第1話 赤い花束と空の段

退職祝いの食卓は、湯気の立つ味噌汁と赤い花束で、どうにか形を保っていた。
花束は工場の同僚たちから贈られたものだった。深紅の百合と、名前を知らない小さな花が何本か混じっている。包み紙の底から水が滲まないよう、私は帰宅してすぐ花瓶に移し、食卓から少し離れた窓際へ置いた。西日の残る窓に花の赤が映り、ガラスの向こうの坂道まで赤く染まって見えた。
「そんなに端へ置くと、倒れたとき危ないわよ」
澄江が言った。
「扇風機の風が直接当たらない場所を選んだんだ。花が傷むから」
「花の心配をする前に、自分の襟を見たら」
私は襟元に手をやった。工場から戻って着替えた白いシャツは、首のあたりだけ汗で肌に貼りついていた。退職の日だというのに、最後まで総務課の書類を確認していたせいで、背広の下に熱がこもっている。
美咲が向かいの席で、小さく息を吐いた。
「お父さんは、最後までそうなんだね」
「そう、というのは?」
「花の置き場所と、シャツの皺と、味噌汁の温度。全部、間違ってないか確認しないと気が済まない」
「間違っていたら、あとで困るだろう」
「今日くらい、困ってもいいじゃない」
美咲はそう言って、私の茶碗に惣菜を少し取り分けた。帰省するたび、彼女は台所の動線を勝手に変え、使い終わったものをすぐ洗い、必要のないものを捨てていく。澄江が長く使ってきた布巾でさえ、端がほつれていると新しいものに替えようとする。
そのくせ、母が古い布巾を流しの横に戻すと、何も言わずに使い続ける。
「お父さん、記念品は開けた?」
「まだだ」
「どうして?」
「食事の前に開けるものではないだろう」
「退職祝いの記念品なんだから、いつ開けてもいいと思うけど」
「開ける時刻を決めておいた方が、あとで記録しやすい」
美咲は箸を置いた。澄江が味噌汁の椀を持ち上げる音がした。箸の先が茶碗に触れ、かすかな金属音のように響く。
「記録しやすいって、何を記録するの」
「今日のことだよ。退職した日だからな」
「もう記録したでしょう」
美咲は、私の書斎を見た。
その視線はほんの一瞬だったが、私は気づいた。美咲は昔から、見てはいけないものを見るときほど、先に別の場所へ目を向ける。窓、時計、湯呑み、誰かの手元。直接見ないことで、見たことを無かったことにしようとする癖がある。
「毎日書いている」
「書くことが、そんなに大事?」
「大事だよ」
私は即座に答えていた。
「その日のことを残さなければ、あとで何があったか分からなくなる。人の記憶は都合よく変わる。自分にとって都合の悪いことほど、薄くなる。書いたものだけが、後から自分を止めることができる」
「止める?」
「間違ったことを、間違っていなかったことにしないために」
言ってから、食卓に少し長い沈黙が落ちた。
澄江は何も言わず、私の味噌汁に湯を足した。冷めていると思ったのかもしれない。私はその手元を見ていた。結婚して三十八年、澄江は私の食事に何かを足すとき、必ず一度だけ私の顔を見る。今日は見なかった。
窓の外で、洗濯物が風に揺れた。二世帯住宅の二階から、隣家の子どもが走る音が伝わってくる。町は工場があった頃よりずっと静かになったが、夕方になると、どこかの家から必ず生活の音が出てくる。食器を洗う音、戸を閉める音、老人が咳をする音。人がまだここにいることを、音だけが証明していた。
私は食事を終えた。澄江が「置いておけばいい」と言ったが、茶碗を流しへ運んだ。いつものことだった。
居間から書斎までは、廊下を六歩進めば着く。六歩目で、私は必ず一度立ち止まる。書斎の戸が半開きなら閉め、閉まっていれば、取っ手に手を触れてから開ける。それも長年の習慣だった。
その夜、五歩目で足が止まった。
背中に、居間の扇風機のぬるい風が触れていた。台所からは、澄江が茶碗を並べ直す乾いた音が聞こえる。美咲が花瓶の水を確認しているらしく、ガラスの触れ合う音もした。
書斎の中は、見慣れた部屋のはずだった。
だが、ひどく軽かった。
明かりをつける。机、椅子、古い本棚、窓際の小さな鉢植え。配置は何も変わっていない。万年筆は机の右上、眼鏡拭きはその隣、読みかけの回覧板は椅子の背に掛けてある。
なのに、部屋の中央から何かが抜けていた。
私は本棚へ歩いた。
三十年間、日記用のノートを収めていた一段だけが空になっていた。
埃は薄く、四角く残っていた。棚板の上には、ノートの底面が長い年月をかけて押しつけていた跡が並び、木目の一部だけが白く浮いている。背表紙が触れていた本棚の奥には、濃い影が帯のように残っていた。
空白は、何もない場所ではなかった。
そこにあったものの重さを、形だけ残していた。
私は棚の縁を指でなぞった。普段なら、背表紙の高さを揃えるために使う指先だった。何もない空気を撫で、爪が木に触れる。三十年分の日付と、天気と、仕事の記録と、書きかけて消した文章が、指先から逃げていくようだった。
「……何だ、これは」
声に出したが、返事はない。
机の上に、白い紙が一枚あった。
紙は、私の使っている便箋ではなかった。罫線もなく、四つ折りにされた跡もない。わざとらしいほど机の端と平行に置かれている。私はまず紙の位置を直そうと手を伸ばし、途中で止めた。触れる前から、そこに書かれたものが自分の生活の外側にあると分かった。
紙には、黒いボールペンで一行だけ書かれていた。
見ないで、あの夜のことはまだ終わっていない。
文字を読み終えたあとも、私は紙から目を離せなかった。
誰の字か、すぐには判断できなかった。けれど、最後の「い」の払い方に、美咲の字に似た癖があった。澄江の字なら、もっと文字の間隔が狭い。私の字なら、ここまで強く紙を押さない。
眼鏡を外して拭いた。レンズに曇りはなかった。それでも、もう一度拭いた。
書斎の戸口で、澄江の気配が止まった。
「日記がない」
私は振り返らずに言った。
「そう」
「知っていたのか」
「何を?」
「日記が消えていることを」
澄江は答えなかった。代わりに、廊下の明かりが少し狭くなった。戸を閉めるつもりなのだろう。私は振り返り、彼女の手元を見た。布巾を握っている。濡れてはいないのに、指の関節だけが白くなっていた。
「三十年分だぞ」
「分かっているわ」
「分かっているなら、どうして何も言わない」
「あなたが、何を聞きたいのか分からないから」
「誰が持っていったのかを聞いている」
「家の中にいる人間が、家の中のものを持っていっただけでしょう」
「それは答えになっていない」
「あなたはいつも、答えを一つに決めたがるわね」
澄江は書斎へ入らなかった。戸口に立ったまま、居間の方を見た。赤い花束が廊下の向こうに見える。花弁の先に水滴が残り、電灯の下で血のように濃く光っていた。
「日記は、物じゃない」
私は言った。
「私が三十年、毎日書いてきたものだ。仕事も、家のことも、君のことも、美咲たちのことも書いてある。誰かが勝手に持ち出していいものではない」
「勝手に書いたのは、あなたでしょう」
声は静かだった。
「家族のことを、家族に何も言わずに書いた。何を書いたのかも見せなかった。日記が大事だというなら、そこに書かれた人間にも、知る権利があるんじゃないの」
「だから持ち去っていいのか」
「そうは言っていない」
「では何だ。捨てたのか。燃やしたのか」
「探すのなら、散らかさないで」
澄江はそれだけ言い、戸棚を閉めた。戸板が枠に当たる音が、やけに大きく響いた。
私は紙を持ったまま、彼女を追おうとした。だが、廊下の奥から美咲が現れた。無地のトートバッグを肩に掛け、玄関脇の靴を見ていた。私たちの会話を聞いていたのかどうかは分からない。
美咲はしゃがみ込み、揃っていた靴の向きをさらに直した。右の靴の先を二センチ動かし、左の踵を壁に寄せる。それから立ち上がった。
「今は触らないほうがいい」
「何に対して言っている」
「日記に」
「お前が持っていったのか」
美咲は私の顔ではなく、紙を持つ手を見た。
「その紙、誰が書いた?」
「質問しているのは私だ」
「紙を見せて」
「答えろ」
「先に紙を見せて。読めば分かることを、声に出して確認する必要はないでしょう」
私は紙を渡さなかった。美咲の目が、初めて私の目に向いた。子どもの頃、熱を出した母の枕元で、泣く代わりに水差しの位置を直していた目だった。冷静に見えるが、その奥には、崩れないように力を込めている感じがあった。
「お父さん」
「何だ」
「記録を取り戻せば、全部元に戻ると思ってる?」
「戻すつもりはない。確かめるだけだ」
「確かめたあと、どうするの」
「事実なら、事実として扱う」
「それで母さんが壊れても?」
扇風機の首がゆっくり左右に振れ、風が美咲の髪を揺らした。私は答えられなかった。
「お父さんは、ずっと記録を盾にしてきた。仕事でもそうだった。誰が何を言ったか、いつ何をしたか、全部書いておけば、自分は間違っていない場所に立てると思っていた。でも、書いた人間が正しいとは限らない。残した人間が、責任を果たしたことになるわけでもない」
「私が逃げたと言いたいのか」
「そうは言ってない」
「同じことだ」
「違う。逃げたなら、まだ自分で逃げたと認められる。でもお父さんは、書くことで逃げたことを、記録を残したという仕事に置き換えた。だから、今さら日記を取り戻しても、そこに書いてある言葉だけで自分を裁こうとする。母さんが何を背負ってきたかも見ないまま」
美咲の声は低かった。怒鳴ってはいない。それなのに、工場の機械音より耳に残った。
澄江が台所から出てきた。手には、使い終えた布巾があった。彼女は私たちの間に立つことをせず、食卓の上の湯呑みを一つずつ片づけ始めた。
「美咲」
「母さんは黙ってて」
「黙っているのは、あなたでしょう」
美咲の手が止まった。
澄江は湯呑みを重ねた。二つ目を一つ目の上に置くとき、ほんのわずかに縁が触れた。
「お父さんは、書いたことを忘れないために日記をつけてきた。あなたは、忘れさせるために持っていった。どちらも同じくらい乱暴よ」
「じゃあ、母さんはどうすればいいの」
「何もしなくていい」
「何もしないまま、また父さんが書くのを待つの?」
「書くかどうかは、あの人のことよ」
「母さんのことが書かれているのに?」
澄江は初めて美咲を見た。
「私のことは、私が知っているわ」
その言葉は、責める響きも、慰める響きも持たなかった。ただ長く使われた包丁のように、刃先だけが鈍く光っていた。
私は紙を握り直した。紙の端が指に食い込む。
「君たちは、何を知っている」
澄江は答えなかった。
美咲は玄関へ戻り、トートバッグの肩紐を掛け直した。
「今夜は、もう触らないで」
「明日は?」
「明日も」
「いつまでだ」
美咲は靴を見た。きちんと揃え直したばかりの靴を、今度は動かさなかった。
「お父さんが、自分のために探すのをやめるまで」
それだけ言って、彼女は居間へ戻った。
私は書斎に残った。
古い鍵が、机の上で小さく光っていた。記念品箱から出てきたものだ。どこの鍵かは分からない。書斎の机の引き出しにも、床下収納にも合う気がしなかった。手に取ると、錆のざらつきが掌に残った。
窓の外では、遠くの公園から盆踊りの太鼓が聞こえ始めていた。まだ本番ではないのか、一定の間隔で、どん、どん、と鳴る。坂の下の家々から話し声が上がり、洗濯物を取り込む竿の音が重なった。
私は本棚の前に戻った。
空の段には、ノートの底が押しつけていた四角い跡が残っている。そこへ指を置く。木は昼の熱をわずかに含み、ぬるかった。
三十年分の日記が消えた。
だが、本当に消えたのは日記だけなのか。
私は紙を机に戻した。位置を揃えようとして、やめた。白い紙は机の端から少しずれていた。そのずれを直すことが、今は誰かの言葉を勝手に整えることのように思えた。
居間の花束が、扇風機の風に揺れた。
赤い花はまだ水を吸っている。祝いの夜は終わっていない。けれど私の中では、三十年前の夏のどこかで止まっていた時間が、別の音を立てて動き始めていた。
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