4話 祖母の帳面

夜が明けても、黒瀬家の空気は昨夜の湿り気を抱えたままだった。

蝉はもう鳴いていた。けれど仏間の障子を閉めるたび、その声は一枚薄い布の向こうへ押し返される。家の内側にいると、蝉時雨でさえ外から届くものではなく、どこか遠い場所で誰かが真似をしている音に聞こえた。

私は台所で茶碗を洗い終えると、濡れた手を布巾で拭いた。

父はまだ寝ているはずだった。昨夜、私を納戸に残して廊下へ出たあと、戻ってきた父は何も言わなかった。裏口の鍵を確かめ、仏間へ落ちた数珠の珠を拾い、濡れた草履をどこかへ運んだ。それだけだった。

草履がなくなった縁側は、かえって不自然だった。

灯りの下に残った黒い水滴と、板の上に押しつけられた泥の跡。左右揃っていたものが消えたことで、そこだけ境目がむき出しになったように見える。私は何度も振り返りながら、祖母トキの遺品箱を座敷へ運んだ。

箱の底が、膝に触れるたび小さく鳴った。

紙の擦れる音が、家の静けさの中でやけに大きい。私は座卓の前に箱を置き、蓋を開けた。裁縫箱、数珠袋、古い巾着、護符を包んでいた白布。どれも祖母が使っていたころと同じ位置に収まっている。

誰かが整理したのだろう。

けれど、整理した人間の手つきは祖母とは違っていた。祖母なら、包みの端を指一本ぶんだけ内側へ折る。紐の結び目は必ず右へ向ける。箱の中の物は整っていたが、整い方に祖母の呼吸がなかった。

私は一つずつ取り出し、座卓の上へ並べた。

最後に、三冊の帳面が出てきた。

一冊目は、法要や盆の支度を書きつけた進行帳だった。誰に何を頼むか、何日にどの寺へ連絡するか、細かな字で並んでいる。二冊目は村付き合いの控えで、香典の金額や祭りの当番、畑の境界についての覚え書きが続いていた。

三冊目には表紙がなかった。

紙は薄く、端が水を吸ったように波打っている。綴じ糸だけが新しく見えた。私はそれを開く前に、障子の向こうを見た。

誰もいない。

庭から蝉の声が届く。昨日までなら、それだけで朝の音だと思えたはずだった。今は、家の中にある沈黙を外から押し込んでいるように聞こえる。

私は表紙のない帳面を開いた。

最初の頁には日付があった。

七月十二日。

その下に、短い一行が書かれている。

「送り、済まず」

私は指を止めた。

次の頁には、七月十三日。

「井戸の蓋、ずれなし」

その次は、七月十四日。

「草履、二つ。向き、外」

どの頁も、言葉が少なかった。死者送りの手順を書いたものなら、もっと細かな記録が残っていてもよさそうなのに、祖母は必要なことをわざと削っているようだった。あるいは、削らなければならない理由があった。

頁をめくる。

日付と、短い文。草履。井戸。護符。戸締まり。

それらが何度も繰り返されている。

私はスマートフォンを取り出し、日付を手帳へ書き写した。紙の上で数字を並べると、ばらばらだったものが少しだけ形を持つ。七月十二日から二十日まで、記録は毎日続いていた。

その途中に、何度も頁の空白がある。

ただの余白ではなかった。前後の頁より紙の色が白い。指を添えると、抜かれた頁の縁がきれいに揃っている。破り取ったというより、先に切れ目を入れてから抜いたような跡だった。

私は帳面を光のほうへ傾けた。

薄い紙を透かしても、何も見えない。けれど空白の頁の向かい側には、濃い筆圧だけが残っていた。書いた文字を消し、紙を破り、その上から別の頁を綴じたのだろう。

誰かに見せたくない記録。

それでも、帳面そのものは捨てられなかった記録。

祖母は何を隠し、何を残したのか。

私は頁の角を撫でた。指先に紙のざらつきが残る。昨夜、布の縫い目に触れたときと同じ冷たさが、手のひらから胸の奥へ上がってきた。

「真尋」

襖の外で、父が咳払いをした。

私は帳面を閉じなかった。

「起きてたの?」

「朝から何をしている」

父は返事を待たずに襖を開けた。髪は乱れていなかったが、顔色が悪い。右手には家の鍵束があり、左手には湯飲みを持っている。湯飲みの中身はまだ熱いらしく、薄い湯気が立っていた。

父は私の前に座ると、帳面へ目を落とした。

その瞬間、顔の筋が固くなった。

「それをどこから出した」

「遺品箱の底」

「戻せ」

「まだ見てない」

「見る必要はない」

父は湯飲みを座卓へ置いた。置き方が強く、茶が縁から少しこぼれた。畳の上に落ちた雫が、黒い輪をつくる。

昨夜も同じ音を聞いた。

茶がこぼれ、父の呼吸が浅くなる。音だけが、何かを決める合図のように家の中へ響く。

「これは祖母ちゃんの字だよね」

「そうだ」

「じゃあ、読んでもいいでしょう」

「法要が終わったばかりだ。家の中を引っかき回すな」

「法要は昨日終わった」

「七回忌は一日で終わるものじゃない。片づけもある。親戚への挨拶もある。やることはいくらでも残っている」

「そういう話をしてるんじゃない」

「じゃあ何の話だ」

父は帳面を閉じようと手を伸ばした。私はその手より先に、頁を押さえた。

「七月十二日の『送り、済まず』って、何?」

父の手が止まった。

「昔の記録だ」

「何を送ったの」

「村の習わしだ。人が亡くなったときに、家の者が簡単な送りをすることがある」

「死者送りでしょう」

「そう呼ぶ人もいる」

「祖母ちゃんは、誰を送ったの?」

父は目を逸らした。仏間の障子の向こうで、蝉の声が一度だけ大きくなる。私は返事を急がずに待った。

父はこういう沈黙を嫌う。答えを求めているのに、こちらが黙っていると、逃げ道を失ったように苛立つ。だからこそ私は黙った。

やがて父が言った。

「人を送ったんじゃない」

「じゃあ何を?」

「病気や、悪い気配だ。家に残らないようにするためのものだ」

「それなら、どうして『済まず』なの」

「その年は、うまくいかなかったんだろう」

「何がうまくいかなかったの」

「真尋、そうやって一つ答えるたびに次を聞くな。おまえは何も知らないから、言葉の隙間に勝手な意味を入れている」

「何も知らないようにしてきたのは、私じゃないよ」

父の眉間に皺が寄った。

「おまえを守るためだ」

「守るって、何から?」

「家の事情からだ」

「家の事情って、誰かを追い出すこと?」

父の指が、湯飲みの縁に触れた。

「その話はするな」

「七年前のこと?」

「真尋」

「影島透のこと?」

名前を出した途端、仏間の奥で何かが落ちた。

乾いた、小さな音だった。

父は振り返らなかった。振り返れば、何が落ちたのか確かめなければならない。けれど父はそれをしなかった。音を聞かなかったことに決めたように、帳面だけを見ていた。

「誰に聞いた」

「誰にも聞いてない。昨日、父さんが反応したから分かった」

「分かったつもりになるな」

「じゃあ教えてよ」

「教えられない」

「どうして」

「教えたところで、何も戻らないからだ」

父の声は大きくなかった。むしろ低く、疲れていた。

「七年前、村で揉め事があった。透はその中心にいた。あの頃は、あいつを置いておけないと皆が判断した。家だけの判断じゃない。村の人間も、年寄りも、みんなそう言った」

「置いておけないって、何をしたの」

「素行が悪かった。人に絡む。酒を飲んで騒ぐ。死者送りの支度を乱したこともある」

「だから追い出したの?」

「追い出したとは言ってない」

「じゃあ何?」

「村を離れたんだ」

「自分から?」

「そういうことになっている」

「そういうことにしたのは誰?」

父は答えなかった。

私は帳面へ目を戻した。七月十四日の頁には、草履の小さな絵が描かれている。二つの草履。その下に、丸い印。帳面の端に何度も現れる、井戸を思わせる印だった。

「この絵は何?」

「記号だ」

「何の記号?」

「婆さんの覚え書きだ。おまえが見ても分からん」

「分からないように書いたんでしょう」

「違う」

父は初めて、はっきり反論した。

「婆さんは、人に説明するために記録していたんじゃない。自分が忘れないために書いていた。何を置いたか、どこを閉めたか、誰が通ったか。そういうことを残していたんだ」

「誰が通ったかも?」

父の口が閉じた。

私は頁を指で押さえた。

「草履、丸印、草履、丸印。これは道順じゃないの?」

「黙れ」

「井戸から家へ戻る道?」

「真尋、いい加減にしろ」

「父さんは帳面を見ている。私よりずっと前から、この印の意味を知っている。なのに、昔のことだって言い続ける。昔のことにしておけば、誰も責任を取らなくていいから?」

父は立ち上がった。

座卓の脚が畳を擦り、茶の輪がわずかに崩れる。

「家を守るために黙るしかなかったんだ」

「守られたのは誰?」

「おまえだ」

「私は知らされなかっただけだよ」

「それでいい。知らなければ、背負わずに済む」

「背負わずに済んだのは、父さんたちでしょう」

父は顔を上げた。

私は怖かった。父に怒鳴られることではない。自分の口から出た言葉が、もう家族の一員としては戻れないところまで進んでしまうことが怖かった。

それでも、言葉を止められなかった。

「誰かを追い出して、その人がどうなったかを確かめないまま、死者送りをして、法要をして、草履を捨てて、それで家を守ったことになるの?」

「確かめる必要はなかった」

「どうして?」

「戻ってこなかったからだ」

「戻ってこないなら、死んだのと同じ?」

「そういう意味で言ったんじゃない」

「でも、家の中ではそう扱ったでしょう」

父は拳を握った。怒りのためではない。指を曲げていなければ、何かがこぼれるのを止められないように見えた。

「透は危なかった。あいつを残せば、誰かが傷ついた。婆さんはそう判断した。俺も止められなかった。栄さんだって、村の連中だって、何も言わなかった。あのときは、それが一番ましなやり方だったんだ」

「一番まし?」

「他にどうしろと言うんだ。家を潰して、村中を敵に回して、誰か一人のために全員を巻き込めばよかったのか。おまえは簡単に言える。東京で暮らして、ここから離れて、何も背負わずにきたおまえには」

その言葉が、胸の奥に刺さった。

私は東京へ逃げたつもりはなかった。けれど、帰らなくて済む距離を選んだことは確かだった。祖母の死後も、父から連絡が来るまで電話をかけなかった。家の匂いを思い出さないように、駅の音や車の音に囲まれて暮らしていた。

知らなかったのではなく、知ろうとしなかった。

その事実が、遅れて身体へ重く落ちてきた。

「私は何も知らなかった。でも、それを私のせいにしないで」

「責めているんじゃない」

「責めてるよ。私が外に出たから、何も持たずに済んだって言ってる」

「そんなつもりじゃない」

「じゃあ、どういうつもりなの」

父は黙った。

私は待った。父の沈黙は、これまでなら家族の間にあるものだった。言葉にしなくても分かるというふりをするための沈黙。けれど今は、何を知っているか、何を知らないことにしているかを分ける壁になっている。

父がゆっくり座り直した。

「婆さんはな、透を助けるつもりだった」

その言葉に、私は息を止めた。

「助ける?」

「家から離せば、村の目から外せば、生き延びられると思った。あの夜、井戸のそばで騒ぎになって、透は……普通じゃなかった。何かに追われているようでもあったし、誰かを探しているようでもあった。婆さんは死者送りをしようとした。けれど、送る相手を間違えた」

「間違えたって、誰を?」

父は答えを探すように、帳面の空白を見た。

「透が死者だったのか、生きている人間だったのか、あのときは誰も決められなかった」

「何を言ってるの」

「だから、言っても分からない」

「分からないまま追い出したの?」

「そうだ」

父は認めた。

その声には、言い逃れの余地がなかった。

「分からないまま、井戸のそばに置いて、家から出した。戻ってくるなと言った。村の外へ行けと。婆さんは草履を揃えた。あいつが帰るためではなく、帰れないようにするために」

喉の奥が乾いた。

「祖母ちゃんが?」

「家を守るためだった」

「またその言葉」

「本当にそうだったんだ。あの人は、おまえを守りたかった。俺たちも、村も、透自身も」

「透自身を?」

「透は、井戸の中に何かを落とした。木札か、護符か、分からん。あいつはそれを拾おうとして、蓋の縁から落ちた。完全に落ちたわけじゃない。腕を掴んだ者もいた。だが、引き上げる前に、婆さんが手を離せと言った」

私は帳面を見た。

七月十四日。

草履、二つ。向き、外。

その下の丸印。

「誰が手を離したの」

父は答えなかった。

答えの代わりに、座敷の外で足音がした。

床板がひとつ鳴る。

私たちのいる部屋へ近づいてくる。父は振り返り、鍵束を握った。歩幅の大きい、父の足音ではない。板の強いところを選び、端から端まで音を残さないように進む足取りだった。

一つ。

もう一つ。

襖の前で止まる。

父は立ち上がったが、開けようとはしなかった。

「誰かいるの」

私は訊いた。

父は唇に指を当てた。

襖の向こうで、何かが擦れた。

布の端を整える音。

それから、低い声がした。

「……まだ、家のためと言うのか」

父の顔から血の気が引いた。

私はその声を知らなかった。知らないはずなのに、胸の底で、草履の踵が濡れた土を踏む音と重なった。

父が襖へ向かって叫んだ。

「透!」

声が家中に響いた。

返事はなかった。

代わりに、襖の下から一枚の紙が差し込まれた。古い帳面の頁だった。端が濡れて黒ずみ、中央に祖母の字が残っている。

「蓋、閉めず」

その下に、別の筆跡で書き足されていた。

「手を離したのは、誰だ」

父は紙を拾おうとした。

私は先に手を伸ばし、掴んだ。

紙は湿っていた。井戸の底から引き上げたような冷たさが、指先から腕へ伝わってくる。襖の向こうに気配はもうなかった。けれど、廊下の奥へ遠ざかる足音が二つ続いている。

一つは重く、引きずるような音。

もう一つは、それを追う私の知らない歩幅。

私は紙を帳面の上へ重ねた。

抜かれた頁の縁と、差し込まれた頁の切り口がぴたりと合った。

祖母が消した記録は、なくなったのではなかった。

誰かが、持って帰っていたのだ。

座敷の外で、蝉が一斉に鳴き始めた。音は家の壁を震わせ、線香の残り香を押し流すように広がった。

けれどその足元で、床板がもう一度鳴った。

今度は、私のすぐ後ろだった。

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