第8話 遺品箱の底

翌朝、台所では誰も草履の話をしなかった。
叔母は流しに立ち、昨夜の茶碗を一枚ずつ洗っていた。水道の水は細く、陶器の縁に当たるたび、硬い音を返した。宗一は座卓の端で法要の後片づけを書き込んでいる。筆先が紙を擦る音だけが、食器の触れ合う音の隙間へ入り込んでいた。
私は冷えた麦茶のグラスを両手で包んでいた。汗をかいたガラスが掌を濡らす。何度拭いても、すぐに新しい水滴が浮いた。
縁側には、まだ草履があった。
朝の光に照らされれば、ただ古びた履物に見えるはずだった。編み目に入り込んだ泥も、擦り切れた鼻緒も、夜の灯りが作った不気味な影から解放されるはずだった。
けれど、誰も縁側へ近づかなかった。
叔母は洗った茶碗を戸棚へ戻すとき、わざわざ草履から遠い側へ身体を寄せた。宗一は後片づけの帳面を持っているのに、縁側の灯りを消そうとはしない。灯りを消せば、草履が見えなくなる。そのはずなのに、見えなくすることを誰も選ばなかった。
「お父さん」
呼ぶと、宗一は筆を止めた。
「何だ」
「草履、まだあるね」
「見れば分かる」
「昨夜、片づけるって言ってたよね」
「朝になったらと言っただけだ」
「朝になったのに、どうしてそのままなの」
宗一は答えず、帳面の頁をめくった。紙の端が指に触れるたび、乾いた音がする。その動作があまりに規則正しいので、私は逆に、父が文字を読んでいないことに気づいた。
「父さん」
「朝飯の前に、余計な話をするな」
「余計かどうかを決めるのは、父さん?」
宗一は顔を上げた。
目の下に、薄い影ができている。眠っていないのだろう。けれど、眠れなかった理由を訊くまでもなかった。昨夜の草履と、縁側の下で止まった足音。それらは父の中にも残っている。
「おまえは東京へ戻るんだろう」
「明日には」
「なら、今日のうちに荷物をまとめておけ」
「話を逸らさないで」
「逸らしていない。おまえの生活がある。ここのことに関われば、戻れなくなる」
「戻れなくなるのは、東京へ?」
「そうじゃない」
宗一はそこで口を閉じた。
私は彼の手元を見た。帳面の上に置かれた右手の親指が、紙の同じ場所を何度も撫でている。祖母が布の端を確かめるときと、よく似た動きだった。
「祖母ちゃんの遺品を見てもいい?」
「何を今さら」
「遺品箱が納戸にあるでしょう」
「もう整理した」
「昨日、父さんは帳面とか薬箱なら見ておけって言った」
「必要なものがあれば、だ」
「必要かどうかは、見てから決める」
「真尋」
声に圧が混じった。家の中の空気を押し戻すための、父の声だった。
私はグラスを置いた。置いた場所が少しずれたので、指先でゆっくりと直す。底の輪が、座卓の表面に薄く残った。
「私が見たら困るものがあるの?」
父はすぐに答えなかった。
台所の叔母が、茶碗を洗う手を止めた。水だけが流れ続けている。誰もこちらを見ていないのに、聞いていることだけは分かった。
「困るものなんかない」
宗一はそう言った。
「なら、見せて」
「勝手にしろ」
投げ出すように言ったが、その声には許可の響きがなかった。見つけられないことを願う人が、探す場所だけを指定せずに放った言葉だった。
私は座敷へ向かった。
廊下へ出た途端、家の中の温度が一度下がった。朝の陽射しは強いのに、床板には夜の冷たさが残っている。歩くたび、板が小さく鳴った。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
祖母の部屋の前で、四枚目が軋んだ。
そのあとに、遅れてもう一つ鳴った。
私は足を止めた。
台所から、水の流れる音が聞こえる。叔母はまだ洗い物をしている。座敷では父の筆が紙を擦っている。家の中には、私以外にも人がいる。けれど、今の音はそのどちらの歩き方とも違った。
振り返ると、廊下には誰もいなかった。
ただ、縁側の灯りが朝の光の中でまだ点いていた。灯りの下の草履は、こちらを向いている。
昨夜は庭のほうへ向いていたはずだった。
私は記憶を確かめるため、何度も目を細めた。見間違いかもしれない。昨夜の恐怖が、向きを変えたように思わせているだけかもしれない。
けれど、草履の先は確かに家の中へ向いていた。
私は視線を逸らし、納戸へ入った。
祖母の遺品箱は、棚の下段に置かれていた。木箱の表面には薄い埃が積もっている。誰かが触れた跡はあるのに、箱全体を動かした形跡はない。埃の上に、指先ほどの細い筋が一本だけ残っていた。
私はしゃがみ込み、箱を手前へ引いた。
底板が、わずかに鳴った。
蓋を開けると、古い布と樟脳の匂いが立ち上った。祖母の部屋にあった匂いだった。乾いた薬草、木の箱、日なたで干した布。その中に、昨夜から嗅ぎ慣れてしまった土と水の匂いが混じっている。
中身は、きちんと揃えられていた。
裁縫箱。
数珠袋。
古いお守り。
子どものころに祖母が縫ってくれた小さな巾着。
そして、薄い布に包まれた何冊かの帳面。
私はそれらを一つずつ取り出し、畳の上へ並べた。物を並べると、少しだけ呼吸がしやすくなる。散らばったものに順番を与えれば、起きたことにも順番が戻ってくるような気がした。
けれど、祖母の箱の中では、順番そのものが誰かの意図で作られていた。
布の包みを開くと、最初に古い裁縫箱が出てきた。蓋の中央に小さな傷がある。私は子どものころ、この箱を祖母の膝の上で何度も開けた。
「針は数えたかい」
祖母はいつも、私が中身を覗き込むたびにそう言った。
「数えた。五本」
「それは見えている分だよ」
「見えない針もあるの?」
「見えないものを、あると思って探すのが大事なんだ」
当時は、祖母が冗談を言っているのだと思っていた。今になって、その言葉が指先へ戻ってくる。
私は裁縫箱の中身を全部出した。
小さな鋏、指ぬき、黒糸、茶糸、蝋引き糸。針山には何本かの針が残っている。糸くずはほとんどなかった。祖母は、針をしまうとき必ず糸の端を切り揃えた。何かを使ったあとに乱れが残ることを嫌う人だった。
底に、折り畳まれた布きれがあった。
古い手拭いを細く裂いたものだ。茶色く変色し、ところどころ硬くなっている。広げると、片側に何度も縫い直した跡があった。
鼻緒を結び直した布。
私は縫い目を指でなぞった。
一度ではない。二度でもない。ほどいて、締めて、切れて、また結んだ。布の端は指の油を吸って柔らかくなり、中心だけが硬く盛り上がっている。
昨夜、縁側で見た草履の鼻緒と同じ縫い方だった。
私は布を手にしたまま、祖母の顔を思い浮かべた。
祖母は、誰かの履物を直していた。
それは家族の誰かだったのか。村の人間だったのか。それとも、七年前に名前を失った影島透だったのか。
布の端に、白い糸で小さな印が縫われていた。丸の中に、縦の線が一本。祖母の帳面に描かれていた、井戸を思わせる印と同じだった。
指先から、冷たさが腕を上ってきた。
私は無意識に、親指の爪の端を撫でた。
背後で戸が開いた。
「そこは触るな」
宗一が立っていた。
戸を開ける音は小さかったのに、部屋の空気が一段重くなった。父は箱を見て、それから私の掌の中の布へ視線を落とした。
「遺品を整理してるだけ」
「整理するなら、俺がやる」
「もう整理したんでしょう」
「した」
「なのに、この布が残っている」
宗一は答えなかった。
「何の布?」
「ただの布だ」
「鼻緒を結び直している」
「古い家には、そういう布くらい残る」
「縁側の草履と同じ縫い方だった」
「似ているだけだ」
「父さん、草履を見たときもそう言ったよね。古いものなら似た直し方になるって」
宗一は戸口に手を置いた。
「おまえは、何でもつなげたがる」
「つなげなければ、何も分からないまま終わる」
「分からないままでいい」
「父さんたちは、そうやって七年過ごしたの?」
父の手が戸枠から離れた。
私は布を握ったまま、遺品箱の底を見た。箱の底板には、細い隙間がある。祖母が物を隠すなら、見つけた人間がもう一度探すことを前提にしているような場所だった。
「祖母の日記は?」
「ない」
「どこにあるの」
「処分した」
「いつ?」
「婆さんが亡くなったあとだ」
「父さんが?」
「そうだ」
「本当に?」
宗一は私を見た。
「何が言いたい」
「捨てた人の顔じゃない」
父の唇が引きつった。
私は声を荒らげなかった。静かな場にいると、相手の顔より先に沈黙の長さが見える。父は嘘をつくとき、返事を急ぐ。だが今は、答えまでに時間がかかっていた。
「日記はどこ?」
「もういい。箱を閉じろ」
「答えて」
「真尋」
「祖母ちゃんの日記はどこにあるの」
宗一の手が、腰のあたりで閉じたり開いたりした。鍵束が衣服に触れ、かすかな金属音を立てる。
「おまえが持つものじゃない」
「祖母ちゃんが残したものだよ」
「家のものだ」
「祖母ちゃんのものと、家のものは違うでしょう」
「違わん。あの人が家に置いたものは、全部この家のものだ」
「じゃあ、誰かの人生も?」
その言葉を口にすると、父の顔から血の気が引いた。
「透の話をしているのか」
「父さんが名前を出した」
「俺は出していない」
「出したよ。昨日、私が名前を言ったとき、父さんはその人を知っている顔をした」
「名前を口にするな」
「どうして?」
「その名前は、もう家の中にはない」
「消したから?」
「違う」
「追い出したから?」
父は沈黙した。
私は待った。父が言葉を探すあいだ、納戸の奥にある古い箱が、湿気を含んだ木のようにゆっくり軋んだ。外では蝉が鳴き続けているのに、納戸の中だけは音が遠い。叔母の水音も、座敷の時計も、ここまで届かない。
「影島透」
私はもう一度、名前を言った。
宗一の肩が跳ねた。
それだけで十分だった。
「その人は、祖母ちゃんに何をされたの」
「何もされていない」
「じゃあ、どうして父さんはそんな顔をするの」
「昔のことだ」
「それは答えじゃない」
「昔のことだ。七年前の、もう終わった話だ」
「終わった人の名前を、どうして呼ぶなと言うの」

「帰ってくるからだ」
宗一は言ってから、口を閉じた。
私は布から顔を上げた。
「誰が?」
父は答えなかった。
その代わり、廊下の奥で床板が鳴った。
一枚。
私たちは同時にそちらを見た。
もう一枚。
今度は、こちらへ近づいてくる。
父は私の前へ出た。大きな背中が、納戸の入口を塞ぐ。守ろうとしているように見えた。けれど、その背中は私から何かを隠しているようでもあった。
「誰かいるの」
私は訊いた。
「いない」
「足音がする」
「古い家だから鳴る」
「父さんの歩き方じゃない」
父は答えなかった。
足音は、板の強い場所だけを選んで進んでいた。無駄な音を出さない歩き方。歩幅は一定で、急ぐ気配がない。こちらへ来ることを、ずっと前から決めていた人間の歩みだった。
納戸の前で止まる。
父は鍵束を握った。
そのとき、箱の底から何かが落ちた。
小さな紙片だった。
私は父の制止より先に拾い上げた。紙は古く、端が丸まっている。表には、祖母の筆跡で短い文字があった。
「直して返す」
その下に、別の筆跡が重なっている。
「返す場所がない」
私は紙を持ったまま、父を見た。
「これは誰の字?」
父は答えなかった。
「父さん」
「戻せ」
「誰の字なの」
「戻せと言っている」
「返す場所がないって、透さんが書いたの?」
父の顔がゆっくり歪んだ。
「透は、草履を直していた。祖母ちゃんの布を使って?」
「黙れ」
「七年前、祖母ちゃんは透さんの履物を直して、返す場所をなくしたの?」
「黙れ!」
父の声が納戸の中で跳ね返った。棚の上の提灯が揺れ、竹の骨が触れ合う。乾いた細い音が、いつまでも止まらない。
父は息を荒くした。
怒鳴った本人が、いちばん驚いているようだった。拳を握り、開き、また握る。何かを壊したいのではなく、壊さずにいられる形を探している。
「おまえには関係ない」
「関係あるよ。私は黒瀬家の孫だからじゃない。祖母ちゃんが残したものを、父さんが隠しているから」
「隠しているんじゃない。守っている」
「何を?」
「おまえを」
「私じゃない」
私は紙片を持つ手を下ろした。
「父さんが守っているのは、黒瀬家の名前でしょう」
宗一の顔が、父親のものから家の代表のものへ変わった。背筋が伸び、声を整えようとする。いつもの父なら、そこで話を切り上げる。だが、今は足音が納戸の前にある。
逃げ道を塞がれていた。
「家の名前を守らなければ、家族は生きていけない」
「名前がなくなったら、家族は死ぬの?」
「そういう簡単な話じゃない」
「でも、透さんは名前をなくした」
「透は、自分で家を出た」
「父さんは、そういうことにしたんでしょう」
父は目を伏せた。
「俺たちは、あいつを助けようとした」
「助けるために、名前を消した?」
「村の中に置けば、あいつは壊される。酒を飲んで、誰かに絡んで、夜中に井戸へ行って、あの家の中を嗅ぎ回っていた。村の人間は、透を異常だと思っていた。あいつを残せば、誰かが手を出した。だから、婆さんは外へ出した。生き残るには、それしかなかった」
「それで、透さんは生き残った」
「そうだ」
「でも、帰る場所をなくした」
父は答えなかった。
「それは助けたんじゃない。切り捨てたんだよ」
「真尋」
「祖母ちゃんも、父さんも、小森さんも、みんな一人ずつ手を離した。誰か一人に押しつけることもできるのに、誰も自分だけが悪いとは言わない。だから七年も、家の中でその人を死んだことにできた」
「死んだことにはしていない」
「じゃあ、どこにいるか知ってるの?」
父は黙った。
その沈黙のあいだに、廊下の足音が一つ増えた。
父のものではない。
私のものでもない。
納戸の戸の向こうに、誰かが立っている。
気配だけが、湿った木のように薄く広がった。
「父さん」
私は声を落とした。
「日記は、封じ座敷?」
父の顔が動いた。
その一瞬の視線で、場所が決まった。
納戸の奥ではない。祖母の部屋でもない。仏間の隣、ずっと使われていない座敷。古い障子が立てかけられ、父が触るなと言った場所。
私は立ち上がった。
父が腕を掴む。
「行くな」
「日記を見つける」
「見つけても、何も変わらない」
「変わるよ。少なくとも、私が知らないまま帰ることはなくなる」
「おまえは帰れ」
「どこへ?」
父の手が緩んだ。
「東京へ帰れ。ここは俺が片づける。草履も、帳面も、全部だ。おまえは何も見なかったことにすればいい。俺がそうしてきたように、おまえも自分の生活を守れ」
「自分の生活を守るために、誰かのことを見なかったことにするの?」
「そうじゃない」
「同じだよ」
「おまえは、まだ何も分かっていない」
「分からないから、見に行く」
父の手が離れた。
廊下の足音が、今度は遠ざかっていく。
一つ。
二つ。
裏口のほうへ向かう音だった。
私は納戸を出た。
父が背後で何かを言ったが、聞き取れなかった。床板の軋みが重なって、声の輪郭を崩していた。
仏間の前を通り、封じ座敷へ向かう。
歩くたび、足音が増えた。
私の足音。
少し遅れてついてくる、硬い底の音。
さらにその後ろから、軽く、湿った音。
三人いるように聞こえた。
けれど振り返ることはできなかった。振り返れば、誰もいないことを確かめることになる。そして、誰もいないのに足音だけがあるという事実を、身体の中へ受け入れなければならない。
封じ座敷の前で、私は立ち止まった。
戸は閉じている。
だが、敷居の下から濡れた土の匂いが流れていた。
私は掌の中の布を見た。古い縫い目の脇に、黒い泥が付いている。触れた覚えはない。なのに、布の端から床へ、細い水滴が落ちた。
一つ。
二つ。
その間隔は、玄関で聞いた水音と同じだった。
背後で、宗一の声がした。
「真尋、戻れ」
振り返らずに、私は訊いた。
「祖母ちゃんは、誰のために草履を直したの」
返事はなかった。
「透さんが戻るため? それとも、戻れないようにするため?」
長い沈黙のあと、父が言った。
「どちらでもなかった」
「じゃあ何のため?」
「帰る道を、残すためだった」
その言葉に、私は戸へ手を伸ばした。
父は止めなかった。
鍵穴に触れる前に、向こう側で何かが擦れた。布の端を整える音。鼻緒を指で撫でる音。
そして、低い声がした。
「七年前から、誰もその布を使わなかった」
私は息を止めた。
父の呼吸も、背後で止まった。
声は戸の向こうから聞こえているのか、床下から響いているのか分からなかった。ただ、その声には、長い距離を歩いてきた人間の疲れがあった。
私は布を握り直した。
「あなたは、誰?」
返事はすぐにはなかった。
やがて、戸の内側で足音がひとつ鳴った。
近すぎる音だった。
「その布を、まだ持っているのか」
私は答えなかった。
父が私の腕を掴もうとした。けれど、今度は私のほうが先に一歩下がった。恐怖で下がったのではない。戸を開ける前に、見たものを見たまま記憶しようとした。
古い戸。
湿った敷居。
祖母の布。
父の手。
そして、向こう側にいる誰かの足音。
私は手帳を取り出し、震える指で書いた。
「午前九時四十分。封じ座敷の内側から、三度の足音。宗一、背後にいる。布に泥」
書き終えると、紙の上に水滴が落ちた。
私の汗ではなかった。
日記も帳面も、まだ見つけていない。
それでも、祖母が残したものの中に、私へ向けられた道筋があることだけは分かった。彼女は何も説明しなかった。説明の代わりに、布を残し、箱を整え、鍵を父の帳面へ挟み、誰かが見つける順番だけを決めた。
その順番の先に、今、私は立っている。
「真尋」
父の声が、今度は近かった。
「開けるな。開けたら、戻れない」
私は戸の前で、鍵を差し込んだ。
「父さん」
「何だ」
「戻れないのは、私じゃない」
鍵が、冷たい穴の中へ入った。
戸の向こうで、草履の底が畳を擦る音がした。
「もう七年も、誰かが戻れないままなんだよ」
鍵を回す。
金具は、驚くほど静かに外れた。<|end|>
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