第7話 夜更けの仏間

封じ座敷の戸口に置かれていた濡れた草履は、私が目を離した隙に消えていた。
消えた、と気づくまでに少し時間がかかった。足元にあるはずのものを、ないものとして見ていた。暗い部屋の中では、白い護符も黒い数珠も、濡れた畳の影も、すべて同じ重さで沈んでいた。
父は戸口の前に立ったまま動かなかった。
「父さん」
呼びかけると、宗一はようやく振り返った。顔色は悪かったが、怒鳴る力は残っているように見えた。
「戻せ」
「どこへ?」
「日記も、木札も、全部だ。元の場所へ戻して、戸を閉める。今ならまだ間に合う」
「何に?」
父は答えなかった。
封じ座敷の奥から、濡れた木の匂いが流れている。井戸の底に溜まった水のような、冷たく、古い匂いだった。私は祖母の日記を胸に抱えたまま、一歩だけ戸口へ近づいた。
畳の上に、水滴が二つ落ちていた。
さっきまでなかった。
「透が来ているの?」
「来ていない」
「じゃあ、誰が草履を揃えたの」
「誰でもいい。人間かどうかも分からんものに、名前をつけるな」
「名前を消したのは、父さんたちでしょう」
父の肩が強く張った。
「真尋、おまえは何も知らないまま、見たものを勝手につないでいる。日記に書いてあることが全部事実だとは限らない。婆さんは死者送りをしていた。あの人の記録は、普通の人間が読むものじゃない」
「普通じゃないものを家の中に残したのは誰?」
「家を守るためだ」
「その言葉を、もう使わないで」
声を荒らげたつもりはなかった。けれど、父の顔がわずかに歪んだ。私は自分の声を聞きながら、祖母の膝の上で黙っていた幼いころのことを思い出していた。何かを尋ねても、祖母はすぐに答えなかった。代わりに草履の向きを直し、布の端を折り、私の手を膝の上へ戻した。
あの手つきが、今はひどく遠い。
「父さんは、祖母ちゃんが私を守ったと言った」
「守ろうとした」
「守ろうとして、透さんを追い出した」
「違う。あいつは自分から――」
「その言い方も、もう聞いた」
私は日記を開いた。祖母の筆跡が、懐中電灯の光の中で揺れている。
『透、戻る。戻るもの、ひとつとは限らず』
『井戸の蓋、閉じる。声、下より』
『手を離す。宗一、栄、見ている』
「これを見ても、まだ村を離れたと言うの?」
父は日記を見ようとしなかった。
「文字は、起きたことをそのままにしない」
「だから消したの?」
「消したんじゃない。変えたんだ」
「何を」
父はしばらく唇を湿らせていた。言葉を選んでいるのではなく、どの言葉を選んでも戻れないと分かっている人の間だった。
「透は、あの夜、井戸へ落ちかけた。足場を失って、腕だけが蓋の縁に残った。俺が手を掴んだ。栄さんもいた。婆さんもいた。だが、井戸の中から声がした。透の声ではない声が、名前を呼んだ」
「誰の名前を?」
「俺には聞き取れなかった。栄さんは聞いたと言っている。婆さんは、聞こえないふりをした」
「それで?」
「透は下を見た。引き上げようとしても、身体を自分から下へ寄せた。何かを見ていた。井戸の底に、誰かがいるみたいに」
父の声が途切れた。
私は、足元に落ちた水滴を見た。二つ目の水滴が、畳の目に沿って細く流れている。
「手を離したのは、祖母ちゃん?」
「……あの人が、離せと言った」
「父さんは?」
「俺は掴んでいた」
「でも、離した」
父は目を閉じた。
「手が、持たなかった」
「持たなかったんじゃない。離したんでしょう」
「同じだ」
「違うよ」
私の中で、何かが静かに崩れた。
「持てなかった人と、持たないと決めた人は違う。怖かったから手を離した人と、家を守るために手を離せと言った人も違う。でも、誰もその違いを話さなかった。だから透さんは、井戸に落ちたのか、逃げたのか、生きているのか死んでいるのか、その全部を曖昧にされた」
父は返事をしなかった。
その沈黙の向こうで、廊下の床板が鳴った。
一枚。
それから、もう一枚。
父は振り返らなかった。私は懐中電灯を廊下へ向けた。光の届く先に、誰もいない。けれど廊下の床には、細い泥の跡が続いていた。封じ座敷から仏間へ向かっている。
泥の脇に、白い糸が落ちていた。
私は拾い上げた。鼻緒を結び直した古布と同じ糸だった。濡れているのに、指へ貼りつかない。まるで誰かが、私に見せるために置いたようだった。
「仏間へ行く」
「行くな」
父が私の手首を掴んだ。
「今夜だけは、言うことを聞いてくれ。おまえを危険な目に遭わせたくない。透が戻ったとしても、あいつが何をするか分からない。七年も家の外で、何を考えていたのかも、どんな暮らしをしていたのかも、誰も知らない。怒っていて当然だ。だが、怒りを抱えた人間は、正しいことだけをするとは限らない」
「父さんは、透さんが怒る理由を知っている」
「知っている」
「それでも、今まで黙っていた」
「おまえを守るためだ」
「私を守るためなら、誰かの人生を消していいの?」
父の手が緩んだ。
「俺は、あいつの人生を消したかったわけじゃない」
「消したくなかった人は、名前を帳面から抜かない。草履を外へ向けたままにしない。戻ってきた人を、死者として送ろうともしない」
父は俯いた。
「透が戻ったとき、家に入れないようにするつもりだった」
「祖母ちゃんが?」
「俺も手伝うつもりだった」
「何をするの」
「死者送りを、やり直す」
「透さんは生きているのに?」
「生きているからこそ、戻ってこられたら困るものがある」
その言葉の意味を、私はすぐには掴めなかった。けれど、父の背後にある封じ座敷を見たとき、分かった。
家が恐れていたのは透そのものではない。
透が、七年前に見たものを持って戻ることだった。
仏間から、線香の匂いが流れてきた。
火は落ちているはずなのに、煙が細く漂っている。私の祖母の数珠袋が、胸元でかすかに熱を持った。
「父さん、仏間へ行く」
「真尋」
「もう、家のために黙らない」
私は手首を抜いた。
廊下を進むと、足音が後ろからついてきた。私のものではない。父のものでもない。床板を強く踏まない、慣れた歩き方だった。一定の間隔を置き、こちらの足取りを確かめるようについてくる。
仏間の前で、父が私を追い越した。
障子へ手を掛ける。
その瞬間、向こう側から低い声がした。
「宗一」
父の手が止まった。
私はその声を知らなかった。けれど、知らないままではいられない声だった。七年前から誰も呼ばなかった名前を、家の外で生き延びた時間ごと、静かに差し出す声。
父が障子を開けた。
仏間には、誰もいなかった。
遺影の前の線香だけが、火のないまま煙を上げている。煙はまっすぐ天井へ向かわず、縁側のほうへ流れていた。畳の中央には、黒い数珠が一つ落ちている。父が拾ったはずの珠だった。
縁側灯りの下に、草履が置かれていた。
左右ぴたりと揃っている。
先ほどまで濡れていた草履は、今度は乾いていた。代わりに、縁側の板に新しい泥が残っている。草履の踵から、仏間の畳へ向かって。
父は動かなかった。
「透」
声が震えていた。
縁側の外から、男の声が返った。
「七年ぶりに呼ぶ声が、それか」

障子の向こうに、人影が立った。
灯りを背負っているため、顔は見えない。肩幅が広く、濡れた髪の先から水が落ちていた。男はすぐには中へ入らなかった。敷居の前で立ち止まり、足元の草履を見下ろしている。
それから、屈んだ。
濡れた指で鼻緒の向きを直す。
左右を揃え、踵の位置を合わせ、縁側の板に残った泥まで手の甲で拭った。
怒りを示す動作には見えなかった。むしろ、乱れたものを正さずにはいられない人の手つきだった。その丁寧さが、父の怒声よりはるかに重く、仏間の空気を押し下げた。
男は立ち上がった。
「久しぶりだな、宗一」
父は答えなかった。
「俺が何をしたか、話してみろ。村の連中に言ったように、酒を飲んで騒いだ、死者送りを乱した、家の女に絡んだ。そういう話を、今夜もまだ続けるのか」
「透、帰れ」
父の声は大きかった。けれど、家の中で何かを押しつぶすための声にはならなかった。
影島透は仏間へ一歩入った。足元の泥が畳に触れる。
「帰る場所があったように言うな」
その一言のあと、透は私を見た。
顔には深い皺が刻まれていた。四十代前半に見えるが、年齢よりも長く生きた人間の顔だった。目は疲れているのに、視線だけが妙に静かだった。
「おまえが真尋か」
私は頷いた。
「はい」
「トキが話していた」
「私のことを?」
「話していたというより、考えていた。おまえが小さいころの巾着を直しているのを見たことがある。糸が一本だけ表に出ていた。トキは何度もやり直した。おまえに渡すものは、裏側まで揃っていなければならないと言っていた」
祖母の裁縫箱が脳裏に浮かんだ。
優しかった祖母。厳しかった祖母。沈黙で家を支配した祖母。そのどれもが嘘ではなかった。けれど、どれも祖母のすべてではなかった。
「祖母は、あなたを助けようとしたんですか」
透は答える前に、もう一度草履を見た。
「そう言う人間はいた。俺を外へ出せば助かる、家から離せば生きられる、名前を消せば追われない。みんな、俺のためだと言った」
「違うんですか」
「違わない部分もある。だから余計に始末が悪い」
透は仏間の中央へ進み、落ちていた数珠を拾った。珠を一つずつ確かめ、熱を持った珠だけを指先で包む。
「トキは、最後まで俺を死者にはしなかった。けれど、生きた人間としても扱わなかった。あの夜、俺が井戸へ落ちかけたとき、手を掴んだのは宗一だ。栄もいた。トキもいた。俺は引き上げてくれと頼んだ。何度も頼んだ。なのに、トキは下を見ていた」
「何を見ていたんですか」
「井戸の底にいるものを」
父が声を挟んだ。
「そんなものは見ていない」
透は父を見た。
「おまえは見たくなかっただけだ」
「透、あれは……」
「家のためだった、と言うんだろう」
「違う」
「では何だ。俺を助けるためか。村を守るためか。真尋を守るためか。名前を変えれば、手を離した事実まで変わるのか」
父の口が動いた。だが、声にならなかった。
透は数珠を卓の上へ置いた。
「俺は井戸へ落ちなかった。蓋の縁に肘を引っかけて、向こう側へ這い出た。だが、誰も引き上げなかった。トキは草履を揃えた。宗一は、もう戻るなと言った。栄は見ていたのに、顔を背けた。あの夜から、俺は死んだことになった」
私は、胸の奥に鈍い痛みが広がるのを感じた。
透の怒りは静かだった。静かすぎて、その奥にある七年の時間が見えた。怒鳴ることも、泣くことも、誰かに縋ることもできず、ただ物の向きを揃え、鼻緒を縫い、帰るための道を自分で整えてきた人の時間。
「どうして今、戻ってきたんですか」
「七年経ったからだ」
透は縁側の草履を見た。
「七回忌に草履を揃え直す。トキが残した決まりだ。俺が戻れば、家はもう一度俺を死者にするつもりだった。だから先に、俺の履物を家へ向けた」
「草履を揃えるのは、帰るためですか」
「帰るためじゃない。帰れなかった七年を、ここへ置くためだ」
透の視線が、私の手の中の日記へ落ちた。
「それを見たか」
「はい」
「なら、分かるだろう。俺を切ったのは、トキ一人じゃない」
「父さんも、小森さんも、村の人たちも」
「おまえは?」
胸の奥を、細い針で刺されたようだった。
「私は、何も知らなかった」
「知らないままでいた」
「……はい」
「それは罪か」
私はすぐに答えられなかった。
父が私を見る。透も私を見る。二人の視線の間に、祖母の遺影がある。遺影の中の祖母は、今も何かを知っている顔をしていた。
「罪かどうか、私には決められません」
私は言った。
「でも、知らなかったことを、これからも理由にはしません。私は祖母ちゃんが好きでした。父さんにも、家にも、捨てきれないものがある。それでも、好きだから黙ることはできない。誰かを守るための沈黙が、その人の人生を消すなら、それは守ったことにならないと思います」
透の顔が、ほんの少しだけ揺れた。
「トキも、同じことを言えればよかった」
「祖母は言えなかった」
「言わなかったんだ」
「そうかもしれません」
私は日記を開いたまま、祖母の最後の頁を見た。
『守るために閉じたものは、守った者の手で開く』
その下の空白には、透の筆跡で続きが書かれていた。
『開いた者は、閉じる者を選ばねばならない』
「私は、閉じません」
父が息を呑んだ。
「真尋」
「日記も、帳面も、布も持って出ます。七年前のことを、私の中だけで終わらせない。誰に見せるか、どう伝えるかは私が決める。でも、黒瀬家のために消すことはしない」
「家を壊すつもりか」
「分からない」
私は父を見た。
「家を守ることと、家の罪を守ることは違うから」
透は黙っていた。
やがて、縁側の草履をもう一度、指先で揃えた。泥にまみれた手なのに、動作だけは丁寧だった。
「俺は、家を壊したかった」
透は低く言った。
「誰か一人を悪者にして、全部を返してもらえると思っていた。だが七年歩いて、分かった。俺の時間を奪ったのは、トキだけでも、宗一だけでもない。黙った者が一人ずつ、俺の帰る場所を削った。だから、誰か一人を潰しても戻らない」
父が俯いた。
「透、すまなかった」
短い言葉だった。
透はすぐには返さなかった。線香の煙が、三人の間をゆっくり横切る。やがて透は、目を伏せたまま言った。
「謝るのが七年遅い」
「分かっている」
「分かっているなら、俺の七年を昔のことにするな」
「しない」
「おまえ一人で決めるな。家の帳面に書け。村の連中にも見せろ。トキが何をしたか、俺たちが何をしなかったか、全部だ」
父は長く息を吐いた。
「家が壊れる」
「もう壊れている」
透の声は静かだった。
「揃えた草履を、誰も履けないまま置いてきた。七年前からずっとな」
仏間の線香が、ふいに大きく揺れた。
煙の向こうで、遺影の祖母が少し遠くなったように見える。私は日記を閉じ、胸へ抱え直した。数珠の熱は、もう消えていた。
障子の外では、蝉が鳴き始めていた。
夜明けにはまだ早い。庭は黒く、裏井戸の屋根も見えない。それでも、暗がりの中で、足音がひとつだけ鳴った。
透のものか。
私のものか。
それとも、まだ家の中に残っている誰かのものか。
私は振り返らなかった。
縁側に置かれた草履だけが、灯りの下で、外と家のあいだを向いていた。
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