9話 防災名簿の空欄

その夜遅く、柚木綾が町内会館から借りてきた防災名簿の写しを、茶色い封筒に入れて持って来た。

雨は上がっていた。けれど、昼間に濡れた坂道はまだ黒く光り、家々の軒下から水滴が一定の間隔で落ちていた。蝉の声はすっかり消え、代わりに遠い公園から盆踊りの太鼓が聞こえてくる。祭りの本番が近づいているのか、どん、どん、と試すような音が、湿った夜気の中をゆっくり流れていた。

綾は玄関先で靴を脱ぐと、濡れた傘をきちんと畳み、壁際へ立てかけた。傘の先から落ちた雫が、三つ、たたきの石の上で弾ける。

「遅くにすまない」

「まだ十時前よ」

「町内会館は、そんな時間まで開いているのか」

「片山さんが帰らなかっただけ。帰れなかったのかもしれないけど」

綾はそう言って、封筒を胸元から取り出した。封筒の角が少し潰れている。会館の机の下か、古い戸棚の隙間へ押し込まれていたのだろう。

居間へ通すと、澄江は台所から出てこなかった。流しで水を使う音がしている。綾が来たことにも気づいているはずだが、挨拶はなかった。私はその沈黙を、妻が綾を拒んでいるからではなく、こちらの会話を聞くために距離を取っているのだと感じた。

美咲は居間の隅で、昼間に取り込んだ洗濯物を畳んでいた。私たちが卓につくと、タオルの端を揃え、重ねたものを籠へ入れた。綾の封筒には目を向けない。だが、封筒を置く場所だけは見ていた。

綾は封筒から紙を出した。

綾の書店で嗅ぐ紙の匂いとは違った。油を吸い、手汗を吸い、何人もの指先を通ってきた紙の匂い。古い帳面に染みついた埃の匂いと、押し入れの奥で乾ききらなかった布の匂いが混ざっている。

「町内会館の控えと、防災名簿の写し。それから、回覧板の裏に挟まっていたもの」

綾は紙を三つに分け、卓の上へ並べた。

私はまず、町内会の控えを手に取った。表紙には、年度と「災害時安否確認」とだけ記されている。表紙の角は擦れて白くなり、綴じ紐の近くには茶色い染みが浮いていた。

「防災名簿というのは、祭りの記録とは関係ないだろう」

「関係がない記録は、案外少ないよ」

綾は紙の角を揃えた。二枚、三枚と重ねるたびに、端のずれを親指で押し戻す。

「祭りの翌朝、町内会は安否確認をしている。名目は、階段付近で人が倒れたから。事故として処理されたけれど、誰がどこにいるかを確認した記録だけは残っている」

「それなら、事故の記録も残っているはずだ」

「残っている。ただ、誰が倒れたのかではなく、誰が確認されたかという形で」

綾は一枚目の紙を私の前へ滑らせた。

住民の名前が世帯ごとに並んでいる。住所、人数、確認時刻。多くは鉛筆で書かれ、ところどころに赤い丸が付けられていた。工場の総務課で見慣れた形式だった。誰が出勤し、誰が欠勤し、誰に連絡がついたか。生活を守るための帳面は、いつも人間を数字の列へ変える。

「ここを見て」

綾の指が、ある行で止まった。

祭りの翌日の欄だけ、ひとり分の名前が空いている。

空欄は、単に記入されなかったようには見えなかった。紙の角がわずかに波打ち、そこだけ繊維が毛羽立っている。後から削ったのか、何度も消しゴムをかけたのか。周囲の紙より白く、しかし完全には消え切らない黒い跡が、薄い影のように残っていた。

「これは、前に町内会館で見た名簿の跡と同じだ」

「同じ人が触ったとは限らない。でも、同じ目的で扱われた可能性はある」

「名前が消されている」

「そう見えるね」

「誰の名前だ」

「まだ分からない」

私は空欄の左右にある名前を読んだ。世帯主と、その妻。隣の欄には息子の名前が残っている。その下に、本来ならもう一人分の記載があったはずだ。紙の幅だけが、それを示していた。

「ひとり、減っている」

「事故の翌日までは、その世帯は四人として扱われている」

綾は別の紙を重ねた。

「でも、その翌週の回覧板では三人。防災名簿も三人。町内会の年表にある世帯数も三人。最初から三人だったように直されている」

「転居したのではないか」

「可能性はある」

「死んだとは限らない」

「もちろん」

「では、どうして事故と結びつける」

「結びつけているのは私ではないよ。紙の方が、同じ日付の近くに並んでいる」

綾はそう言って、回覧板の控えを開いた。

祭りの翌朝、清掃当番の変更が記されている。その下に、鉛筆で書き足された短い文があった。

階段付近、救急車。町内会長対応。

私は見覚えのある文言に指を止めた。

「会館で見たものと同じだ」

「同じ控えから写されたのかもしれない。あるいは、同じ人間が書いた」

「片山さんか」

「筆跡だけでは断定できない」

「断定しないことが、君の癖なのか」

綾は私を見た。眼鏡の奥の目は静かだったが、責められたようには見えなかった。

「断定すると、紙に書かれていないものまで、書かれたことにしてしまうから」

「私は、そんなことをしているか」

「あなたは、空欄を見ると埋めたくなるでしょう」

言われて、私は手を引いた。空欄の前へ伸ばしていた指が、紙の上で止まっている。いつの間にか、鉛筆を探していた。

「工場の記録では、空欄は問題だった。人数が合わなければ、事故の報告も補償の計算もできない。誰かが記入を忘れたなら、確認して埋める。故意なら、理由を問いただす。それが仕事だった」

「町の記録は、工場の記録とは違うよ」

「人間が扱うものなら、同じだ」

「違う。工場では、記録が人を動かす。町では、記録が人を止めることもある」

「止める?」

「誰かの家へ行くこと。名前を尋ねること。救急車が来た理由を聞くこと。そういう動きを、町内会は『確認済み』という一言で止められる。確認したことにしておけば、それ以上、誰も戸を叩かないから」

綾の声は大きくなかった。けれど、その言葉は夜の居間に長く残った。

私は、町内会館で片山が紙の端を揃えていた姿を思い出した。彼は何かを隠すときほど、記録を丁寧に扱う。紙を破らず、書き損じたように見せ、必要なところだけを別の形へ移す。

「片山さんは、誰かを守ろうとしたのか」

「そう思っていたのかもしれない」

「誰かを守るためなら、名前を消していいのか」

「私は、いいとは言っていない」

「皆、そうやって言い切らない」

「言い切ることが正しいとは限らないよ」

綾は、名簿の空欄へ指先を置いた。押さえつけるのではなく、そこに残った紙の波を確かめるように撫でた。

「この名前を消した人は、消し慣れていなかった」

「なぜ分かる」

「一度で消し切れていない。上から別の字を書こうとして、途中でやめている。紙を削ったあと、別の紙を重ねた跡もある。片山さんなら、もっときれいに処理すると思う」

「では、誰だ」

「分からない」

「消した人間を探すべきだ」

「それは、名前を探すこととは違う」

「同じではないか」

「違うよ。名前を探すのは、消えた人を見つけるため。消した人を探すのは、誰かが何を恐れたかを見るため」

私は紙から目を離した。

台所から、布巾を絞る音が聞こえていた。澄江は、私たちの話が聞こえているはずだった。けれど、こちらへ来る気配はない。水の流れる音が止まり、食器棚の戸が一度開いて、すぐ閉じる。

美咲が、畳み終えた洗濯物を籠へしまった。

「お母さんは、まだ寝ないのか」

「寝る前に、戸締まりを確認するから」

「何度も?」

「いつも三回」

「どうして知っている」

美咲は私を見なかった。代わりに、タオルの角をもう一度揃えた。

「見てきたから」

その言葉が、さきほどの綾の言葉と重なった。

私は、空欄から視線を上げた。美咲は卓上の名簿を見ていない。だが、紙の置かれた位置と、綾の指の動き、私の顔色を順番に見ていた。彼女は記録を読むより先に、人の手元を読む。

「美咲」

「何」

「この名前に、心当たりはあるか」

美咲の指が、タオルの上で止まった。

ほんの一瞬だった。

「ない」

「見ていないのに?」

「名前を見ても、分からないと思う」

「では、見ろ」

「見たくない」

「なぜ」

「お父さんが、その名前を見つけたら、そこからまた順番を作るから」

私は美咲の顔を見た。彼女は私ではなく、紙の端を見ている。感情が高ぶるほど、彼女は作業の対象を探す。いまはタオルの折り目が、その役を引き受けていた。

「この人が事故に関係しているかもしれない」

「かもしれない、でしょう」

「名簿の人数が一人減っている」

「人が減れば、事故に結びつけるの?」

「同じ日付の近くに、救急車の記録がある」

「救急車が来たからといって、名簿から消えた人が倒れたとは限らない」

「では、何だ」

「転居したのかもしれない。親戚の家へ行ったのかもしれない。町から離れたかったのかもしれない。名前が消えた理由は一つじゃない」

「それを確かめるために記録を見る」

「確かめるために、誰かの暮らしを掘り返す」

美咲の声は低かった。怒鳴ってはいない。しかし、その低さの奥に、押し殺された焦りがある。

「お父さんは、町の記録なら好きに扱っていいと思っている。紙だから。もう古いから。書いた人がいないから。でも、その名前の下には、まだ誰かが暮らしているかもしれない。名前が消えても、消えた人の朝や夜まで消えるわけじゃない」

「それでも、空欄は残っている」

「だから何?」

「何かが消された証拠だ」

「証拠にしたいんでしょう」

「証拠だ」

「何の?」

美咲は初めて、私を正面から見た。

「母さんが苦しんでいる証拠? お父さんが見て見ぬふりをした証拠? 片山さんが町の記録を変えた証拠? それとも、お父さん自身が、まだ正しいことをできる人間だという証拠?」

私は答えられなかった。

綾は、二人の間に言葉を挟まなかった。代わりに、名簿の写しの下から、もう一枚の紙を出した。

「これを見て」

紙の上部には、安否確認の集計が記されていた。祭りの翌朝、確認された世帯数と人数。町内全体の数字が並んでいる。

その数字を足し直すと、記載された人数より一人多かった。

「合わない」

私は言った。

「はい」

「集計ミスだ」

「可能性はある」

「またか」

「でも、翌日の控えでは一人少なくなっている」

綾は集計表の端を指した。

「初日の数字だけが、ひとり多い。名簿には記載されていない誰かが、確認の人数には入っている」

「記載されていない人間?」

「その世帯に一時的にいた人。祭りへ来ていた親戚。あるいは、事故のあと誰かが連れてきた人」

「倒れた人か」

「まだ分からない」

私は集計表の数字を見つめた。記録は、名前を消しただけではなかった。名前のない一人を、数字の中へ一度だけ残している。存在したことを示すのに、名前を使わなかった。

その一人は、事故の現場にいたのかもしれない。誰かに助けられたのかもしれない。あるいは、助けられずに、町の外へ運び出されたのかもしれない。

いずれにしても、紙の上では人間ではなく、増減した人数として残っていた。

「誰が、この集計をした」

「片山さんの字に似ている」

綾は答えた。

「でも、片山さんが書いたと断定はできない」

「彼が数字を合わせた」

「合わせようとしたのかもしれない。合わなかったものを、そのままにしたのかもしれない」

「そんなことがあるか」

「人は、隠すときだけでなく、隠し切れなかったときにも記録を残すから」

綾の言葉が、胸の奥に沈んだ。

私は名簿の空欄へ手を伸ばした。紙は、指先にわずかなざらつきを返した。消された名前の跡は、文字ではなく、削られた深さとして残っている。

「この名前を、どうして消した」

自分に向けて言ったのか、綾に向けて言ったのか分からなかった。

「消した人間が、その人をいなかったことにしたかったとは限らないよ」

綾が言った。

「家族から遠ざけたかったのかもしれない。町内の噂から守りたかったのかもしれない。警察に名前が渡るのを恐れたのかもしれない。名前を残すことで、別の誰かが傷つくと思ったのかもしれない」

「名前を消すことが、守ることになるのか」

「守ったつもりの行為が、あとから別の人間を孤独にすることはある」

「では、守ることと隠すことは同じか」

「同じではない。でも、外から見れば見分けにくい」

私は名簿を閉じた。

そのとき、紙の間から小さな紙片が滑り落ちた。回覧板の裏側を切り取ったものらしい。日付は祭りの翌日。表には清掃当番の変更、裏には鉛筆で短く書かれていた。

佐伯さん宅、確認済み。

私は息を止めた。

「私の家が?」

綾が紙を受け取った。彼女はすぐに答えず、卓上の照明の下へ紙を移した。鉛筆の跡は薄く、消そうと指で擦ったのか、周囲の紙だけが白く曇っている。

「誰が確認した」

「名前はない」

「何を確認したんだ」

「そこまでは書かれていない」

「私の家に、誰か来たのか」

私は記憶を探した。

祭りの翌朝、私は家にいた。そう思っていた。だが、町内会館へ寄った気もする。片山がいた。坂本もいた。誰かが「大したことじゃない」と言っていた。私はそのあと家へ戻り、澄江が作った朝食を食べた。

それだけの記憶だった。

だが、紙には「確認済み」とある。私の家が、事故の確認対象になっていた。

「覚えていないの?」

綾の声が近くなった。

「覚えている」

「何を」

「朝食を食べたこと。澄江が台所にいたこと。美咲は眠っていた」

「その前は」

私は眼鏡を外した。レンズには何も付いていない。拭いても、紙の文字は消えなかった。

「分からない」

美咲が、畳んだ洗濯物の籠を持ち上げた。けれど、運ぶ先を忘れたように、その場で止まる。

「お父さん」

「何だ」

「その紙、誰にも見せないで」

「なぜ」

「まだ、何が書いてあるか分からないから」

「書いてあるのは、私の家が確認されたという事実だ」

「事実だけで、人を追い詰めないで」

「誰を追い詰める」

美咲は答えなかった。

台所から、澄江が戸を閉める音がした。続いて、玄関の鍵を回す音が一度、二度、三度と響く。

私は、その音を数えていた。

三十年前の朝にも、澄江は戸締まりを確認したのだろうか。私が泥のついた靴を脱ぎ、何も言わずに朝食を食べている間、彼女は家の外と内を分けるために、鍵を回していたのか。

「名簿の空欄は、事故に関係する人間の名前ではないかもしれない」

綾が言った。

「では、何だ」

「現場にいた人間かもしれない。佐伯さんの家を確認した人間かもしれない。あるいは、確認された家そのものを記録から外すための印かもしれない」

「分からないことばかりだ」

「だから、急いで埋めないで」

綾は紙片を封筒へ戻した。名簿の写し、集計表、回覧板の控えを順番に重ね、最後に赤い表紙のしおりを挟む。

「今日は、ここまでにしておく」

「まだ何も分かっていない」

「何も、ではないよ」

「何が分かった」

綾は少し考えてから、私を見た。

「あなたの家も、町内の記録の中に入っていた。事故の現場だけでなく、家族の暮らしまで確認の対象になっていた。そのことを、あなたは三十年忘れていた」

私は答えられなかった。

忘れていたのか。思い出さないようにしていたのか。その違いは、紙の上では判別できない。けれど、胸の底には、古い戸締まりの音が残っていた。

美咲が、ふいに書斎の方を見た。

居間からは戸が見えない。それでも、彼女の目は空になった本棚の位置を正確に知っているようだった。

「どうした」

「何でもない」

「今、書斎を見ただろう」

「見てない」

「見た」

美咲は籠を床へ置いた。タオルの一枚が端から滑り落ちる。彼女は拾おうとしたが、すぐには手を伸ばさなかった。

「お父さん」

「何だ」

「日記は、なくなったんじゃない」

「持ち去られた」

「それだけじゃない」

美咲の視線が、私の手元の封筒へ戻った。

「日記に書かれていたことが、町内の記録とつながる前に、誰かが切ったの。紙を抜いて、名前を消して、順番を変えて。お父さんの記録だけじゃなくて、町の記録も同じように」

「誰がやった」

「それを探してるんでしょう」

「お前は知っているのか」

「知っていたら、今ここで聞いている」

美咲は洗濯物を拾い上げ、籠へ戻した。

「でも、消した人間が誰か分かっても、母さんが楽になるとは限らない」

「お前は、何を恐れている」

「名前が出ること」

「誰の名前だ」

「それが分からないから、怖いの」

その言葉のあと、誰も話さなかった。

綾は封筒を閉じ、手のひらで表面を撫でた。紙の中身を落ち着かせるような仕草だった。澄江が台所から湯呑みを三つ持って来た。私たちの前へ置き、何も言わずに一つずつ位置を整える。

美咲が手を伸ばしかけたが、澄江が先に三つ目を少しだけ内側へ寄せた。

「お茶は」

澄江が言った。

「いらない」

私は答えた。

「綾さんは?」

「いただきます」

澄江は台所へ戻った。

私は、卓の上に置かれた防災名簿を見た。空欄は紙の上にあるだけではない。誰かの家から人が消え、町から名前が消え、記憶からも出来事が消えた。その代わり、人数や日付や、誰かの所作だけが残っている。

美咲が書斎へ視線を送った。

空になった本棚の一段。そこだけが妙に埃が薄い。何度も抜き差しされた紙の重さだけが、棚板に残っている。

私は、その空白が日記の抜け落ちた場所だと、ようやく身体で理解した。

紙の上の空欄と、家の中の空白は、同じ形をしていた。

誰かが、そこにあったものを取り除いた。

取り除いたあとも、そこに何があったかを知っている人間だけが、空いた場所を見つめ続けている。

遠くで太鼓が鳴った。

どん、と一つ。

その音が止んだあと、澄江が湯を注ぐ音が聞こえた。急須から湯呑みへ落ちる細い音。紙をめくる音よりも小さいのに、今夜は妙に耳へ残った。

私は名簿の空欄から目を離さなかった。

まだ、名前は分からない。

だが、消されたものは、もう紙の外側へ出ていた。家の中の沈黙と、妻の戸締まりと、娘が洗濯物を畳む手つきの中に、空欄は同じ形で残っていた。

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