第10話 鍵の冷たさ

綾が帰ったあとも、私はしばらく居間の卓を離れなかった。
防災名簿の写しは封筒に戻され、机の端へ置かれている。封筒の上には、澄江が持って来た湯呑みが一つだけ残っていた。茶は冷めていた。表面に浮いた薄い膜が、照明の下で動かなかった。
美咲は洗濯物をしまうため二階へ上がり、澄江は台所の戸を閉めた。家の中から人の気配が一つずつ遠ざかっていく。けれど、誰も眠りについたわけではないことを、私は分かっていた。
古い家は、眠る前に音を立てる。
柱の中で木が縮み、冷蔵庫のモーターが止まり、二階の床が誰かの体重を受けてかすかに鳴る。生活の音を聞き分けてきたつもりだったが、今夜はどの音も、別の意味を持って聞こえた。
私は立ち上がり、書斎へ向かった。
戸口で足が止まる。
いつもの癖だった。入る前に一度、部屋の中を見渡す。机の角、椅子の向き、窓の鍵。本棚の空白。すべてが、以前と同じ位置にあるようで、何かだけが決定的に欠けていた。
記念品箱は机の下に置いたままだった。
私はしゃがみ込み、箱を引き出した。赤い花束のリボンが、蓋の隙間から少しだけ見えている。退職祝いの夜、澄江が結び直したものだ。花はもう花瓶の中で首を垂れているが、リボンだけはまだ鮮やかな赤を保っていた。
箱の底には、古い鍵がある。
これまで何度も手に取った。小さく、黒ずんだ真鍮の鍵。何を開けるのか分からないまま、記念品箱の底板の下へ戻してきた。
今夜は、戻さなかった。
鍵を握ると、金属の冷たさが掌に貼りついた。冷たいというより、そこだけ時間が止まっているようだった。
書斎の中を見回した。
鍵のかかる場所は、机の引き出しでも、本棚でもない。古い家には、家族が忘れた収納がいくつかある。廊下の突き当たり、階段の下。かつて掃除道具を入れていた小さな戸棚が、物置を整理したあとも残っていた。
私は廊下へ出た。
階段の下の戸棚には、庭用の殺虫剤と、使わなくなった鉢が積まれている。扉の下部に、黒い錠前があった。普段は布で覆われていて、存在さえ意識していなかった。
鍵を差し込む。
一度、回らなかった。
私は鍵を抜き、向きを変えた。金属が錠の中で擦れ、乾いた音を立てる。二度目に回すと、かちり、と小さな音がした。
戸棚の中から、冷えた土の匂いがした。
鉢や薬剤を外へ出すと、奥に薄い木の板が現れた。板の端には、指をかけるための溝がある。持ち上げると、下から湿った空気が上がってきた。
床下だった。
狭い空間に、古い段ボール箱が一つ置かれている。箱の蓋には、澄江の字で「冬物」と書かれていた。だが、冬物をしまうには小さすぎる。字の上から別の紙を貼り、剥がした跡もあった。
私は箱を引き出した。
底に、薄い封筒が挟まっている。
封筒は茶色く変色し、角が焼けていた。触れると、乾いた紙の粉が指に付いた。
そのとき、背後で戸棚の扉が動いた。
「何をしているの」
澄江だった。
声は低かった。驚いたときほど、彼女の声は静かになる。
「鍵を使った」
「見れば分かるわ」
「この中に何がある」
「古いもの」
「日記か」
澄江は答えなかった。
私は封筒を持ち上げた。封の部分はすでに開いている。中には、折り畳まれた紙の束と、写真の切れ端が入っていた。
写真の端には、赤い提灯が写っていた。提灯の下に、若い澄江の横顔がある。髪は今より黒く、こちらを見ていない。彼女の背後には、階段の手すりらしい黒い線が伸びていた。
私は紙の束を一枚めくった。
日記のコピーだった。
私の筆跡が、薄い複写紙の上に残っている。
八月十七日。晴れ。工場、通常勤務。夕食、焼き魚。
その下に、原本にはなかったはずの一行があった。
午前六時、佐伯宅確認。片山、坂本。
私は紙を持つ手に力を込めた。
「これは何だ」
「読めば分かるでしょう」
「なぜ、日記のコピーがここにある」
「あなたが探していたからでしょう」
「澄江」
彼女は戸棚の脇に立ったまま、床下を見ていた。私ではなく、箱の中身を見ている。そこにあるものを長いあいだ知っていた人間の目だった。
「あなたは、あの朝のことを覚えていない」
「覚えている」
「何を?」
私は答えられなかった。
朝食。濡れたシャツ。澄江の手。玄関の鍵。どれも輪郭があるのに、その前後だけが途切れている。
「片山さんと坂本さんが、家へ来た」
「そうね」
「何のために」
「あなたを確認しに」
「私を?」
「あなたが、無事かどうか」
「私は家にいた」
「家にいることと、無事であることは違うのよ」
澄江は床下から目を上げた。
「あなたの右手が腫れていた。シャツの袖は濡れていた。靴には土がついていた。なのに、あなたは何も話さなかった。だから、あの二人はあなたが何かを見たのか、何かをしたのか、確かめに来た」
「私は、何を答えた」
「覚えていないの?」
「……覚えていない」
「そう」
澄江はそれ以上責めなかった。その代わり、戸棚の扉を少しだけ閉めた。床下から上がる湿った空気が、細い隙間へ押し戻される。
「このコピーは、誰が作った」
「美咲」
「美咲が?」
「あなたの日記を読んだあとで。原本を見つけたとき、消されると思ったから」
「誰が消す」
澄江は私を見た。
「あなたが」
胸の奥で、何かが鈍く落ちた。
「私が、消す?」
「あなたは、書いて残す人でしょう。でも、残したあとで困ると、頁を抜くこともあった」
「そんな記憶はない」
「だから、美咲はコピーしたのよ」
私は紙束へ目を戻した。最後の頁だけ、途中で切れている。文章は一行で終わっていた。
午前六時、片山、坂本。澄江は――
その先がない。
「ここから先は?」
「燃えたの」
「誰が燃やした」
「私」
澄江は、淡々と言った。
「なぜ」
「書かれていたから」
「何が」
「私が、あなたに言った言葉」
「どんな言葉だ」
彼女は答えなかった。
代わりに、封筒の中から写真の切れ端を取り出し、私の手元へ置いた。写真の端に、階段の下で身を屈める男の背中が写っている。顔はない。けれど、右肩の傾きと、袖口の濡れた色が、私の記憶の底に触れた。
私はその場にしゃがみ込んだ。
「これは、私か」
「あなたがそう思うなら」
「見たのか」
「見た」
「お前は、私が何をしていたか知っているのか」
「全部ではない」
澄江は戸棚の扉を閉めた。鍵はまだ錠に差さったままだった。
「だから、全部を知ろうとしないで」
「だが、ここまで来た」
「来てしまっただけよ」
「同じことだ」
「違うわ」
澄江の指が、鍵の頭に触れた。取り上げるでもなく、抜くでもない。ただ、そこにある冷たさを確かめるように。
「知ることは、戻ることではないから」
私は写真を見た。
顔のない男。焼けた紙。途中で切れた一行。
空白は、消された場所にだけあるのではなかった。書かれたものの途中にも、見たはずの光景の中にも、誰かの言葉を聞かなかった朝にも残っている。
階段の下で、私は何かをしていた。
まだ、それが何なのかは思い出せない。
ただ、写真の中の私の右手が、誰かの腕へ伸びているように見えた。助けようとしていたのか、引き離そうとしていたのか。その違いだけが、三十年分の記録より重かった。
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