第3話 誰も口にしない夜

夕方、私は書斎へ戻った。
家の中には、昼の熱がまだ残っていた。壁に掌を当てると、木造の家が一日分の陽射しを抱え込んでいるのが分かる。扇風機は窓際で首を振り、風が来るたび、机の上の白い紙の端がわずかに持ち上がった。私はその紙を押さえようとしたが、指が触れる前に手を引いた。
置き場所を直すことが、今は誰かの言葉を勝手に整えることのように思えた。
本棚の空白の前に立つ。
ノートがなくなっただけで、部屋の広さが変わったように感じる。三十年分の記録は、棚の一段を占領していただけではない。私がこの部屋へ入るたび、昨日までの自分を背中側に並べていた。今日の自分は、その列を振り返ることができる。そう思っていた。
いまは、振り返っても何もない。
空白は壁の一部にまで広がり、書斎そのものの内側を削っているようだった。
私は机の前に座った。椅子の向きが、昨日より少しだけ右へずれている。誰かが座ったのだろう。私は無意識に椅子を机と平行に戻し、それから自分の手を見た。戻した理由が、もう自分でも分からなかった。
日記を失ったあとも、身体は以前の手順を覚えている。
万年筆を右上へ置く。眼鏡拭きをその隣へ置く。読みかけの回覧板を椅子の背に掛ける。湯呑みを机の左端から三センチ離す。
並べ終えても、落ち着かなかった。
私は机の引き出しを開けた。
文房具の箱、古い領収書、工場の退職手続きに使った印鑑袋。その下から、表紙の擦れた手帳が出てきた。二十代の終わりから三十代の初めにかけて使っていたものだ。革の表面は乾き、角は白く剥げている。開くと、紙の間から古い油の匂いがした。工場の事務所で使っていた鉛筆、鉄粉の混じった風、昼休みに飲んだ濃い茶。記憶は、日記よりも匂いの方から戻ってくることがある。
最初の頁には、勤務表が貼りつけてあった。夜勤の交代、健康診断の日、町内会の回覧板を受け取った日。私は一つずつ日付を追った。手帳の中の私は、今よりずっと字が大きく、欄外へはみ出すことを気にしていない。
途中で、鉛筆の線が何本も重なっている頁があった。
三十年前の夏祭りの週だった。
出店の担当、提灯の数、翌朝の清掃当番。細かな予定が並んでいる。だが祭り当日の欄だけ、紙の上に薄い線が引かれていた。誰かが一度書き、消しゴムをかけ、その上から別の文字を書こうとした跡だった。紙はそこだけけば立っている。
私は指先でその部分を撫でた。
文字は残っていない。
次の頁に、短い文章があった。
灯が消えたあと、階段。
それだけだった。
私は何度も読んだ。
灯が消えたあと、階段。
誰かの名前も、事故の時刻も、怪我の程度も書かれていない。日記なら、私は必ず時刻を書いた。工場の書類なら、担当者と確認者の印を残した。何が起きたか分からないものを、そのままにしておくことを嫌っていた。
なのに、ここだけは三つの言葉で終わっている。
書けなかったのか。
それとも、書かなかったのか。
私はその二つを、頭の中で何度も入れ替えた。書けなかったのなら、私には記憶がないことになる。書かなかったのなら、記憶はあったのに、手を止めたことになる。
どちらの方が軽いのか、考えても分からない。
手帳を閉じようとしたとき、紙の間から小さな紙片が落ちた。拾い上げると、町内会の祭りの出店予定表だった。焼きそば、金魚すくい、綿菓子。裏側には、当時の私の字で、買い物の品目が箇条書きになっている。
その中に、見覚えのない一行があった。
懐中電灯、予備電池。
私は眉を寄せた。
祭りの係をしていたのだから、懐中電灯を用意していても不思議ではない。だが、予備電池まで書く理由が思い出せない。誰かに頼まれたのか。階段の近くが暗かったからか。それとも、灯が消えたあとに必要になると、あらかじめ知っていたのか。
窓の外で、蝉の声が一段弱くなった。
夏の夕方は、昼と夜の境目が長い。空はまだ明るいのに、家の中の影だけが先に濃くなる。隣家の二階から、洗濯物を取り込む音がした。物干し竿が金具に当たり、かちゃん、かちゃんと鳴る。その音が、書斎の静けさをかえって際立たせた。
台所から、鍋の蓋が触れ合う音が聞こえた。
澄江が夕飯の支度をしている。
私は手帳を持って台所へ向かった。廊下を歩くと、足の裏に古い床板の感触が伝わる。書斎から台所までは短い距離なのに、今日はひどく遠く感じられた。家の中にいる人間が、互いに別の部屋から出てこないようにしている。その間を歩くたび、何かを踏み越えている気がした。
澄江は流しの前に立っていた。鍋の中で味噌汁が小さく煮立ち、出汁と汗の混じった空気が漂っている。彼女は私に気づいていたはずだが、振り向かなかった。使い終えた布巾を水で濡らし、必要以上に強く絞っている。
「これを見つけた」
私は手帳を調理台へ置いた。
澄江は、手帳ではなく私の指先を見た。次に、コンロの火を弱めた。鍋の中の泡が一つ、二つと消える。
「昔の手帳ね」
「三十年前の夏祭りの欄に、こんな記述がある」
私は手帳を開いた。
「灯が消えたあと、階段」
澄江の手が止まった。
布巾から水が一滴落ち、流しの底で弾けた。
「何のことか分かるか」
「祭りの後片づけでしょう」
「それなら、どうしてこんな書き方をする」
「あなたは昔から、短く書くこともあったわ」
「それは、分かっていることを書くときだ。日付や時刻を省いても、自分には分かる場合だけだ」
「では、自分には分かっていたんでしょう」
澄江は顔を上げなかった。まな板の上に置かれた包丁を取り、刃の向きを整える。切るものはもうないのに、柄を布巾で丁寧に拭いている。
「事故のことを知っているのか」
「事故なら、町内の人は皆知っているわ」
「誰が倒れたのか」
「近所の人でしょう」
「誰が、ではなく、何があったのかを聞いている」
澄江は包丁を置いた。刃先がまな板に触れる音は、驚くほど小さかった。
「あなたは、何を思い出したいの」
「事実だ」
「また、その言葉を使うのね」
「事実以外に、何を頼ればいい」
「人の顔や、声や、手つきもあるでしょう。書かれたものだけが事実ではないわ」
「記憶は変わる」
「記録も変わる」
「私の日記は変えていない」
「あなたが変えなくても、あなたが書かなかったところは残るでしょう」
澄江はようやく私を見た。目の中に怒りはなかった。怒りよりも古いものがあった。長い時間をかけて冷えた、諦めに似たものだった。
「日記がなくなって、困っているのはあなたね」
「ああ」
「本当に、それだけ?」
答えられなかった。
澄江は戸棚から湯呑みを二つ出した。いつものように、私の前へ先に置き、自分の分を少し離して置く。私はその間隔を見た。若い頃はもっと近かった。食事のあと、二人で同じ新聞を覗き込めるほどだった。いつからか、湯呑み一つ分の距離が、食卓に残るようになった。
「あなたは日記を取り戻して、何をしたいの」
「読む」
「読んで?」
「自分が何を書いたのか確認する」
「確認して、それから?」
「間違いがあれば、認める」
「誰に」
私は湯呑みへ手を伸ばした。中身はまだ入っていない。澄江は私の視線に気づき、急須から茶を注いだ。湯気が上がり、薄い茶の香りが鼻先に触れる。
「誰に謝るつもりなの」
「分からない」
「分からないまま、謝るの?」
「だから、日記が必要なんだ」
「あなたは、日記があれば自分の罪の相手まで書いてあると思っているのね」
「そんなことは言っていない」
「でも、そうでしょう。書いたものを読めば、誰に何をしたか分かる。自分が見たものも、見なかったものも、紙の上に並んでいる。そう考えている」
私は湯呑みを持った。熱さが掌へ伝わる。
「君は何を知っている」
「知っていることと、言えることは違うわ」
「それは答えを避けているだけだ」
「避けてきたのは、私だけではないでしょう」
言葉が途切れた。
台所の換気扇が低く唸り、庭の鉢植えの葉が窓の外で擦れ合う。遠くから、盆踊りの太鼓が聞こえた。まだ練習なのか、どん、と一度鳴り、そのあと長い間を置いて、もう一度鳴った。
澄江は茶碗を並べた。三つ目の茶碗を出したところで、手が止まる。美咲の分だろう。彼女はそれを食卓の端へ置いた。
「美咲は、あの夜のことを知っているのか」
「子どもは、家の中で起きたことを覚えているものよ」
「私たちは何も話していない」
「話さなくても、分かることはあるわ」
「それでは、記憶ではない。想像だ」
「想像であっても、その人の中では暮らしになるの」
澄江は茶碗の位置を直した。右へ少し、左へ少し。最後に三つの茶碗が一直線に並んだ。
「あなたが日記に書かなかったことを、美咲は家の音で覚えた。戸締まりをする回数、あなたが書斎へ入る前に止まる時間、祭りの太鼓が聞こえたときの私の手。そういうものは、紙に書かれなくても消えない」
私は何も言えなかった。
澄江は、私の手帳を閉じた。
「今夜は、もう探さないで」
「日記を持っていったのは、美咲か」
「あなたは、犯人を決めないと眠れないのね」
「質問に答えてくれ」
「答えたら、あなたはその答えだけを信じるでしょう。私が持っていったと言えば、私を責める。美咲だと言えば、あの子を追い詰める。私が知らないと言えば、嘘だと思う。どれを選んでも、あなたは記録の形にしてしまう」
「家族のことを、そんなふうに扱った覚えはない」
「覚えがないから、怖いのよ」
澄江は静かに言った。
「忘れたことではなく、忘れたことに気づかないことが、一番怖いの」
私は手帳を取り戻した。表紙の角が、彼女の指で少し湿っていた。
居間へ戻ると、赤い花束のリボンが花瓶の根元でずれていた。美咲が水を替えたのかもしれない。私は手を伸ばし、リボンを結び直した。赤い花弁が揺れ、濡れた茎から水が一滴、花瓶の外へ落ちる。
そのとき、花の赤が別の赤に重なった。
提灯の明かり。
暗い階段。
濡れたように光る何か。
私は息を止めた。
誰かが叫んでいた。声は遠く、祭りの太鼓に混じっている。足元に石の感触があり、手には懐中電灯があった。灯りを向けた先に、人が倒れていた。
そこまで思いかけて、私は目を閉じた。
記憶はすぐに形を失った。残ったのは、光を向けなかったという感覚だけだった。私は懐中電灯を持っていたのか。それとも、持っている誰かを見ていたのか。誰かが私の腕をつかんだのか。私が誰かの腕をつかんだのか。
どれも確かな像にならなかった。
書斎へ戻ると、扇風機の風が手帳の頁をめくった。三十年前の頁が開き、鉛筆の跡が露わになる。
灯が消えたあと、階段。
私はその一行を見下ろした。
記録は、覚えていることを残すためだけのものではない。覚えているのに書かなかったことを、空白の形で残すこともある。
私はこれまで、その空白を見ないために、三十年分の紙を積み上げてきたのかもしれない。
窓の外で、太鼓がまた鳴った。
どん。
次の音が来るまでの間に、家のどこかで戸が閉まった。美咲が自室へ戻ったのか、澄江が夜の戸締まりを始めたのかは分からない。私は書斎の戸口へ立った。
空の棚を見ていると、胸の内側から、抜け落ちたものの重さが戻ってくる。
日記は消えた。
だが、書かなかったことは消えていない。
それは紙のないところにまで染み込み、壁の熱や、湯呑みの距離や、花束の赤さの中に残っている。家族が口にしなかった夜は、三十年前に終わったのではない。誰も口にしないまま、今日まで続いていた。
私は手帳を机へ置いた。
位置を揃えようとして、やめた。
その夜、居間の赤い花束は、まだ水を吸っていた。祭りの太鼓は遠ざかり、蝉の声はほとんど聞こえなくなっていた。
静かになった家の中で、私は初めて、自分の沈黙にも音があることを知った。
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