1話 進路希望調査票の折り目

朝練の終わった教室には、まだ体育館の床の冷たさが身体に残っていた。

窓を開けても、夏の終わりの湿った風は入ってこない。代わりに、校庭の端で散水された土の匂いと、どこかの部が使っている洗剤のような匂いが、薄い朝の光に混じって流れ込んでくる。

俺は自分の席に座り、机の上の紙を二つ折りにした。

進路希望調査票。

白い紙の中央には、何度も開いては閉じた跡が残っている。折り目は一度ついたら消えない。指先でなぞると、紙の繊維がわずかに盛り上がっていた。

第一希望。第二希望。進学か就職か。

欄は、どれもまだ空白だった。

空白のままでも、今日の放課後までは何も言われない。提出期限は明日だ。担任も、今すぐ書けとは言っていない。ただ、教卓の横に積まれた調査票の束と、黒板の隅に書かれた「提出日」の文字が、座っているだけで目に入る。

俺は紙を開き、また閉じた。

体育館でボールを受けるときなら、迷わない。相手の重心が右に傾いたら左へ抜ける。味方が走り込めば、見る前にパスを出す。身体が先に答えを知っている。

なのに、紙の上では、ペン先がどこにも進まなかった。

「朝から難しい顔してんなあ」

隣の席の遠藤が、鞄を机の横に落とした。寝癖のついた髪を手で押さえながら、俺の紙を覗き込もうとする。

「見んな」

「まだ白紙? 三浦くん、推薦でどっか行くんじゃないの」

「知らねえよ」

「知らねえって、本人が言うことかよ。先生たち、もうお前の名前で大学の資料集めてるらしいぞ」

遠藤は笑った。からかっているだけなのは分かる。けれど、推薦という言葉が出た瞬間、紙の白さが急に広がったように見えた。

大学。県外。寮。新しいチーム。

そのどれも、まだ誰かから正式に言われたわけではない。山岸先生が練習のあとに、「話が来ている」とだけ伝えてきたことがある。強豪校の監督が試合を見に来るかもしれない。結果を出せば、推薦の話につながるかもしれない。

「かもしれない」ばかりだった。

確かなのは、明日の大会で負ければ、その話も遠のくということだけだ。

「おまえは?」

俺が聞き返すと、遠藤は自分の調査票をひらひら振った。

「俺? 親が決めるって。家から通えるとこ。楽でいいだろ」

「楽じゃねえだろ」

「そうか? 自分で決めなくていいんだから楽じゃん」

遠藤は冗談めかして言ったが、紙を机の中へしまう手つきは早かった。進路の話をすると、みんな少しだけ動きが変わる。声が大きくなるやつもいれば、逆に黙るやつもいる。冗談で包むやつもいる。

俺は、そういう変化に気づいてしまうくせに、気づいていないふりをしていた。

教室の後ろで、椅子を引く音がした。

湊が来た。

片方のイヤホンを耳に入れたまま、鞄を机の横へ置く。音楽は小さいらしく、漏れてくる音は聞こえない。湊は教室に入るなり、誰かの机の上にあった消しゴムを勝手に転がし、持ち主に文句を言われて笑っていた。

「返せよ、それ。俺の消しゴム」

「違う違う。これは消しゴムのほうから俺に来た」

「来てねえよ」

「人生には、そういう偶然があるんだって」

いつもの湊だった。

口元だけで笑い、相手を怒らせすぎないところで手を引く。何でもない会話をつなげて、教室に朝の音を戻していく。

けれど、俺の机の横を通ったときだけ、目が一瞬、床へ落ちた。

湊の机には、進路希望調査票が置かれていた。

俺のものと同じ白い紙なのに、ずいぶん乱雑に見えた。端が少し折れ、右上には飲み物を置いた跡のような薄い円が残っている。紙の上には何も書かれていない。進学の欄も、就職の欄も、希望校を書く欄も、全部が空白だった。

俺は立ち上がりかけた。

「おまえ、まだ決めてねえの」

声にする前に、喉の奥で止まった。

湊が聞けば、たぶん笑う。いつものように、「決まってたら苦労しねえよ」と言うかもしれない。あるいは、俺が何を聞きたいのか分からないふりをして、別の話を始める。

どちらも嫌だった。

嫌なのに、何が嫌なのか、自分でも分からなかった。

「……なに」

湊が振り返った。

俺は紙を見たまま、指で折り目を押さえた。

「別に」

「その言い方のとき、だいたい別にじゃないよな」

「うるせえ」

「朝から怖いねえ、エース様は」

湊はいつもの調子で言った。だが、椅子の背に置いた手の指が、一定の間隔で木を叩いていた。トン、トン、と小さな音がする。焦っているときの癖だった。

俺はその音を知っている。

中学の最後の大会で、残り時間が三十秒を切ったときも、湊はベンチで同じように指を鳴らしていた。俺が外したら負ける場面だった。あのとき湊は、タイムアウトのあとに俺の肩を叩いて、「外したら、俺が拾う」と言った。

実際には、俺が打つ前に湊が相手のボールを奪い、俺は走って、最後にパスを受けただけだった。

あのときのことを、俺たちは何度も笑い話にしてきた。

「おまえ、あのとき俺が拾わなかったら、今ごろただの背の高い奴だからな」 「うるせえ。俺が決めた」 「俺が拾った」 「俺が決めた」 「拾った」 「決めた」

そうやって、勝った日のことだけは簡単に話せた。

けれど、あの夜のことは、まだ一度も話していない。

進路希望調査票が配られた日の帰り、俺たちは駅裏の古い自販機の前で言い合った。湊が進学の話を避けた。俺はそれに苛立った。

「おまえ、最初から諦めてんだろ」

俺がそう言ったとき、湊は笑わなかった。

「諦めてるんじゃない。選んでるんだよ」

「働くのが選ぶことかよ。逃げてるだけだろ」

言ったあと、口の中に鉄の味がした。

湊はしばらく俺を見ていた。それから、目をそらして、低い声で言った。

「お前は、何も知らないくせに」

そこから先は、よく覚えていない。

覚えているのは、自販機の明かりが湊の頬を青白く照らしていたこと。夏なのに、あの場所だけ風が冷たかったこと。最後に湊が、「お前の夢の中に、俺の席まで用意されてると思うなよ」と言ったことだけだ。

翌日から、湊は俺の隣にいた。

同じ教室にいて、同じ練習着を着て、同じコートに立った。

それなのに、目だけが合わなくなった。

「決めたくても、紙が急かしてくるんだよ」

湊は自分の調査票を指で弾いた。

軽い音がした。

「紙に急かされるって、どういうことだよ」

「そのまんま。ここに丸つけろ、ここに名前書け、明日までに出せってさ。紙のくせに態度がでかい」

「ふざけてんのか」

「ふざけてるように見える?」

湊は笑おうとした。けれど、口元だけが動いて、目は動かなかった。

俺は返事をしなかった。

湊は一度息を吐き、机の上の紙を裏返した。

「まあ、まだ時間あるし。三浦くんは推薦で華々しく旅立つんだろ。俺は駅前で見送ってやるよ。横断幕持って」

「推薦なんか、決まってねえ」

「決まってないけど、狙ってる」

「……おまえだって、バスケ続けたいんじゃねえの」

言ってから、失敗したと思った。

湊の指が止まった。

教室の前では、担任が黒板に今日の予定を書き始めている。チョークの粉が細く舞い、窓から差す光の中で一瞬だけ白く浮いた。

湊は紙の端を折った。折って、戻して、また折った。

「続けたいかどうかで決められるなら、楽なんだけどな」

「何だよ、それ」

「何って?」

「だから、そういう言い方」

「どういう言い方だよ」

「分かるように言えよ」

声が少し大きくなった。

前の席の何人かが振り返る。湊はすぐに笑って、片手を上げた。

「朝から夫婦喧嘩みたいになってるだけ。気にしないで」

「誰が夫婦だ」

「そこかよ」

何人かが笑った。教室の空気が一瞬だけ緩む。湊はそれで十分だと思ったのか、また紙を裏返した。

俺だけが笑えなかった。

「俺は、おまえにどうしろって言われても困るんだよ」

湊は前を向いたまま言った。

「進学しろって言われても困る。頑張れば何とかなるって言われても困る。お前ならできるって顔をされても困る。だって、できるかどうかを決める前に、払うものとか、残すものとか、そういうのを考えなきゃいけないから」

そこまで言って、湊は黙った。

俺のほうを見ない。

「……悪い」

それだけ言えば済むのに、俺は言えなかった。

代わりに、調査票の折り目をまたなぞった。

湊の言葉の中に、俺の知らない生活があった。朝、家を出る前に何を考えているのか。誰と何を話しているのか。帰ったあと、どんな顔で家の中を歩いているのか。

俺はそれを、何も知らないまま「逃げるな」と言った。

知ろうともしないで。

「……おまえは?」

湊が聞いた。

「何が」

「お前は、どこ行くつもりなんだよ」

俺は紙を見た。

進学先の欄には、何も書かれていない。

「まだ決めてない」

「嘘」

「嘘じゃねえ」

「決めてるだろ。バスケ続けられるとこ。推薦が来るかもしれないとこ。県外でも行くつもりの顔してる」

「顔で決めつけんな」

「顔じゃない。走り方」

湊の声から、少しだけ軽さが戻った。

「最近のお前、前に行きすぎるんだよ。ボール持ったら、誰かを置き去りにするみたいに走る。昨日の練習だって、俺のパスを半歩早く取りに来た」

「おまえが遅いだけだ」

「はいはい。そういうことにしとく」

湊は笑った。

俺は、そうやって流されるのが腹立たしかった。何でも笑って、何でも自分の中へしまって、俺には何も渡さない。

「置いてくのは、おまえのほうだろ」

言葉が先に出た。

湊の笑いが消えた。

「……何それ」

「別に」

「今のは別にじゃないだろ」

「おまえが勝手に決めて、勝手に離れてくだけじゃねえか」

「勝手にって言うなよ」

湊の手が机の端を掴んだ。

「こっちだって、好きでこうしてるわけじゃない」

「じゃあ、説明しろよ」

「説明したら、お前はどうすんの」

「聞く」

「聞いて、それで?」

俺は答えられなかった。

湊は目を伏せたまま、机の上の紙を四つ折りにした。さっきまで二つ折りだった紙に、新しい線ができる。

「同情する? それとも、俺の分まで勝手に悔しがる?」

「そんなことしねえよ」

「するよ。お前はそういう奴だから。自分が走れば、誰かも一緒に走れると思ってる。自分が勝てば、負けた奴の分まで何とかできると思ってる」

「……違う」

「違わない。お前は優しいんじゃなくて、置いていくのが怖いだけだ」

胸の奥を、指で直接押されたような気がした。

俺は立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、教室中に嫌な音を立てる。

湊はそれでもこちらを見なかった。

殴るつもりなんかない。ただ、何か言わなければと思った。けれど、言葉が見つからない。怒鳴ることならできる。ボールを強く床へ叩きつけることもできる。だが、今の湊の言葉を否定するために、何を言えばいいのか分からなかった。

そのとき、廊下から山岸先生の足音が近づいてきた。

ゆっくりした足音だった。

教室の入口で、先生は俺と湊を見た。机の上の紙にも、俺の上がった肩にも目を向けたが、何も尋ねなかった。

「三浦。朝から跳ぶな」

「……はい」

「床は試合のためにある。人を殴るためじゃない」

「殴ってません」

「そういう顔をしている」

先生はそれだけ言い、湊の机の紙を一度見た。

「提出は明日だ。白紙で出すな」

「まだ決まってないんですけど」

湊が言った。

「決まっていないなら、決まっていないと書け。空白は意思表示にならん。ただの空白だ」

湊は唇を結んだ。

先生は俺を見る。

「三浦も同じだ。推薦がどうとか、続けるかどうとか、今ここで決めろとは言わん。ただ、自分が何を怖がっているかくらいは、書く前に見ておけ」

言い終えると、先生は教室を出ていった。

俺と湊の間に、また沈黙が落ちた。

窓の外で、運動部の誰かが走っている。遠くで笛が鳴り、校庭の砂を踏む音が続く。朝の学校は、誰かが決めた時間割に従って動いている。授業が始まり、昼になり、放課後になれば、俺たちはまた体育館へ行く。

その流れから、俺だけが外れているようだった。

「なあ」

湊が言った。

俺は顔を上げた。

「今日の練習、ちゃんと来いよ」

「いつも来てるだろ」

「そうじゃなくて。最後の確認だから」

「分かってる」

「……明日、俺がパス出すから」

その言葉で、胸の奥がわずかに動いた。

湊は目を合わせないまま続けた。

「お前がいつもみたいに早く走っても、今度は合わせる。だから、勝手に先へ行くなよ」

「おまえが遅れなきゃな」

「はいはい。エース様は注文が多いねえ」

ようやく、いつもの笑い方をした。

俺は返事の代わりに、自分の調査票を折った。二つ折りにして、さらに一度だけ折る。紙の中央に新しい線が増えた。

空白は消えなかった。

湊の机の上にも、同じ白い紙が残っている。

ただ、さっきまでと違って見えた。

何も書かれていないのではなく、まだ書けないものがそこにある。俺の進学先も、湊の選ぶ仕事も、二人がこれからどこで何をするのかも、紙の上にはまだ現れていない。

チャイムが鳴った。

湊はイヤホンを外し、ポケットへしまった。俺は調査票を机の中へ入れた。

そのとき、指先に残った折り目が、体育館の床に引かれたラインのように思えた。越えれば別の場所へ行ける。けれど、越える前に一度だけ、後ろを振り返ることもできる。

湊が教科書を開く。

俺はその横顔を見て、名前を呼びかけた。

「湊」

「ん?」

言葉は、また喉の奥で止まった。

「……今日、遅れんなよ」

湊は少しだけ目を細めた。

「お前こそ、パスから逃げんなよ」

先生が入ってきて、朝の授業が始まった。

窓から差す光は、さっきより白くなっていた。紙の折り目は消えない。けれど、その上に文字を書くための余地は、まだ残っていた。

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