4話 会館の紙の匂い

翌日の夕方、私は柚木綾に促されるまま、坂の途中に建つ町内会館へ足を運んだ。

書店を出るとき、綾は「一人で行くより、私も一緒に行った方がいい」とだけ言った。理由を問うと、彼女は本の背表紙を整えながら、「片山さんは、一人には気を許さないから」と答えた。それ以上の説明はなかったが、私は綾の言葉の裏に、片山という男の扱いにくさが滲んでいるのを感じた。

坂を上る途中、校庭の方角から吹奏楽の練習らしい笛の音が細く流れてきた。夕方の風はぬるく、湿った土の匂いと、どこかの家の夕飯の匂いが入り混じっている。会館は町内でいちばん古い木造の建物で、屋根瓦の一部が色褪せ、玄関脇の掲示板には盆踊りの案内が新しい画鋲で留められていた。

引き戸を開けた瞬間、鼻先をかすめたのは、古い紙と埃、それに押し入れへ長く閉じ込められていた布の匂いだった。工場の書庫にも似た匂いだ。私は総務課の資料室で、退職者の記録や労災の書類を整理していた頃を思い出した。あの部屋も、こういう匂いがした。人の生活が紙の中に沈殿していく匂いだった。

「おお、佐伯さん。わざわざどうも」

奥の机から、片山信次が立ち上がった。恰幅のいい身体を揺らしながら、彼は私と綾に椅子を勧める。机の上には回覧板の束と防災名簿が、几帳面な角度で積まれていた。紙の端がすべて揃っているのを見て、私は妙な既視感を覚えた。自分が机の物を揃え直す癖と、どこか似ている。だが片山のそれは、整理するためというより、何かを見えなくするための儀式のように見えた。

「退職なさったんだって? お疲れさまでした。これからは町内会の会合にも顔を出してくださいよ。今度の盆踊り、櫓の骨組みが古くなってきましてね、若い衆に頼むにも、もう若い衆自体がいないもんだから」

片山は椅子に座り直しながら、盆踊りの段取りと、空き家になった隣の敷地の草刈りの話を、途切れることなく続けた。話し方には妙な滑らかさがあった。まるで坂道を転がる石のように、一つの話題が終わる前に次の話題が始まる。私は口を挟む隙を探しながら、机の端に積まれた古い名簿の背表紙を眺めていた。

「片山さん」

私はようやく言葉を差し込んだ。

「三十年前の、夏祭りの翌日のことを、覚えていらっしゃいますか」

片山の口が、一瞬だけ止まった。だがそれは本当に一瞬で、次の瞬間には笑みが戻っていた。

「ああ、三十年前ねえ。ずいぶん昔の話だ。あの頃はまだ工場も元気でね、祭りの規模も今の倍はありましたよ。焼きそばの屋台が三つも出てたんだから」

「翌日のことです。事故があったと聞きました」

「事故?」

片山は眉を上げ、それから空を仰ぐような仕草をした。何かを思い出そうとしているようで、実際には何も思い出そうとしていない仕草だった。私は工場の総務課で、こういう顔を何度も見てきた。労災の報告書を書かせるとき、上司たちが決まってこの顔をした。

「さあ、どうだったかなあ。年寄りが転んだとか、そういう話はよく聞きましたがね。何しろ坂の多い町だから。それより佐伯さん、防災訓練の話なんですがね、来月また各戸の安否確認の練習をやるんですよ。あなたも退職なさったばかりだし、時間もあるでしょう。一つ、区長代理をお願いできませんか」

話はもう、防災訓練の段取りに移っていた。私はその滑らかさに、かえって不自然さを感じた。片山は何かを避けているのではない。避けているという事実そのものを、話術で塗りつぶしているのだ。まるで、揉め事を段取りに変える職人のような手つきだった。

「片山さん」

私はもう一度、名前を呼んだ。

「私は、日記を失くしました。三十年分です。その中に、あの夜のことを書いた頁があった。誰かがそれだけを持ち去った」

「それは、災難でしたなあ」

「災難で片づく話でしょうか」

私の声が、思ったより硬くなった。片山は一瞬だけ、綾の方を見た。それから、また私に視線を戻す。

「佐伯さん、私はね、この町の面倒を何十年も見てきました。面倒というのは、揉め事のことです。誰かが誰かを恨んで、誰かが誰かを疑って、そういうものを、なるべく大きくしないように調整する。それが私の仕事だと思ってきた。三十年前のことも、当時それなりに対応した。今さらそれを引っくり返して、誰が得をするんですか」

「得の話をしているんじゃありません」

「では何の話です」

「事実の話です」

片山は、ふう、と息を吐いた。それは笑いでも呆れでもなく、もっと古い疲労のようなものに見えた。

「事実ね。事実というのは、佐伯さん、時々、誰かを生かすために丸くしておかなきゃならないものなんですよ。あなたも総務にいたなら、分かるでしょう。書類の書き方一つで、誰かの退職金が変わったり、誰かの経歴に傷がついたりする。全部を正直に書けばいいってもんじゃない」

「私は、正直に書くことを仕事にしてきました」

「なら、書かなかったことも、あるはずだ」

その一言が、私の胸の奥に落ちた。片山はそれ以上踏み込まず、机の上の古い名簿を一冊、私の方へ滑らせた。

「これ、見てもらってもいい。三十年前の住民名簿です。私が管理を引き継ぐ前のものだが」

私は名簿を開いた。表紙は色褪せ、頁の端がところどころ湿気で波打っている。町内の世帯が、当時の順に並んでいた。読み進めるうち、ある頁で指が止まった。

一つの欄だけ、文字が薄い。周囲の墨の濃さに比べて、そこだけ何度も擦られたように紙の繊維が毛羽立っていた。名前の一部が消され、代わりに別の筆致で薄く書き直されている。工場の帳簿で、こういう跡を何度も見てきた。数字を消して書き直したとき、担当者の慌てた手つきがそのまま紙に残るのだ。

「これは」

私が顔を上げると、片山は名簿の端を指で揃え直していた。見ていないふりをする、あの独特の手つきだった。

「古い名簿ですからね。転記の際に、間違いもあったんでしょう」

「三十年前の、この年だけですか」

「さあ。私が引き継いだときには、もうこうなってました」

片山はそう言って、湯呑みを一つ、机の端へそっと寄せた。話を終わらせる合図のような仕草だった。私は名簿から目を離せなかった。書かれなかったことではない。書かれていたものが、消された形だった。

帰り際、綾は会館の引き戸を閉めながら、私の手に残っていた回覧板の裏を静かに見ていた。

「義雄」

「なんだ」

「その裏、見た?」

言われて裏返すと、鉛筆で淡く、後年に書き足されたらしい日付があった。祭りの翌日から、ちょうど三日後の日付だった。三日という間隔に、私は何か意味があるような、ないような、落ち着かない感覚を覚えた。

「三日後に、誰かが何かを確認したということか」

「たぶんね。片山さんが確認したのか、他の誰かが確認したのか。それは、この紙だけじゃ分からない」

外へ出ると、日はすでに傾き、坂道の家々の壁が夕焼けの熱を吸い込んで赤く染まっていた。遠くで盆踊りの太鼓が、まだ本番前の試し打ちのように、間遠に響いている。どん、と一つ鳴って、しばらく間があり、また、どんと鳴る。その間隔が、なぜか三十年前のあの夜の記憶と重なって、私は襟元に滲む汗を拭った。

片山は、悪意で嘘をついているのではない。おそらく、彼自身の中でも、あの夜の記憶は丸く削られ、角の取れた形で保存されているのだろう。それが町を守るということだと、彼は本気で信じている。だが、その丸くされた記憶の隙間から、擦れた文字と、書き足された日付だけが、尖ったまま突き出していた。

私は坂を上りながら、名簿の薄い文字の感触を、まだ指先に覚えていた。

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会館の紙の匂い - 空白の跡 - 誰でも作家life