3話 鼻緒を結び直した布

草履を見たあとでは、祖母の遺品箱がただの片づけ物には思えなかった。

父が縁側の障子を閉め、草履を見えない場所へ押し込もうとしているあいだに、私は仏間脇の納戸へ入った。納戸の戸は、閉めるときに最後の数センチだけ重くなる。祖母はその癖を知っていて、いつも取っ手を少し持ち上げてから閉めていた。

私は子どものころの手つきを思い出しながら、戸を引いた。

中は昼間より暗かった。電灯の紐を探す前に、古い布と樟脳、それから乾いた土の匂いが鼻へ入ってきた。納戸の奥には、使われなくなった火鉢や祭りの提灯、欠けた茶碗が積まれている。どれも祖母なら捨てずに置いておきそうなものだったが、置き方だけは乱れていた。箱の角が揃っていない。布の包みが一つ、棚の端からわずかに出ている。

私はそれを見つけると、足が勝手にそちらへ向いた。

棚の下段に、祖母の裁縫箱があった。

子どものころ、祖母の膝に乗って何度も開けた箱だ。蓋の中央に小さな傷があり、金具は少し歪んでいる。祖母は針をしまうとき、必ず糸の端を切り揃えた。糸くず一つ残さない人だった。

箱を膝に置き、蓋を開ける。

針山には黒や茶色の糸が刺さったままになっていた。小さな鋏、指ぬき、糸巻き、使いかけの蝋引き糸。上のものを一つずつ取り出していくと、底に薄い布が折り畳まれていた。

布は、古い手拭いを細く裂いたものだった。

茶色く変色しているのに、端の縫い目だけは妙に細かい。糸が何度も同じ場所を通っていた。表から見ると結び目を押さえただけに見えるが、裏へ返すと、縫い目が二重にも三重にも重なっている。

鼻緒を結び直した跡だった。

私は指先で縫い目をなぞった。布の端は、長いあいだ指で擦られたように柔らかくなっている。何度もほどき、何度も結び直したせいで、繊維がほつれかけていた。

鼻緒を直したのは、祖母だろうか。

それとも、祖母から布を渡された誰かだろうか。

縁側の草履にあった鼻緒の結び目が、目の奥に重なった。細く詰まった縫い目。表から目立たせず、裏側に糸を溜めるやり方。祖母の手つきと同じだった。

布を掌に載せると、汗ばんだ皮膚に繊維が貼りついた。

その瞬間、納戸の外で床板が鳴った。

一枚。

続いて、もう一枚。

私は息を止めた。父の歩き方ではない。父は急ぐと歩幅が大きくなり、廊下の中央を乱暴に踏む。今の音は、端を避けるように、板の強いところだけを選んでいた。

音が納戸の前で止まった。

戸の向こうに誰かいる。

「真尋」

父の声だった。

私は返事をしなかった。布を握ったまま、膝の上の裁縫箱を見下ろす。蓋の裏に貼られた古い紙が、電灯のない暗がりでも白く浮いていた。

「そこにいるのか」

父は戸を開けなかった。開ければ私が何をしているか見える。見えることを、父は恐れているのかもしれない。

「片づけてるだけ」

「何を」

「祖母ちゃんの裁縫箱」

「それは後でいい。もう寝ろ」

「まだ早いよ」

「早くない。今日は朝から動いていたんだ。おまえだって疲れているだろう」

「父さんは疲れてないの」

戸の向こうで、短い沈黙があった。

「俺のことはいい」

「よくないよ」

私は立ち上がった。納戸の床は冷たく、膝の裏にまでその冷たさが上がってきた。戸を開けると、父はすぐ前に立っていた。右手には家の鍵束が握られている。左手は、何かを探すように腰のあたりで閉じたり開いたりしていた。

父の視線が、私の手の中の布へ落ちた。

「それを戻せ」

「何の布か知ってるの?」

「知らん」

返事が早かった。

「知らないのに、戻せって言うの」

「古いものを勝手に持ち出すなと言っただろう」

「持ち出してない。ここで見てるだけ」

「同じことだ」

父はそう言って、裁縫箱へ手を伸ばした。私は反射的に一歩下がった。父の手が空を掴む。

「触らないで」

声が思ったより低く出た。

父は手を止めた。怒鳴るかと思ったが、怒鳴らなかった。代わりに、私の顔ではなく布を見ていた。

「真尋、それはおまえが持っていていいものじゃない」

「祖母ちゃんのものなのに?」

「家のものだ」

「祖母ちゃんのものと、家のものは違うでしょう」

「違わん。婆さんが家に残したものは、全部この家のものだ」

「じゃあ、誰かが直した草履も?」

父の肩がわずかに動いた。

「草履の話はするな」

「どうして?」

「話しても何も変わらないからだ」

「変わるよ。少なくとも、私が何も知らないままではいられなくなる」

「知らなくていいこともある」

「その言い方、祖母ちゃんもしてた」

父は目を逸らした。

納戸の奥で、積まれた箱のどれかが小さく軋んだ。誰かが触れたわけではない。ただ木が湿気を含んで膨らんだだけなのかもしれない。けれど父は音のしたほうを見なかった。見ないことを決めている人の動きだった。

私は布を広げた。

端の一箇所に、黒ずんだ染みがある。泥か、油か、古い血かは分からない。染みのそばに、白い糸で小さな印が縫い込まれていた。丸の中に一本の線。帳面に描かれていた、草履の絵の下の印と同じ形だった。

「これ、何?」

父の顔が強張った。

「見せろ」

今度は父のほうから手を出した。

「答えて」

「真尋」

「この印は何。井戸のこと? それとも、死者送りの印?」

父は布を奪おうとした。私は身を引いた。背中が棚に当たり、積まれていた提灯の箱が揺れた。乾いた竹の骨が触れ合い、細い音を立てる。

「そこにあるものを、ひとつ残らず知ろうとするな」

父は低い声で言った。

「知らないから聞いてるの」

「知れば、今までのようには戻れない」

「もう戻れないよ」

言葉にしたあとで、自分の声が震えていることに気づいた。怖かった。父の顔が怖いのではない。祖母を好きだった記憶を、好きだったままでは抱えられなくなることが怖かった。

父は納戸の入口に立ち、長く息を吐いた。

「婆さんは、おまえを巻き込みたくなかった」

「それなら、どうしてこんなものを残したの」

「残したんじゃない。忘れられなかっただけだ」

「同じでしょう」

「違う」

父はそこで初めて、私を見た。

「残すというのは、誰かに見つけてほしいということだ。婆さんはそんなことを考えていなかった。あの人は、見つけられないように物をしまって、それでも捨てられずに残ったものだけを、黙って抱えていた。家の中で誰かが壊れないように、何かを黙らせるしかなかったんだ」

「誰かって誰?」

「おまえには関係ない」

「またそれ?」

「関係ないと言っている」

「じゃあ、関係ない人の名前を教えて。七年前にいなくなった人の名前を」

父の鍵束が鳴った。

金属同士が触れ合う音は小さいのに、納戸の壁にいつまでも残った。

「その名前を、どこで聞いた」

「まだ言ってない」

父は口を閉じた。

私はそこで、初めて確信した。父は知っている。草履の持ち主が誰なのかも、布の印が何を示すのかも。知っているからこそ、答えの代わりに「昔のこと」と言い続けている。

「影島透」

名前を口にすると、納戸の空気が変わった。

古い布の匂いが急に濃くなり、背後の棚から冷たい風が流れてきた。電灯はついていないのに、父の頬だけが青白く浮かんで見える。

「その名を、家の中で呼ぶな」

「どうして?」

「呼べば、戻ってくる」

「もう戻ってきてるんじゃないの」

父は答えなかった。

廊下の奥で、床板が鳴った。

一つ。

私たちのいる納戸へ近づく音だった。

父が振り返る。鍵束を握った手が、今度ははっきり震えていた。

一つ。

また一つ。

私は布を胸元へ引き寄せた。父が私の前へ出る。守るようにも、隠すようにも見えた。

「誰かいるの」

「黙れ」

「父さん」

「声を出すな」

音は納戸の前を通り過ぎ、仏間のほうへ向かった。だが足音は一人分ではなかった。私の知っている床板の鳴り方に、少し遅れて別の音が重なっている。硬い底が板を押し、次の足が置かれるまでに、ほんのわずかな間がある。

祖母の部屋の前で、二つの音が止まった。

そこには、使われていない古い障子が立てかけてある。

父が私の肩を掴んだ。

「ここにいろ」

「どこへ行くの」

「確認する」

「外へ出るなって言ったのは父さんでしょう」

「庭には出ない」

父は納戸を出ようとした。私はその腕を掴んだ。シャツの布地の下で、筋肉が硬く張っている。

「私も行く」

「駄目だ」

「一人で行くのも駄目」

「おまえに何かあったら、俺は……」

父は言葉を切った。

その続きが出てこない。父親としての心配なのか、家の秘密を見られる恐れなのか、私には判別できなかった。けれど、掴んだ腕から伝わる震えだけは本物だった。

「父さんは、誰を守ってるの」

私は訊いた。

父は答えなかった。

代わりに、仏間のほうから乾いた音がした。

数珠の珠が、床へ落ちた音だった。

父の手が私の腕から離れる。

廊下の奥で、もう一度、足音が鳴った。今度は祖母の部屋の前から、裏口のほうへ向かっている。床板を踏む音が、家の中から庭へ抜けていく。

私は布を握ったまま、そのあとを追いかけようとした。

父が止めるより先に、納戸の暗がりの向こうで、縁側の灯りが一度だけ揺れた。障子の隙間から差し込む光の中に、何かが横切ったように見えた。

人の影ではなかった。

低く、足元だけの影だった。

私は息を詰め、廊下へ出た。父の制止の声が背中に落ちる。けれど、もう戻れなかった。

裏口へ向かう床板が、一枚ずつ鳴っている。

私の足音ではない。

それは家の中を歩き慣れた誰かの音で、私の知らない道を、裏井戸のほうへ伸ばしていた。私は古布を掌に押し込み、冷えた指先で懐中電灯を探した。

灯りを点けると、廊下の先に小さな木札が落ちていた。

表面には、祖母の字で一行だけ書かれている。

帰る足を、家の中へ向けないこと。

その下に、見覚えのない泥が細く続いていた。

玄関へではなく、裏井戸へ向かって。

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