5話 庭先の小声

昼前、私は洗濯物を干すふりをして庭へ出た。

父は帳面を取り上げようとはしなかった。取り上げる代わりに、座卓の上へ手を置いたまま、私が何を読むのかを見ないようにしていた。その見ないふりが、かえって監視に似ていた。私が帳面を閉じて立ち上がると、父は「昼飯までには戻れ」と言った。

「どこへ行くと思ってるの」

「庭だろう」

「分かってるなら、どうしてそんな言い方をするの」

父は答えなかった。湯飲みを持ち上げ、冷めた茶を一口飲んだ。昨日から何度も同じ湯飲みを使っている。縁に茶渋が薄く残り、持ち手の根元には父の親指が触れた跡だけが光っていた。

「井戸には近づくな」

「洗濯物を干すだけだよ」

「近づくなと言ってる」

「分かった」

私はそう言ったが、父の声の中にある焦りを、もう素直には受け取れなかった。

勝手口を出ると、熱気が肌へまとわりついた。家の中の湿った冷たさに慣れた身体には、庭の陽射しがかえって異物のようだった。蝉が頭上で鳴き続けている。昨日より声が近い。家の中では一枚の障子に押し返されていた音が、庭へ出た途端、全身へ直接降り注いできた。

洗濯物は、朝から干されていたものを取り込むだけだった。白い布巾、父のシャツ、叔母の黒い喪服。竿に掛かった布を一枚ずつ外し、籠へ重ねる。黒い服は熱を吸っていて、指先に乾いた重さが残った。

縁側の下には、昨夜の草履を押し込んだ跡があった。

父は片づけると言っていた。けれど捨てたわけではない。板の隙間に泥が残り、そこから縁側の奥へ向かって、細い水の筋が伸びていた。草履を引きずった跡ではない。濡れたものが、誰かの手で運ばれた跡だった。

私はしゃがみ込み、泥の端へ指を近づけた。

触れる前に、裏手から足音がした。

ひとつ。

それから、木の葉が擦れた。

私は顔を上げた。黒瀬家の裏は、夏草が伸びきるより先に土の色を熱くしていた。庭の端にある柿の木の下は、陽が届かず、地面だけが濃く湿っている。さらにその奥に、古い井戸の屋根が見えた。

屋根の脇に、小さな木札が立っている。

風はないのに、札の紐だけが揺れていた。

私は洗濯籠を持ったまま、井戸とは反対側へ歩いた。反対側には隣家との境目があり、低い板塀の向こうに小森栄の縁側がある。栄はそこに座っていた。団扇を膝に置き、ひびの入った湯呑みを両手で包んでいる。

私が近づいても、老人は顔を上げなかった。

「こんにちは」

声を掛けると、栄は一度だけ咳払いをした。

「……暑いな」

「暑いですね」

「黒瀬の家は、昼でも戸を閉めとる」

「父がそうしているんです」

「父親というのは、戸を閉めるのが仕事になったりする」

栄は湯呑みの縁を指でなぞった。茶はほとんど残っていない。指先が同じ場所を何度も往復するので、ひびの入った陶器だけが白く磨かれて見えた。

「昨夜、草履がありました」

「見た」

「小森さんは、あれが誰のものか知っていますか」

栄はすぐには答えなかった。私の顔ではなく、足元を見ている。私の裸足のつま先と、地面に落ちた洗濯物の影、それから黒瀬家の縁側の向きを順に確かめていた。

「知っている、と言うほどではない」

「見たことはあるんですか」

「草履というものは、履いている人間より先に帰ってくることがある」

「答えになっていません」

「答えは、いつも問いより遅れてくる。急いで掴むと、別のものを掴む」

「私はもう、何も知らないままではいられないんです」

栄は団扇を持ち上げた。風は私へ来なかった。老人の白いシャツの胸だけが、ゆっくり膨らんだ。

「おまえさんは、黒瀬の家の子だな」

「孫です」

「同じことだ。あの家ではな」

その言い方に、胸の奥がざらついた。

「家の子なら、何も知らなくていいんですか」

「知らんほうが生きやすいこともある」

「それを決めるのは誰ですか」

「決める人間がいなくなっても、決めたことだけは残る」

「祖母のことですか」

栄は私を見た。濁った瞳の中に、長いあいだ日の当たらない場所に置かれていたものが沈んでいる。

「トキさんは、ああいう人だった。何でも自分で決めて、決めたあとで誰にも説明せん。説明せんから、残った者は勝手に意味をつける。助けたんだ、切ったんだ、守ったんだ、見捨てたんだ。そうやって、みんな自分に都合のええ話を作った」

「小森さんは、どの話を信じているんですか」

「信じるほど、きれいな話じゃない」

栄は膝の上で団扇を裏返した。古い祭りの絵が描かれている。色は褪せているが、赤い提灯だけが妙に鮮やかだった。

「七年前の夜、井戸のところで何があったんですか」

「井戸のところでは、いろんなことが起きる」

「そういう言い方はもう聞きたくありません」

自分でも声が強くなったと思った。栄は驚いた様子を見せなかった。ただ、湯呑みを何度も布で拭き始めた。すでに乾いているのに、同じ場所を拭いている。

「影島透という人のことを聞きました」

その名前を出すと、団扇の骨が小さく鳴った。

「……誰から」

「誰からでもありません。父が名前を聞いただけで、家の中の空気を変えたからです」

「そうか」

「小森さんも知っているんですね」

「名前だけならな」

「では、名前以外を教えてください」

「若い人は、名前を知ると人間まで分かった気になる」

「分かった気になりたいんじゃない。何も知らないまま、家族の沈黙に巻き込まれるのが嫌なんです」

「巻き込まれる?」

「もう巻き込まれています。草履を見た。足音を聞いた。祖母の帳面に、送りが済まなかったと書いてある。父は何かを隠している。これで私が外側にいると言えますか」

栄は長く黙った。

蝉の声が頭上で膨らみ、板塀の向こうへ流れていく。遠くで軽トラックのエンジンが鳴り、集落の道を一度だけ通り過ぎた。生活の音はあるのに、私たちのいる場所だけが、その音から取り残されている。

「透は、黒瀬の家の人間ではなかった」

栄がようやく言った。

「でも、あの家には長く出入りしていた。トキさんの手伝いをしていた時期もある。草履を直したり、護符を納めたり、井戸の蓋を見たりな」

「どうして、そんなことをしていたんですか」

「頼まれたからだろう」

「祖母に?」

「トキさんは、頼むという言い方をせんかった。物を置いて、向きを変えて、あとは自分で気づかせる。透はそういうものをよく見ていた。見過ぎる人間だった」

私は祖母の裁縫箱を思い出した。糸の端を切り揃え、結び目を裏へ隠し、何かを渡すときには必ず布を一枚挟む手つき。祖母は言葉より配置を信じていた。

「透は何を見たんですか」

「家が隠したものだ」

栄の声が低くなった。

「井戸の蓋が少しずれていた夜があった。中を覗いた者がおった。誰が覗いたかは、今となっては言わんでも分かるだろう」

「透ですか」

「透は、落ちたものを拾おうとした」

「何が落ちたんですか」

「木札かもしれん。護符かもしれん。トキさんが持っていた、黒い紐のついた札だったかもしれん。わしは暗くて見えなかった」

「見えなかったのに、どうして知っているんですか」

「音は聞いた」

「何の音を?」

栄は湯呑みを置いた。

「人が井戸へ落ちる音ではない。人が落ちかけて、誰かに手を掴まれ、それでも掴まれた側が足場を探して、石を蹴った音だ。井戸の中で、何かが三度、壁に当たった。透は完全には落ちていない。だから助けられたはずだ」

「助けなかった?」

「助けようとした者はいた」

「誰が」

栄は目を伏せた。

「そこから先は、家の中の話だ」

「小森さんも、そこにいたんでしょう」

「いた」

「見ていたんですね」

「見ていた」

「それなのに、何も言わなかった」

栄は否定しなかった。

「言えば、井戸の蓋が開く。蓋が開けば、落ちたものも、落としたものも、全部出てくる。そう言われた」

「誰に?」

「トキさんに」

私は、祖母の遺影を思い出した。目を細めた顔。何かを知っていて、すぐには教えない顔。優しいと思っていたその目の奥に、七年前の井戸があった。

「小森さんは、祖母が怖かったんですか」

「怖かったよ」

栄はあっさり言った。

「トキさんは、怒鳴らんし、脅しもせん。けれど、あの人が一度決めたことを崩すには、家を壊す覚悟が要った。わしにはなかった。村の者にもなかった。宗一にもなかった。だから皆、黙った」

「透は?」

「透だけが黙らなかった」

その言葉のあと、栄は顔を上げた。

「だから、追われた」

私は洗濯籠の取っ手を握り直した。指の関節が白くなる。

「素行が悪かったからじゃないんですね」

「酒を飲んだり、人と揉めたりはした。だが、それは追い出す理由というより、追い出したあとに貼った紙だ。人間は、誰かを切ったあとで、その人が切られて当然だったと思える理由を探す」

「父も知っていたんですか」

「宗一は知っていた。知らん顔をしていただけだ」

「小森さんも」

「わしもだ」

老人の声は、急に小さくなった。

「わしらは、透を家から出すとき、草履を二つ揃えた。片方は外へ向け、片方は家へ向けた。どちらへ行くか、あいつに選ばせるつもりだった。だが、トキさんは両方とも外へ向け直した」

私は息を飲んだ。

「帰れないように?」

「そう見えた。だが、あの人は言った。帰り道を作ると、戻ってくるものが増える、と」

「戻ってきたのは、透だけじゃないんですか」

「さあな」

栄は井戸のほうへ視線を向けた。

「草履を揃える者は、帰る者か、戻れぬ者か。どちらかだ。けれど、帰る道と戻る道は違う。生きている人間が帰るなら、足音は一つで済む。戻れぬものが道を使うと、後ろから別の足音がついてくる」

私は笑いそうになった。怖さを誤魔化すための、乾いた笑いだった。

「それは、昔話ですよね」

「そう思うなら、井戸へ行って見てくればいい」

栄はそう言ったが、目は笑っていなかった。

「行くなとは言わん。ただ、行ったあとで戻るとき、足元を確かめなされ。自分の草履が二つあるかどうか」

「どういう意味ですか」

「帰り道には、履物が必要だ」

「小森さんは、七年前の夜に透を見たんですか。井戸へ落ちかけたあと、どうなったのか知っているんですか」

栄は答えなかった。

私は待った。庭へ出る前、父の沈黙を待ったのと同じように。けれど栄の沈黙は父のものより古く、板塀や井戸や、何人もの口の中を通ってきた沈黙だった。

やがて老人は、団扇を畳んだ。

「井戸の蓋は、朝には閉まっていた」

「誰が閉めたんですか」

「トキさんだろう」

「透は?」

「その夜から、村では見なくなった」

「見なくなっただけですか」

栄の手が止まった。

「真尋さん」

初めて、栄は私の名前を呼んだ。

「見えなくなった人間が、いなくなったとは限らん。家の中では、そういう区別をしないことがある。見えないものは、いないものにしてしまえるからな。だが井戸は、見えないものを底へ溜める。蓋を閉じても、なくなったことにはならん」

その声を聞いているうちに、背後の黒瀬家から床板の鳴る音がした。

一つ。

私は振り返った。

縁側の障子は閉じている。父がいるはずの座敷も見えない。それなのに、音は家の内側から庭へ向かってきた。

もう一つ。

栄が団扇を握り直した。

「今の、聞こえましたか」

「聞こえた」

「父じゃない」

「……そうだな」

三つ目の音が鳴った。

板塀のこちら側ではなく、家の中から聞こえている。誰かが廊下を歩いている。歩幅は小さく、床板の強いところだけを選んでいる。私が昨夜、納戸の前で聞いた足音と同じだった。

「家の中に、誰かいる」

「お父さんが見回ってるんじゃないですか」

「宗一なら、もっと乱暴に歩く」

「じゃあ誰ですか」

「足音に名前をつけると、呼び寄せることがある」

「それでも知りたいんです」

「知りたい気持ちは、怖いものより先に走る。だが足は、あとからついてこられる」

栄がそう言ったとき、家の裏手から水が滴る音がした。

一つ。

間を置いて、もう一つ。

玄関で聞いた音と同じ間隔だった。

私は洗濯籠を地面へ置いた。籠の中で、黒い喪服が崩れた。整えて重ねたはずの袖が、縁から垂れている。

無意識に、私はそれを直そうと手を伸ばした。

栄が私の手首を掴んだ。

力は弱いのに、離れなかった。

「今は、物の向きを直さんほうがいい」

「どうして」

「向きを直すと、道が決まる」

「誰の道が?」

栄は井戸を見た。

木札の紐が、風もないのに大きく揺れていた。

「帰る者の道か、戻れぬ者の道か。そこを決めるのは、まだ早い」

「でも、もう誰かが家の中を歩いている」

「だからだ」

栄は私の手首を離した。

「家へ戻りなされ。縁側の灯りを消す前に、履物を見ておくことだ」

「草履があるかどうかを?」

「二つあるか、一つしかないか。揃っているか、乱れているか。そこを見れば、今夜どちらが来るか分かる」

「小森さんは、何を知っているんですか」

私は立ち上がり、栄を見下ろした。

「七年前、誰が透の手を離したのか。祖母ですか。父ですか。それとも小森さんですか」

老人は視線を合わせなかった。

膝の上の団扇が、微かに震えている。

「手を離した者は、一人ではない」

「どういう意味ですか」

「掴まなかった者も、手を離した者と同じだ」

その言葉が、庭の熱気の中でひどく冷たく残った。

私は洗濯籠を持ち上げ、黒瀬家へ戻った。板塀沿いの細い道を歩くと、土の上に自分の影が伸びた。影は私の足元から少し遅れて揺れ、歩くたびに形を変えた。

家の裏口まで、十数歩しかない。

それなのに、二歩目のあとで足音が一つ鳴った。

私の後ろから。

私は振り返らなかった。

三歩目で、また鳴った。

今度は近い。

四歩目で、さらに一つ。

自分の歩幅に、別の歩幅が重なってくる。足音は私を追っているのではなかった。私の歩いた場所を、確かめるようについてくる。

裏口の前で、私は立ち止まった。

足音も止まった。

戸に手を掛ける。金具は熱く、汗ばんだ掌に貼りついた。耳を澄ますと、家の中から冷蔵庫の唸りが聞こえる。壁時計の針が進む音もある。父がどこかで咳払いをした。

それ以外は、何も聞こえない。

私は戸を開けた。

中へ入る前に、足元を見た。

私のサンダルが一足、三和土の端に揃えられていた。

脱いだ覚えはない。

もう一足は、玄関の外へ向いていた。

私は息を止めた。

そのとき、背後の庭で足音が鳴った。

ひとつ。

続いて、もうひとつ。

三つ目は、私のすぐ隣で鳴った。

振り返ると、誰もいない。

ただ、井戸のほうから伸びてきた泥の跡が、裏口の敷居の手前で途切れていた。そこから先は、家の中へ続いている。

私は自分のサンダルを見た。

外へ向いていた一足が、いつの間にか家の中へ向きを変えていた。

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庭先の小声 - 揃えた足音 - 誰でも作家life