第9話 封じ座敷の鍵

金具は、驚くほど静かに外れた。
扉の内側から、冷えた空気が押し返してくる。廊下に溜まっていた湿気とは違う冷たさだった。肌を撫でるのではなく、服の隙間から身体の内側へ入り込んでくる。
私はすぐには扉を開かなかった。
鍵を回した指先に、薄い油の匂いが残っている。帳場簿の紙に挟まれていたときから消えなかった匂いだ。古い金属の匂いに混じって、濡れた土のような臭いがした。
背後に父がいる。
振り返らなくても分かった。父は、私が戸を開けるところを見ている。止めるなら、もっと早く止められたはずなのに、今は何も言わない。何も言えないのかもしれない。
「父さん」
私は鍵を抜かなかった。
「まだ、閉じられる」
「なら、閉じろ」
「何を隠しているの」
「隠しているんじゃない」
「じゃあ、なぜここを封じたの」
返事がない。
廊下の向こうで、床板が一枚鳴った。私たち以外の誰かが歩いた音だった。父の足音は歩幅が大きく、板の中央を踏む。今の音は、端へ寄り、鳴る場所を避けている。家の構造を知っている者の歩き方だった。
私は扉を開けた。
蝶番は軋まなかった。長く閉じられていた部屋のほうが、開かれることを知っていたように、内側へ静かに動いた。
懐中電灯を点ける。
白い光が、畳の上を滑った。
仏具。護符。古い提灯。黒ずんだ数珠。鼻緒の切れた草履。どれも乱雑に置かれてはいなかった。一定の間隔で並べられ、向きまで揃えられている。物をしまったというより、誰かが部屋の中に形を作っていた。
その形の中心に、丸い印があった。
墨で描かれた円の中に、一本の縦線。祖母の帳面に何度も現れた印と同じだった。
私は一歩、畳へ足を乗せた。
足裏に、湿った冷たさが伝わる。畳は乾いているはずなのに、底から水が上がってくるようだった。
「入るな」
父が背後で言った。
「もう入ったよ」
「出てこい。今すぐだ」
「何があるか見てからにする」
「真尋、おまえは何も知らない。知らないままの人間が、こういう場所へ入っていいものじゃない」
「知らないままにしてきたのは、私じゃない」
「おまえを守るためだ」
「その言葉を使えば、何をしても許されると思ってるの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味なの」
父は答えなかった。
私は部屋の奥へ進んだ。仏間の線香の匂いは、ここまで届いていない。代わりに、湿った木と古い布、紙が水分を含んだときの甘い臭いが鼻につく。息を吸うたび、喉の奥に薄い膜が張った。
壁際の箱には、紙札が貼られていた。札の墨は薄れているのに、端の部分だけが新しく濡れている。誰かが最近触れたのだろうか。
私は箱を開けなかった。
開けなくても、床に落ちているものだけで十分だった。
切れた鼻緒。結び直された布。黒い紐のついた木札。折り畳まれた護符。どれも祖母の遺品箱にあったものと、同じ手つきを残している。揃える、包む、閉じる。けれどここでは、その整い方が祈りよりも拘束に近く見えた。
「父さん」
「何だ」
「この草履は、誰のもの?」
「知らん」
「全部?」
「古い道具だ」
「鼻緒が切れたまま置かれている。直そうとした糸も残っている。祖母ちゃんの布と同じ糸だよ」
「似た糸はいくらでもある」
「縫い方も同じ」
父は黙った。
私はしゃがみ込み、茶色い草履の鼻緒を照らした。根元に白い糸が何重にも重ねられている。表からは目立たないように、裏側へ糸を溜める縫い方。祖母が私の巾着を直したときと同じだった。
縫い目の一部が、途中で切れている。
結び目を作る直前に、誰かが手を離したような切れ方だった。
「この草履、透さんの?」
父の呼吸が浅くなった。
「その名前を呼ぶな」
「どうして?」
「呼べば、戻ってくる」
「もう戻ってきてるんじゃないの」
父は強い声を出そうとした。だが、声は途中で崩れた。
「透は、村を離れた」
「自分から?」
「そうだ」
「本当に?」
「そういうことになっている」
私は草履を見たまま言った。
「父さんは、嘘をつくと返事が早いね」
父の足音が一つ、畳の手前で止まった。
「何を言っている」
「さっきから同じでしょう。知らない、昔のことだ、自分から出ていった。私が質問する前に、答えを用意している。用意しているのに、日記の場所だけは言わない」
「日記などない」
「なら、この部屋を見せても困らないはずだよ」
「見せているだろう」
「違う。父さんは私の背中しか見ていない。私が何を見ているかは、一度も見ようとしない」
父は長く黙った。
私は懐中電灯を、部屋の奥へ向けた。紙札を貼られた小さな戸口がある。封じ座敷の本当の奥は、そこなのだろう。戸口の下から、細い湿気が流れ出していた。
その向こうに、井戸の匂いがする。
地面の底で長く腐った木と、水に沈んだ石の匂い。
「奥に何があるの」
「何もない」
「それなら開けて」
「駄目だ」
「どうして」
「開ければ、戻れなくなる」
「戻れないのは、私?」
父は答えなかった。
私は戸口へ近づいた。畳の上には、白い護符が何枚も置かれている。その一枚だけ、端が折れていた。祖母なら、必ず直してから置くはずだった。
私は腰を屈め、護符に触れた。
指先に熱が走った。
仏間の数珠とは違う熱だった。あれは内部から滲む熱だったが、これは触れた瞬間に皮膚を刺すような熱だった。私は反射的に手を離した。
そのとき、部屋の隅で数珠が一つ、転がった。
誰も触れていない。
黒い珠が畳の上をゆっくり進み、私の足元で止まる。
父が息を呑んだ。
「見るな」
「何を?」
「拾うな」
「父さんは、これが何か知っている」
「真尋」
「知っているから、私に触らせたくない」
私は数珠を拾った。
珠は熱かった。けれど、握っているうちに熱の中から別の感触が伝わってきた。誰かの手の汗のような湿り気。長い時間、握りしめられていた物の重さ。
その数珠の房に、細い布が絡んでいる。
古布と同じ色だった。
「祖母ちゃんの?」
父は答えない。
「それとも透さんの?」
「返せ」
「何を隠したの」
「返せと言っている」
「父さんは、祖母ちゃんを守っているの? それとも自分を守っているの?」
父の声が荒くなった。
「家を守っている!」
その声が封じ座敷の壁を震わせた。紙札が何枚か揺れ、護符の端が畳へ落ちる。
父は自分の声に驚いたように口を閉じた。
「家を守らなければ、何も残らない」
「何も残らないって、どういうこと?」
「この家は、村の人間から頼られてきた。死者送りをして、病や悪い気配を外へ出して、葬式の段取りをして、困った家の代わりに弔いを引き受けてきた。そうやって黒瀬家はここに残った。おまえが簡単に罪だと言えるものだけで、家が続いてきたわけじゃない」
「続いたから、正しいの?」
「正しいかどうかの話じゃない」
「じゃあ何の話?」
「持ちこたえる話だ。何かを壊さずに、次の日へ渡す話だ。誰かが泥を被らなければ、家も村も一緒に崩れる。婆さんはそれを知っていた。俺も知っていた。栄さんも知っていた。だから透を外へ出した」
「透さんは泥だったの?」
父は黙った。
「あなたたちにとっては、透さんの人生が、家を持ちこたえさせるための泥だったんでしょう」
「違う」
「何が違うの」
「透は危なかった。あのまま村に置けば、誰かに殺されていたかもしれない。婆さんは、それを避けるために――」
「そのために、本人へ説明もせず、帰る道も閉じた?」
「説明しても聞かなかった」
「聞かせなかったんでしょう」
父は拳を握った。
「透は、井戸の夜からおかしくなった。自分が見たものを誰彼かまわず話そうとした。井戸の中に人がいる、声がする、蓋の下から足音が聞こえる。そんな話を村中でしていた。皆、怖がった。おまえには分からんだろうが、村で一度、怖がられた人間は、何をしても元へ戻れない」
「だから、怖がられた人を消した」
「そうじゃない!」
「同じだよ」
父の顔が歪んだ。
私は数珠を握ったまま、言葉を続けた。
「祖母ちゃんは、透さんを助けたかったのかもしれない。父さんも、死なせたくなかったのかもしれない。でも、助けるために本人の口を塞いで、名前を消して、いなかったことにしたなら、それは助けたとは言えない。誰かのためにしたことは、された側が奪われたと感じた時点で、もう守りじゃない」
「おまえに何が分かる」
「分からないから見てる」
「七年前、あの夜におまえがいたら、同じことを言えたのか。井戸の底から声がして、透が下へ引かれて、婆さんが手を離せと言って、村の人間が皆、後ろで見ていたら。おまえは、あいつの手を最後まで掴めたのか」
私は返事ができなかった。
父の問いは、私の正しさを試すためのものではなかった。自分ができなかったことを、私にもできないと思いたい人間の声だった。
井戸の暗さを私は知っている。蓋の隙間から覗いたこともないのに、底のない場所を想像しただけで足が竦む。誰かの腕がそこへ落ち、濡れた指が縁を探していたなら、私は掴めただろうか。

分からない。
だからこそ、分からないまま決めたことを、正しかったとは言えなかった。
「できたかどうかは分からない」
私は言った。
「でも、できなかったなら、できなかったと記録する。怖くて手を離したなら、怖くて手を離したと残す。それを『村を離れた』『素行が悪かった』『昔のことだ』に変えるのは、失敗した人間の態度じゃない。なかったことにしようとする人間の態度だよ」
父は目を伏せた。
そのとき、戸口の向こうで足音がした。
一つ。
間を置いて、もう一つ。
さっきより近い。
紙札の向こうから、誰かが歩いてくる。戸口が開いていないのに、音だけが部屋の中へ入り込んでくる。
父が私の前へ出た。
「出ろ」
「父さん」
「今すぐ出ろ。ここは、おまえが見ていい場所じゃない」
「見てはいけないものを残したのは祖母ちゃんでしょう」
「トキは、残したんじゃない。閉じたんだ」
「閉じたものは、いつか開く」
「だから開けるなと言っている」
「誰かが開けるまで、ずっと閉じておくつもりだったの?」
父は私を見た。
「七回忌に、婆さんは透をもう一度送るつもりだった」
「送る?」
「村の外へ出すだけじゃない。あいつが見たものを、二度と戻ってこられない場所へ送るつもりだった」
「それは、透さんを?」
「違う。あいつの中に残ったものをだ」
「透さんと、それを分けられるの?」
「分けなければならなかった」
「誰が決めたの」
父は答えなかった。
部屋の奥で、紙札が一枚落ちた。
その音と同時に、仏間のほうから数珠の珠が連続して鳴った。ひとつ、またひとつ。誰かが床へ落としているように、一定の間隔で音が続く。
父が振り返った。
私は戸口へ懐中電灯を向けた。
紙札の隙間から、暗い空間が見えている。戸の向こうに部屋があるはずなのに、光が吸われて戻ってこない。そこだけが、家の構造から外れているようだった。
「父さん、日記はどこ」
「ここだ」
父が言った。
「ここにある」
私は父を見た。
「どこに?」
父は、部屋の中央にある布包みを指した。
白い布の結び目は、右を向いていた。祖母の癖だ。布の端には、泥が付いている。昨夜まで誰も触れていなかったはずなのに、包みの表面だけが湿っていた。
私はしゃがみ込み、結び目へ手を伸ばした。
「やめろ」
「父さんは、私に見せるつもりだったの?」
「見せるつもりはなかった。だが、もう隠しても意味がない」
「どういうこと?」
「おまえが鍵を持って、ここまで来た時点で、婆さんの決めた順番は崩れた」
「祖母ちゃんが、私をここへ来させたの?」
「そうは言っていない」
「でも、鍵を帳場簿に挟んだのは祖母ちゃんでしょう」
「知らん」
「父さんは、さっきから知らないと言うときだけ、私の目を見ない」
父は顔を背けた。
私は結び目を解いた。
布がほどける音は小さかった。けれど、その音のあと、家の内側から蝉の声が途切れた。夜なのだから蝉は鳴いていない。それでも、昼から続いていた遠い気配が一斉に消えたように感じた。
包みの中には、古い冊子があった。
表紙は濃い茶色に変色している。角が擦れ、何度も開かれた跡がある。紙の端は柔らかく、指で触れると崩れそうだった。
祖母の日記だった。
私は最初の頁を開いた。
七年前、七月十三日。
「透、戻る。戻るもの、ひとつとは限らず」
次の頁。
「井戸の蓋、閉じる。声、下より」
さらに次の頁。
「手を離す。宗一、栄、見ている」
筆圧が途中で乱れていた。文字の一部は黒く塗り潰され、その上から別の言葉が重ねられている。
「来訪者」
「帰れぬ者」
「井戸の外側」
「家に置けない人」
私はページをめくった。
どの呼び方も、影島透を指しているように見えた。けれど祖母は、名前を書くたびに消していた。名前を残せば、帰る道ができると信じていたのか。それとも、名前を書いた責任を自分で背負うのが怖かったのか。
「祖母ちゃんは、透さんを助けようとした」
私が言うと、父は低く返した。
「そうだ」
「でも、追い出した」
「そうだ」
「それは、助けたと言わない」
「分かっている」
その答えは、あまりに弱かった。
私は顔を上げた。
「分かっているなら、どうして七年も黙っていたの」
父は膝を折り、畳へ手をついた。
「分かっていても、言えないことがある」
「言えないんじゃなくて、言わなかったんでしょう」
「言えば、家が終わる」
「終わればいい」
父の顔が上がった。
「この家が続くために、誰かの人生を終わらせたなら、続かないほうがいい」
言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。家を壊したいわけではない。父も、祖母も、叔母たちも、私にとっては家族だった。床板の冷たさも、台所の匂いも、祖母の膝の硬さも、私の記憶の一部だった。
それでも、その記憶を守るために誰かの痛みを消すことはできなかった。
日記の最後の頁には、草履の図があった。
二つの草履が、戸口の前に置かれている。
片方は外へ向き、もう片方は家の内側へ向いていた。
その下に、祖母の字で一行だけ書かれている。
「帰る道を、ひとつ残す」
私は頁の角を撫でた。
「祖母ちゃんは、最初から透さんを戻すつもりだったの?」
「分からん」
父は答えた。
「七回忌に、草履を揃え直せと書いてあった。透が戻れば、家の中に残ったものを外へ送る。そのための準備だったと思う」
「透さんを、死者として?」
父は黙った。
その沈黙は肯定に近かった。
私は日記を閉じた。
背後で、襖が鳴った。
誰も触れていないのに、廊下側の襖が数センチだけ開いている。隙間から見える廊下には、誰もいなかった。けれど、足音が二つ、遠ざかっていく。
ひとつは重く、引きずるような音。
もうひとつは、私の足音に似ていた。
「父さん」
私は立ち上がった。
「今の、聞こえた?」
「聞こえない」
「嘘」
「聞こえないことにしろ」
「それはもうできない」
私は日記を胸へ抱えた。
そのとき、部屋の隅に置かれていた草履袋が、わずかに動いた。
最初は、光の加減だと思った。けれど袋は畳の目に沿って、ほんの少しだけ私のほうへ寄っている。紐の結び目がほどけ、袋の口から、濡れた草履の先が覗いていた。
父が息を呑んだ。
「触るな」
私は手を伸ばさなかった。
袋の中で、何かがゆっくり向きを変えた。
布の擦れる音。
鼻緒を撫でる音。
そして、戸口の暗がりから低い声が落ちた。
「まだ、閉じるつもりか」
父が私の前へ出た。
私は日記の最後の頁をもう一度見た。
『帰る道を、ひとつ残す』
その意味が、初めて少しだけ分かった気がした。
祖母は帰路を閉じたのではない。誰かが帰れるように、家の中へ細い道を残した。その道を、七年間、誰も見ようとしなかった。
私は草履袋から目を離した。
日記を手帳の間へ挟み、古布をその上に重ねる。父が何かを言いかけたが、私は聞かなかった。
部屋の外で、足音が一つ増えた。
私のものではない。
父のものでもない。
家の奥から、濡れた土の匂いが広がってくる。
私は戸口へ向かって歩き出した。
背後で、草履袋がもう一度だけ擦れた。
振り返らなかった。
振り返れば、誰かが中の草履を揃え直している姿を見てしまう気がした。
それが生きた人間の手なのか、死者の手なのか、私にはまだ分からない。
ただ、左右ぴたりと揃えられた草履だけが、私の帰る方向を知っていた。
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