2話 交番の机、書店の紙の匂い

翌朝、私は交番へ向かった。

家を出る前に、書斎の戸を閉めた。閉めたあと、もう一度開けた。空の棚がそこにあることを確認し、今度こそ閉める。鍵は掛けなかった。掛ける理由がないのに、掛けたことだけが新しい事実として残る気がした。

玄関へ戻ると、澄江が台所から出てきた。朝の光はまだ弱く、流しの水滴だけが白く浮かんでいる。彼女は私の手元を見て、薄い布袋を差し出した。

「暑いから、水を入れておいたわ」

「交番に行くだけだ」

「帰るまでが外出でしょう」

布袋の中で、冷えた水筒が小さく鳴った。私は礼を言おうとしたが、澄江はもう背を向けていた。コンロの脇に置かれた湯呑みを、右から順に揃えている。

「澄江」

「何?」

「昨日の紙を、見たことがあるのか」

彼女は返事をしなかった。湯呑みの底が卓に触れる音が、ひとつ、ふたつと続いた。

「帰ってからにして」

「帰ってからなら、話すのか」

「帰ってきた人が、何を話したいかによるわ」

それ以上は聞けなかった。問いを重ねると、澄江は答える代わりに流しを磨き始める。磨く必要のない場所まで、布巾を強く押しつけて。私はその背中を見ながら、妻が私を送り出しているのか、それとも家の外へ逃がしているのか、分からなくなった。

坂を下りると、朝の住宅街にはまだ夜の湿気が残っていた。軒先の植木鉢から濡れた土の匂いがし、干されたタオルが風に膨らんでは戻る。かつて工場へ向かう人間で埋まっていた道も、今は杖をついた老人や、犬を連れた女が時折通るだけだった。

坂の途中で、町内会の掲示板に目が留まった。盆踊りの案内が新しい画鋲で留められている。その下に、古い紙の端が一枚だけ覗いていた。私は立ち止まりかけたが、交番へ行く目的を思い出して歩き続けた。

交番の中は冷房が効いていた。外から入った身体には冷たすぎ、汗ばんだ襟元が急に肌へ貼りついた。入口脇の机には、交通安全のチラシと、近所の落とし物をまとめた箱が置かれている。紙と汗、それから古いビニールの匂いがした。

「どうぞ、こちらへ」

対応した警察官は、二十代の後半くらいに見えた。名札には村上とある。彼は私を椅子へ案内し、机の上に白い用紙を置いた。

「お名前と住所を確認させてください。それから、なくなった物について、分かる範囲で結構ですので」

「日記です」

「はい」

「ノートです。三十年分あります」

「全部で何冊でしょう」

「一冊に一年分です。三十冊」

村上は書きながら、顔を上げた。

「金銭的な価値はありますか」

「ありません」

「個人情報や、仕事上の重要な記録は」

「工場を退職しました。機密はありません」

「では、持ち去られたことで困ることは」

私は答えに詰まった。困ることを、他人に分かる形へ変えるのは難しかった。三十年分の天気、妻の検査結果、娘たちの進学、工場の人事、父の葬儀、澄江が初めて腰を痛めた日。そういうものを並べても、盗難届の欄には収まらない。

「自分が何者だったか、分からなくなる」

村上のペン先が止まった。

「……すみません。もう少し具体的に伺ってもいいですか」

「書いてきたものが、私の生活の証拠だったんです。毎日書いた。抜けた日はない。少なくとも、そう思っていた。日記があれば、昨日の自分と今日の自分がつながっていると確認できる。なくなれば、私は記憶だけで過去を組み立てなければならない。記憶は、都合よく形を変える。だから書いたんです。忘れないためだけじゃない。自分が嘘をついたとき、それを後から見つけられるように」

「メモは、その日記と一緒に見つかったんですね」

「机の上に残されていました」

私は紙を取り出した。村上は手袋をつけ、両端をつまんで受け取った。白い紙の上の一行を読み、裏返し、また表へ戻す。

「筆跡に心当たりはありますか」

「娘かもしれません」

「同居のご家族ですか」

「昨日から帰省しています。普段は別の場所で暮らしている」

「奥さまは」

「妻も家にいます」

「ご家族以外で、書斎へ入れる人は」

「いません。鍵は掛けていませんでしたが、書斎は家の中です」

「最後に日記を確認したのは、いつですか」

「昨日の朝です。退職の日だったので、過去の記録を少し整理しようとした」

「そのときは、三十冊ともありましたか」

「……数えたわけではありません」

村上はまた書いた。私が見ている前で、日記三十冊という言葉が、紛失物の欄に小さく収まっていく。

「昨夜、家族のどなたかと、日記について話されましたか」

「話しました」

「持ち去ったと思われる方はいますか」

「思われるという言い方なら、娘です」

「理由は」

私はメモの一行を見た。

「理由は、まだ分かりません」

村上はそれ以上踏み込まなかった。代わりに、書斎へ出入りした時間、私が食事をしていた間の家族の位置、鍵の発見場所まで、順番に尋ねた。質問は穏やかだったが、答えるたびに自分の家が見知らぬ場所へ変わっていくようだった。

「現時点では、ご家族間の持ち出しであれば、事件として動くのは難しいかもしれません」

「分かっています」

「ただ、メモの内容が気になります。何か、過去の事故やトラブルに関係している可能性はありますか」

その言葉に、私は水筒の紐を握った。

「三十年前に、町内で転落事故がありました」

「どなたが?」

「近所の人間です」

「事故の内容は」

「階段から落ちた、と聞いています」

「聞いている?」

村上の目が、初めて私の顔をまっすぐ捉えた。

「私は、現場の近くにいました。ただ、事故そのものを見たのかどうか……」

そこまで言って、私は眼鏡を外した。レンズには何もついていない。それでも拭いた。

「分かりました。今すぐ詳細を思い出す必要はありません。ただ、日記の内容と事故が関係しているなら、なくなった物の確認とは別に、話を伺うことになるかもしれません」

「日記がなくてもですか」

「なくても、です」

村上はメモを封筒に戻した。白い紙は、封筒の中で見えなくなった。

交番を出ると、外気が皮膚にまとわりついた。冷房で固くなっていた背中が、坂の熱にゆっくり戻っていく。私は駅へ向かう道を選ばず、町角の書店へ進んだ。

綾の店は、昔から大きさが変わらない。変わったのは向かいの乾物屋が駐車場になったことと、隣の家の軒先から子どもの声が消えたことくらいだった。入口のガラス戸には、夕方の光が薄く溜まっている。私は戸を開けた。

「いらっしゃい」

綾は奥の棚で本を並べ替えていた。私を見ると、驚いた様子もなく、一冊の本を持ったまま手を止めた。

「交番へ行ったのね」

「なぜ分かる」

「その顔」

「どんな顔だ」

「紙にされた顔」

綾は本の角を親指でなぞり、棚へ戻した。

「警察は、話を聞いたのか。それとも書いたのか」

「両方だ」

「書かれたでしょう」

「何が」

「あなたの怒り。日記がなくなったことより、三十年分のものが一枚の用紙に収まることに腹を立てている」

私は返事をしなかった。店の奥では古い扇風機が回っていた。羽の軸が少しずれているのか、一定の間隔で低い唸りが混じる。紙の匂いと、木の棚に染みついた埃の匂いが、外の暑さを薄めていた。

「日記は、家族が持っていったと思う」

「そう」

「驚かないんだな」

「驚く理由がないもの。あなたが三十年分の家族を書いていたことも、家族がそれを知らないはずがないことも、昨日の夜から想像できた」

「誰が持っていったかは分かるのか」

「分からない。けれど、持ち去った人は、日記を消したかったのではなく、読まれる順番を止めたかったんだと思う」

「順番?」

「一冊目から三十冊目まで、あなたは読むでしょう。読む人は、書かれた順に意味を作る。最初に何があり、途中で何が変わり、最後にどうなったか。そうやって物語にする。でも、生活はそんなふうに並んでいない。後から知ったことが、昔の一日を別のものに変えることもある」

綾はカウンターの下から、古い段ボール箱を取り出した。蓋を開けると、紙の乾いた匂いが立ち上がった。回覧板の控え、町内の年表、古い新聞の切り抜きが、茶色い封筒に分けて入っている。

「これは何だ」

「町内会から流れてきたもの。正式な保存資料ではないよ。正式なものは、必要なときに必要な形へ整えられているから」

「整えられている?」

「言い方を変えれば、削られている」

綾は封筒を三つ、机の上へ並べた。日付の古い順ではなく、紙の傷み方を見ているようだった。

「ここに、三十年前の夏祭りの記録がある」

「祭りの記録なら、町内会館にもある」

「たぶん、同じものはない」

「どういう意味だ」

「記録は一枚ではできていないから。回覧板に書かれたこと、名簿に残ったこと、新聞に載ったこと、誰かが自分のために取っておいたこと。それぞれが違う。違うから、重ねると欠けた形が見える」

私は封筒に手を伸ばした。綾がすぐには渡さなかった。

「先に聞くけど、あなたは何を探すつもり?」

「日記だ」

「それだけ?」

「三十年前のことも知りたい」

「知って、どうするの」

「事実なら、事実として扱う」

綾の目が細くなった。笑ったわけではない。

「その言い方、昨日の食卓でもした?」

「娘に聞かれた」

「娘さんは何と言った」

「それで母親が壊れても、と」

綾は一拍置き、封筒を私の方へ押した。

「では、事実を扱う前に、誰がその事実を生きてきたのかを見た方がいい」

「君まで私を止めるのか」

「止めてはいない。急がせないだけ」

「急いでいるように見えるか」

「あなたは日記がないと、自分が崩れる。だから、紙の代わりに町の記録を集め始めている。交番へ行ったのも、日記を取り戻すためというより、なくなったことを公的な出来事にしたかったからでしょう」

言葉が胸に刺さった。否定しようとして、できなかった。私は家の中だけで起きたことを、交番の机に載せた。そこに載せれば、家族の沈黙から切り離せると思ったのかもしれない。

「私は、記録を残したいだけだ」

「残すことと、残ったものに従うことは違うよ」

「君は昔から、そうやって人の言葉を別の形にする」

「あなたは昔から、言葉を帳面の中へ押し込む」

綾は立ち上がり、店の奥の棚から薄いノートを抜いた。表紙には、町の古い地図が挟まっている。

「この年の夏祭りの翌日だけ、回覧板が一日遅れている」

「一日?」

「祭りの翌朝に回るはずの連絡が、昼過ぎになっている。しかも、最初の家で止まった形跡がある。次の家へ渡した名前が、いつもの順番と違う」

「名簿は」

「名簿には空欄がある」

「事故のことは書いていないのか」

「書いてある。ただし、事故とは書いていない」

綾はノートを開き、余白の鉛筆書きを示した。

階段付近、救急車。町内会長対応。

それだけだった。

「片山が対応したのか」

「記録上はね」

「誰が倒れた」

「そこまでは、この紙にはない」

「なら、何の手がかりになる」

「書かれていないことが、同じ日に何度も現れるから」

綾は別の紙を重ねた。祭りの出店一覧。翌年の名簿。古い地図。どれも単独では、ただの生活の記録に見えた。だが三枚を並べると、祭りの夜に使われた裏道と、階段へ続く細い通路が浮かび上がった。

「ここは、今も通れるのか」

「通れる。ただ、夜は暗い。街灯が一本しかない」

「三十年前も?」

「三十年前は、もっと暗かった」

私は地図の細い線を指でなぞった。紙の上の道が、記憶の中のどこかへつながっていく。提灯の光。湿った石段。遠ざかる太鼓。誰かの声。腕をつかむ音。

その先に、何かがある。

だが、思い出そうとすると、頭の中で扉が閉まった。私は眼鏡を外した。レンズを拭く手が、交番にいたときより強く震えていた。

「義雄」

綾が私の名を呼んだ。

「まだ、全部を思い出さなくていい」

「思い出せないんじゃない」

「では?」

「思い出してはいけないと、どこかで思っている」

綾は否定しなかった。ノートの間から、赤い紙片を一枚取り出した。三十年前の夏祭りで配られた団扇の一部らしく、端が日に焼けている。中央に、提灯を持った子どもたちの絵が残っていた。

「これを、町内の誰かが取っておいた」

「誰が」

「名前は裏にある。でも今は見ない方がいい」

「どうして」

「名前を見ると、人を探し始めるから」

綾は紙片をノートに戻した。

「まず、記録の欠け方を見て。名簿の空欄、回覧板の遅れ、事故の書かれ方。それから、自分の日記に何が書かれていなかったかを考える。書かれたことだけを追うと、あなたはまた同じ場所へ戻る」

「同じ場所?」

「自分だけを裁く場所」

店の外で、自転車のベルが鳴った。夕方の客が一人、入口の前を通り過ぎる。ガラス戸に反射した空が、薄い橙色に変わっていた。

綾は封筒を一つだけ私に渡した。

「今日はこれだけ」

「持って帰れというのか」

「読むなら、家でなくここで読んで。家では、誰かの気配を気にしすぎるから」

「君は、家族を疑っているのか」

「疑うのは人ではなく、記録の方にして」

私は封筒を受け取った。紙は乾いているのに、指先へ古い湿気が移るようだった。

書店を出ると、坂の下から盆踊りの太鼓が聞こえてきた。まだ練習なのか、一定の間隔で、どん、どん、と響いている。日が傾き、住宅の壁が昼の熱を抱えたまま赤く染まっていた。

私は坂を上りながら、封筒を胸元に押し当てた。中身は薄い。紙が数枚しか入っていないことは、手の重さで分かる。それでも、空になった本棚より重かった。

家に着くころには、空の棚が待っている。

私はまだ、日記を取り戻すつもりでいた。だが坂を上る足は、別のものへ近づいていた。三十年前の夏祭りの夜。光と音の後に残った、あの静けさへ。

← 横にスクロールして読み進められます

交番の机、書店の紙の匂い - 空白の跡 - 誰でも作家life