃で、俺のほうへパスを出した。

今度は少し前だった。

俺が走れば届く。届く位置だ。だが、俺はボールが手を離れる前に走り出していた。パスは俺の前を通り過ぎ、誰もいないコーナーへ転がっていく。

体育館の空気が、一瞬だけ止まった。

湊が追いかける。

俺も追う。

だが、凛が先にボールへ触れた。

スティール。

彼女はそのまま速攻へ走った。俺は背中を追った。追いつける距離だった。けれど、追いつこうとした瞬間に足がもつれた。凛は振り返らず、レイアップを決めた。

ゴールの軋む音が、耳のすぐそばで鳴った。

タイムアウトが取られた。

ベンチへ戻ると、ユニフォームが背中に張りついていた。汗が首筋を流れ、襟の内側へ入り込む。呼吸が浅い。手のひらが湿って、指先がボールの縫い目を探していた。

山岸先生は、ホワイトボードを持ったまま俺の前に立った。

「今の五分で、何本打った」

「数えてません」

「俺は数えた。四本。うち、三本は打たなくていい」

「打てるから打ちました」

「入らなければ、打てるとは言わん」

「次は入れます」

「そうやって、次に送るな」

先生の声は低かった。怒鳴ってはいない。だから、俺の中にある荒いものだけが、行き場をなくして残った。

湊がタオルで首を拭きながら言った。

「俺のパスも悪いです。ちょっと前に出しすぎた」

「相沢」

先生は湊を見る。

「お前は自分のせいにするな。今のは三浦が早い」

湊が口を閉じた。

俺は先生を見た。

「足じゃなくて、目が急いでいる」

その言葉は、昨日も聞いた。

「でも、相手は待ってくれません」

「待たせろ」

「そんな簡単に……」

「簡単だと言ったか」

先生はホワイトボードをベンチへ置いた。

「お前は相手を抜く前に、抜いたあとの場所へ行こうとしている。湊のパスも、リングも、味方の位置も、全部先に決めている。だから、今見えているものを無視して、頭の中の次へ走る。試合は予定表じゃない。相手がいる」

俺は返事をしなかった。

先生は俺の沈黙を待たず、続けた。

「勝ちたいのは分かる。だが、勝ちたい気持ちをそのまま速さに変えるな。速さは道具だ。振り回せば、自分の手を切る」

「俺は、勝つためにやってます」

「その言い方をする選手ほど、勝つこと以外をコートへ持ち込んでいる」

喉の奥が詰まった。

湊が横で視線を落とす。俺はその横顔を見て、また腹が立った。先生にも、凛にも、湊にも、自分の中を勝手に見られている気がした。

「相沢のパスが遅いからです」

言葉が先に出た。

湊の顔が上がる。

「俺が合わせてるんじゃなくて、あいつが遅れるから、俺が先へ行くしかない」

ベンチの周りが静かになった。

湊はすぐには怒らなかった。いつものように笑って流すこともしなかった。ただ、タオルを握る手に力が入った。

「俺が遅い?」

「そう言った」

「お前が先に出てるんじゃなくて?」

「同じことだろ」

「違う」

湊の声は大きくなかった。静かなぶん、逃げにくかった。

「俺がパスを出す前に、お前がもう走ってる。出したときには、俺の見てる場所とお前のいる場所がずれてる。なのに、届かなかったら俺が遅いのかよ」

「届くように出せ」

「届く場所にいてくれ」

「俺が止まったら、相手に捕まる」

「止まれって言ってない。見ろって言ってる」

湊の言葉が、昨日の体育館で聞いたものと重なった。

俺は視線を外した。

山岸先生が一度だけ腕時計を見た。

「話は終わりだ。次の五分、お前たちは一度パスを戻せ」

「戻す?」

俺が聞く。

「抜ける前に、必ず一度。自分で決められる場所へ行くな。味方のいる場所へ戻せ」

「そんなの、攻めにならない」

「ならないかどうかはやってから決めろ。佐伯の守備を見ろ。抜いたあとではなく、抜く前に味方を見ている」

凛がベンチの向こうから口を挟んだ。

「私は、味方を信じているから戻す」

俺はそちらを見た。

「信じてる?」

「正確には、信じなくても戻す。自分一人で勝てる試合はないから」

「随分、割り切ってんな」

「割り切っているのではなく、必要だからしている」

凛は水の入ったボトルを一口飲み、蓋を閉めた。

「あなたは、勝ちたい理由を一つにしすぎている。勝つこと、進学すること、誰かに置いていかれないこと。全部を同じプレーで片づけようとしている。だから早い。シュートも、判断も、怒るのも」

「おまえに何が分かる」

「分からない。だから、見えたことだけ言っている」

「それが余計なんだよ」

「なら、黙らせればいい。次の五分で」

凛はそれ以上、何も言わなかった。

審判がコートへ戻るよう促した。

俺は立ち上がった。膝が少し重い。湊が横に並ぶ。肩が触れそうな距離だったが、互いに一歩分だけ間を空けた。

「なあ」

湊が言った。

「何だよ」

「今の、俺が遅いってやつ」

「本当だろ」

「まだ言う?」

「試合中だから」

「便利だな、試合中って」

湊は笑おうとした。けれど、笑い切れなかった。

「俺も、合わせる。だからお前も、俺が出すまで見てろ。見ないで走って、届かないから怒るのは、さすがに俺のせいじゃない」

「分かってる」

「分かってない顔」

「うるせえ」

「それ、分かってないときの返事な」

コートへ戻る。

次の攻撃で、俺はいつものように左へ切り込んだ。相手の守備が寄る。身体が先へ出ようとする。リングまでの道が一瞬だけ開いた。

打てる。

だが、俺は止まった。

湊が外へ回っている。

顔を見る。

目が合う。

パスを戻す。

湊は迷わず受け、さらに逆サイドへ送った。ボールは三人の手を通り、最後に別の味方のシュートになった。リングに当たり、外れる。

それでも、誰も孤立しなかった。

次の守備で凛がボールを奪った。彼女は俺の横を抜ける直前、一瞬だけ目を向けた。

「今のは、遅くなかった」

「褒めてんのか」

「事実」

「なら、もっと言え」

「次は決めて」

凛は走り去った。

試合は最後まで競った。俺たちは勝ったが、点差はわずかだった。試合終了の笛が鳴ったとき、ゴールの軋みも、シューズの音も、急に遠くなった。

俺は膝に手をつき、荒い呼吸を整えた。汗が床へ落ち、小さな黒い点を作る。湊が隣へ来て、俺の肩を軽く叩いた。

「勝ったな」

「勝っただけだ」

「それ、勝った奴の言い方じゃない」

「もっと取れた」

「もっと取れたって言いながら、最後の三分はちゃんと俺を見てたじゃん」

「見てねえ」

「見てた」

湊は汗で濡れた前髪をかき上げた。

「俺、お前がああやって一回戻してくれると、まだ一緒にやれてる気がするんだよ」

言葉が、試合後の乾いた空気に残った。

俺は返事をしなかった。

湊はすぐに笑って、タオルを首へかける。

「まあ、明日はもっと速いパス出すけど。お前が追いつけるかは知らん」

「追いつく」

「それは知ってる」

その声だけが、いつもの湊に戻っていた。

少し離れたところで、凛が荷物をまとめている。シューズの底を確認し、靴紐をほどく。彼女は帰り際、俺の前で足を止めた。

「三浦」

「何だよ」

「明日、今日より強い相手が来る」

「分かってる」

「なら、今日の迷いを明日に持ち越さないで」

「迷ってなんか……」

凛は俺の言葉を待たなかった。

「迷っていること自体は、悪くない。迷ったまま先に行こうとするのが遅いだけ」

それだけ言って、彼女は背を向けた。

旧式のゴールが、誰も触れていないのに小さく軋んだ。

俺は床に落ちたボールを拾った。松ヤニの匂いが、汗と乾いた木の匂いの下から立ち上がってくる。手のひらに残る革の感触は、さっき湊へ返したパスの重さをまだ覚えていた。

勝った。

それでも、身体の中には勝利より先に、何度も外したシュートの感触が残っている。

湊のパスが遅かったわけではない。

俺が、来る前に走っていただけだ。

体育館の窓から、細い夕焼けが差し込んだ。赤い光が床の白線を横切り、俺たちの足元を一瞬だけ同じ色に染める。

明日も、俺は先へ出たくなるだろう。

それでも、パスが来るまで待つことはできる。待ったあとで走ることも、まだ間に合う。

俺はボールを湊へ投げた。

今度は、少しだけゆっくりと。

湊は両手で受け止め、こちらを見た。

「何、そのパス」

「明日の練習」

「遅い」

「合わせろ」

湊は一拍置いてから、口元だけで笑った。

「そっちこそな」

ボールがまた床へ落ちた。

一度、跳ねる。

二度、跳ねる。

その音は、まだ終わりを告げる音には聞こえなかった。

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