第8話 見たまま黙った夜

その日の夕方、私は美咲を台所へ呼んだ。
書斎で話す気にはなれなかった。空になった本棚の前に座れば、どんな言葉も日記の有無へ戻ってしまう。机の上の万年筆、椅子の向き、窓際に置いた鉢植え。そこに残った物の一つ一つが、私に記録を求めているようだった。
台所なら、澄江の手が長年かけて整えてきたものがある。食器棚、布巾、漬け物の瓶、使い込まれた包丁。生活の手触りが、まだ紙の外側に残っている。
窓は少し開いていた。昼の熱を含んだ壁から、古い木と湿った土の匂いが漂ってくる。蝉の声は弱まり、代わりに坂の下の公園から盆踊りの太鼓が聞こえた。どん、と一つ鳴って、次の音までに長い間があった。
美咲は廊下の途中で足を止めた。
「ここで話すの?」
「書斎は避けたい」
「珍しいね。お父さんが場所を選ぶなんて」
「場所で話が変わることもある」
「話し方が変わるだけでしょう」
美咲は台所へ入ると、まず扇風機の向きを変えた。風が流しの方から卓へ向かうように、首を少しずつ動かす。それから椅子を引く前に座面へ触れ、埃がないことを確かめた。
私は卓の上に、綾から渡された地方紙の切り抜きと、防災名簿の写しを置いた。写真の端に、提灯を背にした人影が写っている。名簿の欄には、祭りの翌月から一人分だけ空白が生じていた。
美咲は紙を見たあと、すぐに視線を湯呑みへ移した。
「それを見せるために呼んだの?」
「お前は、この人影を知っているか」
「写真だけでは分からない」
「名簿の空欄は?」
「それも知らない」
「町内会の資料には、事故の翌朝、現場に男性一人、女性二人がいたと書かれている。後から片山さんが来た。お前は、この三人のうち誰かを知っているんじゃないのか」
美咲は答えず、卓の上にあった湯呑みを三つ並べた。二つしか使っていないのに、三つ目を出してくる。澄江の分だろう。湯呑みの間隔を右から順に揃え、最後に一つだけ、私の方へわずかに近づけた。
「母さんは来ないよ」
「どうして分かる」
「流しを磨いているから」
戸の向こうで、水の流れる音が聞こえていた。澄江は、聞きたくない話が始まる前ほど、台所をきれいにする。美咲はそう言ったことがある。彼女自身も、気まずい場面になると、先に物を片づける。
「母さんは、聞く気がないんじゃない」
「では何だ」
「聞いたら、自分が何かを決めなきゃいけなくなるから」
「何を決める」
「話すか、黙るか。誰を守るか、誰を傷つけるか。そういうこと」
「それを決めるのは、母さんだろう」
「父さんは、そう言うと思った」
美咲は紙の端を指で押さえた。反っていた切り抜きが、指の下で少し平らになる。
「父さんは、いつも決める側にいる。工場でも、家でも。何が起きたかを確認して、誰が悪いかを分けて、必要なら書類に残す。そうすれば、決めたことが正しい形に見えるから」
「私は、正しい形にしようとしているだけだ」
「違う。父さんは、自分が立つ場所を決めたいんだよ」
「どういう意味だ」
「被害者なのか、目撃者なのか、何もしなかった人なのか。それを決めてしまえば、次にすることも決められる。警察へ行く、片山さんを問い詰める、坂本さんに話をさせる。そうやって順番を作れば、自分の中の混乱を処理できると思っている」
「では、何もしないままにしておけというのか」
「何もしないとは言っていない」
「同じことだ」
「違うよ。知ったことをすぐ誰かに渡すのと、自分が知ったまま抱えるのは、同じじゃない。記録にした瞬間、父さんの中ではそれが事実として固まる。でも、母さんや私の中にあるのは、事実になる前の音や匂いや、誰かの手の動きなの。そんなものまで、父さんの帳面の順番に並べ替えられたくない」
私は眼鏡を外して拭いた。レンズには曇りなどなかった。
「お前は、あの夜を覚えているのか」
美咲は答えるまでに時間をかけた。流しの方で、布巾を絞る音がした。乾いた布から水が落ちるはずもないのに、何度も力を込めている。
「覚えているというほど、はっきりしていない」
「見たのか」
「見た」
「何を」
美咲は写真を裏返した。写っている人影が消え、黄色く変色した紙の裏面だけが見える。
「祭りの帰り、階段の上に人がいた」
「誰が」
「分からない」
「男か女か」
「暗かったから」
「声は聞いたのか」
「聞いた。二人が言い争っていた。内容までは聞き取れなかったけど、普通の話し方ではなかった。誰かが誰かを責めていた。あるいは、止めようとしていた」
美咲の声は低い。感情を抑えようとしているときほど、彼女の声は深くなる。
「そのうち、一人が腕をつかんだ。引き留めようとしたのか、押したのかは分からない。腕をつかまれた方が、階段の端へ下がった。足が石に触れた。提灯の灯りが一度だけ揺れて、それから、その人が落ちた」
太鼓が遠くで鳴った。
どん、と一つ。
私は卓の木目を見つめた。階段。石。提灯。誰かの腕。記憶の中に散らばっていたものが、まだつながらないまま、私の周囲へ浮かび上がってくる。
「お前は、どこにいた」
「家へ戻る途中だった」
「子どもだったお前が、どうして祭りの帰り道に一人でいた」
「母さんを探していた」
「澄江を?」
「母さんが、途中でいなくなったから」
私は顔を上げた。
「母さんが祭りに行っていたのか」
「行っていたというより、片づけの手伝いをしていた。父さんが戻ってこないから、迎えに行くと言って出ていった」
「私は、祭りの係で遅れていた」
「そういうことになっていた」
「なっていた?」
美咲は答えず、三つ目の湯呑みへ手を伸ばした。そこにはまだ茶が入っていない。彼女は急須を取ったが、中身が空なのに気づき、手を止めた。
「そのとき、父さんを見た」
「階段で?」
「階段の下」
「何をしていた」
「立っていた」
「誰かを助けようとしていたのか」
「分からない」
「倒れていた人は」
「少し下のところにいた」
「怪我をしていたのか」
「暗くて、よく見えなかった。でも、起き上がろうとしていた」
「では、生きていたんだな」
美咲は私を見た。
「たぶん」
「たぶんでは困る」
「困るのは父さんでしょう」
その言葉に、声の温度が初めて変わった。
「私は子どもだった。階段の上には、まだ誰かがいた。父さんは下に立っていた。倒れた人は動いていた。私は何をすればいいか分からなかった。大声を出せばいいのか、父さんを呼べばいいのか、母さんを探せばいいのか。なのに父さんは、何もしなかった」
「私が?」
「見ていた」
「私は、見ていたのか」
「見たまま、動かなかった」
言葉が、私の胸の内側へ沈んだ。
知らないふりではなかった。見えていなかったのでもない。私は見た。見たまま、動かなかった。
「そのあと、どうした」
「父さんが階段を上がってきた」
「倒れた人を助けずに?」
「誰かが助けたのかもしれない。坂本さんだったかもしれない。片山さんだったかもしれない。私は、その場を離れたから」
「なぜ離れた」
「怖かったから」
美咲は短く答えた。
「でも、家へ帰ってからも、誰にも言わなかった。母さんが戻ってきたとき、父さんも少し遅れて帰ってきた。シャツの袖が濡れていて、右手に擦り傷があった。靴の裏には黒い土がついていた」
その言葉に、過去の玄関が重なった。
濡れた靴。湿った土の匂い。灯りの消えた廊下。澄江の声。
どこへ行っていたの。
祭りの片づけだ。
私の口が、三十年前にも同じ嘘をついた。
「父さんは、私を見なかった」
「見なかった?」
「二階の階段にいた私を、見なかったことにした」
「お前がそこにいると、気づいていなかった」
「気づいていたよ」
「なぜ分かる」
「父さんは、見ないものがあるとき、眼鏡を外すから」
私は眼鏡を握った。
指先に汗がにじんでいた。
「私は、そのあと何をした」
「書斎へ入った」
「日記を書いたのか」
「分からない。机の前に座って、紙を折っていた」
「何の紙だ」
「知らない」
「私は、何かを隠したのか」
「それも知らない」
美咲は、ここで初めて声を詰まらせた。
「父さんは、ずっと『見たことは記録する』と言っていた。仕事でも家でも。だから、あの夜のことも書いてあると思っていた。けれど日記には、天気と勤務と夕食のことしかなかった。事故の翌日も、その次の日も、何も起きなかったみたいに整っていた」
「私は、書いた」
「何を」
「分からない」
「分からないのに、書いたと言うの?」
「書いたはずだ」
「でも、ない」
「どこかにある」
「だから、日記を取り戻したいの?」
「ああ」
「それで、書いてあれば安心する?」
「安心ではない。確認したい」
「何を確認するの」
「私が何を見たのか。何をしたのか」
「父さんが知りたいのは、過去じゃない。自分がまだ正しい人間でいられるかどうかでしょう」
私は言葉を返せなかった。
美咲は、私の沈黙を見ている。責める目ではなかった。もっと疲れた目だった。長いあいだ、父親が同じ場所を回り続けるのを見てきた人間の目だった。
「母さんは、あのあと何も言わなかった」
「お前に?」
「誰にも。洗濯物を取り込んで、夕飯を作って、戸締まりをした。父さんの靴を洗い、シャツを水につけた。泥のついた袖を、何度もこすっていた」
「私のシャツを?」
「そう。母さんは、何も言わずに父さんのものを片づけた。私が聞いても、『転んだだけ』と言った」
「それを信じたのか」
「信じたかった」
「母さんも?」
「母さんは、信じたふりをした。父さんが何も話さないなら、聞かない方がいいと思ったんだと思う。父さんが何かを話せば、誰かを傷つける。父さんが黙れば、少なくとも翌朝は来る。母さんは、そうやって翌朝を何度も作った」
台所の戸が、かすかに軋んだ。
澄江が向こうにいる。聞いているのか、ただ戸口に立っているのかは分からない。
「父さんは、その後ずっと日記を書いた」
「ああ」
「母さんは、それを見ていた」
「読んだのか」
「全部ではない」
「また、その言い方か」
「全部読めば、母さんが壊れるから」
「読んだところには、何があった」
「事故の年だけ、文章がきれいすぎた。何もない日のように、天気、勤務、食事、就寝が並んでいた。けれど、ところどころに短い言葉が挟まっていた」
「どんな言葉だ」
「『灯が消えたあと、階段』。『澄江のために、残す』。それから、『午前六時、片山来訪』」
私は息を呑んだ。
「その頁を見たのか」
「母さんが見つけた。私はそのあとでコピーした」
「なぜコピーした」
「消されると思ったから」
「誰が消す」
「父さんかもしれない。母さんかもしれない。片山さんかもしれない。誰かが、見られたくないものを見つけると、必ず先に紙を片づけるから」
美咲はトートバッグを足元へ引き寄せた。中には日記の一部が入っているのだろう。だが、今は取り出さない。
「だから、持ち去ったのか」
「日記を?」
「ああ」
「母さんが、また読まされる前に」
「私が読ませると思ったのか」
「父さんは、自分ではそう思っていない。でも、父さんが日記を読み始めれば、母さんは止められない。何を書いたのか、何を見たのか、問い詰められても、母さんは答えない。答えないまま、父さんは記録を増やす。そうやって、母さんの沈黙を証拠に変えていく」
「お前は、私をそんな人間だと思っているのか」
「思っているんじゃない。見てきた」
その言葉は静かだった。
「お父さんは、自分が見たものを忘れないために日記を書いた。でも、家族が見ていたものは、書かなかった。母さんが毎晩戸締まりを三回確かめたことも、祭りの太鼓が聞こえると手を止めたことも、私が二階の廊下で息を殺していたことも、記録にはない。書かなかったから、なかったことになった?」
「そんなつもりはない」
「つもりがなくても、そうなることはある」
美咲は一度、目を閉じた。
「私は、あの夜のことを見た。父さんが階段の下に立って、倒れた人を見て、動かなかったことを見た。けれど、何があったのか全部を知っているわけじゃない。父さんがなぜ止まったのか、誰を恐れていたのか、何を守ろうとしたのかは知らない。だから、父さんを一つの言葉で決めることもできない」
「それでも、私は黙った」
「そう」
「お前も黙った」
「そう」
「母さんも」
「そう」
「三人とも、見たまま黙った」
「三人とも同じ理由ではないよ」
美咲は湯呑みを一つ持ち上げた。中身は空だった。彼女は空のまま、しばらく口元へ運びかけて、やめた。
「父さんは、自分が家族に迷惑をかけないために黙った。母さんは、家族を壊さないために黙った。私は、母さんがこれ以上、父さんの罪や後悔の器にならないように黙った。結果だけ見れば、皆が同じ場所に立っている。でも、沈黙は同じ形をしていても、抱えているものが違う」
「お前は、私を責めているのか」
「責めたいよ」
美咲は言った。
「でも、責めれば済むなら、とっくにそうしている。父さんを悪い人にして、母さんをかわいそうな人にして、私は正しい娘になればいい。でも、そんなふうに分けられない。母さんも、父さんを守った。父さんも、母さんを守ろうとした。守ろうとした結果、誰も本当のことを言えなくなった」
窓の外で風が止まった。
扇風機だけが回り、羽の影が壁を横切る。夏の薄暮はとうに夜へ変わっているのに、壁は昼の熱をまだ手放していなかった。
「倒れた人は、死んだのか」
私は聞いた。
美咲は答えなかった。
「事故のあと、その人はどうなった」
「病院へ運ばれた」
「それだけか」
「翌年、町からいなくなった」
「亡くなったのか」
「分からない」
「名簿から消えた」
「そう」
「では、事故で……」
「父さん」
美咲の声が、初めて私を止めた。
「その先を、今ここで決めないで」
「なぜだ」
「私も知らないから。知っているのは、階段の下で人が倒れていて、父さんが見ていたこと。母さんが帰ってきた父さんの泥を洗ったこと。翌朝、片山さんと坂本さんが家へ来たこと。町の名簿から、誰かの名前が消えたこと。それだけ」
「それだけで、十分だ」
「父さんにはね。でも、私には足りない」
私は目を伏せた。
記録を重ねれば、すべてが明らかになると思っていた。だが、紙の上に増えていくのは、答えではなく、別々の人間が抱えた沈黙の形だった。
美咲は卓の上の切り抜きを折り、写真の面を内側にした。折り目を指で押さえ、バッグへ戻す。
「日記は、まだ返さない」
「なぜだ」
「お父さんが、今のまま読むと、自分を裁くために使うから」
「私は、そんなことはしない」
「もうしている」
「どこで」
「この家の中で。私や母さんの言葉を、証拠になるかどうかで聞いている」
私は反論できなかった。
「でも、父さんが本当に知りたいなら、私も見たものを話す。母さんも、話せることは話す。片山さんも、坂本さんも、いずれ話さなければならない。町の記録だけでなく、人間の沈黙も含めて、全部を見ないといけない」
「お前は、日記を隠したまま協力するつもりか」
「隠すことを、協力とは言わない」
「では何だ」
「時間を稼いでいるだけ」
「誰のために」
「母さんのため。父さんのためでもある」
私は三つの湯呑みを見た。
美咲が並べたそれらは、きれいに揃っているようで、わずかに距離が違っていた。整えようと思えば直せる。だが、今は直せなかった。違いがあるまま置かれていることが、初めて自然に思えた。
「お父さん」
美咲が言った。
「何だ」
「私が見た夜のことを、父さんは自分の記録に戻したいでしょう」
「ああ」
「でも、私の記憶は、父さんのものじゃない」
私は、長いあいだ自分の人生を記録してきた。家族のことも、町のことも、見たものは自分の頁に書けば自分のものになると思っていた。
だが、美咲の見た夜は、美咲の記憶だった。
私が書き写せば、また別の誰かの沈黙を奪うことになる。
「分かった」
私は言った。
「今夜は、日記を返せとは言わない」
美咲は疑うように私を見た。
「本当に?」
「ああ。ただし、いつかは見せてくれ」
「母さんが許したら」
「君ではなく、母さんが決めるのか」
「母さんも、私も。父さんだけでは決めない」
戸口の向こうで、布巾を絞る音が止まった。
澄江が聞いている。
私はその方を見なかった。見れば、すぐに何かを問いかけてしまう気がした。代わりに、卓の上の湯呑みを一つだけ持ち上げた。空のままの湯呑みは、思ったより軽かった。
遠くで太鼓が鳴った。
どん。
次の音を待つあいだ、誰も話さなかった。
やがて二つ目の音が届いたが、それは途中で崩れ、住宅街の屋根や壁に吸い込まれていった。
私はその間に、三十年前の自分がずっと同じ場所に立っていたことを思い知った。
階段の下で、倒れた人を見ていた。
誰かの腕を見ていた。
灯りを向けることも、助けを呼ぶこともせず、ただ立っていた。
そのあと家へ戻り、泥のついた靴を脱ぎ、妻に嘘をつき、翌日の日記に「通常勤務」と書いた。
私は見なかったのではない。
見たまま、黙ったのだ。
そして、澄江も、美咲も、別々の理由でその沈黙を引き受けた。
私は湯呑みを卓へ戻した。位置は少しずれていた。直さなかった。
台所の奥で、澄江が戸を閉める音がした。家の中に、三人分の生活音が戻ってくる。布巾を畳む音、椅子の脚が床を擦る音、冷蔵庫の低い唸り。
沈黙は、もう私たちを守ってはいなかった。
それでも、すぐに壊れることもなかった。
夜の熱を残した壁の向こうで、盆踊りの太鼓が遠ざかっていく。私はその音を聞きながら、三十年前の自分が置き去りにした身体の重さを、初めて自分のものとして引き受けた。
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