第10話 第10話「西側扉はまだ熱い」

試合の日の朝、目を覚ます前に、ボールの音を聞いた。
一度、床へ落ちる。
二度、跳ねる。
三度目の音がする前に、目が開いた。
部屋の天井はいつもと同じだった。カーテンの隙間から差し込む光は薄く、夏の終わりの朝にしては静かだった。枕元のスマートフォンを見ると、集合時間までまだ一時間以上ある。
台所から、包丁の音が聞こえた。
俺はベッドを出て、顔を洗った。冷たい水が頬を打つ。鏡の中の顔は、思っていたより普通だった。もっと緊張していると思っていたし、眠れていないと思っていた。
洗面所を出ると、玲子が握り飯を包んでいた。
「起きた」
「うん」
「食べる?」
「食べる」
玲子は何も聞かず、皿へ一つ置いた。海苔の匂いと、まだ少し残る米の温かさが鼻へ届く。
俺は椅子に座り、握り飯を食べた。
具は鮭だった。いつもより塩が強い気がした。けれど、そのほうがよかった。喉を通るたびに、身体の内側へ熱が落ちていく。
玲子は弁当箱の蓋を閉めながら、俺の手首を見た。
古いリストバンドを巻いている。
「それ、まだ使うの」
「切れるまで」
「切れたら?」
「結び直す」
玲子は少しだけ目を細めた。
「そう」
それ以上は言わなかった。
家を出ると、朝の空気はひんやりしていた。駅へ向かう道の角で、湊が待っていた。黒いタオルを首に掛け、片手に缶コーヒーを持っている。まだ開けていない。
「遅い」
「集合まで四十分ある」
「俺が早い」
「それは知ってる」
「知ってるなら、褒めろよ」
「すごいな」
「棒読みだなあ」
湊は笑った。
昨日までなら、その笑いの奥を探していた。今日は探さなかった。笑っているなら、笑っている顔をそのまま受け取ればいいと思えた。
並んで歩く。
歩幅は完全には揃わなかった。俺が少し先へ出て、湊が一歩遅れる。交差点で信号が赤になると、湊が追いつく。青になれば、今度は俺が待つ。
それだけのことが、妙に新しかった。
体育館へ着くと、部員たちはすでに集まっていた。床には朝の光が長く伸び、窓の近くに積まれたボールが白く浮かんでいる。山岸先生はスコアシートを確認しながら、俺たちを見た。
「遅い」
「今日は早いですよ」
湊が言う。
「相沢にしては、だろう」
「先生、ひどいな」
「事実だ」
俺は靴紐を結び直した。右、左。結ぶ回数を揃える。指先が少し震えたが、結び目は崩れなかった。
体育館の入口に、隣校の選手たちが現れた。
その中に、佐伯凛がいた。
彼女はいつも通り、荷物を壁際へ揃えて置き、手首を回した。俺と目が合うと、わずかに顎を引く。
「眠そう」
「寝た」
「なら、動ける」
「動く」
「昨日より、目が遅い」
俺は意味を考えた。
「遅い?」
「先に行かなくなった」
凛はそれだけ言って、コートへ歩いていった。
湊が隣で小さく息を吐く。
「朝から佐伯節だな」
「分かるのか」
「長い付き合いだからな。昨日一日だけだけど」
「短い」
「でも濃い」
山岸先生が笛を鳴らした。
「アップ」
俺たちはコートへ入った。
試合開始の整列を終えると、観客席から拍手が起きた。大きくはない。けれど、体育館の高い天井で反響し、いくつもの音に分かれて降ってくる。
俺は湊を見た。
湊はボールを持っていた。
審判が笛を鳴らす。
ボールが上がる。
俺は跳んだ。
指先に触れたボールが、湊のほうへ落ちる。湊は一歩下がって受け、すぐに前を向いた。
以前なら、俺はもう走り出していた。
けれど、今度は待った。
湊の視線が右へ流れる。相手の守備がそちらへ寄る。次の瞬間、左手から鋭いパスが出た。
俺は走った。
ボールは、俺の胸元へ正しい速さで飛んできた。
受ける。
踏み込む。
跳ぶ。
相手の腕が肩へ触れた。身体が揺れた。それでも、俺はボールを放した。板に当たった白い球が、リングの縁を一度だけ回り、網を抜ける。
笛が鳴る。
歓声が上がった。
湊が走ってきて、肩をぶつける。
「遅い」
「おまえが待たせた」
「待ったのはお前だろ」
「待ったから入った」
「じゃあ、もう一回待て」
試合は簡単には進まなかった。
佐伯凛の守備は、俺たちの呼吸を何度も切った。彼女は俺の前へ立つたび、余計な動きを一つも見せない。ドライブへ入れば身体を寄せ、外へ逃げれば半歩だけ先に出る。
「感情は、外に置け」
凛が低く言った。
「置けない」
「なら、持ったまま動け」
俺は歯を食いしばった。
置いていかれる怖さも、勝ちたい気持ちも、湊と離れたくない気持ちも、全部消す必要はなかった。消そうとするから、身体が先に跳ねる。
俺は一度、湊の顔を見た。
湊はすでに空いた場所へ走っていた。
パスを出す。
湊が受ける。
凛が寄る。
湊は一歩だけ沈み、俺へ返した。
俺は迷わず打った。
ボールはリングへ届かなかった。だが、外れた球を味方が拾い、もう一度湊へ渡る。湊はゴール下へ切り込み、身体を投げ出すようにしてシュートを決めた。
同点だった。
残り時間は少ない。
山岸先生の声が、ベンチから飛んだ。
「最後まで、足を止めるな!」
相手の攻撃。守備。奪ったボール。湊が走る。俺も走る。
脚は重かった。肺が焼け、手のひらは汗で滑る。それでも、先へ行くことだけが正しいわけではないと、もう知っている。
湊が一度、足を止めた。
俺も止まった。
相手の守備が二人、湊へ寄る。
湊の目が上がる。
俺は右側へ走った。
パスが来る。
今度は、強かった。
両手で受けた。踏み切る。身体をぶつける。リングが近い。指先から離れたボールが、網を揺らす。
残り三秒。
相手の最後のシュートが放たれた。
ボールはリングの手前で跳ね、湊が両手で抱え込んだ。
笛が鳴った。
一瞬、何も聞こえなかった。
それから、体育館の音が戻ってきた。歓声。靴音。誰かの泣き声。山岸先生の短い指示。湊の荒い呼吸。
俺はその場にしゃがみ込んだ。
湊が隣へ座る。
「勝ったな」
「うん」
「泣くなよ」
「泣いてない」
「目、赤い」
「汗」
「顔から汗出るかよ」
「出る」
湊は笑った。
俺も笑おうとしたが、うまくいかなかった。胸の奥が詰まって、息を吸うたびに何かがこぼれそうになる。
試合が終わっても、別々の道は残っている。
湊は地元で働く。俺は推薦を受け、ここを離れるかもしれない。明日から、今日までと同じようには会えない。
それでも、終わりではないと言い切るには、まだ少し怖かった。
体育館を出る前、俺は西側扉の取っ手へ手を置いた。
朝の金属は冷たい。
けれど、手のひらを離したあとも、昨夜から続く熱が残った。
湊が横へ来る。
「まだ熱い?」
「少し」
「そうか」
湊は扉を開けた。
外の風が、汗で濡れた首筋を撫でる。湿った夏の匂いに、体育館の松ヤニが混じった。
俺たちは並んで廊下へ出た。
扉が閉まる。
金属音が、校舎の奥へ響いていく。
俺は一歩遅れて歩き出した。
湊が振り返る。
「晴翔、来い」
「今行く」
今度は、走らなかった。
湊が待っていることを知っていたからだ。
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