第2話 ズレたパス

放課後のチャイムが鳴ってから、体育館へ向かう廊下はいつもより長く感じられた。
教室を出る部員たちの声が、階段の踊り場や開いた窓の向こうへ散っていく。進路面談の予定を確認する教師の声、廊下を走る一年生の足音、どこかの教室で机を引く音。そのすべてが、体育館へ近づくにつれて薄くなった。
俺は鞄の中の進路希望調査票に触れた。
折り目が、指先に当たった。
朝から何度も折り直したせいで、紙は柔らかくなっていた。開いて確かめる必要なんかないのに、そこにあることだけを確認するように指で押さえる。紙は何も言わない。ただ、明日までに書けという形をしている。
体育館の扉を開けると、湿った空気が顔にまとわりついた。
昼間にこもった熱が、壁や床からまだ抜け切っていない。窓は半分だけ開いていて、校庭から運ばれてきた土の匂いと、古い木材の乾いた匂いが混ざっていた。床には、午前の練習で落ちた松ヤニが薄く残っている。シューズの裏で踏むと、きゅ、と短く鳴った。
「遅いぞ、エース」
湊がコートの中央でボールを回していた。
俺が時計を見る前に、湊は手首を大げさに振った。いつもの軽口だった。けれど、その声には朝の教室で聞いた薄さがまだ残っていた。
「おまえが早い」
「五分前行動って知らない? 社会に出たら困るよ、三浦くん」
「おまえが言うな」
「俺は困っても、困った顔をしないから大丈夫」
湊は笑って、ボールを床に落とした。
跳ね返ったボールが、俺の胸元へ飛んでくる。受け取ろうとして、指先がわずかに遅れた。ボールは手のひらに当たってから、脇へ流れた。
「今の取れよ」
「そっちが変なとこ投げた」
「胸に投げたけど」
「胸が動いた」
「胸が勝手に動くなよ」
湊はボールを拾い、また俺に寄越した。今度は少し強い。俺は両手で受け止めた。掌に伝わった衝撃が、朝の紙の折り目みたいに残った。
部員たちが集まり始める。山岸先生は入口の脇に立って、練習ノートを開いていた。名前を呼ぶでもなく、笛を鳴らすでもなく、全員の足元を順番に見ている。俺の視線が先生のほうへ向くと、先生は一度だけ腕時計を見下ろした。
「アップ、二周。終わったら二人組で確認。明日の最初のセットを中心にやる」
短い指示が飛ぶ。
俺たちは走り出した。
体育館の外周を回る。窓から差す夕方の光が、床に細長い赤い帯を作っていた。俺がその帯を踏むたび、赤い光がシューズの底で潰れる。先を走る湊の背中が、光と影の境目を何度も越えていく。
昔なら、俺たちは言葉を使わなくても速度を合わせた。
中学のころ、河川敷の狭いコートで、誰かが捨てたボールを拾っては走った。湊が先に抜ければ、俺が追いつく。俺が速すぎれば、湊が声を飛ばす。名前を呼ぶ必要もなかった。ボールが跳ねる音と、靴底が地面を擦る音だけで、次にどこへ行くかが分かった。
今は、湊の背中までの距離が一定にならない。
近づいたと思えば、次の瞬間には離れる。俺が速くなっているのか、湊が遅くなっているのか、それとも二人とも同じ速さで別の方向へ向かっているのか、判断がつかなかった。
アップが終わり、二人組に分かれた。
俺と湊は、誰かに言われる前に同じ場所へ立った。そうすることだけは、まだ身体が覚えている。
「じゃ、いつもの」
湊がボールを持つ。
いつもの、という言葉が、コートの上に小さな段差を作った。
右サイドから湊が運び、俺が外へ開く。湊が一度中へ切り込み、相手の守備が寄ったところで、俺が裏へ走る。出されたパスを受け、二歩で踏み切る。単純な動きだ。合宿のあいだ、何度も繰り返した。目をつぶってもできるはずだった。
湊がドリブルを始めた。
ボールが床を叩く。
一つ、二つ。
俺は外へ開き、湊の肩の向きを見る。左肩がわずかに下がった。中へ入る合図だった。俺は半歩だけ下がり、次の瞬間に走り出す。
だが、速かった。
自分で分かるほど、足が先へ出た。
湊の手からボールが離れる。俺のほうへ飛んでくる。受けられる位置にはある。けれど、身体がパスを待たずに前へ流れていた。ボールが指先をかすめ、床へ落ちる。
乾いた音がした。
ボールは二度跳ね、ゴール下まで転がっていった。
「今の、速かった」
湊が言った。
肩をすくめている。声は軽い。だが、いつものように笑ってはいなかった。
「そっちが遅い」
俺はゴールの下へ走り、ボールを拾った。
「俺、まだボール持ってたんだけど」
「見えてた」
「じゃあ待てよ」
「待ったら遅れる」
「何が?」
俺は答えなかった。
湊は俺の顔を見る代わりに、ボールの縫い目を目で追った。
「明日の相手、そんなに待ってくれないだろ」
「練習と試合は違う」
「練習で合わないものが、試合で急に合うと思う?」
「合うようにする」
「そのために、今やってるんじゃないの」
湊の口調から、冗談の膜が少しずつ剥がれていった。
俺はボールを床についた。強くつきすぎて、手のひらに跳ね返る感触が痛かった。
「だったら、ちゃんと出せ」
「出してる」
「なら遅れるな」
「俺が遅れてるんじゃなくて、お前が勝手に先へ行ってる」
その言葉が、朝の教室で聞いたものと重なった。
誰かを置き去りにするみたいに走る。
湊の声は穏やかだった。穏やかなぶん、逃げる場所がなかった。
「もう一回」
俺は言った。
「三浦」
「もう一回やる」
湊は何か言いかけたが、結局ボールを受け取った。
もう一度、同じ動きを始める。
今度は遅れないようにした。湊のドリブルを見て、肩を見て、足の向きを見て、パスが出るまで待つ。待とうとした。
しかし、待っているあいだに、湊の身体が遠くなる気がした。
その感覚に押されて、俺はまた先へ出た。
ボールは今度、手のひらに収まった。けれど勢いを殺せず、身体が一歩流れる。踏み切りの位置がずれ、レイアップはリングの横へ当たった。ボールが高く跳ね、ゴールの支柱に近い床へ落ちる。
「入るだろ、普通」
湊が言った。
「入れた」
「入ってない」
「次は入る」
「そういう話じゃない」
俺はボールを拾った。手のひらに汗がにじんでいる。ユニフォームの裾で拭いても、すぐに湿った。
「じゃあ、何の話だよ」
「知らねえよ」
「おまえが言い出したんだろ」
「俺はパスの話をしてる」
「俺もだ」
「だったら、何でそんな顔してんだよ」
湊が初めて、正面から俺を見た。
目が合った。
長くは続かなかった。湊の視線が先に外れ、俺も同時に床へ落とした。
コートの白線が、夕焼けの中で細く浮いている。線はどこまでも真っ直ぐで、途中で迷ったりしない。踏むべき場所を決め、越えてはいけない場所を決める。俺はそれを見ながら、線の内側にいるのか外側にいるのか分からなくなった。
「もう一回」
俺はまた言った。
湊が息を吐く。
「お前、最近そればっかだな」
「何が」
「もう一回、もう一回って。外しても、噛み合わなくても、走り直せば何とかなると思ってる」
「実際、何とかなる」
「ならないこともあるだろ」
「バスケの話だ」
「バスケだけの話をしてるつもりなら、別にいいけど」
湊の言葉が、松ヤニの匂いの中へ沈んだ。
俺はボールの縫い目を指でなぞった。細かな溝が指腹に引っかかる。ボールは古く、ところどころ革が擦れていた。中学のころから使っている練習用のボールだ。湊と二人で何度も蹴飛ばし、雨の日には軒下へ隠し、どちらの家に置いてあるか分からなくなったこともある。
「おまえが、ちゃんと話さねえからだろ」
口にした瞬間、自分の声が体育館の天井へ跳ね返った。
湊の表情から、残っていた軽さが消える。
「何を」
「進路」
「またそれ?」
「またって何だよ。おまえが避けてるからだろ」
「避けてない」
「じゃあ言えよ。どこ行くのか。何するのか。バスケはどうするのか」
「言ったら、お前は納得すんの?」
「話をそらすな」
「そらしてない。聞いてるだけ」
湊はボールを脇に抱えたまま、コートの端へ歩いた。窓際の夕焼けが、彼の横顔を赤く染めている。汗で濡れた髪が額に張りつき、いつもならそれを笑いに変えるはずの口元が固まっていた。
「お前は、俺が何か言ったら、すぐ正しいほうへ押すだろ。進学したほうがいい。バスケを続けたほうがいい。まだ諦めるな。そういう顔をする」
「そんな顔してねえ」
「してる。してるから、俺は話したくない」
「俺が何を知ってるっていうんだよ」
「何も知らない」
「じゃあ、知るために聞いてる」
湊は黙った。
俺は続けた。言葉が一度出ると、止めるほうが難しかった。
「おまえの家のこと、俺が全部知ってるなんて思ってねえよ。金がどうとか、誰が何を払ってるとか、そんなの知らない。知らないけど、だからって何も言わないまま離れていくのは違うだろ。俺はおまえと何年一緒にいると思ってんだ。家の前でボールをついた日も、負けて帰れなかった日も、全部一緒だった。なのに、進路の紙一枚で、急におまえの中へ入れなくなる。俺が何を言っても余計なことになるなら、何も言わないほうがいいのかよ」
湊はボールを床に置いた。
「そういうところだよ」
「何が」
「お前は、入れなくなったって言う。でも俺は、入れるなって言った覚えはない」
「同じだろ」
「違う」
湊は一度だけ息を吐いた。耳の後ろへ手をやり、指で軽く掻く。真面目な話になると出る癖だった。
「俺が話せないのは、お前を信用してないからじゃない。信用してるから、余計に話せないんだよ。お前は本気で何とかしようとするから。俺が困ってるって言ったら、たぶん自分のことみたいに困るだろ。自分の推薦の話まで投げて、俺の分も走ろうとする。そうされたら、俺はどうすればいいんだよ。ありがとうって言えばいいのか。助けてくれって言えばいいのか。それとも、そんなつもりじゃないって怒ればいいのか」
「俺は、そんなこと……」
「するよ」
湊は俺の言葉を遮った。
「お前は、そういう奴だ。誰かが倒れたら、自分が二人分走ればいいと思ってる。誰かが遅れたら、待つんじゃなくて引っ張っていけばいいと思ってる。でも俺は、引っ張られたいわけじゃない。自分の足で行けるところまで行きたいんだよ」
夕焼けの赤が、湊の足元からゆっくり薄くなっていた。
「俺だって、バスケを続けたいと思ったことはある」
湊はそう言って、床を見た。
「何度もある。お前と同じチームで、もっと上へ行けたらって思った。試合の動画だって見たし、県外の学校の名前だって調べた。でも、そのたびに、家に帰ってから考えるんだよ。月にいくらかかるとか、誰が何を諦めるとか。そういう数字を一回見たら、夢だけ見てるわけにはいかない。だから働くことを考えてる。逃げたくてじゃない。俺が残るために必要なことだから」
俺は何も言えなかった。
体育館の外で、誰かが金属製の用具入れを閉めた。遠くで、扉が一度だけ鳴った。
湊は続けた。
「でも、お前にそれを言ったら、お前はきっと『まだやれる』って言うだろ。俺が一番聞きたくない言葉を、お前は一番まっすぐな顔で言う。だから、言う前に逃げた。逃げたって思われるのが嫌なのに、説明するのも嫌で、結局、黙ってるしかなくなった」
「……俺は」
喉が詰まった。
何を言っても、遅すぎる気がした。朝、教室で「逃げてるだけだろ」と言った自分の声が、今も耳の奥に残っている。あの言葉はもう取り消せない。湊の中に刺さったまま、抜けずにいる。
「俺は、おまえがいなくなると思った」
やっと、それだけ言えた。
湊が顔を上げる。
「進学して、県外へ行って、知らない奴らとバスケして、知らない場所で勝って。そうなったら、俺のことなんか忘れると思った」
言いながら、胸の奥が熱くなった。恥ずかしかった。こんなことを言うために、俺はずっとシュートを打っていたのかと思う。
「だから、勝ちたかった。推薦も欲しかった。おまえに置いていかれないために、俺も先へ行けるって見せたかった。でも、勝ちたい理由がそれだけじゃないことも分かってる。俺は……一緒にやってきた時間が、明日で終わるみたいに思えて、嫌だった」
湊はすぐに返事をしなかった。
床に残った白いボール跡を見ている。そこには何度も踏まれた靴底の形があり、擦れた線が重なっていた。消そうとしても消えず、上から新しい跡が重なるだけだ。
「俺だって、忘れるわけないだろ」
湊の声は小さかった。
「忘れられるなら、こんなに面倒なことになってない」
俺は顔を上げた。
湊は笑わなかった。泣いてもいなかった。ただ、ひどく疲れた顔をしていた。
「お前のパス、俺が何本出したと思ってんだよ。外したやつも、変なところに出したやつも、全部覚えてる。お前が決めたシュートだけじゃない。転んだやつも、俺が怒鳴ったやつも、帰りにコンビニで買った炭酸も、そういうのまで残るんだよ。だから、進路が違うからって、急に全部なくなるわけじゃない。でも、同じ場所にいられなくなるのは怖い。俺だって怖いから、先に離れたふりをした」
その言葉のほうが、強く胸に残った。
俺たちは、同じものを怖がっていた。
俺は置いていかれるのが怖くて、先に走った。湊は置いていく側になるのが怖くて、先に距離を取った。二人とも、相手を失いたくないまま、相手から離れる動きをしていた。
山岸先生の笛が鳴った。
「確認、あと十分」
先生はコートの端からこちらを見ていた。話を聞いていたのかもしれない。けれど、何も言わない。問い詰めることも、分かったような顔をすることもない。ただ練習の時間だけを、元の場所へ戻した。
湊がボールを拾った。
「やる?」
俺はうなずいた。
「次は、俺が合わせる」
「お前が?」
「俺が」
「珍しいな。雪でも降るんじゃねえの」
「うるせえ」
湊が少しだけ笑った。
その笑いは、朝の教室で周囲に向けていたものとは違った。無理に空気を軽くするためではない。まだ完全には戻っていないが、戻ろうとするための笑いだった。
俺たちは再びコートに立った。
湊が右から入る。俺は外へ開いた。今度は、パスを待った。湊の肩、足、視線。全部を見る。けれど、先へ行かない。ボールが手を離れる瞬間まで、その場に残る。
パスが来た。
手のひらに、正しい重さで収まった。
俺は一歩目を踏み出し、二歩目で跳んだ。リングの白い縁に触れたボールが、網を揺らして落ちる。
「今のは?」
湊が聞く。
「普通」
「普通って言えるようになったじゃん」
「うるせえ」
「いや、成長だよ。三浦くん、今日はもうそれで合格」
俺は返事をせず、ボールを拾った。
手のひらには汗が残っている。呼吸も乱れている。けれど、さっきまでのように身体だけが先へ行く感じはなかった。
夕焼けはほとんど消えていた。窓の外の空が赤から紫へ変わり、体育館の床に残った光も細くなっている。松ヤニの匂いは、汗と古い木の匂いの底へ沈み始めていた。
練習が終わるころ、部員たちは順番に体育館を出ていった。
湊は最後まで残り、ボールを倉庫へ運んだ。俺が手を伸ばすと、湊は一瞬だけ迷ってから、ボールをこちらへ投げた。
今度は、まっすぐ来た。
「明日」
湊が言った。
俺はボールを抱えたまま、顔を上げる。
「明日、何だよ」
「パス。出すから」
「分かってる」
「お前が早く走っても、今度はちゃんと合わせる」
「おまえが遅れなきゃな」
「またそれかよ」
湊は呆れたように言い、倉庫の扉へ向かった。
俺はその背中を見た。
呼び止めようと思った。朝から何度も飲み込んだ言葉を、今なら言える気がした。悪かった、と。さっきは分かった、と。明日も頼む、と。
けれど、どれも声にならない。
湊が振り返る。
「何?」
「……明日、遅れんなよ」
結局、それしか言えなかった。
湊は目を細めた。
「お前こそ、パスから逃げんなよ」
古い西側扉の向こうで、風が鳴った。
湊が扉を開けると、金属の軋む音が体育館へ長く伸びた。外の空気は湿っているのに、扉の近くにだけ、夜の冷たさがあった。
俺は一人になったコートの中央で、ボールを床へ落とした。
一度、跳ねる。
二度、跳ねる。
三度目に手のひらへ戻ってきたボールは、少しだけ熱を持っていた。熱はすぐに消えるものだと思っていた。けれど、握っているあいだは、まだ残っている。
床には、俺たちが何度も走った跡があった。
半歩先へ出た跡も、遅れて戻った跡も、同じ場所に重なっている。明日になれば、また新しい靴跡が増える。進路希望調査票の白い欄には、まだ何も書かれていない。
俺はボールを抱え、西側扉のほうを見た。
扉は閉まっていた。
それでも、指先には、さっき触れたボールの熱と、古い金属の冷たさが同時に残っていた。
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