3話 視線の硬さ

最後の確認練習は、日が傾き始めてから急に静かになった。

部員たちが声を出して走っているあいだは、体育館の広さなんて考えなかった。笛の音、シューズの摩擦音、床を叩くボールの音。決められた場所へ走り、決められた角度で切り込み、決められたタイミングでパスを受ける。身体を動かしているかぎり、余計なものは考えずに済む。

けれど、練習の終わりが近づくと、身体の外へ追い出していたものが戻ってくる。

窓から差す夕焼けは、コートの半分だけを赤く染めていた。光の上を踏むたび、床に残った松ヤニが靴底へまとわりつく。きゅ、と鳴る音が、いつもより大きく聞こえた。

「ラスト、三本」

山岸先生が言った。

全員がゴール下へ集まる。三本というのは、ただの三本ではない。外したら最初からやり直し、全員が声を出し、決められた動きの中で最後まで崩さない。大会前日の確認としては、厳しすぎるくらいの練習だった。

俺はボールを受けた。

手のひらが汗ばんでいる。指先で縫い目をなぞると、革のざらつきが皮膚へ引っかかった。

右から湊が走る。

一歩目。二歩目。

俺は外へ開いた。湊が守備を引きつけ、俺の背後へパスを出す。いつもの動きだ。合宿のあいだ、何度繰り返したか分からない。身体はその順番を覚えている。

それなのに、パスが来る前に、足が動いた。

半歩。

ほんの半歩だけ、俺が先へ出る。

ボールは届いた。だが、受けた瞬間に身体の軸がずれた。踏み切りの位置が外へ流れ、ボールはリングの縁を叩いて落ちた。

「もう一回」

誰かが言った。

俺はすぐにボールを拾った。

「三浦、急ぐな」

山岸先生の声が飛ぶ。

「急いでません」

返事をしてから、自分の声が硬いことに気づいた。

先生は何も言わなかった。笛を口元から外し、俺の足元を見ている。俺はボールを湊へ返した。湊は受け取ったあと、いつもなら軽く何か言うのに、今日は黙っていた。

「もう一度」

山岸先生が言った。

今度は、湊が先に走った。

俺は待った。待とうとした。パスの出る瞬間を見てから動こうと、両足を床へ押しつける。だが、待っていると、湊の背中が遠ざかる気がした。次の瞬間、俺はまた踏み出していた。

ボールが指先をかすめた。

床に落ちる。

一度、跳ねる。

二度目の跳ね返りを、湊が拾った。

「今のは、俺が悪い」

湊が言った。

「違う」

「出すの、ちょっと遅れた」

「遅れてない」

「じゃあ、俺が悪くないってことで」

いつものように冗談へ逃がそうとしたが、口元の笑いはすぐに消えた。

「三浦」

山岸先生が呼んだ。

体育館の端で、部員たちの足が止まる。誰も何も言わなかった。先生が名前を呼ぶときは、次に何かを言われるまで、勝手に動かないほうがいい。

俺はボールを抱えたまま、先生のところへ歩いた。

汗が首筋を伝い、練習着の襟へ入り込む。身体は熱いのに、夕焼けの残る窓際からは、夏の終わりの湿った風が入り込んでいた。汗と松ヤニと、古い木の匂いが混ざっている。ここで何年もボールを追ってきた。その匂いを吸えば、次に何をすればいいかは分かるはずだった。

先生はボールを受け取らず、俺の左足を見た。

「今の左足、もう少し待て」

「はい」

返事の前に、一拍置いた。

自分でも分かるほど、その間が長かった。

先生は俺の顔を見る。怒っているわけではない。叱るためでもない。ただ、目をそらさない。俺が床を見れば、先生の視線もそこへ追いかけてくる。顔を上げれば、今度は目の奥まで見られている気がした。

「フォームの話ですか」

「そう聞こえたか」

「……違うんですか」

「フォームの話だ。お前の左足が勝手に先へ出ている」

先生は淡々と言った。

「ただし、足は勝手には出ない。先に目が行く。目が行けば、身体が追いつこうとする。身体が追いつけば、今度はボールが遅く見える。遅く見えるから、さらに先へ出る。お前は今、その繰り返しだ」

「明日の試合に合わせてるだけです」

「相手はまだ目の前にいない」

「でも、勝たないといけないから」

「勝つためなら、何をしてもいいのか」

「そういう意味じゃ……」

「じゃあ、どういう意味だ」

先生の声は低かった。大きくない。だからこそ、逃げるために声を荒らすことができなかった。

俺はボールを見た。先生の手の中で、使い込まれた革が夕焼けを吸っている。縫い目に松ヤニの粉が白く残っていた。

「勝ちたいんです」

口に出すと、思ったより簡単だった。

「勝ちたい。最後だから。推薦の話もあるし、明日結果を出せなかったら、たぶん何も残らない。だから、遅れたくないんです。誰かが遅れたら、置いていかれる。自分が遅れたら、全部終わる。そうならないように、先に行かないと」

そこまで言って、俺は口を閉じた。

先生は黙っていた。

湊がコートの中央に立っているのが、視界の端に入る。こちらを見ている。けれど、俺と目が合う前に、床へ視線を落とした。

先生は、ボールを俺へ返した。

「勝ち急ぐと、足が先に出る」

「……はい」

「それで、パスを出す側はどうなる」

俺は答えられなかった。

「受け手が先に行けば、出し手は合わせるしかない。合わせられないと、今度は出し手が遅いことになる。お前は今、湊にそれをやらせている」

胸の奥が狭くなった。

「湊が遅いんじゃなくて、お前が待てていない。待てない理由を、勝負のせいにするな」

先生はそこまで言うと、俺から少し離れた。

「ただ、待てと言われて待てるなら、最初から困らん。残りの時間、別のメニューをやる」

「何を」

「一人で走るな。二人で合わせろ」

先生は湊を見た。

「相沢、来い」

「はい」

湊は返事をした。普段より声が小さい。

先生はコートの中央に立ち、二人を向かい合わせた。距離は三メートルほど。ボールを持って走るには近すぎ、気まずさを隠すには遠すぎる距離だった。

「三浦は、相沢の胸を見るな。足元も見るな。顔だけ見ろ」

「顔?」

「視線が硬い。相手の動きを読もうとして、読めるものばかり見ている。肩、腰、足。そんなものは試合中にいくらでも嘘をつく。顔を見て、相手がいつ動くかを待て」

「顔を見てたら、遅れませんか」

「遅れろ」

先生の返事は早かった。

「一度遅れて、それから合わせろ。お前は先に行くことしか知らない。遅れることを覚えろ」

湊が小さく息を吐いた。

「先生、それ、俺にも言ってます?」

「お前は逆だ。相手の顔を見すぎて、勝手に気を回す。出したいなら出せ。迷ってから出すパスは、だいたい悪い」

「厳しいなあ」

「練習だから言っている。本番で言われたいか」

「本番は黙っててほしいです」

「なら、今やれ」

湊は苦笑し、ボールを俺へ投げた。

強すぎない、いつものパスだった。

俺は受け取った。ボールの熱が掌へ移る。さっきまでの失敗が、革の中に残っているように感じた。

湊と向き合う。

目を見る。

近くで見ると、湊の額には汗が残っていた。髪の隙間からこめかみを流れ、頬で止まっている。いつもなら、そんなものを見る前に肩の向きや足の位置を読む。だが今は、顔から目をそらすなと言われている。

湊の目が、一瞬だけ揺れた。

俺は動かなかった。

湊が右へ踏み出した。

俺は半拍遅れてついていく。

「遅い」

先生が言った。

「でも、今のは悪くない」

俺は息を吐いた。遅いのに、悪くない。バスケを始めてから、そんな言われ方をしたことはなかった。

湊がボールを持ち直す。

「もう一回。今度は俺、ちゃんと出すから」

「さっきも出してただろ」

「さっきは、俺もお前が先に来ると思ってた」

「何で」

「何でって、お前がいつも先に来るからだよ。こっちも慣れたんだよ。お前が早いのに」

湊は笑った。

「慣れたって言うと、なんか俺が悪いみたいだな」

「悪いだろ」

「はいはい。明日から直します」

「明日からじゃ遅い」

「じゃあ今日から」

その言葉が、妙に耳に残った。

俺たちはもう一度走った。

湊の顔を見る。動きではなく、動く前の呼吸を見る。口元がわずかに開き、息が一度だけ抜けた。そこで俺は走り出した。

今度は、パスが手のひらに収まった。

身体の中心で受けられた。踏み切りの位置もずれない。リングへ向けて跳ぶ。ボールが網を揺らし、乾いた音が体育館の天井へ返った。

「今のは?」

湊が聞いた。

「普通」

「普通って言うとき、ちょっと嬉しそうだな」

「言ってねえ」

「顔に出てる」

俺は目をそらした。

山岸先生が笛を鳴らした。

「終わりだ。片づけろ」

部員たちが一斉に動き始める。ボールを集め、モップをかけ、ベンチを戻す。いつもの練習後の作業だった。けれど、俺の身体には、まだ先生の言葉が残っていた。

遅れろ。

その言葉は、失敗しろという意味ではなかった。自分だけで先に答えを決めるな、ということだった。誰かの動きを待ち、その遅れも含めて自分の足で受け止めろ。そんな簡単なことを、俺はずっと勝負の外へ追いやっていた。

湊がボールを抱えて、用具倉庫へ向かう。

俺も後ろからついていった。

「先生、明日の最初のセット、変えるんですかね」

「知らねえ」

「聞いてないのに答えるなよ」

「おまえが聞くからだろ」

倉庫の前で、湊が足を止めた。古い扉の隙間から、ゴムと金属と、長いあいだ閉じ込められていた埃の匂いが流れてくる。

「なあ」

湊が言った。

俺は返事をせず、ボールを受け取った。

「今日の俺、遅かった?」

「少し」

「やっぱり?」

「でも、パスは届いた」

「それ、褒めてる?」

「別に」

湊は笑った。

「お前の別には、最近いろいろ入ってんな」

「うるせえ」

「じゃあ、明日は遅れないようにする」

「無理に合わせなくていい」

言ってから、湊の手が止まるのが分かった。

俺は続けた。

「俺が待つから」

声にした瞬間、恥ずかしくなった。もっと別の言い方があったはずだ。けれど、湊は茶化さなかった。

「……そう」

それだけ言って、ボールを倉庫の棚へ置いた。

「じゃあ、明日は頼むわ。エース」

「おまえもな」

「何を?」

「パス」

「それは得意分野」

湊は扉を閉めた。古い金具が一度だけ鳴る。

他の部員たちは先に体育館を出ていた。山岸先生は出入口の近くで、忘れ物がないか床を見回している。俺が西側扉のほうへ目を向けると、先生も同じ方向を見た。

「戸締まりは最後だ」

「はい」

「三浦」

「はい」

先生は腕時計を見た。それから、俺の顔を見た。

「今日、少し目が戻ったな」

何のことか、すぐには分からなかった。

「目?」

「朝からずっと、先のものを見ていた。今は、目の前を見ている」

俺は返事をしようとして、一拍置いた。

先生はその間を待った。

「……明日、見失わないようにします」

「試合の話か」

「たぶん」

「たぶんでいい。だが、コートの上では自分で決めろ」

先生はそれだけ言い、鍵束を鳴らして体育館を出ていった。

俺は一人、コートの中央に残った。

夕焼けは消え、窓の外には薄い青が広がっていた。床に残った赤い光の跡も、白いラインも、だんだん同じ暗さの中へ沈んでいく。ボールを一つ拾い、ゆっくり床へ落とした。

一度、跳ねる。

二度、跳ねる。

三度目に戻ってきたボールを、今度はすぐに投げなかった。

指先で縫い目をなぞる。革の擦れた感触が、練習の汗と、湊のパスと、先生の低い声を一つにしていく。

明日の試合で、俺はきっとまた先へ出たくなる。勝ちたいと思えば、身体は勝手に跳ねる。誰かに置いていかれそうになれば、なおさらだ。

それでも、一度くらいは待てるかもしれない。

湊の顔を見て、呼吸を聞いて、ボールが来るまでその場に残る。遅れることを怖がらず、遅れたぶんだけ走り直す。

西側扉の向こうで、風が金属をかすかに震わせた。

俺はボールを抱えたまま、扉を見た。

まだ誰も叩かない。

それなのに、扉の向こうには、何かが来る前の気配だけが残っていた。

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