第7話 台所の向かい合い

私は美咲を、書斎ではなく台所へ呼んだ。
書斎で話せば、空になった本棚がこちらを見ている気がした。机の上には古い万年筆があり、椅子は私が戻した位置から少しも動いていない。あの部屋では、何を話しても最後には記録の問題へ戻ってしまう。だから私は、澄江が長年使ってきた台所の卓を選んだ。
夜の流しには、洗い残した水が薄く張っていた。ステンレスの縁が、天井の蛍光灯を鈍く反射している。窓の外では蝉の声がいつの間にか弱まり、遠くの盆踊りの太鼓だけが、遅れて届く心臓のように家へ入ってきた。
どん、と一つ鳴る。
その音のあと、町のどこかで自転車のスタンドを立てる音がした。隣家の窓が閉まり、二階から子どもの笑い声が一瞬だけ漏れて、すぐに消えた。生活はまだ続いている。続いているからこそ、私たちだけが三十年前の夜に取り残されていることが、はっきりした。
私は卓の上に、写真の複写と、記念品箱の底から見つかった一冊分のコピーを置いた。
コピーは、箱の底板と仕切り紙の間に挟まっていた。古い鍵を取り出したとき、紙の端が少しだけ見えたのだ。何のコピーか分からないまま引き抜いたが、そこには私の日記の頁が並んでいた。三十年前の夏祭りの前後、一年分のうち、事故に近い時期だけを抜き出したものだった。
紙の端は反り、湿った空気を吸っている。複写された文字は薄く、ところどころ黒い線が滲んでいた。
美咲は卓の向かいに座った。椅子を引く前に、座面を一度だけ見た。埃があるわけでもないのに、指先で縁を撫でる。それから、返事をする代わりに湯呑みを三つ並べ直した。
澄江のぶんまで、無意識のうちに添えるような置き方だった。
「母さんは呼んでない」
「分かってる」
「呼んだのは、お父さんでしょう」
「そうだ」
「だったら、二つでいい」
「三つでいい」
美咲は私を見ずに、湯呑みの位置を少しだけずらした。三つの間隔が揃うまで、右から順に整える。
「母さんが来るかもしれないから?」
「来ないよ」
「どうして分かる」
「今、流しを磨いてるから。話を聞く気があるときは、あんなに長く磨かない」
美咲は低く言った。
「母さんは、聞きたくない話が始まる前ほど、台所をきれいにする。自分がそこにいるための場所を、先に整えておくの」
私は流しの方を見た。水の落ちる音は聞こえない。澄江は蛇口を閉めたらしい。ただ、布巾を絞る音だけが、戸の向こうからかすかに響いていた。
「お前は、母さんのことをよく見ているな」
「見てきたから」
「何を?」
美咲は卓の上のコピーへ目を落とした。紙の角を指先で押さえ、反りを戻そうとする。だが紙はすぐに浮き上がった。
「これ、どこで見つけたの」
「記念品箱の底だ」
「全部?」
「一冊分だけだ」
「残りは?」
「お前が知っているだろう」
美咲は答えなかった。代わりに、卓の端へ落ちていた水滴を親指で拭った。濡れた指を見て、台ふきで丁寧に拭う。動作の一つ一つが、言葉を先延ばしにするための手順に見えた。
「お父さん、これ以上は、母さんに見せないで」
その言葉は、以前にも聞いた。
だが、書斎の戸口で聞いたときとは違っていた。あのときは、日記を取り戻すことへの警告だと思った。今は、コピーの上に置かれた美咲の指の硬さが、その言葉の奥にあるものを示していた。
「母さんは、もう知っている」
「何を?」
「お前が日記を持ち去ったことを」
「そうじゃない」
「三十年前のことをだ」
「母さんが知っているのは、お父さんが帰ってきた夜のことだけ。階段で何があったのか、全部を知っているわけじゃない」
「お前は知っているのか」
美咲の指が止まった。
「知っていると言えるほど、きれいな記憶じゃない」
「見たのか」
「見た」
答えは短かった。だが、逃げるための短さではなかった。何年も言葉にしなかったものを、初めて口の中へ出したあとの、乾いた短さだった。
「いつ?」
「子どもの頃」
「祭りの夜に?」
「祭りのあと」
「何を見た」
「お父さんが、階段の方から戻ってくるところ」
「それだけか」
「それだけで十分だった」
私はコピーを一枚めくった。薄い文字が蛍光灯の下で浮かび上がる。
晴れ。通常勤務。 夕食、澄江の煮物。 美咲、発熱なし。 就寝、十一時二十分。
どの日も、異様なほど整っていた。事故の翌日も、その次の日も、記録は生活の小さな項目で埋まっている。私は日付の横にある余白を見た。そこだけ、何度も消しゴムをかけたように毛羽立っている。
「この頁を見たのか」
「見た」
「お前がコピーした?」
「最初に見つけたのは母さん」
「澄江が?」
「お父さんが眠ったあと、書斎で読んでいた。全部じゃない。一年分を読んだわけでもない。あの夏の前後だけ」
「なぜ、母さんが日記を読む必要があった」
「必要があったからじゃない。怖かったからよ」
美咲は、そこで初めて私を見た。
「お父さんが何を覚えているのか。何を覚えていないふりをしているのか。母さんはずっと、それを確かめたかった。でも、確かめたら最後、何かを決めなければならなくなる。警察へ行くのか、町内会へ言うのか、お父さんに問いただすのか。それができないまま、母さんは毎日を続けた」
「お前は、母さんから聞いたのか」
「聞いたんじゃない。見ていたの」
「何を」
「母さんが、祭りの太鼓を嫌がること。夏になると、夜の戸締まりを三回確認すること。お父さんが書斎へ入ると、廊下の途中で足を止めること。二人とも何も言わないのに、家の中だけ、毎年同じ時期に息苦しくなること」
美咲の声は低かった。怒りが強いほど、彼女の声は低くなる。私はそれを、彼女が子どもの頃から知っていた。叱られたときも、泣く前も、声を上げる代わりに何かを片づけた。割れた茶碗を拾い、散らばった鉛筆を揃え、母の薬を決められた順番に並べた。
「お前は、いつから日記を読んでいた」
「全部を読んだわけじゃない」
「同じ答えを繰り返すな」
「じゃあ、何を聞きたいの。私が何歳のときに読んだか? 最初にどの頁を開いたか? 何冊を持ち出して、どこへ隠したか?」
「全部だ」
「お父さんは、そうやって全部を一度に並べたがる。項目を作って、順番を決めて、抜けがないようにする。でも、私が見たものは、そういうふうには並ばない。母さんが書斎から出てくるときの顔と、翌朝に味噌汁を作る手つきと、祭りの音が聞こえたときに窓を閉める速さが、ばらばらに残っている。そこから一つの答えを作れと言われても、私はできない」
「それでも、日記を持っていった」
「持っていった」
美咲は認めた。
その言葉が卓の上に落ち、三つの湯呑みの間に沈んだ。
「お前が、三十冊全部を?」
「正確には二十九冊。事故の年の一冊だけは、母さんが先に抜いていた」
「どこにある」
「知らない」
「嘘だ」
「知らない。母さんがどこへ置いたのか、私も聞いていない」
「では、なぜ残りを持っていった」
「順番を止めるため」
美咲は、綾が書店で言ったのと似た言葉を口にした。
「お父さんは、三十冊を最初から読み直すつもりだったでしょう。三十年前の一日を、二十九年後の目で読み直す。そうすれば、あの夜に意味を与えられると思った。でも、日記はお父さんが見たことしか書いていない。母さんが言わなかったことも、私が子どもの頃に感じたことも、町内会が消した名前も、そこには全部は入っていない」
「だから隠すのか」
「だから、今は見せない」
「同じことだ」
「違う」
美咲の手が、紙の端を強く押した。
「隠すことと、壊すことは違う。私は日記を捨てていない。燃やしてもいない。母さんが読む前に、お父さんが自分の罪を確認するための証拠として使う前に、別の場所へ移しただけ」
「罪という言葉を使うな」
「使わなければ、なくなるの?」
「私が何をしたかは、まだ決まっていない」
「決めたくないだけでしょう」
私は立ち上がりかけた。椅子の脚が床を擦った。美咲は身を引かなかった。声を荒げない私と、声を荒げさせない彼女の間で、台所の空気だけが硬くなる。
流しの方で、澄江が布巾を絞った。
「お父さん、座って」
「命令するな」
「命令じゃない。椅子が倒れる」
私は椅子の脚を見た。片方がわずかに浮いていた。いつもの私なら、すぐに直していた。だが、今はそのまま腰を下ろした。床板が軋み、椅子が重さを受け止める。
「私は、何を見た」
「それを私に聞くの?」
「お前は見たと言った」
「私が見たのは、お父さんが階段の下にいたこと。誰かが倒れていたこと。そこから先は、暗かった」
「誰が倒れていた」
「女の人」
「名簿の空欄の人間か」
「名前は知らない」
「お前は、子どもの頃に見たんだろう。なぜ名前を知らない」
「家の中で誰も名前を言わなかったから」
「母さんも?」
「母さんも。お父さんも。翌朝、町内会の人が来たときも、誰も言わなかった」
「町内会の人間が、家へ来たのか」
美咲は一瞬だけ目を伏せた。
「来た」
「誰だ」
「片山さんと、坂本さん」
坂本の名前が出た瞬間、私はコピーから目を上げた。工場時代の同僚。退職後も何度か電話をくれたが、夏祭りの話になると、決まって古いテレビ番組や工具の話へ逃げた男。
「坂本が、家へ来た?」
「朝、二人で来た。片山さんは玄関で母さんと話して、坂本さんは庭の方へ回った。私は二階の廊下から見ていた」
「何を話していた」
「聞こえなかった。でも、片山さんは何度も頭を下げていた。母さんは、ずっと玄関の框から動かなかった。坂本さんは庭で、何かを土に埋めていた」
「何を」
「分からない」
「見たんだろう」
「遠かった。懐中電灯か、壊れた団扇か、そういう細長いものだった」
私は、古い鍵を思い出した。記念品箱の隙間から出てきた錆びた鍵。どこの鍵か分からなかった。鍵穴の形は、家のどの扉にも合わなかった。
「そのとき、私は何をしていた」
「寝ていたと思っていた。でも、お父さんは起きていた」
「なぜ分かる」
「書斎の戸が開いていたから」
「書斎?」
「お父さんは、朝から書斎にいた。机の前で、紙を何度も折っていた。母さんが呼んでも返事をしなかった」
私は自分の指を見た。
紙を折る。何かを包む。何かを隠す。記憶の底に、紙の乾いた感触だけが残っている。
「私は、何を折った」
「分からない。でも、片山さんが帰ったあと、お父さんはその紙を持って家を出た」
「どこへ」
「階段の方」
太鼓が遠くで鳴った。
どん。
音が家の壁に当たり、私の胸の奥へ戻ってくる。私は三十年前の朝を思い出しかけた。濡れた靴。右の手のひらの擦り傷。階段の手すり。誰かの声。
そして、私が紙を持って歩いている。
「私は、何をしに行った」
「見に行ったんでしょう」
「何を」
「落ちた人を」
「それだけか」
「お父さんは、誰かに呼ばれたんじゃないの?」
美咲の問いに、私は答えられなかった。
コピーの一枚が、風もないのに卓上で震えた。裏面に、私の字で書かれた短い記述がある。
午前六時、片山来訪。 午前六時二十分、坂本と階段へ。 その後、通常勤務。
私は息を止めた。
「これは、私の字だ」
「そう」
「こんな頁は、覚えていない」
「覚えていないんじゃない。見たくなかったんでしょう」
「この記録のどこに、事故のことがある」
「ない」
「だったら、何が証拠だ」
「『片山来訪』と『坂本と階段へ』が同じ頁にあること」
「それだけでは、何も分からない」
「でも、お父さんはいつも、誰が来たか、何時にどこへ行ったかを書いていた。事故のことだけを書かなかった。だから、書かなかったこと自体が残っている」
私は紙を持ち上げた。薄いコピーの向こうに、元の日記の厚みがあるように感じた。三十冊分の紙が、書斎の空の段ではなく、私の手の中で重なっている。
「この一冊を、誰がコピーした」
「私」
「いつ」
「去年」
「去年?」
「母さんが倒れたとき」
私は顔を上げた。
「澄江が倒れた?」
「台所で、急に息ができなくなった。病院では軽い発作だと言われたけど、家に戻ってからも、祭りの時期になると眠れなくなった。夜中に何度も戸締まりを確認して、書斎の前で立ち止まる。お父さんは気づいていなかった」
「気づいていた」
「気づいていて、聞かなかった」
その言葉は、澄江が言ったものと同じだった。
私は何も言い返せない。澄江が夜中に廊下を歩く音を聞いていた。戸締まりの金具が三度鳴るのも知っていた。だが、私はそれを「習慣」として記録しただけだった。
「母さんが日記を読んだあと、私に言った。お父さんは、あの夜のことを忘れていない。でも、自分が書いたものを読めば、忘れていないことを確認できると思っている。そんなのは違う、と」
「何が違う」
「忘れていないことと、向き合うことは違うから」
美咲は、ようやく三つ目の湯呑みに茶を注いだ。茶は冷めていた。急須を持ち上げても湯気は立たない。それでも彼女は、三つの湯呑みへ同じ量を注いだ。
「お父さんは、事実なら扱えると思っている。町内会の記録も、日記も、警察の書類も、並べれば答えが出ると思っている。でも、母さんが三十年守ってきたのは、答えじゃない。あの夜から今日まで、家を続けるために必要だった時間よ」
「その時間は、嘘の上にある」
「そうかもしれない」
「なら、壊すべきだ」
「壊したあと、誰が母さんを支えるの」
「私が」
「お父さんが?」
美咲の声が、初めてわずかに揺れた。
「お父さんは、三十年前もそう言ったの?」
「何を」
「『私が支える』って。階段の下で、母さんに何か言った?」
私は答えられなかった。
記憶の中で、誰かの腕をつかんでいる。女の腕。細い手首。祭りの赤い灯。階段の上に立つ人影。私はその人を引き留めたのか、それとも、倒れた人を見ないように顔を背けたのか。
「お父さんは、あの夜、母さんに言ったんだと思う。自分が見たことは書く、と。誰にも言わない代わりに、日記に残す、と」
「私は、そんな約束をした覚えはない」
「覚えがないから怖いんでしょう」
美咲はそう言って、コピーを一枚、私の前へ押し出した。
その頁の下部に、日付のない一行があった。
澄江のために、残す。
私は文字を見つめた。
自分の字だった。
だが、その一行を記した記憶はなかった。線の太さも、払い方も、確かに私のものだ。私は長い年月、何千、何万という文字を書いてきた。その手が私の知らないところで、私の人生を別の形に書き残していた。
「これは、何を残すと書いた」
「分からない」
「お前がコピーしたのに?」
「その頁の前後が抜けていたから」
「母さんは、ここを読んだのか」
「読んだ。読んで、しばらく何も言わなかった。それから、日記を閉じて、私に言った。『これ以上、あの人の記録を増やさないで』って」
「それで、お前が持ち去ったのか」
「うん」
美咲は頷いた。
「お父さんが退職する日に、日記を読み直すつもりだと知った。机の上に、昔の手帳と町内会の資料を出していたから。母さんは何も言わなかったけど、台所の流しを朝から何度も磨いていた。私は、その夜に決めた」
「誰にも相談せずに?」
「相談したら、止められるから」
「母さんにも?」
「母さんは止めない。止めないけど、私の手を握ってしまう。そうしたら、私は持っていけなくなる」
「日記はどこにある」
美咲は、無地のトートバッグへ手を伸ばした。椅子の脇に置かれていたバッグを膝へ乗せ、口を開く。中には薄い手帳、財布、化粧道具、それから茶色い封筒が入っていた。
彼女は封筒を取り出した。
「全部はここにない」
「見せろ」
「今は無理」
「なぜだ」
「母さんがいるから」
私は台所の戸を見た。
いつの間にか、澄江が立っていた。
片手には、濡れた布巾がある。目は伏せられ、もう片方の手で戸口の柱に触れていた。彼女は私たちの会話を聞いていたはずだが、顔には驚きがなかった。
「美咲」
「母さん、聞いてたの」
「聞こえる場所にいたもの」
「だったら、言ってよ」
「何を?」
「私が日記を持っていったって。父さんに言えばいいでしょう」
澄江は戸口から動かなかった。
「言えば、あなたが返すの?」
「返さない」
「なら、言う意味がないわ」
「母さんは、いつもそうやって意味をなくす」
「そうね」
澄江は静かに答えた。
「意味がありすぎるものは、家の中に置けないことがあるから」
美咲は封筒を握った。紙が軋む。
「私が持っていったのは、母さんを守るためよ」
「分かっているわ」
「でも、母さんは守られるだけじゃない。父さんがまた書斎へ入って、日記を探して、自分の記憶を正しい形に戻そうとするのを止めたかった。父さんは、母さんが壊れても、事実を明らかにすることが正しいと思ってる」
「お父さんは、そういう人よ」
「母さんは、それでいいの?」
澄江は手にした布巾を、きつく絞った。乾いていた布から、水は落ちなかった。
「よくないわ」
その言葉が、台所のどこにも触れずに落ちた。
「でも、あなたが決めることでもない」
「母さんが決められないから、私が決めた」
「それは、守ることではなく、代わりに生きることよ」
「母さんの代わりに生きてるんじゃない。母さんがこれ以上、自分を責めなくて済むようにしてる」
「あなたは、私が何を責めているか知っているの?」
美咲の口が閉じた。
澄江はようやく顔を上げた。
「私は、あなたが思っているほど弱くないわ。三十年、黙っていたのは、壊れたくなかったからだけではない。壊れたあとも、家を回さなければならなかったからよ。でも、回してきたからといって、これからも同じやり方でいいとは限らない」
「じゃあ、どうするの」
「まだ決めていない」
「またそれ?」
「決めていないものを、決めたふりで渡すよりはましでしょう」
私は二人の間に視線を置いた。
母と娘は、同じ沈黙を別の方法で抱えていた。澄江は手を動かして家を保ち、美咲は物を移して崩壊を止めようとした。二人とも私を責めながら、同時に私が壊れることを恐れている。その恐れが、私への愛情なのか、長年の習慣なのか、私にはもう判別できなかった。
「美咲」
私は言った。
「その封筒の中身を、今すぐ見せろとは言わない」
美咲が顔を上げた。
「ただ、どこにあるかだけ教えてくれ」
「それも言えない」
「なぜ」
「お父さんが、取りに行くから」
「行かない」
「信じられない」
「私は、もう人の言葉だけを記録するつもりはない」
口にしてから、その言葉が自分の中で初めて本物になった気がした。
「お前が持ち去ったことは、もう分かった。だが、それだけでお前を責めることはできない。母さんが何を守ろうとしたのかも、まだ全部は分かっていない。だから、今すぐ取り返して、順番どおりに読んで、答えを決めることはしない」
美咲は目を細めた。
「本当に?」
「本当にだ」
「お父さんが、そんなふうに待てるの」
「分からない」
「分からないのに?」
「分からないから、待つしかない」
私の声は、自分で思っていたより弱かった。けれど、弱さを隠そうとは思わなかった。
美咲は封筒をバッグへ戻した。口を閉じ、金具を二度確認する。最後に、バッグを卓の足元へ置いた。
「日記は、明日返す」
「明日?」
「全部じゃない。母さんが抜いた一冊を除いて、残りを返す。読むかどうかは、お父さんが決めて」
「お前が決めるんじゃないのか」
「決めない。もう、私が全部を決めるのはやめる」
澄江が、湯呑みを一つ持ち上げた。美咲が注いだ冷たい茶を口へ運ぶ。ほんの少し飲んでから、卓へ戻す。
「美咲」
「何?」
「返す前に、私が話す」
「母さんが?」
「話せる範囲で」
「それでまた、言えないことを残すの?」
「残るでしょうね」
澄江は私を見た。
「でも、言えないことを残すのと、言わないことを正しいと思うのは違うわ」
私は返事をしなかった。
窓の外で、太鼓が一度だけ鳴った。今度は遠くへ消えず、壁の内側まで響いた。澄江は流しへ戻り、布巾を水で洗い始めた。美咲は卓の上の紙を重ね、写真の複写と日記のコピーを分けて揃えた。
私は、その手を止めなかった。
美咲が紙を整え、澄江が流しを磨き、私は三つの湯呑みを見つめている。何も解決していない。それでも、今までとは違う形で、家の中に三人分の沈黙が置かれていた。
私はコピーの最後の頁をもう一度見た。
澄江のために、残す。
その一行の下には、何も書かれていない。
だが、空白は以前ほど恐ろしくなかった。書かれていないものを、すぐに自分の都合で埋めなくてもいい。誰かが口を開くまで、紙を伏せておくことも、記録を扱う者の責任なのかもしれない。
私は湯呑みの位置を直しかけて、やめた。
三つの湯呑みは、少しずつ違う距離に置かれていた。美咲が整えたはずなのに、澄江のものだけが、私の方へわずかに近い。
その距離を、私は動かさなかった。
外では、夏の夜がゆっくり深くなっていた。蝉の声は消え、町内の家々から漏れる生活音も、一つずつ途切れていく。最後に残ったのは、流しで布巾をすすぐ音と、遠い太鼓の余韻だった。
空になった書斎には、まだ三十年分の時間がある。
ただ、それを読む順番を決める権利が、私一人の手にあるわけではないことを、私はようやく理解し始めていた。
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