3話 頁抜けの記念文集

図書館へ向かう道で、真帆はほとんど口を開かなかった。

港から吹き上げる風が、商店街の軒に吊られた旗をばたつかせている。昨夜の退職祝いのために飾られた提灯は、朝のうちに半分ほど片づけられていた。赤い紙の筒が店先に積まれ、蝋燭の残り香と、魚を焼いた油の匂いが通りに混ざっている。

私は真帆の少し後ろを歩いた。彼女は手にした方眼ノートを何度も開き、同じ頁を確かめている。歩きながら読むのは危ないと注意したことがあるが、真帆はそのとき、「歩いているときのほうが、記録の並びが見えることがあります」と答えた。

変わった人だと思った。

けれど、私も若い頃には、書架の間を歩きながら分類番号を確認していた。人は自分に似た癖を持つ相手ほど、見つけるのが早い。

「昨日の文集は、図書館に戻しておけばよかったでしょうか」

真帆がノートから目を上げずに言った。

「私が持っています」

「ええ。ですから、持っていること自体が悪いとは思っていません。ただ、抜けた頁を確認するなら、印刷所に残っている控えと比べたほうが正確です」

「それで、もう確認したのですか」

「朝、開館前に見ました」

「ずいぶん早いですね」

「眠れなかったので」

真帆はそこで初めて私を見た。

「日記箱のことが気になって」

「あなたの日記ではありません」

「そうですね。でも、記録がなくなったとき、なくなったものの中身だけを考えるのは危険です。どこに置かれていたか、誰が置いたか、誰がその場所を知っていたか。空白は、抜かれた頁の形だけでは残りません」

私は返事をせず、道の先を見た。

市立図書館は、旧市街の中央にある。戦後に建てられた二階建ての建物で、外壁は何度も塗り直されているが、裏手の木製扉だけは昔のままだ。海からの風を受け続けた木は黒く変色し、雨の多い年には蝶番のあたりから軋む音を立てる。

私が四十年勤めた県立図書館とは規模が違う。けれど、ここには町の人が持ち込んだ手紙や帳面、写真や新聞の切り抜きが、分類しきれないまま長く眠っている。整えられていない記録は、整えられた記録よりも、ときに正直だった。

真帆は正面玄関を通り過ぎ、職員用の脇扉へ向かった。扉の前で立ち止まり、鍵を取り出す。鍵を差し込む前に、錠の周囲を指先でなぞった。

「どうしました」

「昨日、誰かが触っています」

「分かるのですか」

「鍵穴の下に白い擦れがあります。ここは普段、鍵をまっすぐ入れないと当たりません。急いで開けた人の跡かもしれません」

私は扉を見た。白い擦れは、木の塗装が剥げた小さな線にすぎない。

「それだけで、日記箱と関係があるとは言えません」

「はい。だから、記録しておきます」

真帆はノートに短く書き込んだ。文字は少し斜めに傾いている。書き終えると、彼女は鍵を回した。

館内はまだ冷房が入っておらず、外よりも湿っていた。紙の匂いに、古い木材の甘い匂いが重なっている。受付カウンターには昨日の退職祝いで使った花籠が置かれていた。白い百合のうち、何本かは花粉を落とし始めている。

「これ、立花さんのところから届いたものです」

真帆が花籠の札を裏返した。表には何も書かれていない。裏側に、小さな印刷文字があった。

片瀬写真館。

私は札を受け取り、指で紙の縁を押さえた。厚手のカードだが、端に水分を吸った柔らかさがある。

「昨日の料理屋にも、同じ花がありました」

「立花さんが、倉橋さんの退職祝いに二つ送ったのでしょうか」

「分かりません」

「分からないことは、分からないまま書いてください」

「あなたは、何でも書くのですね」

「書かない理由がない限りは」

真帆はそう言い、花籠を元の位置へ戻した。

「倉橋さんは、書かない理由があったのですか」

その質問は、花の向きを直す動作のあとに続いた。

私はカウンターの端に手を置いた。木の表面は何度も拭かれ、滑らかになっている。昔、子どもたちがここで本を借り、返却日を尋ね、夏休みの自由研究について相談した。町の時間は、そうした小さな用事の形で積み重なってきた。

「何の話ですか」

「三十年前の話です」

「私はまだ、何も話していません」

「だから聞いています」

真帆の声は静かだった。責める口調ではない。だが、引き返すための隙間もなかった。

「あなたは、私が三十年前の日記に何かを書かなかったと思っていますか」

「思っているのではありません。そういう可能性を調べています」

「可能性なら、誰にでもあります」

「ええ。だから、倉橋さんだけを疑っているわけではありません」

「しかし、私に聞いている」

「倉橋さんが、記録を扱っていた人だからです」

私は花籠へ目を向けた。百合の白さが、かえって不自然に見えた。

「記録を扱っていた人間は、記録に何でも書くと思いますか」

「思いません」

「なら、なぜ」

「書くべきことを書かなかった人が、書かない理由を一番よく知っているからです」

真帆は眼鏡を直した。いつもの癖だが、今日は指先が少し震えていた。

「私の祖母は、昔のことを話し始めると、必ず途中でやめました。家族の誰かが口を挟むんです。『もういいでしょう』『今さら誰が困るの』『知らないほうが楽なこともある』って。子どもの頃の私は、そういう言葉を優しさだと思っていました。でも、あるとき古い写真の束から一枚だけ抜けているのを見つけた。写真がないのではなく、抜いた人がいた。そこに写っていた人だけが、家族の記憶からいなくなっていたんです」

真帆の言葉は長かった。普段の彼女なら、もっと短く切り分けるはずだった。

「その人が誰だったか、分かったのですか」

「分かりました。祖母の兄でした。家を出たあと、戻ってこなかった人です。家族は、亡くなったことより、戻ってこなかった理由を知られるのが怖かった。だから写真を抜いた。名前を言わなければ、いなかったことにできると思った」

「できたのですか」

「いいえ。空白が残りました」

真帆は抜けた頁の話をするように、淡々と言った。

「空白は、何もない場所ではありません。誰かが、そこにあったものを消した跡です」

私は胸の奥に、昨夜見た戸棚の空白を思い出していた。埃の薄い長方形。鍵だけが残り、箱だけが消えていた。

「空白を見つけたからといって、すぐに埋めていいとは限りません」

「埋めるのではなく、まず確認するんです。何があったか。いつからないのか。誰が抜いたのか。そうしなければ、空白を残した人の都合で、意味まで決まってしまう」

真帆は職員室の机へ向かった。私はその後ろを歩いた。

机の上には、昨夜使われた記念文集の原稿控えが数冊積まれていた。真帆は一冊ずつ取り上げ、背の向きと番号を確認した。四冊目を開いたところで、指が止まる。

「これです」

彼女は私の前へ冊子を置いた。

印刷前の原稿は、退職祝いの挨拶や寄せ書きをまとめたものだった。紙は本番の文集より薄く、ところどころ赤鉛筆で修正が入っている。頁番号は二十七。見出しには、次のように書かれていた。

港祭りの記憶――寄贈資料から。

その下に、写真の説明がある。

平成某年八月、図書館裏手から港方向を望む。片瀬写真館寄贈。

私は、説明文の最後にある「寄贈」の二文字を見つめた。

「写真はどこですか」

「原稿にはありません。印刷所へ送る前のデータにも、写真だけが抜かれています」

「写真そのものは」

「郷土資料の棚にあります。ただし、登録上の寄贈者名は空欄です」

「空欄にしたのは誰ですか」

「そこまではまだ」

真帆は別のファイルから、古い受付台帳の複写を取り出した。三十年前の紙は黄ばんでおり、折り目の部分が白くなっていた。頁を開くと、寄贈資料の一覧が並んでいる。

写真資料、三点。

寄贈者の欄だけが、白く塗りつぶされていた。

白い修正液は周囲の紙より新しく見えたが、実際には三十年のあいだに黄変し、薄い灰色になっている。私はその塗り方を見て、指先が止まった。

「これは、修正液ではありません」

「分かりますか」

「昔の図書館では、寄贈者名を伏せるとき、白鉛筆の上から水性の顔料を重ねることがありました。紙を傷めないためです。ただ、あとから確認できるよう、台帳の別紙に理由を残す決まりでした」

「別紙はありません」

「別紙がないのではなく、綴じられていない可能性があります」

「どうして分かるのですか」

私は台帳を受け取り、綴じ目を見た。頁の端に、二つの穴がある。綴じ紐を通すための穴だが、その周囲だけ紙がわずかに潰れている。

「この頁は、一度外されています。戻したときに、穴の位置が半分ずれている」

真帆が身を乗り出した。

「本当ですか」

「見てください。二十三頁と二十五頁では、紐の圧痕が重なっています。ここだけ綴じ直しの跡がある」

「では、別紙があった」

「可能性はあります」

「倉橋さん」

「断定はできません」

「でも、空白にはなっている」

「記録の仕事では、可能性と事実を混ぜません」

私の声が少し強くなった。真帆は黙った。

その沈黙の中で、古い壁掛け時計が秒を刻んでいた。冷房の止まった室内に、紙をめくる音と時計の音だけが残る。私は、昔の職場で新人に同じ注意をしたことを思い出した。推測を事実のように書かないこと。分からないものには、分からないと記すこと。

それを守ってきたはずだった。

守れなかった記録が、自分の目の前にある。

「すみません」

真帆が言った。

「何がですか」

「今の言い方です。私は、空白を見つけると、すぐに誰かが埋めるべきだと思ってしまう。けれど、倉橋さんは、埋める前に空白の形を見ている」

「あなたは速すぎます」

「倉橋さんは遅すぎます」

真帆はそう言ってから、少し困ったように笑った。

「だから、一緒に調べる意味があるのだと思います」

私は台帳を閉じた。表紙の角を揃え、机の端へ戻す。

「記念文集の頁を抜いたのは、誰だと思いますか」

「まだ分かりません」

「立花さんでしょうか」

「写真を撮った人だから?」

「花を送った人です」

「それだけでは理由になりません」

「分かっています」

「立花さんが抜いたとは限りません。原稿を印刷所へ送ったあと、誰かが頁を抜いたのかもしれない。あるいは、印刷所へ送る前から抜けていたのかもしれない。重要なのは、抜けた頁に三十年前の写真と寄贈者名があったことです」

「その二つが、同じ夜に関係している」

「そう考える理由があるのですか」

真帆はすぐには答えなかった。机の上の台帳を見ている。

「理由というほどではありません。ただ、昨日の会場で久保田さんを見たとき、文集の束を持ち上げていました」

私は息を止めた。

「いつですか」

「倉橋さんが挨拶をしている途中です。皆さんが館長のほうを見ているとき、久保田さんが文集を一冊持ち上げて、表紙を確かめていました。そのあと、束の順番を入れ替えています」

「なぜ、今まで言わなかったのですか」

「確かなことではないからです。それに、私はそのとき、頁が抜かれているとは知りませんでした」

「では、今になって話す理由は」

「日記箱がなくなったからです。箱を持ち去った人が、昨夜の会場にいたかもしれない」

私は、退職祝いの席を思い出した。

久保田義造の穏やかな顔。湯呑みを持ち直す指。町にも、表に出してよいものと家の中だけに置くものがある、と言った声。

そして、花の札を裏返したときに見えた片瀬写真館の文字。

「真帆さん」

「はい」

「その文集の束は、誰が用意したのですか」

「図書館の職員が、印刷所から受け取って並べました」

「受け取ったのは、誰ですか」

「影山さんです」

その名前を聞いたとき、私は台帳の上に置いた指を引いた。

影山誠。図書館の資料整理を長く手伝い、町内の催しにも顔を出す男。私の退職祝いでは、入口付近で来客の上着を預かっていた。穏やかで、目立たず、誰かが困る前に椅子を出したり、湯呑みを交換したりしていた。

「影山さんが、文集を?」

「印刷所から受け取って、会場へ運んだそうです。枚数の確認もしています」

「その確認記録は」

「あります」

真帆はファイルを開いた。受領日、冊数、破損の有無。影山の名前が、細い字で記されている。

私は署で見た一行の紙を思い出した。

三十年分、あなたは見て見ぬふりをした。

あの字と、影山の記録に残る字は、書き方が違う。けれど私は、その違いを確かめることができなかった。人の筆跡を覚えることと、その人を疑うことは別の作業だからだ。

「影山さんは、昨日、私の家に来ていません」

「そう言いましたね」

「でも、図書館から文集を運び、会場で束に触れている。日記の存在を知っていても、おかしくありません」

「倉橋さんは、影山さんに日記のことを話したことがありますか」

「ありません」

「話さなくても、知っていた可能性は?」

私は答えを探した。

影山は、かつて図書館の古い資料を運び出す作業を手伝っていた。私の書斎へ来たことも一度や二度ではない。夫が不在のとき、壊れた本棚の修理を頼んだこともあった。あのとき、彼は戸棚の位置を知っただろうか。

知っていたかもしれない。

だが、それだけで箱を持ち去ったと決めることはできない。

「分かりません」

私は言った。

言葉にしてから、その答えがひどく正確であることに気づいた。分からない。今の私には、それしか言えない。

真帆は私を見つめたが、追及しなかった。

「今日は、地下書庫へ行きます」

「すぐにですか」

「はい。寄贈者名を伏せた記録と、三十年前の閲覧台帳を見ます。文集の頁が抜けたことと、日記箱がなくなったことを結びつけるなら、まず資料番号の流れを確認しないといけない」

「警察には、まだ話していません」

「佐伯さんには私から伝えます」

「佐伯さんは、単なる私物の紛失として見ています」

「だから、記録の側から見せます」

真帆はファイルを閉じ、紙の端を一度だけ揃えた。

「倉橋さん。もし、台帳の中にあなたの名前が出てきたら、どうしますか」

「私の名前があること自体は、珍しくありません」

「寄贈者名を消した処理に関わった記録があったら」

私は、古い木の机に手を置いた。表面の温もりが掌に伝わる。昼の熱を吸った木は、ひとの記憶より確かな手触りを持っていた。

「確認します」

「それだけですか」

「確認して、事実なら記録します」

「自分を責めることになっても?」

「記録に、自分だけ別の扱いをすることはできません」

真帆の目がわずかに揺れた。

「その言葉を、ずっと守れますか」

「分かりません」

私は文集の抜けた頁を見た。

「でも、守れなかった場合には、守れなかったと書きます」

地下書庫へ続く階段の扉を開けると、湿った空気が上がってきた。石段の下から、紙と古い木の匂いが混ざって届く。真帆が先に灯りをつける。蛍光灯は一度明滅し、それから白く点いた。

階段を下りながら、私は昨夜の自分を思い出していた。

退職祝いの席で、私は「知らないままにしないこと」が仕事だったと話した。皆の前で、いかにもそれらしい言葉を並べた。けれど、本当に確かめるべきものが自分の手元から消えた途端、私は誰かのせいにしようとしている。

誰かが抜いた頁。

誰かが持ち去った箱。

誰かが消した名前。

そこに自分の手が触れていなかったと、まだ言い切れない。

階段の途中で、真帆が振り返った。

「大丈夫ですか」

「はい」

「その返事は、昨日から信用できません」

「では、訂正します」

私は手すりを握り直した。古い木の表面が湿り、掌に薄いぬめりを残す。

「大丈夫ではありません。でも、行けます」

真帆は少し考えてから、うなずいた。

「それなら、信用します」

地下書庫の扉の向こうには、まだ誰にも読まれていない記録が眠っている。頁を抜かれた文集と、名を失った寄贈資料と、消えた日記箱。その三つが、同じ空白の縁で触れ合っているように思えた。

私は階段を下りきり、扉の前で立ち止まった。

真帆が鍵を回す。

金属が錠の内部で擦れ、低い音を立てた。

その音は、書斎に残された日記箱の鍵と、よく似ていた。

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