第5話 名簿の空欄

翌日の午後、私は柚木綾の店へ向かった。
朝から空は薄く曇っていた。雨が降るほどではないが、湿った雲が坂の上に低く垂れこめ、住宅街全体が古い布で包まれたように見えた。蝉の声はまだ聞こえるものの、昨日までの勢いがない。鳴き始めたと思うと、どこかで途切れ、途切れたあとに洗濯物の竿が金具へ当たる音だけが残った。
家を出るとき、澄江は玄関先まで来なかった。
台所から、包丁がまな板に触れる音が聞こえていた。一定の間隔で、野菜を切る音が続いている。私は靴を履きながら、書斎の戸が閉まっていることを確かめた。鍵は掛けていない。だが、戸の向こうに空の棚があると思うだけで、家の中へ置き忘れたものがあるような気がした。
「今日は、どこへ行くの」
背中に澄江の声が届いた。
「綾さんのところだ」
「名簿を見るのね」
私は振り返った。澄江は台所の入口に立っていた。片手に包丁を持ったままではなく、使い終えた布巾を畳んでいる。布巾の端と端を合わせ、折り目を指先で押さえていた。
「どうして分かる」
「あなたが朝から、古い手帳を三度開いたから」
「見ていたのか」
「見なくても分かることはあるわ」
澄江は視線を落とした。昨日の夜と同じだった。何かを言う前に、必ず一度、まなざしを下へ逃がす。
「名簿を見て、何が分かるの」
「消された名前があるかもしれない」
「名前があったとして、それが何になるの」
「そこに住んでいた人間が分かる」
「住んでいた人間が分かれば、何が起きたかも分かると思う?」
「少なくとも、何も分からないままではなくなる」
澄江は布巾をもう一度畳み直した。折り目はすでに揃っていた。
「義雄」
「何だ」
「人を名前から探すのは、書類を探すのとは違うわ」
「分かっている」
「本当に?」
声は低かった。責めるというより、確認する声だった。私はすぐに答えられなかった。自分が探しているのは名前ではなく、名前の背後にある責任だと思っていた。だが、その責任を誰かの名前に結びつけた瞬間、私はまた書類の上で人を並べ替えることになる。
澄江は布巾を流しの脇へ置いた。
「帰りに、豆腐を買ってきて」
「分かった」
「崩れにくいものを」
その言い方が、豆腐のことだけではないように聞こえた。
坂を下りる道すがら、私は何度も、澄江の最後の言葉を思い返した。崩れにくいもの。そんなものが家の中に残っているのか、私には分からなかった。
交番へ向かったときとは違い、今日は足が重かった。昨日、綾の店で見た地図が頭に残っている。祭りの会場から裏道へ抜ける細い線。その途中にある階段。名簿の空欄。古い回覧板の裏に書き足された三日後の日付。
記録は人の代わりに、黙ってそこにある。
だが黙っているからこそ、こちらの都合でいくらでも意味を与えられる。私はそれを、工場の総務課で何度も見てきた。空欄は単なる漏れとして処理されることもあれば、誰かが責任を逃れるための跡になることもあった。記録は正直ではない。正直であろうとした人間の手つきまでしか残さない。
綾の店のガラス戸は半分開いていた。店内には雨戸を閉める前の薄暗さがあり、棚と棚の間に、青灰色の影が溜まっている。綾はカウンターの奥で仕入れ帳を開いていた。私を見ると、立ち上がらずに眼鏡を外し、レンズを拭いた。
「豆腐は」
「まだ買っていない」
「帰りに忘れないように」
「澄江にも同じことを言われた」
「では、忘れないね」
綾は仕入れ帳を閉じた。帳面の角を机に軽く当て、紙の端を揃える。それから奥の棚へ行き、昨日の箱とは別の薄い段ボールを取り出した。
「今日は、名簿を見せる」
「片山さんから借りたのか」
「写しを取った。原本を持ち出すと、片山さんが心配するから」
「心配する?」
「自分の管理から離れた記録が、どこへ行くかを気にする人なの」
箱の蓋を開けると、古い紙の匂いが広がった。昨日の会館で嗅いだものより乾いている。紙が長い年月をかけて水分を失い、代わりに人の手の脂や埃を抱え込んだ匂いだった。
綾は机の上に三冊の帳面を並べた。町内会の年表、防災名簿、それから回覧板の控え。どれも表紙が擦れていて、紙の角が丸くなっている。
「この三つを、祭りの年から翌年の春まで見比べる」
「どうして春まで」
「名前が消えるのは、事故の直後とは限らないから」
私は名簿を開いた。住民の名前と住所が、世帯ごとに並んでいる。古い字の癖があり、同じ名前でも頁によって筆圧が違う。町内会の役員が交代するたび、手書きの記録が継ぎ足されてきたのだろう。
祭りの年の頁を探す。
指で行を追っていくと、ある世帯の欄で紙がわずかに浮いた。名前の一部が削られ、その上から別の名前が薄く書かれている。削られた跡は、前日に会館で見たものと同じだった。文字の周囲だけ紙が毛羽立ち、消しきれなかった墨が繊維の奥に残っている。
「ここだ」
私は言った。
綾は返事をせず、隣の年表を開いた。
「その世帯は、祭りの翌日までは四人になっている」
「四人?」
「名簿の前の頁では三人。祭りの月に、娘が戻ってきた記録がある」
「戻ってきた?」
「転校か、帰省か。そこは書かれていない。けれど、人数だけが一人増えている」
私は頁を覗き込んだ。世帯主、妻、息子、娘。四つの欄に名前が並んでいる。そのうち娘の欄だけ、翌月の名簿で空白になっていた。
「転居したんじゃないのか」
「そうかもしれない」
「なら、事故と関係があるとは限らない」
「そう。だから、今は関係があるとは言わない」
綾は古い地方紙の切り抜きを一枚、机へ置いた。新聞記事は小さかった。祭りの翌朝、町内の階段付近で女性が転倒し、病院へ搬送されたという内容だった。年齢も名前もない。事故原因は足元の暗さとだけ記され、意識がある状態で搬送された、と結ばれている。
「女性か」
「記事には、そう書いてある」
「転落したのは、その娘なのか」
「まだ分からない」
「写真がある」
切り抜きの隅には、祭りの翌朝に撮られたらしい写真が載っていた。階段の上に数人の人影があり、画面の端には提灯の列が途切れずに残っている。祭りは終わっているはずなのに、提灯だけが片づけられず、薄い朝の光の中で赤く浮いていた。
写真の中央に、背の高い男が立っている。顔は提灯の影に隠れていた。そのすぐ後ろに、もう一人、人影がある。こちらは輪郭がぼやけていて、男か女かも判別できない。
「これ、撮影者は誰だ」
「新聞社の記者」
「町内の人間ではないのか」
「たぶん違う。だから、町の記録からは消しにくかった」
私は写真を近づけた。人影の背後に、階段の手すりが写っている。手すりは今より低く、支柱が一本欠けていた。私は昨日の地図を思い出した。祭り会場から裏道へ抜ける階段。街灯が一本しかなかった場所。
「この写真の端にいる人間は、誰だ」
「それを探しているの」
「名簿の空欄と、写真の人影が同じなら」
「同じなら、何?」
私は答えを探した。写真の人影が誰か分かれば、その人間の動きを追える。誰が階段にいたのか、誰が事故の直後に残っていたのかが分かる。そう考えた。
だが、綾は私の考えを先回りするように続けた。
「人影を名前に変えても、事故の瞬間が戻るわけではないよ。記録は、出来事の周りに線を引くだけ。線の内側にいた人が、何を見て、何をしなかったかまでは書かれない」
「それでも線は必要だ」
「必要だと思う理由は?」
「線がなければ、私はまた、自分が何を見たのか分からなくなる」
「あなたは、自分が見たことをもう分かっているんじゃない?」
私は綾を見た。
彼女は表情を変えなかったが、眼鏡を置いた指が、帳面の角を何度もなぞっていた。
「何を言っている」
「昨日、あなたは『思い出してはいけないと思っている』と言った」
「あれは、思い出せないという意味ではない」
「では、思い出している」
店の奥で雨戸が風に揺れた。木が擦れる音が、長く続いた。
「光と音は覚えている。階段も、倒れている人間も。そこまでは思い出しかけた」
「なら、あなたが探しているのは事実ではない」
「何だ」
「自分が見たものを、別の誰かの名前に預けたいんでしょう」
私は立ち上がりかけた。だが椅子の脚が床板に引っかかり、動かなかった。怒鳴るほどの怒りではない。もっと深いところで、体の形を崩されるような苛立ちだった。
「私が誰かに罪を押しつけたいと思っていると?」
「そうではないよ」
「同じことだ」
「違う。あなたはずっと、自分が何もしなかったことを知っている。その知っている部分を、名簿の空欄や写真の人影で埋めようとしている。誰かの名前が見つかれば、自分の沈黙にも理由がつくと思っている」
「私が黙った理由は、私が知るべきだ」
「そう。だから、他人の名前を急いで探さないで」
綾は写真を裏返した。
裏には、新聞社の鉛筆書きで日付と場所が記されていた。さらにその下に、手書きの小さなメモがあった。
現場到着時、男性一名、女性二名。後から町内会長。
私は息を止めた。
「男性一名、女性二名」
「記事には載っていない」
「どうして」
「載せる必要がないと判断されたからでしょう」
「誰が判断した」
「新聞社か、町内会か、それとも警察か」
綾はそこで言葉を切った。分からないのではなく、今は断定しないという顔だった。
「この三人の中に、私がいる」
「そうかもしれない」
「写真の人影は、三人のうちの誰かだ」
「写真に写っている人影が、現場到着時の三人と同じとは限らない」
「だが、可能性はある」
「可能性は、記録を埋める理由にはならない」
私は机の上の名簿へ視線を戻した。
空欄になった娘の名前。事故の翌朝の小さな記事。現場にいた男性一名、女性二名。後から来た町内会長。
片山が「当時それなりに対応した」と言った意味が、少しだけ形を持った。彼は事故の現場に最初からいたのではない。後から来て、そこにいた人間の数や名前を整えた。誰を残し、誰を外し、どの順番で話を聞くかを決めた。
それは事故を隠すためだったのか。あるいは、誰かが語る前に、語り方を決めるためだったのか。
「綾」
「何?」
「この娘の名前を、どうして消した」
「消したのは私じゃない」
「誰が消したかを見ると言った」
「言ったよ」
綾は名簿の空欄を指で押さえた。
「でも、消した人間が、その人を消したかったとは限らない。家族から外したかったのかもしれないし、町内の記録から外したかったのかもしれない。あるいは、事故の記録に名前が残らないようにしたかっただけかもしれない」
「それは、同じことじゃないのか」
「残される側にとっては違う」
「では、どう違う」
「名前を消されると、人は二度いなくなる。一度目は、その場からいなくなったとき。二度目は、いなかったことにされたとき。けれど消した人間の側には、消すことでしか守れないものがある場合もある」
「誰かを守るためなら、名前を消していいのか」
「私は、いいとは言っていない」
「片山さんと同じだな。皆、言い切らない」
「言い切ることが、正しさではないから」
私は名簿を閉じた。閉じた拍子に、紙の間から小さな紙片が落ちた。綾が拾おうとするより早く、私が手を伸ばした。
町内の配布物の一部だった。紙の端に、祭りの翌朝の日付が印刷されている。表面には清掃当番の変更、裏面には手書きの短い記載があった。
階段付近、救急車。町内会長対応。
昨日見たものと同じ文言だった。
だが、その下に、別の鉛筆跡が残っている。
佐伯さん宅、確認済み。
私は指を止めた。
「私の家が?」
綾は紙を受け取り、書かれた文字を見た。すぐには答えず、紙を光の方へ傾ける。鉛筆の跡は薄く、後から消そうとしたのか、指で擦られた部分が白く曇っていた。
「これ、いつの確認だ」
「日付は事故の翌朝」
「誰が確認した」
「名前はない」
「私の家に、誰が来た」
「覚えていない?」
私は答えられなかった。
祭りの翌朝、私は家にいたはずだ。いや、工場へ行く前に、町内会館へ寄った記憶がある。片山がいた。坂本もいた。夜勤明けの人間が何人か集まり、誰かが「大したことではない」と言っていた。
そのあと、家へ戻った。
澄江が台所に立っていた。美咲はまだ幼く、居間で眠っていた。私は汗で濡れたシャツを着替え、何も言わずに朝食を食べた。
そこまでは覚えている。
だが、「佐伯さん宅、確認済み」と書かれる理由がない。誰かが家へ来たのか。私が町内会へ報告したのか。事故に関する何かを見せられたのか。
「義雄」
綾が呼んだ。
私は返事をしなかった。紙面の薄い文字が、瞳の奥へ入り込む。白い紙の上に残された黒い線が、記憶の中で別の線と重なっていく。
階段の手すり。
懐中電灯の光。
誰かの腕。
私は見た。
だが、何を見たのかだけではない。見たあと、家へ戻り、朝食を食べ、工場へ向かった。その順番だけは、身体が覚えていた。
眼鏡の内側が曇った。私は外して拭いた。レンズを拭いても、紙の文字は消えない。
「この空欄は、事故の被害者の名前ではないかもしれない」
綾が言った。
「では、誰の名前だ」
「現場にいた人間の名前かもしれない。町内会が確認した家の名前かもしれない。あるいは、あの夜に帰ってこなかった人の名前かもしれない」
「分からないことばかりだ」
「だから、記録を重ねる」
「重ねれば、分かるのか」
「分かることと、分からなくなることがある。記録を重ねると、事実の輪郭は出てくる。でも、その輪郭の中で誰が嘘をついたかまでは、別の手がかりが必要になる」
「人の証言か」
「所作も含めてね」
綾は名簿の空欄を指先で撫でた。
「空欄は、誰かがそこに触れた跡だよ。名前そのものより、消すためにどれだけ力をかけたかを見る。紙の繊維、筆圧、書き直しの順番。そこには、消した人間の迷いが残る」
「迷い?」
「一度で消し切れなかった。上から別の字を書いた。でも、完全には隠せなかった。急いでいたのかもしれないし、消すことに慣れていなかったのかもしれない」
「片山さんではない?」
「片山さんなら、もっときれいに消すと思う」
私はその言葉を聞きながら、会館で片山が紙の端を揃えていた姿を思い出した。彼は記録を扱い慣れている。削るときも、書き直すときも、紙に余計な傷を残さないだろう。
「では、誰が」
「そこまでは、まだ」
綾は答え、写真を封筒へ戻した。名前を急いで探さない。そう言った自分の言葉を守るように、写真の裏面を折り曲げず、薄紙で包んでいく。
「この名簿の写し、持って帰っていいか」
「家で見るの?」
「家でなければ、どこで見る」
「書斎では見ない方がいい」
「なぜ」
「空の棚の前で記録を読むと、あなたは全部を自分の過去に結びつける。紙を読む前に、棚の空白を読んでしまうから」
私は何も言わなかった。
綾は名簿の写しと地方紙の切り抜きを、別々の封筒へ入れた。封筒の口を閉じる前に、一本のしおりを挟む。赤い表紙の手帳から抜いたものらしく、端に古い書店の印が押されていた。
「これは?」
「読む順番を間違えないため」
「順番があるのか」
「まず名簿。次に回覧板。最後に写真」
「写真を最後にする理由は」
「写真は、見る人間の記憶を勝手に動かすから」
私は封筒を受け取った。名簿の写しは薄いのに、指先へ重く伝わった。書斎から消えた日記とは違う重さだった。あの日記には、私が自分で選んだ言葉が積み重なっていた。こちらの紙には、誰かが選ばなかった言葉が残っている。
店を出ると、雨が細く降り始めていた。
傘を持っていなかった私は、軒先で少し立ち止まった。雨は道路を濡らすほど強くない。アスファルトの上に細かな点を作り、すぐに消えていく。遠くの公園から、盆踊りの太鼓が聞こえた。雨のためか、昨日より音が鈍く、皮の内側へ押し込められている。
「義雄」
綾が店内から呼んだ。
「何だ」
「豆腐を買うなら、絹より木綿がいいよ」
「澄江にも言われた」
「では、間違えないね」
私は坂を上り始めた。
雨に濡れた住宅街は、昨日よりも古く見えた。壁のひび、軒下の錆びた自転車、誰も使っていない物干し台。町内の人間は減り、工場の煙突は撤去され、昔の名前だけが回覧板や名簿の隅に残っている。人がいなくなった家には、生活の音がない。その静けさが、かつて何かを見て見ぬふりした町の静けさと重なった。
坂の途中で、私は足を止めた。
道の脇に、古い掲示板がある。盆踊りの案内の下から、昨日見えた紙の端がさらに覗いていた。近づいてみると、三十年前の祭りの注意書きだった。雨で紙が膨らみ、画鋲の周囲だけが破れている。
階段付近、夜間通行注意。
その一文の下に、誰かが赤鉛筆で線を引いていた。
私は封筒を胸元へ押し当てた。
名簿の空欄は、名前を消した跡だった。回覧板の遅れは、誰かが順番を変えた跡だった。写真の端の人影は、そこにいた人間がいたことだけを、薄く残している。
私は三十年前の朝、家へ戻った。
それから三十年、毎日日記を書いた。
だが、名簿の空欄に触れた今になって、ようやく気づいた。私はあの夜のことを書かなかったのではない。書かないようにするために、その後の三十年を記録し続けたのだ。
雨が眼鏡のレンズに落ちた。私は外して拭いたが、指先が濡れていて、かえって曇りが広がった。
家へ戻れば、澄江が豆腐を受け取る。台所では、いつものように茶碗が並べられる。美咲はきっと、私が何を持ち帰ったかを見なくても察するだろう。
私は歩き出した。
封筒の中で、名簿の空欄が静かに擦れ合っている。
まだ名前は分からない。
それでも、誰かが消したものの形だけは、もう消えなかった。
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