6話 封じ座敷の鍵

私は、裏口の敷居をまたぐことができなかった。

外へ向いていたはずのサンダルは、家の中へつま先を向けている。誰かが触れたなら、足跡が残るはずだった。泥の跡は、裏井戸から敷居まで続いている。けれど敷居を越えたところで途切れ、その先には私のものではない濡れた跡が、廊下の奥へ伸びていた。

一つ。

間を置いて、もう一つ。

床板が鳴った。

私は反射的に後ずさった。背中に戸が当たり、木の冷たさが薄い服を通して伝わってくる。足音は廊下の奥へ進んでいた。誰かが家の中を歩いている。私の知らない道を、迷うことなく。

「真尋」

背後から父の声がした。

私は振り返った。父は仏間と裏口の間に立っていた。いつからそこにいたのか分からない。片手に鍵束を持ち、もう片方の手で黒い数珠を握っている。顔には、昨夜まで見せなかった種類の疲れが浮かんでいた。眠れなかったという疲れではない。長いあいだ同じ場所を押さえつけてきた人間の、指先から力が抜けかけた顔だった。

「誰か、家の中にいる」

私は言った。

「いない」

「今、足音がした」

「古い家だから鳴る」

「私のサンダルが、勝手に向きを変えた」

父は返事をしなかった。視線が私の足元へ落ちる。外へ向かっていた一足と、家の中へ向いている一足。その間に、黒い泥が細く乾いていた。

「触るな」

「もう触ってない」

「サンダルのことじゃない。家の中のものに、これ以上触るな」

「封じ座敷のこと?」

父の指が鍵束を強く握った。

金属が擦れ、湿った廊下に小さな音が残る。

「どうしてその名前を知っている」

「知っているわけじゃない。祖母ちゃんの部屋の隣に、使われていない座敷がある。父さんはそこを触るなと言った。昨日、納戸の前で足音がしたあと、父さんはその方向を見なかった。今も、私が封じ座敷と言ったときだけ鍵を握り直した」

父は目を逸らした。

「見たものを、全部つなげれば真実になると思うな」

「つなげなければ、全部ばらばらのまま誰かの都合に使われる」

「おまえは何も知らない」

「だから知りたいと言ってる」

父は大きく息を吐いた。声を張るときの前触れだった。けれど、声は大きくならなかった。

「封じ座敷には何もない。昔の道具と、使わなくなった仏具だけだ。婆さんが死んでから閉めてある。開けたところで、怖がるだけだ」

「怖がるものがあるの?」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ、どういう意味?」

父は答えなかった。答えないまま、私の横を通り過ぎようとした。私は腕を掴んだ。父のシャツは汗で湿っていて、皮膚の熱が掌に伝わる。

「鍵を見せて」

「駄目だ」

「父さん」

「駄目だと言っている」

声が廊下に響いた。仏間の障子が微かに震え、線香の煙が細く揺れた。

「俺は、おまえを家のことから遠ざけてきた。東京へ出るときも、戻ってこなくていいと言った。婆さんが死んだときも、葬式だけ済ませて、あとはこっちのことを考えるなと言った。それは、おまえを家から捨てたかったからじゃない。逆だ。家の中には、知れば抱えるしかなくなるものがある。知ったあとで、知らなかった頃へは戻れない。俺は、おまえにその重さを持たせたくなかった」

「でも、父さんは私を外へ出したんじゃない。何も見えないようにしただけだよ」

「見えないほうが、生きていける」

「誰が?」

父は黙った。

私は手を離さなかった。

「透も、そうだったの?」

父の顔が歪んだ。

「その名前を出すな」

「父さんは、私にだけは名前を呼ばせない。けれど、家の中ではその人のために草履を揃え、帳面を破り、井戸の蓋を閉めて、七年も黙ってきた。名前を呼ばないことで、いなくなったことにしたいだけでしょう」

「違う」

「何が違うの」

「透は……」

父はそこで言葉を止めた。廊下の奥で、床板が一枚鳴った。

私たちの足音ではない。

父も聞いた。聞いたのに、振り返らなかった。

「透は、生きている」

その言葉は、家の中へ落とした石のようだった。

私はすぐには返せなかった。窓の外では蝉が鳴いている。けれど、音は遠かった。父の声だけが、耳の奥に残っていた。

「生きているなら、どうして失踪にしたの」

「失踪にはしていない」

「じゃあ?」

「村を離れた。そう記録した」

「記録しただけで、どこへ行ったかは知らない?」

「知らん」

「探さなかった?」

「探せなかった」

「探さなかったの間違いじゃなくて?」

父の手が、私の腕を振りほどいた。

「探せば、また家に戻る道を作ることになる」

「戻ってきてほしくなかったんだ」

「戻ってきてほしくなかったわけじゃない。戻ってきたら、家の中に残したものまで一緒に戻る。あの夜、井戸の中へ落ちたものは、人間だけじゃない」

父は鍵束を見た。

「だから、婆さんは座敷を閉じた。透を閉じたんじゃない。透が見たものを、家の中に置いたんだ」

「何を見たの」

「それを知るために、座敷を開けるのか」

「知るためじゃない。もう、開いているから」

父の目が動いた。

その瞬間、廊下の奥で、襖の擦れる音がした。

誰もいないはずの封じ座敷の方向だった。木が膨らんだだけかもしれない。古い建物なら、夜と昼の温度差で建具が鳴ることもある。けれど父はそう思わなかった。鍵束を握る手が、はっきり震えた。

私は父の手から鍵を取った。

「真尋!」

父の声が背中へ飛んできた。けれど私は走らなかった。走れば、床板の音が足音に重なり、何が自分のものか分からなくなる。私は一枚ずつ板の位置を確かめながら、仏間の横を抜けた。

家の奥へ進むほど、匂いが変わった。

線香の甘い煙が薄れ、濡れた木と古い布の匂いが濃くなる。壁際に積まれた箱は、どれも角が揃えられていた。祖母のやり方だった。けれど、ところどころに小さな乱れがある。紐の結び目が左を向いている。紙包みの端が一寸だけ開いている。誰かが最近触れた痕跡に見えた。

封じ座敷の前に立つ。

扉には、古い紙札が貼られていた。墨は薄く、中央の文字だけが湿気を吸って黒く浮いている。私は鍵を差し込んだ。

鍵穴の中から、冷たい水の匂いがした。

回す。

金具が鳴ると思ったが、音はほとんどしなかった。扉は、最初から開くことを待っていたように、内側へ軽く動いた。

古木と湿った布の匂いが、一気に押し寄せた。

私は息を止めた。仏間の匂いとは違う。線香が死者を遠ざけるための匂いなら、この部屋にこもっているのは、遠ざけられたものが長い時間をかけて木や紙へ染み込んだ匂いだった。

背後で父が止まった。

「入るな」

「もう開けたよ」

「閉めろ」

「何があるか見せて」

「真尋、頼む」

父が「頼む」と言ったのを、私は初めて聞いた。

その一言には、家長の命令も、父親の気遣いもなかった。ただ、何かを見つけられる前に、もう一度だけ隠しておきたい人間の弱さがあった。

私は灯りを点けず、懐中電灯を取り出した。スイッチを押すと、白い光が畳の上を滑った。

仏具。

護符。

黒ずんだ数珠。

鼻緒の切れた草履。

それらは、部屋の中央に一定の間隔で並べられていた。乱雑にしまわれているのではない。向きも高さも揃えられ、ひとつの形を作っている。草履の先はすべて同じ方向、壁際の小さな戸口へ向いていた。

その戸口だけが、紙札で塞がれている。

私は一歩入った。

畳が沈み、遅れて廊下の板が鳴った。

一つ。

私のあとに、もう一つ。

父は入ってこなかった。

「父さん、ここにある草履は誰の?」

「知らん」

「全部、鼻緒が切れている」

「古いからだ」

「違う。切れたあとに、結び直そうとしている。祖母ちゃんの布で」

私は足元の草履を照らした。茶色の鼻緒の根元に、白い糸が残っている。糸は途中で切れていた。結び直す前に、誰かが急に手を離したような切れ方だった。

その隣に、薄い木札が置かれていた。

表には何もない。裏返すと、祖母の字があった。

「戻る道を閉じる」

その下に、別の筆跡で書き足されている。

「閉じたのは道か、人か」

私は木札を持ち上げた。

掌に、井戸の底のような冷たさが広がった。

「日記は?」

父は答えなかった。

部屋の奥に、布で包まれた冊子がある。白布の結び目は、祖母の癖どおり右を向いていた。私はしゃがみ込み、結び目を解いた。

紙が湿っている。

表紙には名前がなかった。

最初の頁を開くと、祖母の筆跡が現れた。

七年前、七月十三日。

「透、戻る。戻るもの、ひとつとは限らず」

次の頁。

「井戸の蓋、閉じる。声、下より」

その次。

「手を離す。宗一、栄、見ている」

私は文字を追いながら、呼吸を忘れていた。

父が背後で、低く言った。

「それは記録じゃない」

「じゃあ、何?」

「婆さんが自分を納得させるために書いたものだ。あの人は、起きたことをそのまま書かなかった。書き方を変えれば、出来事の形も変えられると思っていた」

「でも、名前がある」

「名前を書けば、戻ってくる」

「透の名前を書いたのは祖母ちゃんでしょう」

「だから消した」

頁の途中には、何度も黒く塗り潰された箇所があった。筆圧が強すぎて紙が破れ、次の頁にまで墨が染みている。私は光を傾け、消された字の跡を追った。

影島透。

その名前が、別の言葉に書き換えられていた。

「来訪者」

「帰れぬ者」

「井戸の外側」

「家に置けない人」

どれも同じ人物を指しているはずなのに、祖母は名前を避けるため、意味だけを変えていた。

「祖母ちゃんは、透を助けようとしていたんじゃないの」

「そうだ」

「でも、追い出した」

「そうだ」

「助けるために追い出して、戻ってこないように草履を揃えた?」

父は長く黙った。

「そうするしかないと思った」

「誰が?」

「婆さんが。俺が。栄さんが。村の者が」

「みんなで、助けたことにしたんだ」

父は何も言わなかった。

日記の頁をめくると、封じ座敷の図が描かれていた。部屋の中央に草履が二つ。その間に丸い印。壁際の戸口に黒い線。井戸から家へ続く動線が、細い筆で何度もなぞられている。

その図の下に、短い文があった。

「透を外へ出す。代わりに、見たものをここへ残す。七年、名を呼ばぬこと。七回忌に、草履を揃え直すこと」

私は頁を持つ手に力を込めた。

七回忌。

草履。

祖母は、最初からこの夜を決めていたのか。

「七回忌に、何をするつもりだったの」

父の声が震えた。

「婆さんは死ぬ前に、何か言っていた。七年経ったら、戻る道を閉じ直す、と」

「戻る道を閉じ直す?」

「透が戻ってきたら、また送るつもりだった」

「送るって、どこへ」

「井戸の向こうへ」

「父さん」

私は振り返った。

「祖母ちゃんは、透を人として送り出したの? それとも、死者として送ったの?」

父は答えられなかった。

その沈黙の長さが、日記のどの言葉よりもはっきりしていた。

祖母は、透を人間のまま扱えなかった。家から追い出すために、彼の名を消し、暮らしを消し、帰る道を消した。そして、戻ってきたときには死者として送り直すつもりだった。

守るという言葉の下で、ひとりの人間を境目へ置いた。

私は日記を閉じた。

その瞬間、部屋の奥で紙札が一枚、ひらりと落ちた。

塞がれていた小さな戸口が、わずかに開いている。

隙間の向こうから、湿った土の匂いが流れてきた。

そして、足音がした。

一つ。

二つ。

三つ。

今度は廊下からではない。壁の向こう、戸口の向こう、床下のさらに下から響いているようだった。

父が息を呑んだ。

「閉めろ」

「誰がいるの」

「閉めろ、真尋。今すぐ」

「透?」

その名前を口にすると、仏間の数珠が一つ、乾いた音を立てて床へ落ちた。

父が叫んだ。

「呼ぶな!」

声が封じ座敷の壁を震わせた。

私は日記を胸へ引き寄せた。紙の表面は冷たいのに、中央だけが熱を持っていた。祖母が何度も触れた場所。その熱が、私の掌へ移ってくる。

戸口の隙間が、さらに広がった。

中は真っ暗だった。

けれど暗闇の奥で、何かが整えられる音がした。

草履の鼻緒を撫でる音。

布の端を折る音。

それから、低い声が落ちた。

「七年分を、まだ閉じるつもりか」

父が一歩、私の前へ出た。

私は日記を開いたまま、最後の頁へ目を向けた。そこには、祖母の字で一行だけ残されていた。

「守るために閉じたものは、守った者の手で開く」

その下には、空白がある。

誰かが、続きの頁を抜き取っていた。

しかし、空白の下端に、別の筆跡がわずかに残っている。

「真尋へ」

私は息を止めた。

祖母は、私の名前を書いていた。

父の手が、私の肩へ伸びてくる。

「見るな」

私はその手を避けた。

「父さんは、祖母ちゃんが私を巻き込みたくなかったと言ったよね」

「そうだ」

「でも、祖母ちゃんは私に向けて書いている」

「書いてあったとしても、おまえに読ませるためじゃない」

「じゃあ、誰に?」

父は答えなかった。

戸口の奥で、足音が一つ増えた。

これまでの音に、私のものではない、もう一つの歩幅が重なった。

私は日記を閉じ、立ち上がった。

「この部屋は、祖母ちゃんが隠した場所じゃない」

「真尋」

「誰かが戻ってくるまで、隠し続けるための場所だったんだ」

父の顔が崩れた。

その背後で、封じ座敷の戸口が静かに開いた。

闇の中には、誰もいなかった。

ただ、濡れた草履が二つ、左右ぴたりと揃えて置かれていた。<|end|>

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