6話 澄江の手つき

その夜、私は豆腐の入った袋を提げて台所へ行った。

雨は夕方のうちに上がっていたが、窓の外にはまだ湿った暗さが残っていた。庭の鉢植えから土の匂いが上がり、開け放した網戸の向こうで、濡れた葉が風に触れている。蝉の声はもう聞こえなかった。代わりに、坂の下の公園から、盆踊りの太鼓が低く届いていた。皮の張りが雨を吸ったのか、いつもの音より鈍く、遠い。

台所の流しには、漬け物の瓶が三つ並んでいた。

青い茄子、細く切った胡瓜、それから赤紫蘇を重ねた大根。瓶の表面に付いた水滴が、蛍光灯の白い光を小さく弾いている。澄江は瓶の蓋を一つずつ拭き、並べる位置を確かめていた。右から大きいもの、中くらいのもの、小さいもの。瓶の底が流しの縁と平行になるまで、何度も置き直している。

私が入ってきたことには気づいているはずだった。

それでも、振り向かなかった。

「木綿を買ってきた」

袋を調理台へ置いた。

「崩れにくいものを頼んだでしょう」

「豆腐に、そこまで違いがあるのか」

「煮るならあるわ。あなたは煮崩れた豆腐を、味噌汁の底から箸で探すでしょう」

「探すのは君だ」

「探させるのは、あなたよ」

澄江はそう言って、濡れた布巾を二つに折った。折り目はすでに揃っているのに、もう一度、端と端を合わせる。私はその手元を見ながら、冷蔵庫へ豆腐を入れた。袋を捨てるべきか迷い、結局、流しの脇へ畳んで置いた。

澄江の視線が一度だけ、袋へ落ちた。

「そこに置かないで」

「濡れている」

「だから、濡れたものを置く場所ではないわ」

私は袋を持ち上げ、ゴミ箱の横へ移した。澄江はそれを確認してから、ようやく次の瓶へ手を伸ばした。

家の中で、物の位置は会話より先に意味を持つことがある。長く一緒に暮らしていると、相手が何を言ったかより、どこへ何を置いたかの方が分かりやすい。澄江は怒っているときほど、物を正しい場所へ戻す。私を責めるときも、湯呑みの底についた水滴を拭き取る。若い頃は、それを几帳面な性格だと思っていた。三十年も経ってから、それだけではなかったと気づく。

「名簿を見てきた」

私は言った。

澄江の手が止まった。

瓶の蓋を持ったまま、指先だけがわずかに強くなる。

「そう」

「事故の翌日の名簿に、空欄がある」

「名簿なら、古いものには空欄くらいあるでしょう」

「書かれていないんじゃない。消された跡がある」

「誰かが書き間違えたのよ」

「片山さんも、そう言っていた」

「なら、そうなんでしょう」

澄江は瓶の蓋を閉めた。ねじを回す音が、湿った台所に小さく続いた。最後まで締めたあと、さらに一度だけ力を加える。瓶の中で茄子が押し合い、暗い水の底へ沈んだ。

「片山さんが何か言ったのか」

「町の揉め事は、丸くしておく必要があるそうだ」

「昔から、あの人はそういう人よ」

「君もそう思うのか」

「どういう意味?」

「真実は、丸くしておくものなのか」

澄江は顔を上げなかった。代わりに、使い終えた布巾を水で濡らし、流しの縁を拭き始めた。もう十分にきれいな場所を、何度も往復する。布の擦れる音が、太鼓の間を埋めた。

「私は町内会長じゃないわ」

「だが、あの夜のことを知っている」

「事故があったことなら、皆知っている」

「私が知りたいのは事故じゃない」

「では、何を知りたいの」

「私が、あの夜に何を見たのか」

布巾が止まった。

澄江は流しの中へ布巾を置き、蛇口をひねった。細い水が銀色の底へ落ちる。彼女はその水を見ながら、しばらく何も言わなかった。

「あなたは、もう思い出しかけているんでしょう」

「どうしてそう思う」

「昨日から、眼鏡を拭く回数が増えたわ」

「それだけで分かるのか」

「あなたのことなら」

水が流れ続けていた。澄江は蛇口を閉めた。流しの底に水が薄く残り、その表面に蛍光灯の線が揺れている。

「あなたは昔から、困ると万年筆を机の上に置いたままにする」

「困ると書くんじゃないのか」

「書こうとして、書けないときよ。書く前に、ペン先を紙へ向けたまま止める。あの頃だけ、それが長かった」

私は調理台に手をついた。木の表面が、濡れた掌に冷たかった。

「あの頃というのは」

「夏祭りの前後」

「何日くらいだ」

「日記をつけていたあなたなら、分かるでしょう」

「日記はない」

「そうね」

「だから聞いている」

澄江は三つの漬け物瓶を見た。先ほどまで一直線だった瓶のうち、小さいものだけが少し前へ出ている。私はそれに気づいたが、直さなかった。直せば、澄江が自分で置いたものまで否定することになる気がした。

「私は、あの夜のあと、毎日書いた」

自分の声が、台所の狭さに押し戻されて聞こえた。

「次の日から、三十年だ。天気を書いた。仕事を書いた。君が何を買ったか、娘たちが熱を出したか、工場で誰が遅刻したか。書くことがあれば書けた。何もない日も、何もなかったと書いた。そうすれば、あの夜もいつか、他の日と同じ大きさになると思っていた」

「同じ大きさにはならなかったのね」

「ならなかった」

「だから、日記を取り戻したいの?」

「書いたものを確認したい。あの夜のことが、どこかに残っているかもしれない」

「残っているでしょうね」

澄江の言葉は、予想よりはっきりしていた。

「三十年も書いてきたんだもの。あなたが何を書いたかは知らない。でも、書かれたものの中に、あの夜の影がないはずはないわ」

「読んだのか」

澄江は答えなかった。

「君は日記を読んだのか」

「全部ではないわ」

「どのくらい」

「あなたが思っているほど、多くはない」

「どの頁を読んだ」

「質問ばかりね」

「日記が消えた。机の上には、あのメモが残された。町の名簿には空欄がある。私の手帳には『灯が消えたあと、階段』と書いてある。これで何も聞くなという方が無理だ」

「聞いてどうするの」

「知る」

「知って、誰を責めるの」

「誰も責めるつもりはない」

「それは、あなたが自分を責めたいだけでしょう」

澄江は戸棚から湯呑みを二つ取り出した。片方を私の前へ置き、もう片方を少し離れた場所へ置く。いつもの距離だった。私はその間隔を見た。若い頃は、湯呑みを並べるとき、彼女の手が私の手に触れたことが何度もあった。今は、触れない距離を測ることが習慣になっている。

「お茶を入れるわ」

「今はいらない」

「喉が渇いているでしょう」

「それより話を」

「話をするなら、まず喉を湿らせた方がいいわ。声は乾くと、必要以上に尖るから」

澄江は急須へ湯を注いだ。茶葉が開く匂いが、漬け物の酸味と混じる。彼女は私の湯呑みにだけ先に茶を入れた。自分の分は、少し間を置いてから注いだ。

「あなたは、事故の頃だけ、万年筆を机に置く時間が長かった」

もう一度、澄江は言った。

「書くことを止めていたわけじゃない。でも、書く前に長く止まっていた。ペンを持って、日付を書いて、そこから先が続かない。そういう夜が何日もあった」

「君は、私の書斎を見ていたのか」

「見ていたわ」

「いつから」

「あなたが眠ったあと」

「日記を読んだのか」

「読んだこともある」

「なぜ言わなかった」

澄江は茶を飲まなかった。湯呑みの縁へ指を添えたまま、目を伏せている。

「言えば、あなたは書くことをやめたでしょう」

「私が何を書いているか、知りたかったんじゃないのか」

「知りたかったわ。でも、全部知ればいいとは思わなかった」

「それは矛盾している」

「そうね。家族というのは、矛盾したまま暮らすものよ」

澄江は湯呑みを卓へ置いた。

「あなたは、何かを記録していれば、いつか正しい形に戻せると思っていた。私は、正しい形に戻らないものを、どうやって家の中へ置いておくかを考えていた。あなたが工場で人事や労災の書類を扱っていた頃、帰ってきても、頭の中はずっと誰かの処分や補償のことでいっぱいだった。誰が悪いか、誰に責任があるか、どの紙に何を書けば会社が動くか。あなたは家の中でも、起きたことを順番に並べたがった」

「それが悪いのか」

「悪いとは言っていないわ」

「では、何だ」

「家の中でまで、誰かを確認しようとしたことが問題だったのよ」

私は湯呑みを持ち上げた。茶は熱くなかった。けれど、掌にはじわりと熱が残った。

「私は家族を記録しただけだ」

「あなたにとってはね」

「君にとっては違うのか」

「私にとって、家族は記録されるものではなく、毎日そこにいるものだった。娘が朝、靴下を片方だけ履いて泣いたこと。あなたが風邪をひいても出勤したこと。私が流しの前で腰を押さえたこと。そういうものは、書かれた瞬間に別のものになる。あなたの文章の中では、私たちはあなたが見た順番に並べられる」

「事実を残している」

「あなたが見た事実を、でしょう」

澄江の声は大きくない。それでも、ひとつひとつの言葉が食器棚に当たり、戻ってきた。

「私が笑った日を書いたとしても、その日に私が何を飲み込んだかまでは書かない。あなたが『澄江、今日は機嫌がよかった』と書いても、その日の朝、私は台所で吐いたことまでは書かれない。あなたが知らなかったからではないわ。あなたが、聞かなかったからよ」

「君は、私に話さなかった」

「話せば聞いてくれた?」

私は返事をしなかった。

澄江は、布巾を手に取った。乾いているのに、両手で強く絞るような仕草をした。

「あなたは、聞く前に記録を始めるもの」

「そんなことはない」

「あの夜も?」

台所の空気が、少しだけ冷えた。

太鼓が遠くで一つ鳴った。どん、と響き、その後に長い沈黙が続く。

「あの夜、何があった」

私は言った。

「君は何を見た」

「私は、階段へ行っていないわ」

「では、誰がいた」

「あなたは覚えているでしょう」

「覚えていない」

「覚えていないのではなく、言葉にしないだけでしょう」

「君まで片山さんと同じことを言うのか」

「片山さんは、あなたが何を見たか知らない。私は知っている」

澄江は初めて、私を正面から見た。

その目の中に、三十年分の時間が折り重なっていた。怒りも、疲れも、あきらめも、どれか一つには決められない。長いあいだ水に沈めていた布を引き上げたときのように、重く、冷たく、形を失いかけている。

「君は、私が何を見たか知っているのか」

「あなたが帰ってきたときの顔を知っている」

「顔の話ではない」

「顔だけじゃないわ。シャツの袖が濡れていた。右の手のひらに小さな擦り傷があった。靴の底に黒い土が付いていた。あなたは玄関で靴を脱いだあと、いつもなら揃えるのに、その夜だけ片方を横へ蹴った。私はそれを見た」

私は自分の右手を見た。

指の関節に、古い傷跡がある。工場で機械の部品に触れたときのものだと思っていた。だが、それがいつできたのかは覚えていない。

「どうして、そのとき何も聞かなかった」

「聞いたわ」

「何を」

「どこへ行っていたの、と」

「私は何と答えた」

「祭りの片づけだ、と」

その言葉が、記憶の底へ落ちていった。

夜の玄関。湿った靴。澄江の声。私は何かを脱ぎ、何かを拭った。赤い花ではない。提灯の明かりでもない。もっと低いところで、濡れた土の匂いがしていた。

「それで、君は信じたのか」

「信じたふりをしたの」

「なぜ」

「娘が起きていたから」

「美咲が?」

「二階の階段の途中にいた。眠れなくて、水を飲みに降りてきたのね。あなたの姿を見て、何かを聞こうとした。でもあなたが美咲を見る前に、私は台所の戸を閉めた」

澄江は布巾を折った。何度も使われた布の端が、少し擦れて白くなっている。

「あなたが何を見たのか、私はそのときから分かっていたわけではない。ただ、あの夜のあなたは、何かを見た人間の帰り方をしていた。事故を聞いただけの人間の顔ではなかった」

「君は、私が誰かを……」

「あなたが誰かを落としたと言っているのではないわ」

「なら何だ」

「あなたが、落ちるところを見ていたのに、手を伸ばさなかったと言っているの」

息が詰まった。

澄江はすぐには続けなかった。私の前の湯呑みを少しだけ内側へ寄せる。私の手が届きやすい位置へ。

「でも、それが悪いことだと、私は簡単には言えなかった」

「なぜ」

「あなたのそばに、別の人間がいたから」

台所の窓から風が入り、漬け物瓶の蓋に付いた水滴が一つ、流しへ落ちた。

「誰がいた」

「その話は、今することではないわ」

「日記が消えたことと関係がある」

「関係があるから、今しないのよ」

「日記を持っていったのは君か」

澄江は答えなかった。

「美咲か」

彼女は湯呑みから手を離した。

「美咲は、あなたの日記を持ち出したかもしれない。でも、あの子が最初に日記を読んだわけではない」

「君が読んだ」

「一部だけ」

「どの一部だ」

「あなたが書くことを止めた時期」

「そこに何が書いてあった」

澄江は目を伏せた。

「書いていないことがあった」

「何も?」

「何もないからではなく、書けないから空いていた。あなたの日記は、その時期だけ、毎日の記録が妙に整っているの。天気、勤務、食事、就寝。きれいに並んでいる。でも、きれいすぎる。誰かが泥の付いた靴で帰ってきた夜も、あなたは『晴れ。通常勤務』とだけ書いていた」

「私は……」

「あなたは、書くことで忘れようとした。私は、あなたが忘れようとしていることを、忘れないようにした。美咲は、私が忘れないようにしていることを見て育った」

澄江の言葉が、私の中の何かをゆっくり剥いでいった。

「だから、日記を持っていったのか」

「美咲が?」

「そう」

「日記が戻れば、あなたは読む。読めば、思い出す。思い出せば、あなたは今度こそ正しいことをしようとする。あなたにとって正しいことが、私たちにとっても正しいとは限らないのに」

「それでも、嘘のままにしておくのか」

「嘘ではないわ」

「では何だ」

「暮らしよ」

澄江は静かに言った。

「人は、真実だけを抱えて暮らせない。朝になれば食事を作り、子どもを学校へ出し、病院の予約を取り、壊れた蛇口を直す。何かを決めなければ一日が終わらない。私は、あの夜のあとも暮らしを続けた。あなたが書斎でペンを止めている間に、洗濯物を干し、味噌汁を作り、美咲の靴を洗った。そうしなければ、家の中に残ったものまで全部、あの夜の一部になってしまうから」

「君は、家を守るために黙ったのか」

「家を守ったつもりだった」

「つもり?」

「三十年経っても、あなたがまだあの夜の階段に立っていると分かったから」

澄江は戸棚を閉めた。

戸板が枠に触れる音は、今度は小さかった。

「私の沈黙が、あなたをそこへ置き続けたのかもしれない。美咲の沈黙も、そうだったのかもしれない。でも、口にすれば終わると思っていたものが、口にしないことで形を変えて残ることもあるのね」

私は、湯呑みの位置へ手を伸ばした。

いつもの癖で、少しだけ直そうとした。だが、澄江が置いた位置を動かすことができなかった。そこには、彼女が長い時間をかけて決めた距離があった。

「日記を読んだのか」

「全部ではないわ」

「なら、まだ残っている」

「何が」

「私が書いたものが」

「残っているでしょうね」

澄江は答えた。

「でも、残っているものが、あなたを救うとは限らないわ」

台所の外で、風が庭の鉢を揺らした。葉が擦れ、乾いた音が続く。遠くの太鼓がまた一つ鳴ったが、今度は途中で音が途切れた。

澄江は漬け物瓶を抱え、冷蔵庫へ運んだ。小さい瓶を先に入れ、大きい瓶をその後ろへ置く。扉を閉める前に、庫内の棚を見渡し、瓶同士が触れていないことを確かめた。

「澄江」

「何?」

「あの夜、私は何を見た」

彼女は冷蔵庫の扉に手を掛けたまま、しばらく動かなかった。

「今は、まだ言えないわ」

「どうして」

「あなたが、聞く準備をしていないから」

「三十年も待った」

「待ったのではなく、書いて遠ざけていただけでしょう」

冷蔵庫の扉が閉じた。

「まず、自分が何を見たかではなく、見たあとに何をしたかを思い出して」

澄江はそう言って、私の前にあった湯呑みを持ち上げた。茶はすっかり冷めていた。彼女は流しへ捨て、新しい湯を沸かすために薬缶へ水を入れた。

私は台所を出なかった。

壁には、夕暮れの熱がまだ残っている。網戸の向こうから湿った風が入り、漬け物の酸味と、古い木の匂いが混ざっていた。澄江は私のために、もう一度茶を入れようとしている。私が何をした人間かを知りながら、それでも湯を沸かす。その手つきは、許しではなかった。許さないまま、明日の朝まで家を保つための手つきだった。

私は調理台の上に置かれた古い台所ノートに気づいた。薄い紙の表紙に、澄江の字で季節ごとの保存食が記されている。頁の端が膨らみ、何枚かに水染みがあった。

その一冊だけ、棚の奥へ半分隠れていた。

私は手を伸ばしかけた。

澄江が、薬缶を火にかける音がした。

「それは、見ないで」

声は静かだった。

だが、白いメモの一行よりも近く、私の手を止めた。

私はノートから手を引いた。澄江は振り向かなかった。薬缶の底で火が鳴り、やがて水の中から細かな振動が生まれ始める。

書斎から消えた日記の代わりに、家の中にはまだ、書かれたものが残っている。

けれど、すべてを開けばいいわけではない。

その当たり前のことを、私は記録を失って初めて知った。紙には順番があり、読む手にも責任がある。正しさを求める手が、別の誰かの暮らしを壊すこともある。

薬缶の口から、白い湯気が細く上がった。

澄江は茶碗を二つ並べた。今度は、先ほどより少しだけ近かった。私はその距離を見つめたまま、動かさなかった。

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澄江の手つき - 空白の跡 - 誰でも作家life